第五話《裏》 馨、おみくじが当たる?

 真紀の家で夕飯を食べ、一緒に海外ドラマを見てまったり過ごし後、俺“天酒馨”は向島むこうじまにある自宅に戻る。日々の変わらない帰宅のはずだったのだが……

「他に一緒になりたい人が居るって、どういう事よ!! はあ!?」

「………」

「絶対に離婚してやらないわよっ!!」

 なんか……我が家が修羅場だった。

 お袋がさっきから、親父に向かって別れたく無いと怒鳴り散らしている。

 俺が帰ってきたのを親父がチラリと見てから、「今言った通りだ。別れてくれ」と。

 ほお。親父が若い女と不倫してたのは知っていたが、いよいよ離婚話を切り出したと言う事か。

「嫌よ! 絶対別れない……絶対別れないから!! 何なのよ、今までずっと仕事だなんだって、家を空けて好き勝手してたくせに……っ」

 それはお袋もだろ、という俺の心のつっこみ。お袋だって他の男と遊んでるくせに、親父とは別れたくないとのたまう。訳が分からないが、まあ親父は結構な高給取りだからな。親父はさっさとこの家を捨てて、自由の身になりたいみたいだが……

 複雑な話だが、俺のお袋はバツイチだ。要するに二度目の結婚で俺を産んだ。

 前の旦那との間に別の子供がいたりする。子供がいながら今の旦那……要するに俺の親父を好きになって、お袋は前の家庭を捨てたのだ。

 ま、自分がやったことは自分に降りかかってくるということだな。

 当のお袋は自身の過去を棚に上げ、ヒステリーに言いたい放題喚わめき散らしている。

 ふざけるな、この裏切り者、相手の女は誰だ……と。

 全くたくましい。親父も親父だが、別れたくなるのも無理は無い気がする。

 お袋は親父が仕事で居ないからと、いつも家を空け、外で散財し遊びまくる、本当に仕方の無い人だった。

 それを注意すれば、すぐに喧嘩けんかに発展する。俺と真紀の言い合いなんて可愛いと思えるくらい、激しく醜い、金切り声と怒鳴り声の響く、聞いていられない夫婦喧嘩だ。

 そんな家庭にいやされる夫も居ないだろう。親父は余計に家に帰らなくなった。

 俺は俺でこんな性格だから、二人を元の関係に戻そうなどと考える事も無かったし、誰も居ない家に居たって仕方が無いからと、真紀の家で夜まで過ごす様になった。

 こんなんじゃあ、家族の心が離れるのも当然だ……

「あんたが出て行くってことは、馨の事も私に押し付けるって事でしょう!? あれの面倒も全部私に押し付けて、一人だけ自由になろうって言うんでしょ!!」

 いきなり俺の名を出され、ハッと顔を上げる。お袋はキツい目で俺をにらみ、指を突きつけ、今度は俺を理由に喚き散らす。

 ああ、ふざけんなよ……俺を巻き込むな……

 学費の面は仕方が無いにしても、高校生になってからと言うもの、この両親にまともにお世話になった事などほとんど覚えが無い。

 飯は作らない。掃除もしない。そもそも家に居ないくせに……

「あんたは男だし仕事もあるし、人生やり直せるかもしれない。でも私はもうどうしようもないじゃない! あんたのために前の家庭を捨てたって言うのに!!」

「……そんな事を、俺のせいにされても困る」

 喚くお袋に対し、親父は嫌に淡々としていた。帰宅したばかりのスーツ姿のままでいる。

 親父のお袋を見る目はよどんでいて、既にお袋を見限っているように見える。

 こうなったらもう手遅れだ……この人たちが、再び夫婦として愛し合う事は無いだろう。

 俺はこんな修羅場の最中でも、明日の宿題をしなければならないことを思い出し、自室へと戻った。

 ただ、壁の向こう側からどうしても忍び込んでくる、二人の嫌な空気が気になって仕方が無い。気にしない様に勉強に集中しているつもりでも、気がつけば手に持つペンを机にコンコン打ち付けたりしている。

 ガシャン!!!

