1
契機は、あの時肩をぶつけたような、そんな些細である筈の出来事だった。
夏休み中、登校日でもないのに学校へ行った。
その行動に、特に理由はなかった。自分の円運動から外れることへの好奇心。取り敢えず、そういうことにしておく。
グラウンドを避け中庭を抜けると、微かに塩素の匂いがした。暑い。体育館が作る影の中を歩いて行き着いた先には、空へ向かい伸びる緑色。
錆びた金網に並んで、背を伸ばす向日葵。校舎から見えない位置のそれは、いつからそこに在ったのか。少年が水をやっていた。水色のホースから弧を描いて降り注ぐ水が煌めいて、眩むほどに眩しかった。
不意に、目が合った。
彼は小さく笑った。
何故だか強い眩暈がした。
♪
「また会ったね」
「初対面だと思いますけど」
「この間、廊下で」
「……あ、」
「思い出してくれた」
「ごめんなさい」
「いいよ。覚えててくれたことが嬉しいから」
「……ひとりで手入れしてるの?」
「うん。好きなんだ」
「花が?」
「花もだけど、向日葵が。太陽をずっと追い掛けてるところとか、なんだか格好よくない?」
「向日葵の花が太陽の方へ向かうのは蕾の間だけだけど……」
「よく知ってるね」
「……どうも」
「真っ直ぐに上を向いて、空にいちばん近いところで花を咲かせるんだ。まるで太陽に恋してるみたい」
「ロマンチスト」
「ははは、よく言われる」
♪
自由など要らない。
そう思っていたのは、誤りだったのかもしれない。
《中略》
「――君は、どうして嘘を吐いているの?」
「それが幸せだから」
「本当に?」
蝉の鳴き声が不協和音を奏でている。
まるで耳鳴りのように、耳介の中で反響する。
私は心の何処かで、解放されることを望んでいたのかもしれない。
ユリから、そして、私から。
ぽかりと穴が空いた。
♪
彼の一言が、静かに私の中に沈んでいく。
ベッドの上に寝そべって、白すぎる天井を薄く開いた目で眺める。青白い蛍光灯の光がちらちらと目に痛い。
白い、
骨の色だ。
そっと目を閉じる。
目蓋の裏で光の残像がきらきらと揺れる。
小学生のとき図工の授業で作った万華鏡。ビーズや砕いた色硝子を入れただけなのに、光に翳して覗くと見える鮮やかな世界。きらきらきら。すごくどきどきした。
青の濃淡だけを筒に入れた。青、蒼、碧。海と空を混ぜこぜにしたアオ。私の大好きな色。
記憶の中の万華鏡を、くるりと回す。
綺麗な海が、空に変わる。
けれど、もう二度と元の場面に戻らないことを私は知っている。
♪
青天の霹靂。
降って湧いたようなそれに、私は大きく目を見開いた。
――なんだ、簡単なことじゃない。
自然と頬が柔らかく緩む。
久しぶりに、笑んだ。
造り物ではない、純粋な笑み。
どうして今まで気が付かなかったのだろう? 不思議で仕方がない。
じくじくと膿んだ傷が癒えていくような錯覚。何故だか心臓が熱くて、言い様のない高揚感。
タオルケットに包まりながら、寝返りを打つように横になる。抱き抱える膝。触れた足の甲は酷く冷たかった。
♪
いつもより早く目が覚めた。
しんとした空気。
まだ街は眠っている。
ふと見やった窓の外の、まだ仄暗い空。街の端から段々と染め上がる淡い青。真っ白な光がゆるやかに昇る。神聖なハレーション。ほうと息を吐く。窓硝子が白く曇りそうな気がした。
街が目覚める前に。
私は昨日下ろしたばかりのパジャマから制服に着替える。糊の利いたカッターシャツに、濃紺のプリーツスカート。お揃いの白い靴下。一月袖を通さないだけで、こんなにも懐かしい。胸がきゅうと痛くなった。
ベッドの上に放ったままの真新しいパジャマを、丁寧に畳む。シーツや布団の皺を伸ばす。まるで、最初から誰もこの部屋に居なかったみたい。……これでいい。
もうすぐ街が動き出す。急がなくては。手ぶらのまま、ドアノブに手を掛ける。
ドアを閉める直前、カレンダーを一枚捲る。千切った昨日が舞う。着地を待たずに、私は背を向けた。
♪
街が動き出した。
毎日辿っていた道も、時間が違うだけでこんなにも見える景色が違う。
目覚めていく街。
車道を行き交う自動車、バス。遠くからは電車の音。駆ける私の足音と弾む息が自棄に大きく聞こえる。
青に染まっていく空。
近付いてくる校舎の影。バス停は無人。
鍵の掛かっていない裏門から、校内へ入る。用務員さんがよく使う通用口の鍵が壊れてるのも知ってる。こんなに簡単に校内に入れてしまうなんて、とも思うが、今の私にとっては好都合。通用口の前で靴を脱ぎ、土埃を簡単に落とし、校舎へと足を踏み入れる。
脱いだローファーを持ち、呼吸を整えながら素足で廊下を歩く。一階から二階へ、二階から三階へ。階段を上がるごとに、空に近くなる。自然と口角が上がるのがわかった。
鉄の板の前で足を止める。隙間から、すっかり高くなったであろう陽の光が細く漏れている。
私は屋上のドアを開けた。
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