幸福論
ららしま ゆか
3
少女が空を飛んだのは、寒い八月のことだった。
♪
ユリ。
そう私が名乗るようになって、十年になる。
起床。朝食。登校。授業。授業。授業。昼食。授業。授業。下校。夕食。入浴。就寝。夜が明ければ、また起床、朝食、登校――。
変化のない一日を、繰り返す。円の軌道から外れることなく、ただ時間だけが積もる。
平凡、平穏、平坦。
普遍。
変わることのない毎日を正確になぞり続けて、
もう、十年になる。
♪
廊下で肩をぶつけた。
本来なら、日常の枠の中の“よくあること”に括られるべき事象。
けれど私は、それを“日常”と認識することができない。
毎日決まった時間に起き、朝食を摂り、同じ道を通って学校へ行く。時間割通りに授業を受け、昼は購買でパンを買い、また授業、放課後になったら荷物をまとめる。同じ道を通って家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入り、寝る。
定刻通りに循環を繰り返す私にとって、よくある小さなハプニングは大きな事故なのだ。それがたとえ、すれ違いざまに肩をぶつけただけだとしても。
些細な筈の出来事が、劇的なものに思えた。
♪
答えのない問題などあるのか。
教師の声が頭の上を通過する。カツカツと黒板を走るチョーク。深緑と白を交互に眺めながら、右手を動かす。一定の速度で紙を滑る炭素。
枕草子。因数分解。化学反応式。世界地理。構文。エトセトラ。
授業の内容が変化しても、聞く、書く、解く、という行動は変わらない。夏休み目前の浮わついた空気の中でも、私はただ繰り返す。聞く、書く、解く。聞く、書く、解く。
課題だとか成績表だとか、持ち帰るものに興味はない。執着もしない。どうせ八月に入る前に提出物は片付けてしまうし、成績は特別心配する必要はない。
問題は、
♪
私にとっては、責苦である。
終業式を終え家路に就く私の足は重い。家に近付くに連れてなにかしらの負荷が掛かっているのではないかと疑ってしまうほどに、気が沈んでいく。膨らんだ鞄に反比例して。
焼けたコンクリート、蝉の脱け殻、向日葵。
学校という柵からの解放より、家庭という閉鎖空間に押し込められることの方が苦痛だ。
時間割がない。
たったそれだけのことに、私の核は揺らいでしまう。
四十余日、早く過ぎてしまえ。
溜め息を殺して、玄関のノブに手を掛けた。
♪
酷く居心地が悪いのは、私が私でないからで。
食卓に着く。手を合わせてから箸を取り、主菜に手を伸ばす。今日は白身魚のムニエルだ。骨を避けながら身をつまみ、口へと運ぶ。少し味が濃い。咀嚼。嚥下。今日あった出来事を簡単に報告しながら、箸休めに沢庵を齧る。甘い。咀嚼。咀嚼。咀嚼。
紙切れ一枚の契約とはよくいったもので、まさに私はその鎖に繋がれている。
少し味の濃い料理も、甘い沢庵も、私は好きではない。
私は私にはなれない。
粒の立った白米が一番美味しいと感じた。
♪
自由とはなんだろう。
自分自身について考えたとき、ふと疑問が浮かんだ。
自由とは、支配や強制、拘束を受けず、自分の意のままに振る舞うことが出来ることを指すのだという。辞書的意味で捉えれば、私は自由ではないということになる。何故なら、支配という檻の中で円を画いているに過ぎないのだから。
ならば、私は不自由なのか。
不自由とは、思い通りにならないことだというが、それに当てはまる訳ではない。何故なら、規則正しく円を画くという行動は私の意思だからだ。
ならば、私には従うべき本能や本性というものは存在しないのか?
わからない。
ただ言えることは、私はその権利を手離してしまったということ。それだけ。
♪
運命なんて、信じない。
物心付いた頃から、私に親は居なかった。孤児らしかった。らしいというのは、施設に勤める女性から聞いたことだからだ。生後間もない当時の記憶がないのは、当然といえば当然で。
私にとって日常とは、誰の目にも留まらず、規則的な円運動を繰り返すこと。
好むものは不変、嫌うものは変化。朝起きて夜眠るまで、同じ行動を繰り返す。毎日、毎日、毎日。
誰の目にも留まらなければ楽に生きられると信じていた。意思のあるものは不安定で、いつか壊れる。時間という恒久的なものに身を委ねていれば、個性というものが消えて透明になれる。なんの面白味もない人間の出来上がり。
そんな私が、
目に留まってしまった。
みんな口を揃えて祝福を述べる。幸せになれと言う。では私は今まで不幸せだった? 幸福とは他人が計れるものなのか。私には解らなかった。
数日後、私はユリになった。
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