第二話 ツキツグミの鳴く夜に

 放課後の、民俗学研究部の部室にて。

 私は部活動日誌をつけながら、隅っこに河童かっぱの落書きをしていた。

 由理ゆりは委員長会議に出席していてここには居ないけれど、かおるは向かい側に座り、ずっと少年漫画雑誌を読んでいる。


「ねえ馨、知ってる? 現代の日本人女性が夫に求めるの話」


「は?」


「テレビで見たの。低姿勢、低依存、低リスク、低燃費。なんですって」


真紀まき、お前何が言いたいんだ?」


「低姿勢ってのは、妻に対して威張らない事。低依存って言うのは、家事を妻に頼らない事。低リスクってのはリストラされない職業に就いている事。低燃費ってのは無駄遣いしない事……なんですって」


「ほお。なら俺はすさまじく現代的にベストな夫な訳だ……ふっ」


 馨は漫画雑誌を閉じ、めちゃくちゃ得意げな顔をしていた。

 でも確かに、言われてみると馨はこの条件のほとんどを満たしている。

 嫌みくさいけど、甲斐甲斐かいがいしいというか、マメな奴だ。

 休みの日は私の家のお風呂ふろを勝手に掃除してくれるし、割とパイプの奥とかまで熱心に洗ってたりする。

 お金のかかる趣味もそんなに無いし、そもそも馨はお金が好きなので無駄遣いしない。

 職業に関しては学生なので未知数だけど、成績優秀で真面目だし……こいつの現実的な性格を思えば、福利厚生のしっかりした堅実な職業に就くでしょうね。

 まあそんなスペックの話は関係なく、馨が良い夫であることなんて、私はとうの昔に知っているんだけどね。


「でもやっぱり少し、低姿勢の部分を強化しなきゃと思うのよ。時々頭が高いっていうか」


「なんだよ頭が高いって。お前はどこぞの女王様か?」


「女王様じゃないわ、あんたの妻よ」


「鬼嫁め……お前はこうだ。高飛車、高望み、高打撃力! この3高をどうにかしろ」


「高飛車ってのは自覚あるから否定しないわ。ただ私は高望みじゃ無いわよ。私はあんたが良いのであって、それ以上でもそれ以下でも無いもの」


「…………」


「あと高打撃力は私の長所だから。今の時代、女も強くなくっちゃ」


 馨はじとっとした訳の分からない目つきをしていたが、結局言葉にならない様なことをぶつぶつぼやき、側に置いていたパック緑茶のストローをくわえた。

 そう。かつて私は馨の妻“だった”。

 これは前世の話なんだけどね。

 民俗学研究部の一番前にあるホワイトボードには、ここ数日我々私たちが熱心に語り合っていた題材について、そのまま会議の跡が残っている。


『なぜ我々あやかしは人間に退治されなければならなかったのか』


 一番上に掲げられている主軸のテーマは、いつだってこれ。

 私は手前に置いていた部活動日誌をパラパラめくる。そこには、日々語り合う私たちの前世の未練が書き記されている……

 私と馨は、千年も昔、平安京を騒がせた鬼の生まれ変わりである。

 有名な“酒呑童子しゅてんどうじ”と“茨木童子いばらきどうじ”と、言うと早い。


「どうして私たちは記憶を持って、人間として生まれ変わっちゃったのかしらね」


「……なんだいきなり」


「だって不思議じゃない? 輪廻りんね転生の概念は人間たちにもあやかしにもあるけれど、私たちみたいに“あやかし”だった記憶を持って生まれ変わった人間なんて、他にお目にかかったこと無いもの」


「俺たちが例外なんだろ。強過ぎる霊力が関係しているのかもしれないし……そもそもあの時代、平安京は様々な呪詛じゅそあふれ、複雑な災いを引き起こしていた。なんか俺たちの転生のあり方を歪めたものがあったのかも」


「それはありうるわね。陰陽師おんみょうじたちの怨念おんねんとか」


 日誌の今日のページに書き込む。

 これはきっと陰陽師の呪い、と……


 時は平安。

 みやびやかな貴族の世界などはほんの一部の話で、都では大飢饉だいききんが発生し餓死者が多く、都中に放置された死体などが腐敗し、疫病が流行はやった。また混乱した都には夜盗も多く、治安も劣悪だった。

 これらはあやかしの仕業、あやかしのたたりだとされていた。

 朝廷にも焦りがあったのだろうが、政治の不始末を全てあやかしのせいにし、あやかしは問答無用で居場所を追われ、調伏され、退治された。やられまいとするあやかしも人間たちを襲った。

