第4話 癒されたいです
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翌朝。
「弥生ー、待ってたよ!」
朝の騒がしい教室へ入るなり、聞き慣れた親しげな声が弥生の耳に飛んできた。
みると、幼なじみの田村帆乃香が手をふっている。
「あ、帆乃香、おはよー。ちょっと待ってね」
弥生は自分の席へ、ぼんっ、と鞄を放りなげた。
いつもならそんな乱暴なことはしないのだけど、今日は少しばかり事情が違った。
案の定、鞄のなかから小さな抗議の声が聞こえる。
「…………」
弥生は知らんぷりをした。
本当は、ちょっと気が引けている。なんだかとてもいやな娘になってしまったみたいだ。
でも、いたいけな女子高生をこんなことに巻き込んでくれたんだから、少しくらいこういう意地悪をしても罰は当たらないと思う。
一晩ゆっくり眠って、いつもと変わらない朝が訪れると、弥生の心もずいぶんとおちついてきた。
ちょっと落ち込んでいたけど、がんばろう。
正義の味方をがんばるかどうかはおいといて。
こういうときは、気のあう友達と楽しく話をして過ごすのがいちばん。
でもそれって、がんばるじゃなくて現実逃避の間違いでは。
ともかく、弥生としてはにこにこしながら、がんばって現実逃避するためにてててーっと帆乃香の傍へ寄ったわけである。
傍へ行くなり、帆乃香はぎゅっと抱きついてきた。よくわからないが、ひどく興奮した様子だ。
「こっちきて、こっちっ」
と弥生の手を引き、たったいま入ってきたばかりの教室から廊下へ連れだす。
「な、なに?」
「いいから。大事な話なの。弥生に聞いてほしくて待ってたんだから」
その言葉に、弥生の胸の奥がふわっとあったかくなる。
当たり前の学校で、当たり前の生活。こうしていると、昨日の恐ろしい戦いが全部うそだったような気がしてくる。大好きな友達の楽しげな様子に、弥生も自然と心が軽くなった。
「どうしたの、帆乃香。何かいいことあったの?」
「あたしね、ついに理想の人を見つけたの!」
帆乃香はとても楽しそうに、
「ほら、あれよ! きのう街なかで戦いやってたでしょ、すっごい大騒ぎになったやつ!
……ってどしたの? 急にげっそりしちゃって」
「……ううん、ちょっとめまいがしただけ。気にしないで……」
「そう? 朝ご飯ちゃんと食べた? あんまり無理しちゃだめよ。あ、それでさ、ゆうべのTVの報道とか、すごかったじゃない」
楽しく現実逃避するはずだった弥生の予定を軽やかに踏みつぶしつつ、帆乃香はぽんぽんと楽しげに言葉をつむぐ。
「あたしも、昨日の事件の詳しいことは晩に知ったんだけど。でね、取材の人も途中で逃げちゃったからたいした映像はなかったんだけどさ、一局だけ戦闘の場面を撮ってたところがあったのよ。あの戦ってた人がアップで映ってて」
「ええっ」
弥生はすっとんきょうな声をあげた。それは初耳だ。
昨夜は、身も心も疲れきってTVなど見ずに早寝したのである。
「あ、あの……それって、もしかして顔とかも映ってた、なんてことじゃ……」
「顔? そうそう、それが見えなかったのよ! いちばん肝心なところなのに! もうそれが残念で残念で……」
「あ、そうなの」
弥生は胸をなでおろした。どうやらナイトエンジェルの正体がバレたのではなさそうだ。
「……よくわかんないんだけど、それで昨日の事件とその理想の人と、どういう関係があるの?」
「あぁん、だからあ」
じれったいなあ、というように帆乃香は身をもむ。
「ベリアルよベリアル! 素敵だと思わない? 強いし、謎の覆面レスラーって感じがしてさ」
