2
桃色のランドセルが私は大嫌いだった。
新しく私の親になった夫婦は、私を通して知らない誰かを見ていた。新しいものに囲まれている筈なのに、何故だか時間が止まっていた。
白い壁紙、学習机にベッド、本棚に並んだ本の一冊一冊、この部屋の中にあるすべてのものが、化石みたいだ。
就学前の“こども”だった私にも理解出来た。
私は、代用品である。
これが幸せというものなのか。この家の子になれば喜んでくれる? おめでとうと言ってくれたみんなは、こうなることを望んでいる。
私は、元の私にはもう戻れない。
♪
ユリの一日は長くて短い。
始業二時間前に起きる。歯を磨く。顔を洗う。着替える。朝食を摂る。母に行ってきますと声を掛けてから家を出る。
玄関のドアを閉めるだけで、ほんの少し肩が軽くなる。その肩に背負っているのは大嫌いな桃色。
通学路に指定された道順を綺麗になぞりながら学校へ向かう。校門を潜り、下駄箱で靴を履き替える。教室のドアを開ける。閉める。席に着く。ランドセルを机の横に掛ける。このときやっと、肩の“荷”が降りる。
授業中ちらちらと視界に入る桃色。私の好きな色じゃない。
放課のチャイムが鳴ったら、朝とは逆方向に道を歩く。玄関のドアを開ける。母にただいまと声を掛け、洗面所で手洗い、嗽。階段を昇る。私の部屋の戻って宿題をする。夕食まで時間を潰す。退屈だ。でも気は抜けない。
父が帰ってきた。階段を降りながらおかえりなさいと声を掛ける。そのままリビングに流れ込む。他愛ない会話。もうすぐ夕食だ。口角を上げる。
私は今の私を演じている。
♪
品行方正。
それは誰の目から見たものなのだろう。
わたしの頭の中を覗いても、評価は変わらず“優”なのか。少しだけ笑いたくなった。
授業はつまらない。
聞く、書く、解く。時々発言する。平坦で、私は好きだ。平坦だから、好きだ。
休み時間はつまらない。
しなくてはいけないということがない。特にすることがないので、次の授業の教科書を眺める。退屈だから、私は嫌いだ。
けれど、給食は好きだ。
どちらかといえば薄味の料理、何処か褪せた色彩、アルミの食器。それは“私”の為に用意されたものではないから。少し味の濃い料理も、甘い沢庵も、私は好きではない。
学校が好きな訳ではない。
私はただ呼吸がしたいだけなのだ。
あの家を金魚鉢とするなら、それ以外は空気。見えない粒が入り雑じっただだっ広い空間。
学校は楽だ。
私は名前を偽るだけでいいのだから。
♪
桃色のランドセルを卒業しても、変わったのは僅かな時間だけだった。
プールの底までの距離が幾分か深くなって、グラウンド一周の距離が幾分か長くなった。家から幾分か遠くなって、家に帰る時間が幾分か遅くなった。
変わることが嫌だった。
数字に混じるアルファベット、旧仮名遣い、海の向こうの言葉、胸の膨らみ。
決められた丈のお揃いの靴下。少し身体が軽くなった。
それでも私は完璧には透明になれなかった。
そして気付いた。
私は私に固執している。ユリではない、“私”に。
♪
蝉が鳴いている。
水気を含んだ風が、窓の隙間から吹き込む。課題を消化する手を休めて、ドアのすぐ側に目をやる。薄くなっていくカレンダー。予定よりもずっと早く終わりそうで、頭が痛くなった。目の前の麦茶の中で氷が鳴いた。
自分の書いた文字を見つめる。ユリはこんな字を書くのだろうか。止めや跳ねの具合、全体のバランス、傾き、筆圧。落ちるシャープペンシル。
視界が歪んだ。
私は本当に正しいのか。解らない。
ユリと呼ばれるたびに嬉しくもないのに笑った。可笑しくもないのに楽しそうに振る舞った。桃色も少し濃い味付けも甘い沢庵も大好きな振りをした。本当は大嫌いなのに。
床へと転がった薄水色が、遠く。
優しくて明るく利発で、女の子らしくて、それから、それから。両親が思い描く理想に忠実に、私はその延長線上を私は歩く。それが私の幸せであり、与えられた役だから。――だから、
私は逃げ水を追い掛ける。
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