第八話 かつて大妖怪だった君たちへ

 千年前、あやかしたちは今以上に嫌われ者、憎まれ者で、現代の様にあやかしたちが安心して暮らせる仕組みなど無く、人間とあやかしを取り巻く関係は混沌としていた。

 そんなあやかしたちに、居場所を作ろうと立ち上がったのは、酒呑童子しゅてんどうじという鬼だ。

 大妖怪にのみ作り出せる固有の結界空間“狭間”を用いて、現世の裏側に小さな小さなあやかしの国を築く。これは現代の大妖怪が築き上げている派閥の仕組みの原点ともされていて、世に残る狭間は、元々酒呑童子が編み出した結界術を用いて作られたものだとされている。

 隠世かくりよという、もっと大規模なあやかしたちの為の世界があるのだから、現世のあやかしたちもそこへ行けば良かったじゃないか……と、思うかもしれない。

 しかし当時、隠世へ渡る事の出来るその手段を、政治的に封じていた者たちも居たから、事態はそれほど簡単なものでも無かったのだ。

 多くのものから見捨てられたあやかしたちにとって、酒呑童子の作った国は、希望だったのだろう。狭間の国を築いた酒呑童子を王、孤独なあやかしたちを迎え入れ愛情を注いだ茨木童子いばらきどうじを女王として、彼らはあがめた。

 その導きを、その存在を、その力を信じて―――

 

     ◯


かおる、目が覚めた?」

「……真紀まき?」


 日曜日の昼下がり。梅雨を前にした湿気った風がそよぎ、病室のカーテンがゆらゆらと揺れた。馨はベッドの上でぼんやりとしていたが、やがて「……ああ」と。

 昨晩の事を思い出したみたいで、チラッと怪我をした肩を見ていた。


「大凶のあれ、足の裏の怪我だけでは済まなかったわね。こっちが本家って感じ」

「でも家はまだ火事になってないから……ん? いや、家庭内は火の海というか大炎上だが、もしやあれか?」

「それ笑っていいの? でも、それだけしゃべれるなら大丈夫そうね。林檎りんご食べる?」

「……うん」


 馨は素直にコクンとうなずく。いつもならもっと格好つけた感じで、嫌みの一つでも言う所だけど。

 私はベッドの横のパイプ椅子に腰掛け、林檎の皮をむいて、切って……


「あ、お前! 最初に自分で食いやがって!」

「一個つまみ食いしただけよ。酸っぱい林檎だったら嫌でしょう?」

「……酸っぱいのか?」

「ううん。由理が置いていった高級林檎だもの。甘くて濃厚な味よ」

「お前分かってて食っただろ。俺にも食わせろ」

「……分かった」


 と言う訳でほーれほれーと、怪我人である馨の顔の上でカット林檎をふらつかせる、鬼嫁らしい遊びをしていた、その時だった。


「馨」


 驚いた事に、この病室の出入り口に馨の父が立っていた。いつから見ていたのだろう。

 びっくりしすぎてカット林檎を馨の口の上に落とす。馨の父はそんな私たちをチラッと見て、ニコリともせずまゆひそめた。相変わらず堅苦しそうな人だな。

 きっと、浅草地下街がこの人に連絡したのだろう。ここは彼らと繋がりのある病院で、馨の病室も“訳あり”という事で完全個室だった。


「親父……」


 馨は少し気まずそうにして、ゆっくりと起き上がる。私はそれを手助けしたが、馨は起き上がる際に少し肩の傷が痛んだみたいで、片目をぎゅっと閉じ奥歯をんだような表情になる。そんな馨に、彼の父はひどく疑問だらけの様だった。