その言葉に、弥生はあぜんとした。
「……あ……あのね、帆乃香」
「ん、なに?」
「それって、ひょっとして、本気?」
「え? あたりまえじゃない」
帆乃香は意外そうに眉をあげた。
「あたしが今までに、弥生に嘘いったことある? ベリアルのことだって、あなただから教えるのよ」
「いえ、あの……」
口元がひきつる。
「わたし、そんな単純な問題じゃないような気がするんだけど。だってほら、なんといっても、相手は悪の化身なんだし……」
「でも、素敵だったじゃない」
帆乃香の結論はゆるがなかった。
「全身から戦う男の気迫をみなぎらせてたわ。あれに比べたら、うちのクラスの男子なんて針金細工よ。全員あと十キロは筋肉つけてほしいわよね」
帆乃香は、ふうやれやれ、と言わんばかりに大仰に肩をすくめて見せた。
どうやら彼女、筋肉フェチらしい。
「だ、だけど、ナイトエンジェルのほうがずぅっと素敵だったでしょ?」
弥生が探るようにきく。
正義の味方なんてやめたい……と思っていても、つい他人の評価が気になるのは気弱な性格ゆえか。
けれども、帆乃香はとたんに疑わしげな目つきになった。
「弥生、あなたそれ本気でいってるの?」
「ど、どうしてよ。本気じゃダメなの?」
「だあって。あれってずいぶん貧弱だったじゃない。そりゃまあ、正義の味方っていっても女みたいだし? 少しくらいは仕方ないけど、派手にビルの屋上で見得切ったわりにはそのあとがね……」
といって、帆乃香は上から下へひらひら、と手を振ってみせた。
「いくら正義の味方でも、足元がお留守じゃね」
弥生は消え入りそうになった。
「それよりベリアルよ、やっぱ」
とたんに恍惚とした顔に戻ると、帆乃香は祈るように両手を胸の前で握りあわせた。
「TVで見たあの体格、たくましくって超よかった。腕の太さだって並みの男じゃなかったわ。ああ、あんな腕に抱き寄せられたら、あたしもう何されても抵抗しない……」
(ちょ、ちょっとっ、なんてこというのっ)
あわてた言葉がのどまで出そうになったが、親友の趣味を思いだして弥生はやめておいた。
帆乃香は、プロレス団体『堕天の城』所属の悪役レスラー、Zホークの大ファンなのだ。
いつだったか、理想の彼氏について打ち明けあったとき、帆乃香は「あの傷だらけの体がたまらないの」と今のようにうっとりつぶやいたことがある。弥生には唯一、ついていけないところだ。
傷だらけが悪いとはいわない。弥生の読む少女マンガには、傷だらけの少年はたくさんいる。うじゃうじゃいる。ほとんど一山いくらのノリである。数百円だせば買えるのだから、あまり間違ってはいないだろう。
けれど、彼らは例外なくかっこいい。イケメンだ。美少年だ。もちろん空想よりは現実の男子のほうがいいに決まっているが、それにしたってもう少しかっこいいほうが……いや、その。
遠慮がちにそう言ったらば、帆乃香はそれはもう矢継ぎ早に反論をまくしたてたあげく、最後にこういった。
「中身のない男なんていらないわ。弥生って、まだお子さまね」
あんただって一五才でしょうがっ。
「だいたいナイトエンジェルもさ、いきがってビルの天辺なんかに立ってるから足滑らすのよ。ベリアル様に比べたら亜流ね、亜流」
いつのまにか敬称を付けて呼んでいる幼なじみの言葉に、弥生はとうとう黙っていられなくなった。
「帆乃香!」
びったーん、と壁に手をつく。
「あ痛た……そ、それが親友の言葉!? あいつは、異界からこの世を侵略するためにやってきたのよ。敵なの、悪いヤツなの! それを素敵だなんて、おまけにさんざん苦労して戦ったわた……わたたた、えっと、ナイトエンジェルを亜流だなんて!