「……はあ」

 何かが壊れる大きな音がして、思わずため息をつく。

 居間に向かうと、グラスがテーブルの隣で割れ、ガラスの破片が飛散していた。

 状況を見るに、親父がしびれを切らし、グラスを床にたたき付けた様だった。お袋に言われてばかりで、いよいよキレたんだな。

「……っあんた、自分が悪いくせに逆切れしてんじゃないわよ!!」

「うるさい! お前に人の事が言えるのか! 人の稼いだ金で遊んでばかりで、ろくに家事もしないくせに……っ! 自分が被害者みたいに言うな!!」

 これを聞いて、お袋がカッとなって親父につかみかかった。親父もお袋を強く振り払い、もう家を出て行こうとする。

「どこへ行くって言うのよ! 待ちなさいよ!!」

 そんな親父をつかみ、引っ張って、どこへも行かせないよう必死になるお袋。

 軽く暴力じみた喧嘩になっているから、流石に止めに入る。

「おい、やめろよ。いい加減にしろ。近所迷惑だ」

 髪や胸ぐらをつかみ合う両親の肩を掴み、引き離そうとした。

 しかしお袋はものすごい形相で俺を睨んだ後、勢い良く俺の胸を押したものだから、俺は少しふらついて、砕けたガラスの密集地帯を踏んでしまう。

「…………」

 痛かった。痛かったとも。

 足の裏なんてひどい。ざっくりだ。血がだらだら流れて床を染めている。

 まさかだな。こんな形で、浅草寺で引いた“大凶”のおみくじが当たるとは思っても見なかった……なんて考える余裕があるので、俺は冷静だ。

 しかし両親は、俺の足から血が流れるのを見て、少しの間何も言えずに固まっていた。

 特にお袋は真っ青になり、情緒不安定のまま震え、号泣しだす。

「な……何でいつもいつもこんな事になるのよ……っ。全部全部全部、私が悪いみたいに」

「別に、あんたのせいだとは思ってないぞ。俺が不注意だったせいで……」

「それよ! あんたのそう言う所が気に入らないのよ! 何で……っ……いつもそんな風に上から目線で……悟った様な、分かりきったような口を利いて……馨……っ」

「…………」

 何だよそれ。なら、何て言えばい。

 俺はどこか冷めた目をしてお袋を見据えたが、彼女はそんな俺の態度も気に入らないのだろう。ある意味、恐怖している。

 まるで、前世のお袋みたいだ。そうやって、俺を得体のしれないものでも見る様に……

「……はあ」

 大きく息を吐いて、片足でぴょんぴょん飛びながらソファに座った。

 親父がすぐにタオルを持ってくる。

「おい、今から病院へ行くぞ」

「でも夜中だぞ」

「だが、このままじゃまずいだろ。救急病院なら開いている」