「お前……いったい何があったんだ」

「…………」

「ダンマリ、か。相変わらずだな、お前も」


 馨の父は馨を見つめ、静かに語る。


胡散うさん臭いやからから連絡があった。お前が怪我をして入院することになった、と。お前、変な奴らと関わってるんじゃないだろうな」

「怪我は大したこと無い。怪我が治れば何の問題もなく学校にも通う。迷惑をかけるつもりは無いし、それに……浅草地下街の人たちは胡散臭い輩じゃない」


 馨も淡々と、しかし力のもった口調で言いきった。何かを否定し、これ以上の干渉、勘ぐりを拒否したいと言う様に。

 馨の父は僅かに馨から視線を逸らして、黙り込む。結果的に、馨への質問をかわされた

訳だが、馨だってそれを答える訳にはいかなかった。

 ただ馨の父は予想外にも「あれはお前が十歳の時だったか」と、昔話を始めたのだった。


「前にも、お前がこんな大怪我を負った事があった。お前は遊具から落ちたのだと言い張ったが、とてもそんな怪我には思えず、明らかに他人に傷つけられた様な、数多くの裂傷だったが……お前は何かをかばい、何かを秘密にしたいが為に、詳しい状況を話そうとはしなかったな」

「…………」

「それだけじゃない。今まで何度も、俺はお前に違和感を感じて来た。まるで、お前にしか見えていないがいて、お前しか分からない、がある様で、俺は……」

 ぐっと、こぶしを握る馨の父。これ以上の言葉を躊躇ためらっているのだ。

「俺が、怖いか……親父」


 だけど、その言葉の続きを、馨はもうずっと昔から知っている。落ち着いた口調で続けられた言葉は、親子の関係としては、あまりに悲しすぎるものだった。

 馨の父は眉を寄せた表情のまま、ずっと言わずにいた事すら馬鹿馬鹿しくなった様な、乾いた笑みをこぼした。


「それでもお前は、傷ついたりしないんだろうな……馨。いったい誰に似たのか、お前は強すぎるから」

「…………」


 馨は何も答えない。いつもの通りだ。私にはそれが少し、辛い。


「馨、こんな時に冷たい両親と思うかもしれないが、俺は母さんと離婚することにした。九月に俺の転勤が決まって、それをきっかけに切り出した」

「そうか。それが良いと俺も思うよ」

「ふっ、だろうな。俺はあの家を出る事になるが、お前はどうする。母さんは少し疲れたみたいで、一度九州の実家に戻りたいと言っていた。お前はどちらについて……いや、どちらにもついて行きたく無いだろうが、おそらく親権は俺が持つ事になるだろう。なら……聞き方を変えよう。お前は“どこ”に居たい?」

「俺は、ここに居たい」


 馨は、その問いかけにだけは、迷いもせずはっきりと自分の願望を答えた。


「絶対に、浅草を離れたく無い。浅草には大事な奴らが……一緒に居たい奴が居る。親父やお袋がここを離れるって言うのなら、俺だけでも残る。ここが好きなんだ、俺は」

「……そうか。お前が最初に俺に言った願い事がそれとは、なんというか……。お前にも、そこまで言う大事な居場所があったんだな。家族じゃない、別の場所に」


 馨の父は、今ばかりは父親らしい、安堵あんどの表情を浮かべていた。だけど、複雑な思いを濁らせた目元をしている。チラリと私の方を見てから、またゆっくりと頷いた。


「なら、俺たちのような駄目な両親の都合に振り回される必要も無い。お前の希望は、出来るだけ可能な範囲で叶えよう。学校の寮に入りたいのならそれでも良いし、一人暮らしがしたいのなら、それも良い。大学を出るまでの学費や生活費は心配しなくて良い。勿論、俺や母さんの元へ来たくなったら、いつでも来れば良い」

「……ああ、それが良い」

「お前はしっかりしているから……大丈夫だろう。この先も、ずっと」

「…………」


 馨の事を、その望みを、良くわかっている様で、まるで他人事の様な言葉だった。

 親子としてはとてつもなく距離感のある会話だ。だけど、馨にとってそれは、一つの安堵であり、一つのあきらめによる解放でもあったのだろう。


「ありがとう、父さん。助かるよ」

「…………」


 父さん。

 馨が父の事を親父ではなく、子どもの頃の様に父さんと呼んだ。それを聞いて、馨の父はピクリと眉を動かしたが、結局用事も終わりこの病室を出て行こうとする。


「待って……」


 私は思わずパイプ椅子から立ち上がり、馨の父を呼び止めた。馨の父はこちらを振り返り、「何か」と。

 あやかし相手にはあんなに堂々としている私だけど、馨の父の前では少しだけ緊張してしまって、無意識にスカートを握りしめていた。


「その……ちょっとだけ、聞いてください」

「お、おい、真紀……?」

「確かに馨は可愛げがないし、嫌みくさいし格好付けだし、いつもしかめっ面だし……お、おじさんから見たら、自立していて、しっかりしている様にも見えるかもしれないけど、それはただ……そう取り繕うことに、慣れているだけで」


