第3話 捨てられ犬と金髪の少女・その2

「やりすぎると体に毒だぜ」


 バーの片すみで、黒い肌の売人が親切めかしていった。


「ここんとこ、ぶっつづけで買いにくるじゃねえか。何かあったのかい。女にでもふられたのかい……」

「きいたふうなことをぬかすな。おまえも、これで食ってるんだろうが」

「へっ。そりゃそうだがさ」


 売人は肩をすくめ、ドラッグとひきかえに義孝よしたかから紙幣を受けとる。

 額を数えながら、おどけた調子で、


「こいつは綺麗な金なんだろうな」

「薬の中身は小麦粉かもな」


 義孝の声音は低く、どこか憎悪をかきたてる響きがあった。

 売人は一瞬気色ばんだ。瞳に殺気がこもる。

 が、すぐににかっと笑った。


「オーケイ、ヤボだったよ。そら、こいつは値引き分だ」


 紙幣を一枚ぬいて、義孝の手に押しつける。


「あんたは今週いちばんのお得意さまだからな。ま、せいぜい楽しんでくれ。来週にはまた一五ダースほど入る。欲しけりゃ早めにきなよ」


 義孝は売人に背をむけた。人にぶつかりながら、店内をつっきっていく。あちこちで怒声があがったが、どうでもよかった。仕入れたばかりの錠剤をひとつ飲み下し、外へでる。


 バーのぬるく湿った人いきれに比べると、夜気はずいぶん冷たかった。

 見上げた夜の街は、明るい灯とネオンにつつまれている。


 空へ散りゆくビル窓の明かり、車道に並ぶLED灯と、走り去っていく車列のテールランプの光。視界の果てで凝縮し、まるで生まれたばかりの星雲だった。たがいに惹きあい、束ねあわさり、熱い光を放っている。


 どこか、別の世界の産物。


 薬をとおして見る景色は、すべてが彼にとって縁遠く、幻想的で、虚ろだった。


 仙崎せんざきと会って、もう五日がすぎている。あの日事務所をでたあと、怒りはすぐに別の感情へ取ってかわった。いつもそうだ。心をうがつ過去の罪が、また、頭をもたげてくる。


 忘れたくて、商売女に手をだして、部屋の闇のなかで体臭とすえた匂いにまみれても、あとに残るのは虚しさとうすら寒い間抜けた自分の裸だけだ。不能呼ばわりしたあの白人女をつかまえ、安宿につれこんでドラッグをやらせ、三時間ちかく狂いつづけて、けれど薬が切れる頃にはいっそう心が渇き、何かを破壊したくてうずうずしている自分がいる。


 ひどく狂暴な気分になり、むせび泣く女の濡れた肉のなかへ何度も割って入った。

 心は飢えたままだった。


(どうして、仙崎の事務所になんぞ、いっちまったんだ!)


 昔のことが脳裏をよぎった。レースの賞金を初めて手にした夜のことだ。たいていのキャノンボーラーは、勝つと今宵が華とばかりにナイトクラブで豪遊し、あっという間に使いきる。それが勲章とでもいうように。


 義孝はそうはしなかった。彼には、待っているたったひとりの肉親がいたのだから。喜びを分かち合ってくれる、やさしい妹がいたのだから。自分の勝利を、早く妹にも伝えてやりたい。馬鹿騒ぎはいつでもできる、俺はあいつの笑顔が見たいんだ。そう思って、いそいで帰った夜のこと。


 事実、妹はたいそう喜んでくれた。


 そのうちいい男を見つけてやるさ、とときどき思いもした。相手は決まっている。俺とちがって真面目で、頭が良くて、誠実で、妹を本当に幸せにしてくれるような奴だ。

 もしかしたら、あいつは自分で見つけてくるかもしれない。少しはにかんで、自分の選んだ男を俺に引き合わせる日が突然やってくるのかもしれない。


 しかしそうなっても、簡単に許す気はなかった。最初は反対してみよう。そうしてふたりの結びつきを試してやろう。それが妹の幸せを願う兄というものだ。少なくとも、俺の目にかなう男でなければ……。