いくらなんでも、そんな言い方ってないと思うわ!」
驚いたことに、眉尾をきりりと逆立ててまで弥生は怒っていた。
あまりにきつい怒り方をしたので、自分でもびっくりしたほどである。
やっぱり、昨日の心の疲れが、まだ残っていたのかもしれない。
幼なじみの思いがけない激しい反応に、帆乃香は目をぱちくりさせた。
「や……やだ弥生、何をムキになってるのよ」
「べっ、別に……」
「あ。そっかあ。弥生はナイトエンジェルのファンになったわけだ」
帆乃香は苦笑した。
「へえ、あなたって、ああいうのが好きなんだ。でも、あれ女よ。男だったらよかったのにね。もう少したくましかったかも」
「そおゆう問題じゃないでしょお!」
弥生はもどかしそうに足踏みした。
たくましいかどうかという基準しかないのかあんたは。
「あーあ、愛と正義の騎士か。あたしもなってみたいな」
どうやら本気らしい幼なじみの矛先をかわそうと、帆乃香は頭の後ろで両手を組みながら話をかえた。
「どうして?」
「だって、ナイトエンジェルになったら、ベリアル様と直接お話できるじゃない」
「…………」
タレントか何かと間違えている。絶対。
まあ、是非にというなら喜んで変わってあげるけれども、ミーハーな帆乃香にナイトエンジェルをまかせたら、ベリアルと戦うどころか、いっしょになって世界征服に励んでしまいそうな気がする。
(こりゃ、ほんとのことなんていえないなあ……)
弥生はかっくりと肩を落とした。
そのとき、廊下のむこうから担任の数学教師がやってきた。
「こら、お前ら。チャイムはとっくに鳴ってるぞ。いつまで騒いでるんだ」
一喝されて、二人はあわてて教室へ戻っていった。
☆
昨日の騒動の影響なのか、授業は午前中で終了になった。
お昼のチャイムとともに、生徒たちはいそいそと下校をはじめる。
さほど部活の盛んな学校ではないし、それ以前に弥生は帰宅部だ。
「早く帰れよ」
と言い残して去っていった担任教師のことなど眼中になく、教室で『レスラー男子を非公式に愛でる会』などという得体の知れない同好会(帆乃香以外に会員のいることが、弥生には不思議でならなかった)の活動にいそしむ帆乃香を残して、弥生は帰り道をとぼとぼと歩いていた。
近所の商店街のアーケードを、ひとりくぐっていく。ちょうど買い物客の切れ目の時間帯で、行き交う人はまばらだった。
電器店のディスプレイに飾られた五〇型TVには、昼のバラエティ番組で馬鹿話に興ずるタレントたちが映っている。また誰かがおかしなことをいったのだろう、スタジオ内の一般客のわははは、という笑い声が店の表にまで漏れ聞こえてきた。
その前をとおりすぎる弥生は、肩を落としてしょんぼりとした様子である。
「帆乃香なら、わかってくれると思ったのにな」
弥生は、浮かぬ顔でつぶやいた。
休み時間がくるたび、『ベリアル様命』となった帆乃香の翻意をうながそうとしたのだが、彼女の考えは変わらないようだ。
帆乃香になら、自分がナイトエンジェルであると打ち明けてもいい。幼なじみがどんな窮状に見舞われているか、どれだけ困っているか、気持ちを分かちあってほしい。
と思ったのだが、弥生がそれとなく口にしたナイトエンジェルを、
「カッコ悪」くて
「恥ずかし」くて
「中途半端」で
「ベリアル様の魅力の足元にも及ばない」
とまでこきおろされては、気も萎えるというものだ。
はあぁっ、と自然にため息がもれた。
「やっぱり、正義の味方って損よ。正体隠して戦ってさ、勝って当たり前、おまけに誰もわたしのこと褒めてくれないし。おこづかいが増えるわけじゃないし、尊敬されるわけでもないし……」
弥生はすっかり拗ねていた。
「成績が上がるわけじゃないし、誰かに告られるわけでもないし……ちっともいいことなんてない」