 いきなり私が何か言い出したので、馨はぽかんとしていた。

 それでも私は、何とかして伝えたい事があった。それは少し、違うんだよ、と。


「だけど馨は、傷つかない訳じゃない。本当は誰より繊細だし、器用に見えて不器用だし、何より寂しがりだわ。“何も”言えないのは、きっと、怖いから……。家族に拒否される事が怖くて仕方が無いから。本当は、誰より家族の愛を欲しているのに……っ」

「…………」

「そんな馨を置いて行くの? しっかりしているからと、自分たちはどうせ必要無いからと都合良く決めつけて……踏み込もうとも、理解しようとも、受け入れようともしないで」

「……真紀」


 いえ、私はとてもむちゃくちゃな事を言っているわね。

 そんな事、絶対に無理だと分かっているのに。私たちは決して、語らないでしょうから。

 前世の事を、どうしたって語れないでしょうから。

 でも……それでも、温かい何かが欲しかった。馨はきっと、欲しかったと思うのよ。

 親と言う存在に深く関わる事を恐れ、突き放し続けたのは、どうせ自分は受け入れてもらえないという、前世の経験と諦めからだった。

 高望みかもしれない。だけど、それさえ越えて、彼に触れる愛があったなら……


「馨には……あなたが居るでしょう、茨木さん」

「…………」

「もう、失礼するよ」


 それでも、馨の父は出て行った。この病室を出て、去って行った。

 私の存在が、そうさせてしまった。

 怪我を負った馨に、二度と会いにこない訳ではないだろう。当然、馨の父はしばらくここへ通い続ける。離婚する事になったからと言って、今すぐあの家を出る訳ではない。

 だけど何故かこの瞬間、この家族に、終わった何かがあるのだと私は悟った。


「……真紀」

「ごめん、馨。私は、余計な事を言ったかしらね……」


 馨がずっと我慢していた“わがまま”みたいなものを、さらけ出してしまったかしらね。

 緊張が解け、足の力も抜けてしまい、今一度パイプ椅子に座り込む。


「いいや……いいや」


 ふるふると、馨は首を何度か振った。


「ありがとう、真紀。……いつもありがとう」

「……馨」


 そして、肩の痛みを我慢してまでその左手を動かし、私の手に触れた。私はぎゅっと、その手を握り返す。勢い余って、そのまま馨を抱きしめた。

 馨は少しの間黙っていたけれど、そのうちにぽつぽつと語る。


「俺たちの家族がこうなるのは時間の問題だった。これで良いんだ。あの違和感まみれのまま、表向きの“家族”って形に縋り続けるより、ずっと良いんだよ」


 一度離れてみた方が良いんだ、と馨は続けた。確かにそうなのかもしれないわね……


「それに、親父の言う通りだ。俺には……お前が居る。お前が居ればそれで良い。何も寂しい事なんて無い。だから、俺もお前を……一人にはさせない」


 馨はきっと、昨晩私が泣きながら訴えた言葉を覚えていたのだろう。

 一度私を引き離し、彼は真正面から私のひとみを見つめ、ただ一つの言葉を告げた。


「愛しているよ、真紀。もう、ずっと昔から」


 窓辺から吹き込んだ風が、初夏を予感させる、さわやかな香りを、運ぶ。

 その言葉は、今世に生きて十六年、照れ屋な馨が冗談ですらなかなか言ってくれなかったものだ……

 見つめ返した馨の表情は、どこまでも清々すがすがしく大人びているのに、今にも泣いてしまいそうなものだった。恥ずかしそうな様子は一つも無く、ただただ、それを伝えたくて仕方が無かったと言う様で……私はそれがとてもとてもうれしくて、ぐっと切なくなる。