「ならタクシーを呼んで行く。親父もお袋も、どうせ今から家を出るんだろ」

「こんな時くらい……親に頼れ」

 親父は両目をすぼめ、歯がゆい様な苛立たしい様な、でも申し訳ない気持ちもにじんだ、難しい顔をしていた。

 多分この人にとっても、俺はあまり可愛い息子では無いだろう。

 可愛げの無かった俺を、どこかよそよそしい目で見ている事の方が多かった。

 ま、曖昧あいまいな存在だよな。前の旦那の子供かもって、思ったりするのかもしれない。

 両親は特に美形でもないのに、こんな麗しい俺が生まれてきた訳だから……って、いたたたたた。足が猛烈に痛いんですけど。絶対足の裏に小さなガラスが刺さってる……

「……っ……」

 でも、久々に見た自分の大量の血に、なぜかホッとしたりもするのだ。

 前世では激しい戦乱を、力のままに暴れ、駆け抜けていた。

 もっともっと体を傷つけて、血を流して戦っていたんだよな……こんな平和な世の中じゃあ、自分の血なんて、滅多に見る事が無いけれど。

「馨、行くぞ」

 親父はこんな夜中に、俺を車で病院に送った。

 色の白いぽっちゃりしたおっさんの医者に足の裏を見てもらい、刺さった小さなガラスを取り除いてもらう。夜勤の若い看護師には、グルグル包帯を巻いてもらった。

「割れたコップを踏んだんですって? かわいそうにねえ……」

「あはは」

 包帯を巻いてくれていた看護師さんの視線が熱心だったので、苦笑い。また、しばらくは片足で生活しなくてはならないと、医者に告げられた。

 まじかよ。百鬼夜行に参加する事になったばかりだってのに、幸先不安だ……

 俺は骨折した訳でもないのに、なんかそれなりのつえを借り、再び親父の車に乗って家へ戻ったのだった。


     ◯


『鬼の子め、鬼の子め! お前なんか私の子じゃない』


 しがない村のある女の胎内に、16ヶ月宿り生まれて来た子ども。

 それが、千年前の俺だ。

 当時の母は、生まれたばかりの赤子の、生えそろった髪と歯を不気味に思い、驚愕きょうがくの声をあげたと言う。しかもその子どもは、通常ではあり得ない速度で成長し、幼児と言える年頃にして、大人顔負けの知力と体力を持っていた。

 その才覚を奇妙に思った村人は、陰で「あやかしの子ではないか」とうわさする。

 十二の頃にはどんな女をもとりこにする美男に育っていたが、俺は恋心など知る由もなく、言い寄る女たちを片っ端から振ったあげく、恋文を冬の焚火たきびの足しにした。そのせいなのかは分からないが、女たちは皆恋煩いで死んでしまったのだった。