「損得で戦うんじゃないだろう」
鞄のなかからポーがいった。
「それに、初めのうちはしようがないさ。みんなまだまだ現実感がないんだよ。人間っていうのは、結局自分のまわりのことしか考えられないものだからな。世間には並はずれた事件があると知ってはいても、しょせんモニターのなかの出来事だと思ってる。我が身に直接降りかかるまでは、理解できないのさ」
「それはそうかもしれないけど……」
弥生は、一週間前の自分を思いだしていた。
そりゃあたしかに、悪の戦士が現われたり、自分がそれと戦う『正義の味方』を押しつけられたりしようなどとは、夢にも思っていなかった。
ていうか、普段からそんなことを思っていたら、その人はちょっとおかしい。
でも、そういうことではなくて。望まない重責をいきなり担わされた女の子のナイーブな心を、誰にもわかってもらえないというのが問題なのだ。
帆乃香ならわかってくれると思っていただけに、弥生の足取りは重かった。
「……まあ、たしかにすまないとは思ってるよ」
弥生の元気のなさを感じたか、ポーはめずらしく下手にでた。
「立法院が、この世界との通商関係の樹立と防衛協力のための予算を認めてくれればいいんだが。そうすれば、俺たち強制執行局も大手振ってこの世界の警察に話を持っていけるんだけどな。俺たちも法案は何度となく出してるんだが、あちらは選挙民相手の議員さんだからな。なかなかその辺が渋くて……俺たちのいうことなんて、聞きやしない。
それでなくとも強制執行局は実力作戦が主のとこだし、立法院につっこまれると色々やばいことも多くてな。なかなか強くもいえないんだ……」
そんなポーの言葉を、弥生は全然聞いていなかった。
(やっぱり、正義の味方なんてやだな……)
相変わらずそんなことを考えている。さっきから、自分の思考のツボにどっぷりとはまり込んでしまっているのである。
(だいいち、あんなの相手にわたし一人でどうしろっていうのよ。そういうのは普通警察の仕事でしょ。わたしはただの女の子よ。学生なのよ。そんな恐いこと、できるわけないじゃない。
いたいけな女子高生を、こんな争いに巻き込むなんてひどいわよ。フォーチュンのばかっ)
うじうじと、思いは同じところをめぐるばかりだ。
なんとか、断る方法、ないかなあ。
ぼーっと、頭のなかで後ろ向きな思いをこねまわす。目は開いているのだが、ほとんど何も見ていない。
正面から人が歩いてくることにも、弥生はまったく気づいていなかった。足元も頼りなく、ふらふらと近づいていく。
どんっ、と派手にぶつかって、ようやくはっと我に返った。
「きゃ! えっあっ、ごごめんなさい! うっかりしてました……」
ようやくはっきりした意識で、あわてて頭を下げる。
許してもらえるかな、と相手の顔を見上げたその瞬間、弥生の身体は棒を飲んだように硬直してしまった。
相手の男が、美の化身としか形容のしようがないほどの、絶世のイケメンだったのだ。
横に流した、流麗な長い髪。
細くて、けれど意志の強そうな黒い眉。高くすっと通った鼻梁。
きりりと引き結ばれた唇の形といい、すっきりとした細い顎の輪郭といい、常識では計れないほどの美青年である。
身長は一八〇センチを軽く越えているだろうか。厚みのある上背にフィットした黒いジャケットをまとい、スラックスをはいた脚もすらりと長い。まさに完璧なバランスだ。
美を司る天上の神がとくに手間をかけて入念に創造してくれたのさ、と目の前の彼に言われたら、そのまま信じてしまいそうである。
「ふわ……」
弥生はぽかんと口を開けた。一瞬すべての悩みを忘れた。
小さな胸が、どきどきんとときめく。
