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 桃色のランドセルが私は大嫌いだった。


 新しく私の親になった夫婦は、私を通して知らない誰かを見ていた。新しいものに囲まれている筈なのに、何故だか時間が止まっていた。

 白い壁紙、学習机にベッド、本棚に並んだ本の一冊一冊、この部屋の中にあるすべてのものが、化石みたいだ。


 就学前の“こども”だった私にも理解出来た。


 私は、代用品である。


 これが幸せというものなのか。この家の子になれば喜んでくれる? おめでとうと言ってくれたみんなは、こうなることを望んでいる。


 私は、元の私にはもう戻れない。



 ♪



 ユリの一日は長くて短い。


 始業二時間前に起きる。歯を磨く。顔を洗う。着替える。朝食を摂る。母に行ってきますと声を掛けてから家を出る。

 玄関のドアを閉めるだけで、ほんの少し肩が軽くなる。その肩に背負っているのは大嫌いな桃色。


 通学路に指定された道順を綺麗になぞりながら学校へ向かう。校門を潜り、下駄箱で靴を履き替える。教室のドアを開ける。閉める。席に着く。ランドセルを机の横に掛ける。このときやっと、肩の“荷”が降りる。


 授業中ちらちらと視界に入る桃色。私の好きな色じゃない。


 放課のチャイムが鳴ったら、朝とは逆方向に道を歩く。玄関のドアを開ける。母にただいまと声を掛け、洗面所で手洗い、嗽。階段を昇る。私の部屋の戻って宿題をする。夕食まで時間を潰す。退屈だ。でも気は抜けない。


 父が帰ってきた。階段を降りながらおかえりなさいと声を掛ける。そのままリビングに流れ込む。他愛ない会話。もうすぐ夕食だ。口角を上げる。


 私は今の私を演じている。



 ♪



 品行方正。

 それは誰の目から見たものなのだろう。

 わたしの頭の中を覗いても、評価は変わらず“優”なのか。少しだけ笑いたくなった。


 授業はつまらない。

 聞く、書く、解く。時々発言する。平坦で、私は好きだ。平坦だから、好きだ。


 休み時間はつまらない。

 しなくてはいけないということがない。特にすることがないので、次の授業の教科書を眺める。退屈だから、私は嫌いだ。


 けれど、給食は好きだ。

 どちらかといえば薄味の料理、何処か褪せた色彩、アルミの食器。それは“私”の為に用意されたものではないから。少し味の濃い料理も、甘い沢庵も、私は好きではない。


 学校が好きな訳ではない。


 私はただ呼吸がしたいだけなのだ。


 あの家を金魚鉢とするなら、それ以外は空気。見えない粒が入り雑じっただだっ広い空間。


 学校は楽だ。

 私は名前を偽るだけでいいのだから。



 ♪



 桃色のランドセルを卒業しても、変わったのは僅かな時間だけだった。


 プールの底までの距離が幾分か深くなって、グラウンド一周の距離が幾分か長くなった。家から幾分か遠くなって、家に帰る時間が幾分か遅くなった。


 変わることが嫌だった。


 数字に混じるアルファベット、旧仮名遣い、海の向こうの言葉、胸の膨らみ。


 決められた丈のお揃いの靴下。少し身体が軽くなった。


 それでも私は完璧には透明になれなかった。


 そして気付いた。


 私は私に固執している。ユリではない、“私”に。



 ♪



 蝉が鳴いている。


 水気を含んだ風が、窓の隙間から吹き込む。課題を消化する手を休めて、ドアのすぐ側に目をやる。薄くなっていくカレンダー。予定よりもずっと早く終わりそうで、頭が痛くなった。目の前の麦茶の中で氷が鳴いた。


 自分の書いた文字を見つめる。ユリはこんな字を書くのだろうか。止めや跳ねの具合、全体のバランス、傾き、筆圧。落ちるシャープペンシル。


 視界が歪んだ。


 私は本当に正しいのか。解らない。

 ユリと呼ばれるたびに嬉しくもないのに笑った。可笑しくもないのに楽しそうに振る舞った。桃色も少し濃い味付けも甘い沢庵も大好きな振りをした。本当は大嫌いなのに。


 床へと転がった薄水色が、遠く。


 優しくて明るく利発で、女の子らしくて、それから、それから。両親が思い描く理想に忠実に、私はその延長線上を私は歩く。それが私の幸せであり、与えられた役だから。――だから、


 私は逃げ水を追い掛ける。

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