 あり得ない様な、本当の話だ。あれは実に、訳の分からない現象だった。

 しかしこの事がきっかけで、俺は表立って「鬼の子」と罵倒ばとうされ、人々に虐げられるようになる。

 元々あまり俺を見ない様に振る舞い、他の兄弟ばかりを可愛がっていた母。

 彼女は村に流れた「あやかしと契ったのではないか」という噂に酷く傷つき、それを否定するため、いっそう俺を拒否した。

 お前は私の子じゃない、どうして私から生まれたんだと、毎夜のごとく嘆いていた。

 確かに自分から生まれた子であるのに、それを信じる事は無かった。もうすっかり疲れ、精神が病んでいたのだ。

 父もまた、俺を自分の子だとは思えなかったみたいだ。俺を遠くの寺に連れて行き、何度もすまないと言って、そのまま寺へと預けたのだった。

 まあ、要するに、俺は捨てられたのだ。

 自分に似てもいない、災いばかりを招く子を、愛せる親なんていない。

 仕方が無い事だ……全て俺が元凶で、俺の存在が悪いのだ。

 俺はしばらく、寺で真面目に修行をして過ごした。勉学に励み、俗世を捨てれば、両親に愛されなかった虚しさややるせなさも忘れる事ができるだろうと思っていた。

 しかし、何の因果か運命か、俺は十五の夜に、本物の鬼と成り果てる。

 結局俺は寺をも追われ、誰に受け入れてもらえる事も無くあちこちを放浪し、やがて京の都に辿たどり着く。

 魑魅魍魎ちみもうりょううごめく、呪われた平安京……

 ここならば自分を受け入れてくれる誰かがいるんじゃないだろうか。居場所があるんじゃないだろうかと、はかない希望を抱いて。

 これが、今の俺の記憶する、後の世の大妖怪“酒呑童子”の出生だ。


     ◯


「…………いっ」

 翌日の早朝、目を覚ましたのは足の裏の痛みのおかげだった。

 いや、むしろこのせいで悪夢を見ていたのかな。

「いやいや、きっと真紀のせいだ。あいつが前世の夢の話をしていたから……」

 何にしろ、痛み止めを飲みたい。うなりながら起き上がり、けんけんしながら台所まで行き、薬を飲んだ。

「…………」

 玄関をのぞくも、父の靴は無い。家を出た後の様だ。

 お袋のも無いが、彼女の場合は、昨晩俺たちが病院から戻った時から既に居なかったから……おそらくあと二日は戻らないだろう。

 まあ良い。

 両親が居ない方が、余計な気を使わなくて良いし、とばっちりを受ける事も無い。

 またけんけんしながら移動しつつ、食パンをトーストして食べ、荷物を揃え、急いで家を出た。真紀を迎えに行かないといけないしな。

 松葉杖をついて道を歩いていると、道行く人がいちいち俺を見る。

 当然、怪我人は目立つか。俺は軽く地面に、怪我した左足をつけてみた。

「……うぃ……ってえ〜……っ。ああ、ダメだこりゃ」

 昨晩から霊力を足裏の治癒にあてていたんだが、完治にはほど遠い。こういうのは由理の方がよっぽど得意だからな。もしくはあのいけすかない水蛇の薬局に薬をもらいに行くべきか……

 何にしろ、今日は五月半ばにして七月下旬並みの暑さと来た。

 汗が頬を流れ、落ちる。疲労しやすい。

 人間とは本当に弱い生き物だ。この程度の怪我でも激しい痛みを感じ、動くのにもひと苦労で、すぐに疲れてしまう。

 酒呑童子だった頃は、このくらいでヘタレたりしなかった。なんせ、体がもっと頑丈だったしな。あやかしってそんなもんだ。

「真紀の家まで辿り着くには、結構時間かかるかも……あいつを起こしておこう」

 スマホでモーニングコールをしようと思い、言問こととい橋を渡りきった所で、川沿いの歩道に設置されている椅子に座り込んだ。

 そしたらふと、川沿いの景色が気になってしまう。

 ここから見える隅田公園には、犬を散歩させているおっさんと、ランニングをしているおじいさんと、幼稚園児の子どもの手を引く出勤前の父親の姿があった。

「…………」

 自分が幼い頃も、あんな風だった気がする。毎朝親父が、通勤のついでに俺を幼稚園へと送ってくれたっけ。お袋の作った弁当をかばんに詰め込んで……

 あの頃はまだお袋も親父も普通の関係だった。真紀と由理の両親とも、同じ幼稚園に通っていたと言う事でそれなりに交流があったものだ。

 俺たちはこの公園に集い、母親たちが世間話をしている間に、こそこそと姑息こそくな遊びを開発していたっけ。

 絶対に負けないドッジボール、絶対に負けない鬼ごっこ、小学生をいじめて喜ぶ中坊を逆にいじめ返す方法、など。それは、子供として振る舞わなければならない事へのやるせなさや羞恥心しゅうちしんへの反動だったんだと思う。