こんな、こんなに素敵な人と、遭遇してしまった。
人生なんてろくでもないと思っていたけど、実はそこまで捨てたものでもないのかもしれない。一五才でいうかそういうことを。
そういえば、街角で偶然ぶつかった男性がやがて彼氏になるという筋書きのマンガを、以前読んだことがあるような……
だが、少女の淡い夢を粉々に踏み潰すかのように、美青年の眼光はぎらりと鋭かった。絶対神聖の己が身に、身のほど知らずにもぶつかってきた不遜で無礼な小動物を、この場で骨まで叩きつぶし、肉を食いちぎらんとするかのような猛禽類の瞳である。
弥生は一気にすくみあがった。
(ひょ、ひょっとして恐い人に当たっちゃったのではぁぁ……)
「ちゃんと前を見て歩け」
かすかに怒気のこもった低い声が耳朶を打つ。普通に話せば、身体の芯にまでびりびり響くような甘いバリトンなのだろうが、今はただ恐ろしいだけである。
「は、はいっ。すみませんでした! 気をつけます!」
弥生はぺこぺこと頭を下げ、美青年が横を通り過ぎていく靴音を耳をそばだてて確認した。
急に逃げ出したりすると、追われて絡まれるかもしれないと思ったのだ。
(どうして、わたしばっかりこんな目にあうのよぅ……)
だんだん物悲しいような、情けない気持ちになってくる。
どうして、急にこんな目にばかり。
いったい誰のせいで。
「……なんだよ、あいつは。こっちは謝ってるのに、失礼な奴だな」
「ひえっ。こらばかっ、しー。聞こえたらどうするの」
弥生はあわてて鞄に手をつっこみ、ポーをぎゅっと握りしめた。恐るおそる後ろを確認する。
どうやら、美青年は気づかなかったらしい。こちらをふりむきもしない。
ほっ、と安堵の吐息をついた。
「ご、ごら゛っ゛。ぞん゛な゛に゛ぢがら゛い゛れ゛だら゛、びょ゛う゛め゛ん゛の゛じん゛どう゛が、お゛ん゛ぜい゛の゛ごう゛ぜい゛がぐる゛う゛だろ゛」
「あら。じゃ、黙ってればいいでしょ。あなたのことが誰かにバレでもしたらどうするのよ。それでなくても変なこと押しつけられてるのに、この上あなたのお守りまでさせないでよね」
「お守りって……おいおい、お守りしてるのはむしろ俺のほうだぜ」
ポーが呆れたようにいう。
「お前さんみたいなひよこ娘を、これからこの俺が一人前に育ててやろうっていうんだから。感謝しろとはいわないけど、少しはありがたく思ってもらわないとな」
それっていってるのでは。
「思うわけないでしょっ」
弥生はまなじりを釣りあげた。心の奥にたまったまま誰にも受け取ってもらえない感情が、急激に鋭い形をとって生意気なポーに向けられていく。
「育ててもらわなくたって結構よっ。わたしにはお父さんもお母さんもいるもん。なんで今さらあなたみたいなコンピュータなんかに育ててもらわなきゃいけないの、マンガじゃあるまいし」
「そんな言い方はないだろ」
ポーの口調が堅くなった。ちょっとカチンときたようだ。
「俺がお前を、立派な愛と正義の騎士に仕込んでやろうっていってるんだ。俺だって、この世界を守るためにわざわざ来てるんだぞ。ちょっとはそのへんのことも考えて――」
「じゃあ、あなた一人ですればいいじゃない!」
弥生は思わず声を張りあげた。
「そりゃあね、昨日は出たわよ、ナイトエンジェルとして。あなたがどうしてもっていうから、しかたなく出たわよ、出てあげたわよ。でもね、わたしにも選ぶ権利ってものがあるの!」
今まで思い悩んでいた気持ちが、とうとう抑えきれなくなったらしい。憤懣やるかたなし、という風情で、弥生はポーをぎゅうと握った。
「ぶわ゛っ゛、ぢょ゛、ぢょ゛っ゛どま゛……」
「だいたい、か弱い女の子つかまえていきなり悪と戦えなんて、虫が良すぎると思わないの? わたしの気持ちだって、少しくらい考えてよ!」
