第5話:自室

 私は砦内を駆け、自室に向かった。先ほどまでの、かがり火で明るくされた夜の空気を屈強な兵士たちの野太く低い声で揺らがせていた私語のざわめきは徐々におさまっていった。隊ごとに歩き回る将や隊長の指示の声が飛び、それに対して下の兵士たちが従う。まだそこまでの段階にいたっておらず、自由に会話を続ける隊もあったが、順々に、統率役がそれぞれの隊に着くたびに私語がおさまり、兵たちが隊の整列を始めていく。いよいよ出撃が近く、次々と点呼整列の最後の準備を始めていっているのだ。時々カチャカチャと武具の音を立てながら連絡役の兵士たちが走り回り、走る私が建物の角に差し掛かる時、ちょうど蔭から出てきたその相手とぶつかった。私は大きくよろめく。かする形だったのでよかったが、もしまともに相手の正面から衝突を受けていたら相手の体力と体の大きさに大きな鎧の重さが加わって間違いなく地面に倒れていただろう。ひょっとすると数メートル吹き飛ばされていたかもしれない。ぶつかった相手は私よりいくぶん年上で、20代半ばというところだったが、私にぶつかると、火の明かりに映るその白く端正な顔の目を驚きに大きく見開き、続いて、なぜ私のような文官が出撃間際という時に砦をうろうろしているのだろうという怪訝な目付きをしながらも、気遣うようにその大きな手を私に向けて差しのべた。

 私は軽く詫びを言うとまたすぐに体勢を立て直して、一心に自分の部屋を目指して走った。さっきまでの私なら間違いなく狼狽していつまでも頭を下げて平謝りを繰り返すところだ。しかし今はそれどころではなかった。詫びの言葉もそこそこに、私が再び駆け出す際、ぽかんとこちらの顔を見つめる相手の表情が見えた。


 自室に着き、飛び込む。

 私の砦内に割り当てられた、というより用意された部屋は特別性で、他の将兵のように営舎ごとに人数の多寡を問わず部屋が割り振られているのとは違い、特別に設営された一軒の小屋だった。おまけに、今までやむを得ない場合以外ほとんど使用したことがないが、出入り口の戸に内外から錠をかけることが出来る。書類を扱う部屋や武具、食糧庫といった倉庫などの軍の運営に関わる場所を除けば、個人の部屋で錠をかけることが出来るのは他にこの砦の総督のパラノ将軍の部屋だけだ。おまけに、あくまで私個人用の小さな小屋ではあるが、全体に分厚く板壁と屋根が張られており、小屋内に三つ開けられた窓のこれも分厚い戸板をぴったり閉じると、外からの音を完全に防音できる。ここまでの環境はパラノ将軍の部屋にすらない。全ては、ベッドが置かれた細い寝室との間仕切りで区切られた、本棚や様々な占い道具、そして礼拝と占いのためにしつえられた祭壇が置かれた、メインの一室で行う私の占いの儀式のためだった。


 私は部屋に入ると、戸口の横に置かれた低い棚の上に乗っている手燭台を、外のかがり火から室内に届いて来るが壁に邪魔されるため、入り口の正面から外れた蔭の部分には十分に届かない弱められた明かりを頼りに手探りで探し、それを掴むと、すぐに外に戻り、ちょうど室内を探すのに明かりを使ったかがり火の所に行き、ロウソクの芯を注意深く火に当てて灯すと、また室内に戻った。外から届く明かりと、今火を点けたロウソクの火の光を頼りに、残りの燭台を見つけ出して次々に火を灯していく。やがて、部屋の中はロウソクの火による灯りで隅まで見渡せるほど十分に明るくなった。


 入って、入り口手前側の壁左手と、左側の壁には棚が並べられ(私が今しがた燭台を取り上げたのもそのうちの一つの低い棚だ)、そこには、実践や理論面といった占いに関する書物や、実際に占いの際に使用する道具や小物の類が収められている。正面には、寝室との間仕切りに近いところで高さ2メートルほどの`小型’の祭壇があり、その両側に力と知恵の男神モノテーと、運命を見通す女神トーイ――私達トーイスの占いの一族の祖先とされる神だ――の夫婦の木の彫像が、互いに斜めに投げかけた視線を宙で交錯させる形で、腕をそれぞれ掲げて向かい合って立った姿で据え付けられている。祭壇の前には乳白色の毛織の絨毯が敷かれており、儀式の際に座って使用する。手前右の一角には机と椅子が置かれ、そこで手紙や書類の書き物や勉強をした。今も机の上はペンと書きつけ紙と占いの本で乱雑だ。その机の置いてある一角から小屋の奥手の壁まで、奥行き3分の2ほどの天井まで30センチほどという所までの高さの間仕切りが張られており、机の置いてある右手前側の角の場所からアーチの出入り口を通して、ベッドの置かれた細長い寝室に入ることが出来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る