「ふふ。……知ってるわ。もうずっと、ずっと昔から」


 ずっとずっと、ずっと。私だって、遥か千年も昔からあなたを愛し続けているんだもの。

 震える声で小さく笑い、彼の額に自分の額をくっつけ、お互いの涙を隠した。

 見た目はただの高校生。だけど、私たちは前世の夫婦だ。

 その愛を、絆を、今も疑う事など無い。お互いが居れば、寂しい事など何も無い。


「ねえ馨。幸せになりましょう、私たち……この場所で、これからも、ずっと」


 私たちは、今世こそ幸せになりたい。

 死別した前世の記憶を、いまだ忘れられなくても。

 手に入らない、恋い焦がれたものが、まだ沢山あったとしても。

 愛し、慈しんでくれる仲間たちを信じ、この浅草の地を見守り、見守られながら……

 私たちはいつか再び本物の夫婦となり、幸せな家族となるのだ。




 六月も下旬となった。

 あの百鬼夜行での出会いや出来事は、いったい何だったのだろうか。

 私の日常は、まるで嵐の前の静けさの様に、何も変わらず日々穏やかに過ぎていく。

 あ、でも。変わったことと言えば……


「あ、茨姫いばらひめ様だ!」

「いらっしゃい真紀ちゃ〜ん」


 スイの営む千夜せんや漢方薬局に、居候兼アルバイターが一人できた事かな。

 私の眷属けんぞくに下ったはずの、八咫烏やたがらす深影みかげだ。

 深影はあの件の後、組長の交渉のおかげか、特に大きな処分もなくこの浅草で生活をしている。というか処分が保留されている状態だ。

 で、一番手堅い所で、かつて兄眷属であったスイがお目付役となった。

 契約上は私の眷属ではあるけれど、流石に一人暮らしの女子高生の部屋に深影を住まわせるのは色々な意味でヤバい、と組長が言ったので。

 深影は今、ちょうど三角巾をつけて店内の窓を拭かされていた。


「ミカ、しっかりやってる? お仕事覚えた?」

「はい! 僕はもうすっかり立派な現代社会人です!」


 “ミカ”こと深影はえへんと胸をたたき、キラキラした表情で私に報告をする。

 魔淵まぶちと恐れられた彼とは別人の様だが、これが本来の彼の姿だと私は知っている。


「よく言うよ全く。さっき俺の商売道具を落として壊した所じゃないかミカ君」

「うるさいスイ。茨姫様の前で失態を暴露するな殺すぞ」

「あーあー。ぶりっ子なのは真紀ちゃんの前だけで、ほーんと可愛げが無い弟だ」


 スイはなんかげっそりしている。

 私はつーんとしてそっぽを向いているミカの、目にかかって邪魔そうな長い前髪に気がつき、自分の髪を留めていたピンを外して彼につけてあげた。


「い、茨姫様、これは……?」

「眷属としてのあかしよ。大太刀は陰陽局おんみょうきょくに持って行かれちゃったみたいだから。……このピンに私の血を塗って、契約条件を染み込ませているの。これであんたは、正式な私の眷属。私の命令には、絶対逆らえないわよ」


 私は眷属になった者に、契約時に使った血を塗った品物を贈るようにしている。

 スイの小袿こうちきも、ミカが振るった大太刀も、千年前の契約で茨姫が贈ったものだった。

 あれらはもう、茨木童子というあやかしが死んで契約の解けた代物だったけれど、彼らには意味のあるり所だったのだろう。

 今回は誰かを傷つける代物ではなく、日常の生活で役立つものが良いと考えた。

 人間社会の日向ひなたで、こつこつ働き始めたミカには、これが良いかなって。あと単純に前髪が邪魔そうだったから。

 ミカは髪のピンに触れ、「嬉しいですっ!」と猛烈に涙を流し始める。命令に逆らえなくなったのに嬉しいなんて、ほんと根っからの眷属体質なんだから。


「僕、頑張って社会復帰をめざし、もう一度立派な眷属になります。また茨姫様のお役に立てるように!」

「はー。それもいいけどさーミカ君、とりあえずは薬局うちの役にたってほしいんだけど。野菜の精霊たちより物覚えは悪いし、人見知りは激しいし。実質タダ飯ぐらいじゃないか君……すぐ暗い場所に引きこもろうとするし」