「お前も自分のことしか頭が回ってないな」
と、握力がゆるんだ隙にポーがいった。
「こっちはお前らのことが心配でヤバイ橋渡ってるっていうのに。感謝してくれても罰はあたらないぜ、ええ?」
やっぱりいってるのでは。
「感謝? 人をこんなことに巻き込んでおいて、感謝ですって?」
弥生のなかで、何かが弾けた。
「冗談じゃないわ! わたしはね、あなたなんて必要じゃないの! いらないのよ! それなのにフォーチュンったら、いきなりわたしに押しつけて! 無責任ったらありゃしない! 自分たちのことなのに、なんでわたしに正義の味方なんてやらせるのよ!」
「おい、誤解のないよういっておくがな、『自分たちのこと』ってのは、そのまんまこっちの台詞――」
「あの……あの、ちょっと」
とつぜん肩を叩かれ、弥生はきっとふりむいた。
相手は、ネクタイを締めたサラリーマンのおじさんだ。
「なんですか!」
「君、さっきから一人で何やってるの?」
「何って、そんなの」
関係ないでしょ、といいかけて、弥生はようやく我に返った。
自分の周囲を、ちろん、と盗み見る。
買い物客たちが、弥生を遠巻きにしてうかがいながら、ひそひそと囁きあっていた。
(さっきからずぅっと一人で……)
(かわいそうに……)
(まだ若いのにねえ……)
「……あ」
☆
「いかんな。制服を着ているものを見ると、どうしても軍か治安関係の人間と思ってしまう」
ベリアルは後ろをふりかえった。先ほどぶつかった小柄な少女が、鞄を小脇に抱えて人の輪から走り去っていくところだった。
走り方に体つき。どうみても素人だ。
あ、こけた。
スカートがめくれて、太股があらわになった。白くて、なかなかにすらりとした脚だ。
少女の無防備な太股に、ベリアルの視線が吸い寄せられた。
邪な感情を持ったのではない。筋肉の発達具合を見たのだ。肉体の鍛練は、まず足腰からはじまる。
「……貧弱そのものだ。無力な人間め」
あわててスカートをおろす少女に、ベリアルはもう何の関心をなくしてふたたび歩きはじめた。
「女子供に制服を着せるほどなら、さぞかし高度な臨戦体制かと期待したんだが……どうも、この国は平和すぎるようだな。
……さて、つぎはどこで騒乱を起こしたものか……」
思慮深げに腕を組む。そうすると、戦いのなかで生きてきた美青年の姿は、天界から地上に下賜された一枚の絵画のごとき趣となった。
前から歩いてきた女性が、そんな悩ましげな様子のベリアルの姿に、ちょうど話していたスマホをからんと取り落とした。画面の割れる音がしたが、なんの反応も示さない。相変わらずスマホで話す姿勢のまま、魂が抜けたようにベリアルに見とれている。
やがて腰が抜けたのか、その場にへなへなと座り込んだ。
だが、ベリアルはそんなことには気づきもしなかった。これからの破壊活動を考えながら、悠然と歩いていく。
「……フッ、まあいい。選ぶ場所に迷うということは、それだけ破壊しがいもあるということだからな……むっ、なんだこの音は?」
ベリアルは前方で交差している車道に目を凝らした。一台のセダンが、猛スピードで交差点を横切っていった。
つづいて、けたたましいサイレンを鳴らしたパトカーの群れが、ドップラー現象を巻きおこしつつ跡を追う。
ベリアルの背筋を、ぞくぞくするような感覚が走り抜けた。あれはこの世界の治安組織だ。
では、それに追われているのは?
「……ちょうどいい。ここの連中の手並みを、少々見物させてもらおうか」
うっそりつぶやくと、ベリアルは信じられないような走速でパトカーを追跡しはじめた。
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