 妹は、もう何処にもいない。


 写真にうつる、妹の瞳。微笑んでいるのに、どこか彼を責めている。

 当然だ。妹を優先したのは最初の頃だけだった。何度も勝利するにつれ、しだいに自分の強さと、“キャノンボール”のぞくぞくするようなプレイに溺れていった。


 やがて、妹を省りみることもなくなっていた。


 その間に、すべては進行していたのだ。


 すべて自分の責任だった。ちゃんと気にかけていれば、妹はまだ自分の傍にいてくれただろうに。


 いつしか、街の灯はとぎれとぎれになっていた。

 錠剤を口にふくむ。彼はふらふらと、地下鉄の階段をおりていった。改札をとおり、列車にゆられるうちに薬が効いてくる。






 ――気がついたとき、彼は東京都から死刑を宣告されたあのマンション群の真ん中で、金網に寄りかかっていた。

 網膜にちらつく光は残像となり、闇に吸われて消えていく。薬の効果が消えかけている。


 けだるげに身を起こすと、彼はねぐらへむけて歩きはじめた。夢遊病者の手つきでポケットをさぐる。薬剤入れの感触があった。

 もうトレーラーハウスが見えている。手は無意識のうちに錠剤を取りだしていた。まるでロボットのような動きで、それを唇の間に押し込む。


 そのままなかへ入ろうとして、彼は気づいた。

 なかから、人の気配がする。


「…………」


 口から、くわえたばかりの錠剤が落ちた。

 暗黙の了解も、とうとう反古になる日がきたか……彼はぼんやりと思った。このへんの奴らにちがいない。トレーラーハウスのなかを漁っているのだ。


 とつぜん、義孝はすべての感情のぶつけどころを見つけた気がした。


 唇がうっすらとゆがんだ。しょせんは薬と同じだ。忘れるための一時しのぎだ。だが、それでもいい。相手の足腰がたたなくなるまで、ぶちのめさずにはいられない。なんなら殺してもかまわなかった。


 こんなときに、ふざけた了見を起こしたやつが悪いのだ。


 ドン!


 ドアを蹴り開け、義孝はなかへ飛び込んだ。むこうを向いてベッドに腰をおろしていた人物が、ぎょっと体を震わせた。義孝は腕をのばし、相手の肩をひっつかんだ。拳をふりあげる。

 そのまま、電気に打たれたように、がくんと動きを停止した。

 茫然と、ふりむかせた相手の顔を見つめる。


「……なんで、おまえがここにいるんだ!」


 思わずそう叫んでから、彼はやっと気がついた。

 俺は、こいつのせいで、仙崎の誘いにのって奴の事務所になんぞ行ってしまったのだ。


「怒鳴らんかて、用がすんだらすぐ帰るわ。こんな臭いとこ、いつまでもいたらかなわん。……いつまで人の服つかんでんの!」


 アーニャは不快げに鼻筋へしわを寄せた。




「これ、見てみい」     


 アーニャは、ライダージャケットの胸もとから紙束を取りだすと、たたきつけるように床へ放った。

 印刷された一面に、『若き天才、最強のプレイヤーに挑戦!』という見出しがついていた。

 どうやら、スポーツネットからプリントアウトしたものらしい。


 コースは、もっとも過酷といわれる地球一周。元王者と現役一位の、全霊をかけた一騎打ち……そんな写植がおどっていた。


「……なるほどな。先打ちで既成事実にするというわけか」


 義孝は気の入らぬ声でいった。瞬間的な激昂がしぼんでしまうと、もはや何をするのも億劫だった。薬の反動か、頭もうまく働かない。


仙崎せんざきらしいやり口だ。まずまわりにお膳立てをさせる。流れをつくって、押し流そうとするのさ」

「うちがいってるのは、その下のほうや」


 アーニャは、いらいらと指で示した。三段ばかり下に、すこし小さな字体で別の見出しがついていた。


『アーニャに勝算ありや? 伝説的キャノンボーラー、亘理義孝わたりよしたか


「記事の中身もや。まるで、うちが負けるとでもいいたげやないの!」


 憤慨するアーニャを、義孝は不思議そうに見つめた。


「……何をそんなに興奮してるのか知らんが、俺は“キャノンボール”に乗るつもりはない」


 のろのろとつぶやく。


「仙崎に乗せられるのはもっとごめんだ。意地でも乗りたくないね」

「うちのほうは、それじゃすまへんわ!」


 アーニャは義孝をにらみすえた。瞳が、抑えきれない怒りでぎらぎら輝いている。

 激情で山猫のようになった貌には、野性の美しさがあった。


「マスコミは、あんたが勝つってゆうてるんや。現役一位のうちより、あんたのほうが強いやて? こんなうす汚いスラムで酒びたりの、負け犬のほうが強いやて?」

「そうだ、マスコミはまちがってる。勝負したらおまえの勝ちだ。結果は見えてる。だから俺は乗らん。帰って仙崎にそう伝えてくれ」

「な……何なんそれ! ふざけんといて!」


 アーニャはサイドテーブルを蹴り飛ばした。

 ガラスが砕けて、破片が床へ飛び散った。


「余裕かましてるつもりなん!?……あんた、どういうことかわかってるん? “キャノンボール”は、そのへんのチャチな素人向けのアーケードゲームとはわけが違うやんか! あの超スピードに耐えられるもんはそうはおらへんし、レースができるレベルとなればなおさらや。選ばれたもんだけが、“キャノンボール”に乗ることができるんや。あんたはその“キャノンボール”で、最強や言われてたんやろ!」


 アーニャは身をのりだして、義孝の胸ぐらをつかんだ。


「だったら、うちと“キャノンボール”に乗り! うちは他人に負けるていわれて、おとなしゅう引き下がるようなか弱い女の子やない。どっちが上か、衛星中継で証明しようやないの!」

「俺にはその気はない」


 義孝は、アーニャの手をうるさそうに振りほどいた。


「乗りたきゃ、他の奴をみつくろって勝手に乗れ。俺はせいぜいおまえの天才なレースぶりをTVで観戦させてもらうさ。……わかったらとっとと消えうせろ。こっちは、おまえみたいな小娘に用はないんだからな!」