「うるさいスイ。茨姫様の前で僕を侮辱するな殺すぞ」

「ほら、こんな情緒不安定ボーイだし〜」


 スイは両手を広げ、「優雅なアラサーお一人様ライフをぶち壊された」とぶーぶー文句を言っている。アラサーって見た目だけの話で、お一人様ライフも千年やってれば飽きて来るでしょうに……


「喧嘩しないで、ちゃんと仲良くするのよ。兄弟眷属でしょ?」

「それは千年前の話だよ真紀ちゃん。ひどいよ。俺の事はいまだ眷属にしてくれてないのに」

「あれ、そうだっけ?」


 とぼけた顔をする私。スイは悔しそうに下唇をみ、ミカは「わーい僕だけだー」とはしゃいでいる。

 なので私は背伸びをして、ふてくされているスイの頭をぐりぐりでた。百鬼夜行で酔っ払った彼が、頭を撫でて欲しがっていたのをふと思い出したから。

 酔いのめた今となっては、ぎょっとしているスイだけれど。


「スイ。眷属の契約は、あんたにはまだ必要無いわ。でも、いつかそれが必要となったら……ううん、私にあんたが必要な時は、無理やりにでも眷属にしてしまうかも」

「……真紀ちゃん」

「その時は、頼んだわよ」


 平和なこの時代、大事なあやかしたちを縛る眷属の契約は、ミカの様な特例以外では必要無い……そう、私は考えている。

 だけど、未来がどうなるかは分からない。浅草という居心地の良い場所でひっそり暮らしていた私たちだけど、存在だけは表に出てしまったから。

 スイは頭を撫でられながら、スッと真面目な顔をして「分かってるよ」とうなずく。


「真紀ちゃん。君に再び俺の力が必要な時が来たら……俺は喜んで、君の下僕となろう」

「下僕って……言い方が何かあれね。せめて家来とか家臣とかカッコイイのにしてよ」

「だって真紀ちゃんは俺たちの女王様なんだからさ〜。千年前から、ずっとね」


 粋なウインクを飛ばすスイ。さっきまで真面目な顔をしていたくせにね。

 絶対的な主従の関係、その必要性が、今は無くとも。彼はこの地で再会した時から、私を、私たちを、水の様に落ち着いた大きな真心で見守り続けてくれている。

 いつか、自分の力が再び必要となる、その日まで。

 


 浅草地下街にある、居酒屋かずのにお邪魔した。借りていた着物のクリーニングが終わったので、浅草地下街あやかし労働組合に返しに来たのだ。

 組長は事務所に居ると聞いたので、ろくろ首の一乃かずのさんに隠し扉を開いてもらい、外来案内用の鬼火を頼りにさっそく事務所へと降りる。


「……ん?」


 事務所の前まで来ると、中から話し声が聞こえた。組長の声以外に、馨や由理ゆりの声まで。


茨木いばらきの存在は、現世におけるあやかし界に大きな影響を与える」

「今はただの人間の娘、というイレギュラーな存在が、また厄介だね……」

「確かに、真紀を意識する奴は多いだろうな。現代の大妖怪も……陰陽局も」


 本人を差し置いて、そんな不穏な会話をしているのだ。

 まあ、彼らの心配も分からなくは無いけれど……


「何をねちねち言っているの。私の日常は何も変わらないわ」


 私は事務所の扉を思い切り開けた。馨も由理も組長も、私がいきなりやってきた事と、堂々とした仁王立ち姿に驚いていたが、私は構わず続ける。


「変えようとする奴には、私が一発ドカンとお見舞いして、場外さよならホームランよ」

「……真紀」

「狙われ、守られる日々は、前世のか弱かった時代に懲りているの。私は私の、大事な浅草ライフを守る力を、今も持っている。それに何かあったら、手を貸してくれる仲間が、浅草には沢山いるわ。……そうでしょう?」