 親たちは俺たちが純粋に遊んでいると思っていたに違いない。

 確かに、真紀や由理は子どもの振りをするのが上手かった。

 だけど俺は、この二人と違って、無邪気ぶるということがとことん苦手だった。園児たちに交ざってダンスしたり、子どもっぽい言葉遣いで挨拶をしたり……

 前世の記憶がどこか邪魔をして、幼い頃から落ち着き払った、両親に頼ったり甘えたりする事がほとんど無い、我ながら可愛くない子供だった。

 食べたいものを聞かれても「何でもい」と言い、欲しいものがあるかと聞かれても「特に何も」と言うようなクソガキ……

 何事に置いても、常に両親の期待以上の成績を収めた。

 それも淡々と、両親に何かを言われる事も、注意される事も無いまま。「すごいね」と言われても「別に」と返してしまっていた。

 手のかからない子どもって言ったら聞こえは良いが、両親からしたら、俺はあまりに“我が子”感が無かったのだろう。

 夫婦の関係が悪くなるにつれ、両親ともに、俺への関心が薄れて行った。家庭以外の場所にいやしを見いだしたからだ。

 どうせ馨は大丈夫。親が居ても居なくても、問題ない。関係ない。

 そんな風に思って、成績や部活動、その日の出来事なんかを聞いてくる事も無くなった。

 俺が勝手にアルバイトを始めても、特に文句も言わなかった。

 やがて三人は、ほとんど家族らしい会話をしなくなる。皆して別の方向を向いていて、遠ざかって行ったのだ。

 普通の男子高校生なら、グレてもおかしくない様な環境だ。

 だが俺の側には、ずっと真紀や由理が居た。

 両親以上の理解者が居たからこそ孤独ではなかったし、この環境を苦とも思わなかったんだ。あきらめてしまっただけかもしれないが。

「……虚しいもんだな、家族なんて」

 だけど、まるで前世の家族関係をなぞっているかの様で、時々嫌になる。

 なんだかんだと言っても、根本的な原因は俺なんだろう……

 俺がもう少し、あの二人にとって我が子と思える息子であったなら、家族関係はまた違ったものになっていたのかもしれない。

「…………」

 スマホを片手に、キラキラ光る川の流れをただぼーっと眺めていた。

 そんな時、突然視界が暗くなる。

「わっ、何だ!?」 

 驚いて振り返ると、そこには朝の陽光に照らされ、赤くつやめく緩やかな髪を見る。

「……真紀?」

 真紀だ。セーラー服姿の真紀が、何食わぬ顔で立っていた。

「あんたの後ろ姿って、なんでそんなに分かりやすいのかしら。哀愁のせい? くすぶった不運オーラのせい? 思わず目隠ししてしまったわ」

「……俺まだお前に、モーニングコールしてないよな?」

「ん? モーニングコール? 今朝は、たまには私があんたを迎えに行ってみようかなって思っただけなんだけど。私、これでも最近早起きなの……主にツキツグミの鳴き声のせいでね」

 彼女は何故か勝ち誇った顔……の後に、間抜けなあくびをした。

「ところで、どうしてこんな所で休んでるの馨」

「お前、俺の顔ばっかり見てないでこの足を見ろ」

「ん?」

 俺は怪我をした左足を指差した。真紀はそれを見たとたんギョッとする。

「え…っ。何……? まさか骨折!?」

「違う。ガラスを踏んだんだ」

「え、いつ!? だって、昨日は一緒に貧乏飯食べて、一緒にドラマ見て、それであんた、元気に帰ってったじゃない」

「その後だ。……ちょっと家族でめてな」

「家族で?」

 真紀はそれを聞いて、何となく怪我をした理由を察したのだろう。

 どこまでも悲しそうな顔をする。

「あんたって……ほんと昔から運がないわね。浅草寺のおみくじでフラグは立ってたけど、速攻回収しちゃったなんて」

「大凶ってやっぱすげーわ」

「痛い? 痛いの??」

「まあ、足の裏ざっくりいったからな」

 それを聞いた真紀はサーと青ざめて、あわあわとすぐ側の自販機まで駆けて行き、俺の好きなコーラを買って戻ってきた。

「あげるわ。飲んで、元気出して!」

「……お前、食費がヤバいって言ってたくせに」

「いいから! あんたコーラ好きでしょう?」

 冷たいわよ、美味おいしいわよ、と熱弁する真紀。

 いや、そこで買ったの見てたし、冷たいのも美味しいのも知ってるんだが……

 真紀はこれで、かなりの心配性だ。

 俺や由理が少しでも調子が悪いと、いつもの偉そうな態度をコロッと変え、めちゃくちゃ過保護になって、色々世話をしたがる。普段はジャイアニズムを振りかざす、世話されたがり、おごってもらいたがりのくせにな。