 その言葉に、アーニャは立ち尽くした。

 いからせた細い肩が、悔しさのあまりぶるぶると震えている。


「小娘て……だれも、うちに勝てへんくせに……!」


 憎々しげに唇を噛みしめる。

 だが、ふいにその唇がゆがんだ笑みを浮かべた。


「どの顔で、偉そうな態度とれるんや……八百長したくせに!」


 アーニャは吐き捨てるように叫んだ。

 その瞬間、義孝の体がはげしく強ばった。

 あわててアーニャにふりむく。瞳が、ぎらりと異様な光を帯びる。


「……なんだと?」

「ハッ、聞こえんかったん? 八百長やから八百長いうたんや」


 義孝が初めてみせた動揺に、アーニャはしてやったりとばかりに言葉をついだ。


「仙崎さんから昔のこと聞いたわ。あんた、レースで八百長やったんがきっかけで、この世界から足洗たんやってな。わざと負けた、やて? ハン、金のためにキャノンボーラーのプライド捨てるようなクズが、なに偉そうに!」






 義孝はゆらりと立ち上がった。

 冷えた鋼のように、無表情な顔つきだった。


「もう一度いってみろ……」


 ずっと無気力に見えていた相手のあまりの豹変ぶりに、アーニャはひるんだ。

 まるで、地獄の底から聞こえてきたような声だったのだ。

 しかし、生来の負けん気が、一瞬おびえた自分を叱咤した。彼女はむしろ傲然と、


「ああ、何遍でもゆうたるわ。あんたは選ばれたキャノンボーラーの誇りを金で売り渡した、プレイヤーの風上にもおけん負け犬や!」


 そのとたん、義孝の体が跳ねた。狂暴な勢いでアーニャにつかみかかり、床へ押し倒す。


「なにすんの……!」


 アーニャも負けてはいなかった。義孝の顔面を殴り、ひじ打ちをかます。頭突きをお見舞いし、髪をひっぱり、しまいには腕にかぶりつく。


 だが、義孝の怒りは尋常ではなかった。痛みをまるで感じないかのようだった。アーニャのライダージャケットがはだけ、キャミソールが強い力であっという間に破り裂かれる。頬を殴られ、アーニャの体が痛みとショックで硬直した。

 まだ何も知らぬ身体を蹂躙される予感に、抵抗が泣き声になり、切迫した悲鳴に変わった。


「い、いやっ……いやあぁぁっ! やめて、やめてぇーー!!」


 義孝は、劇的に停止した。


 はっと我に返り、アーニャを見やる。

 組み敷いた少女の、若くてしなやかな身体。

 いつのまにかブラもむしり取られ、まだ小ぶりな乳房があらわになっている。

 恐怖に震える、白い肌。見上げてくるおびえた瞳からは、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちている。


 脳髄を、電気で打たれたような気がした。

 自分がそれをやったのだということが、義孝には信じられなかった。


 義孝のみせた一瞬の隙を、アーニャは見逃さなかった。最後の気丈さで、義孝の股間を思いきり蹴りあげる。


「ぐあっ」


 義孝がうずくまる。その体を蹴とばし、アーニャはいそいで立ちあがった。ライダージャケットの前を必死でかきあわす。


「あんたは、最低や!」


 目尻から涙が散った。


「キャノンボーラーどころか、人間の誇りもあらへんわ! けだもん! 馬鹿! しね!」


 アーニャは外へとびだしていった。つづいて、通電されたバイクのモーター音。トレーラーハウスの陰にでも停めておいたのだろう。

 高回転するモーターの甲高い音を立てて、一気に走り去っていく。


 義孝は床へころげたまま、遠ざかるモーター音を聞いていた。

 顔面は蒼白だった。

 身じろぎひとつ、できなかった。


「……俺は……何をやってるんだ……」


 のろのろとつぶやく。


「こんなところで……いったい、何をやってるんだ……」


 一気に痴れてしまったような表情で、床に落ちているキャミソールの切れ端を見つめた。

 何分もかかって、ようやっと身を起こす。

 破れた布切れから、彼はどうしても目を離せなかった。


「俺は何をやってるんだ!」


 とつぜん、彼は絶叫した。

 拳を床へたたきつける。


「これじゃ、本当の負け犬じゃないか! 誇りなんぞ欠けらもない、本当にただの屑じゃないか!」


 叫びながら、くりかえし床を殴った。拳の肉が切れ血があふれたが、それでも彼は殴りつづけた。


「俺はなんだ!? こんなところで腐っていくのか! こんなところで、落ちぶれたまま消えていこうってのか! この屑が! このくそ野郎!」


 彼は殴るのをやめた。跳ばされたサイドテーブルを見やる。

 砕けたガラスに混じって、妹と撮った写真がころがっていた。


「ちひろ……」


 義孝はうめいた。


「教えてくれ。……俺は、いったいどうしたらいいんだ?」


 見つめる目から、涙があふれた。

 写真のなかの妹は、何もいわず、ただ微笑んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る