 並んで座ってぽかんとしてばかりいる男共を見下ろし、強気な態度で言ってやった。


「それに、危険なのは私だけじゃないわ。馨だって、由理だって、今回はかろうじて身分は隠したけど、芋づる式にバレるのは時間の問題だと思うわよ」

「でも僕らはほら……男だし」

「男が何よ。由理ちゃんは私よりよっぽど女に見える時があるから、微妙に危ないと思う」

「由理ちゃんって言うな」


 真顔になった由理。そこの所を否定する時は男らしいんだから。


「それにしても、九良利くらりぐみも陰陽局も、今回の事は様子を見ている節があるよな」


 馨が、誰もが気になっていたその点に触れた。

 組長が足を組んだポーズのまま天井を仰ぎ、ため息まじりに答える。


「まあな。深影の一件も、茨木童子の生まれ変わりの女子高生って存在のインパクトがデカすぎて、紛れてしまった感がある。それに妖煙草ようたばこの件も、どうやら鎌倉妖怪のミスだけが問題ではなく、また九良利組との確執や陰謀で終わる話じゃないらしい。深影の……八咫烏の黄金の片目は、九良利組が奪った訳じゃないらしいからな」

「え、そうなの!?」


 てっきり深影の記憶から、全ての黒幕はあのぬらりひょん九良利組だと思っていたのだが、話はそう単純ではないのか。


「九良利組は確かに黄金のひとみを狙って動いていたらしいが、結局最後の最後で、別の奴に横取りされたんだと。まあ、瞳を奪った奴が、全てを仕組んでいたのかもしれないな。九良利組も陰陽局も、今はその事実関係を追う事に手一杯という訳だ。陰陽局もつっこまれたくないミスがあるからか、深影に関しては、とりあえず俺に一任してきた」

「随分と、都合のいい話ね」

「そうは言うが、そっちの方が俺たちにも都合が良いんだぞ。おかげで深影も処分を保留されている。だが、もし陰陽局が直接深影の処分を下そうとしたら、その時は主である茨木……お前が何か罪を問われる事になるだろう」