 俺は受け取ったコーラの缶を開け、シュワッと弾ける炭酸の泡の音を聞いた後、グッと一口で半分飲む。

 飲んでみて、気がついた。ここまで歩いてくるのに、結構喉のどが渇いていたんだなって。

 強い炭酸を飲んだ時の、喉のしびれが心地よい。

「お前が俺に何かを買ってくれるなんて、珍しい事があるもんだな」

「………だって、馨が怪我してるんだもの」

 真紀はまゆを寄せ、視線を落とした。暗い。彼女にしては暗い。

「ちゃんと宿題したか?」

「え? いきなりそんな話?」

「今日は数学の小テストがあるぞ」

「……ヒュー……ヒュー……」

明後日あさっての方向を向いて、乾いた口笛吹いてんじゃねえよ」

「もうっ、宿題やテストの話はどうでも良いのよ。あんた、怪我をしたのなら連絡くらいよこしなさいよね。何だったら、家まで迎えに行ったのに!」

「それほどの事じゃない」

「もう、馨ってほんと格好つけなんだから。寂しがりのくせに!」

 彼女はムッとしつつも、俺のコーラをバッと奪ってがぶがぶ飲んでしまい、缶を自販機の隣のゴミ箱に捨てに行った。

「それにしても、あっついわね〜。本当に五月なの?」

 俺の元へ戻ってきながら、真紀は長いウェーブのかかった赤みのある髪を片側に流し、手で顔を仰いでいる。彼女の首筋に、一筋の汗が流れた。

「…………」

「ねえ、そろそろ行かないと、学校遅れちゃうんじゃないの?」

「……あ、ああ、そうだな」

 立ち上がろうとすると、真紀がすかさずガシッと俺を支え、そのたぐいまれな怪力で簡単に立ち上がらせてくれた。俺たちはゆっくりと、駅へと向かい始める。

「でもあんた、その足で駅まで歩いて、電車で学校へ通うの、大変そうね」

「そうでもない」

「またそんな強がり言って。ご両親は、あんたの怪我、ちゃんと心配してた?」

「さあな。朝起きたら、親は二人とも居なかった」

「……そう」

 真紀は俺の両親の事を知っている。

 だんだんと変わっていった父と母との関係を。ねじれてしまった家庭の事を。

 でももう、ここまで来たら、どうしようもないじゃないか……

「大丈夫よ、馨」

「は?」

「もしあんたが疲れたら、私があんたをおぶって学校へ行くから」

 いきなり真紀が、すごたくましい事を言ってのけた。

 いやいや。真紀さんのお力があれば、それは容易な事だろうが、そんなことされた日には学校新聞で盛大に取り上げられてしまうから。俺が恥ずかしいから。

 だけど真紀は、しきりに「大丈夫」と繰り返す。

「私はあんたの“妻”だもの。夫婦は、支え合うものなのよ」

「まだ妻でも何でもな……」

「大丈夫よ! あんたは私が、どこへだって連れて行ってあげるわ」

「…………」

 魅入ってしまったのは、大輪の花のように華やかな真紀の笑顔が、ずっとずっと前から変わらないものだったから。

 それは、まばたきのうちに重なって消える、千年も昔の“妻”の笑顔でもある。


『……どこへだって、連れて行ってやる』


 かつてこんなこっ恥ずかしい言葉を告げて、捕われの姫に手を差し伸ばし、ろうからさらった鬼が居た。

 同じ言葉を、今度はお前が、俺に言うのか。

 いつもはうるさいとか、まだ結婚してないだろとか言って取合わない“妻”ぶった言葉も、今ばかりは救いだ。

 流石に真紀に担がれ学校へ連れて行かれるのは最悪だが、彼女の愛情は、いつもながらダイレクトに伝わってくる。

 それがまた、忘れ難い前世と、我が家の影との対比となって、よりまぶしく、美しく、いとおしいものに思え、俺とした事が少しぐっときてしまった。

 そうだ。俺にはもう、大事なものと言えばそれしかない。

 だけど、それだけは確かにここにあるのだ。

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