「そうなる様に、深影を眷属下に置いたのよ。どうせ、陰陽局の奴らは人間には手を出せない。私は高校生だしね。人間の眷属下にいるあやかしにも、手を出しにくい」

「そうだな。あの八咫烏をひとまず保護したいのなら、それが最善だった。しかし……少なくとも、落ち着いた頃に事情聴取くらいは要求してきそうだな。その時はその時か」


 組長は「頭痛えなあ……」とぼやいていたが、あの場で刀を取り、正体がバレてでもミカを眷属下に置いた私を、叱る事は無かった。

 おそらくまた、後処理で大変な目に遭わせてしまったのに……


「ほんとありがとうね、組長。頭も胃もいっぱい痛めつけて」

「茨木、てめえのやらかした事の後処理には慣れてるからな。もうあきらめてんだ……俺……」


 更にやつれた様な気もする組長を、拝んだりして。

 理解のある、頼りがいのある人間も、浅草にはいる。

 それがどれほど、人となってしまった私たちにとって救いだったか。親にすら自分の抱える事情を話せないでいる、私たちなのだから。

 組長が率いる、浅草地下街あやかし労働組合の存在もまた、私がこの浅草という地を愛する理由の大きな一つだ。



 高校生としての学校生活は、何ら変わらない。

 あやかしたちの居る日常とは少し違う、私のもう一つの世界。

 お勉強はそんなに好きじゃないけど、馨や由理と一緒に、ごく当たり前のように送る学生の生活が、私はそこそこ気に入っている。

 特に、民俗学研究部の部室での、緩やかな時間は……


「おい真紀、進路調査は書けたのか?」

「……んー」

「お前、居眠りしてただろ」


 配られていた進路調査を前に、うつらうつらとしてしまった。向かい側で少年漫画雑誌を読んでいる馨が、いつもの呆れ顔で居る。


「由理を困らせるぞ。明日までに進路調査を集めないといけないらしいからな」

「だって……将来やりたい事って言ってもねえ。具体例を挙げろとなると難しいのよ。未来未知数な高校生には」


 ふと、窓から見える学校の中庭に目を向けた。

 もうすっかり花を散らし、青い枝葉を揺らしているしだれ桜の木。


「…………」


 ゆらゆらと揺れるしだれ桜の木を、私はこの場所からいつも眺めている。その度に、郷愁の思いがかき立てられてしまう。

 だけど、私はもうこれからの事を考えなければね。

 この時代、この場所で、私はいったい何をしたいのだろうか。


「……ん?」


 しだれ桜の木の下で、不思議な光景を目にする。まばたきの間に、それは居た。

 狐だ。金の狐が静かに佇み、私をじっと見ていたのだ。


「あの狐……前に、由理の家に居た……」

「ん? どうした、真紀」

「ねえ馨。ほら、あのしだれ桜の木の下に、狐が……」


 一度馨に目配せし、再び中庭のしだれ桜に目を向けた時、すでに狐は姿を消していた。


「……何も居ねーぞ。お前、まだ夢でも見てるんじゃないのか」

「うーん、居たと思うんだけど」


 何だったんだろう。私に何か、告げていたように見えたんだけど……

 再びぼやっと、何も居ない中庭を見ていたら、夕立が降り始めてびっくりする。空はちゃんと晴れているんだけどな。


「狐の嫁入りだな……」


 馨が何気なくつぶやいた。

 やがて由理が委員会から戻って来て、私たちは帰宅の準備を始め、日誌をどこに隠すか隠さないかで馨とめ、それを由理が仲裁する。良くある一幕だ。


「委員会って何の会議だったんだ?」

「夏休みの課外活動についてと……あ、あと、二学期から生物の新しい先生が来るんだって」

「へえ、変な時期に来るんだな」

「ほら、浜田はまだ先生が産休に入るからさ。生物の先生が足りなくなっちゃったんだ」


 馨と由理がそんな話をしながら、部室から出る。

 私はその話をなんとなく聞きながら、「ねえそんな事より」と二人の間に割って入った。


「お腹すいた」

「まじか。まあそろそろかなとは思ってたが」

「あはは。帰りに何か食べて帰ろっか?」

「もんじゃ! 浅草もんじゃが食べたい!」


 気がかりな事が沢山あっても、お腹はく。

 大好きな浅草に戻って、好物の浅草グルメでもぺろっと頂きましょう。

 廊下に入り込む柔らかい黄色と、窓の影。そこに飛び込んで、飛び越えて、一歩一歩を軽やかに進む。キュッキュッと、上履きの足音が複数重なって響く。


「…………」


 ふと、立ち止まる。目の前をゆっくり流動するほこりが、夕暮れ前の西日によって照らし出され、チラチラと、金色に見えたりする。 

 それが、なんと言うか、とても印象的だ。

 どこか懐かしい匂い。どこかで見た事がある、そんな景色。

 不意に胸に迫る、切ない感じ。デジャブって言うのかな、こういうの。

 この静かな廊下とは裏腹に、遠く、グラウンドの方向から、野球部のかけ声が響いた。

 ボールを打った、その高らかな金属バットの音も……


「真紀! どうした、早く来い」

「あ、うん」


 廊下の向こうで、馨と由理が待っていた。私は慌てて駆け寄って行く。


「どうかした? 真紀ちゃん」

「ううん……何でも無い!」


 そして私は、クルッと馨と由理の前に回り込み、どこまでも無邪気な、それでいて不敵な笑みを浮かべた。


「今度こそ、幸せいっぱいの、にぎやかな人生にしましょうね!」


 変わらない“人”としての毎日。現代は豊かで、穏やかで、平和だ。

 そんな日常にも、辛い事や悲しい事、どうにも出来ない事というのは、同時進行で降り続ける。とても人間らしい事だわ。

 それでも私たちは一人ではない。これは悲劇的な前世を抱く私たちの、最大の幸運だ。

 私は幸せになりたい。

 あなたを幸せにしたい。

 そんな愛が、縁が、私たちを繋ぎ、支えてくれているんだもの。


「……はあ。幸せにしてくれ、とは言わないよなお前は」

「ん?」

「馨君も旦那のやりがいが無いよねー」

「もう離婚だ離婚」


 馨は奴らしいじとっとした目で私を見ている。

 由理はまゆを八の字にした困り顔でクスクス笑っている。


「馨ってばまたひねくれたこと言って。由理も面白そうにあおらないでよね。二人とも私の最強無敵バッティングに付き合ってもらうわよ!」

「それだけは遠慮しときます」


 私は、相変わらずの鬼嫁ね。


 前世はあやかし。だけど今は、ただの高校生。

 賑やかで楽しくて、幸せに満ちた私たちの人生に、立ちふさがるものなど何も無い。

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