 そう言う時代の話だ。

 争いの流れの中で、酒呑童子という鬼が現れ、大江山おおえやまの奥にあやかしの為だけの隠れ里を作った。あれはある意味、とても小さな国だったと思う。

 当時、行き場を失っていたあやかしや、あやかしだと疑いをかけられ虐げられていた人間も沢山居たから、そういう者たちを招き入れ、食事と寝床、そこで生きていくための仕事と居場所を提供したのだ。

 しかし、私たちの平穏は、かくも簡単に崩される。


 かの有名な陰陽師、安倍あべの晴明せいめい

 当時あやかし退治といえば最強を誇っていた武将、みなもとの頼光よりみつ

 また源頼光の配下に居た四人の家臣、渡辺わたなべのつな坂田さかた金時きんとき卜部うらべ季武すえたけ碓井うすい貞光さだみつ


 私たちはこの者たちに隠れ里を暴かれ、騙され、攻め込まれ、城を落とされ、殺されたのだ。

 史実上、酒呑童子率いるあやかし一派は、都で女子供をさらって食ったり、金品を盗んで好き放題に暴れ、甚大な被害を出した野蛮な山賊と言われているが、こんなもの、人間にとって都合の良い解釈でしかない。

 確かに酒呑童子が都から攫った“姫”も居たけれど、その正体こそまさに、私だったりするのだから……

 全ては人間サイドから見た英雄譚えいゆうたんだ。

 私たちが人間たちに討伐された理由は、「あやかしだったから」というとてもシンプルなものでしか無かったのにね。



「あーあ。どうして人間になんて生まれ変わったんだろう……」


 部活動日誌の上で頬杖ほおづえをついて、ぼやいた。

 時は移り変わり、時代も、文明も、あやかしと人間の関係すらも大きく様変わりしたこの現代日本。

 そんな中で、人間に討ち滅ぼされた記憶を持ったまま生まれた私が、どうしてそうあっさりと人間社会に溶け込む事が出来るだろうか。

 十七年間生きてきたけど、馴染む部分もあれば、違和感の消えない部分もある。


「文句言ったって、今は今だ。まっとうな人間に生まれ変わったんだから、人間らしく生きるべきだ。あやかしにも、むやみやたらに関わるんじゃないぞ」


「また馨の説教だわ。……前世のあんたは暑苦しいくらい、あやかしたちに親身だったくせに」


「あ、おいその話やめろ」


「はあ。酒呑童子は今でも日本史上最強の鬼って言われているのよ。あやかしたちの英雄。まさに伝説。当時のあんたは大太刀を振るって、かよわいあやかしを助け、悪い人間をやっつけていたんだもの。座敷牢ざしきろうに閉じ込められていたお姫様な私の事も助け出してくれたし……うん、格好良かった」


「ああっ、ああもうっ、やめろ! その話は俺にとって黒歴史だから! ほんと死にたくなるから」


「何をそんなに恥ずかしがっているんだか……今日の日誌に追加で書いときましょ。馨は前世の黒歴史を思い出すと死にたくなる、と」


 私が酒呑童子の話を出す度に見られる馨の反応は、痛々しい若気の至りを暴露され、恥ずかしさのあまり悶えている思春期真っ盛りの男子生徒のよう。というか、まあ現代の年齢的に「思春期」である事は間違ってないんだけど……

 それでも私は、酒呑童子伝説における馨の後悔は、何となく分かっているつもりだ。

 あやかしを守りたかったが為に、人間と敵対し、戦い続け、結局全てを失った。

 何かを間違い、大事な者たちを死に追いやってしまった。

 そういう葛藤とトラウマがあるからこそ、彼は今、あまり積極的にあやかしに関わろうとしない。

 ただ、民俗学研究部であやかしの事を調べたり、こうやって前世の反省をしたりはするので、根っからあやかしを嫌っている訳じゃないし、陰で色々と手助けしているのを、私は知っている。


「ただいまー」


 そんな時、部室のドアが思い切り開かれ、幼馴染おさななじみかつ前世のあやかし仲間である由理が、委員長会議から戻ってきた。


「ねえねえ。馨君の古傷をえぐっている途中、悪いんだけどさあ」


「お前どこから聞いてたんだ? てか全然悪いと思ってないだろ、その顔」


 由理は優しそうに見えて、ささやかながら腹黒ドライ。

 馨の剣幕を緩くにこやかにかわし、人差し指を立てて続けた。


「二人とも、今夜僕の家にごはん食べに来ない?」


「由理の家って……あのお屋敷の?」


「まあお屋敷っていうか、旅館の旧館みたいなものなんだけどね。明日は休日だし、良かったら一晩泊まっていきなよ。うち、部屋と布団だけは沢山あるからさ」


「えっ、いいの!?」


 私は思わず立ち上がった。お泊まり会だなんて嬉しい。

 寝るギリギリまで馨や由理と一緒に遊んだり、おしゃべりできるもの!

 由理は薄い唇をV字にしたまま、頷いた。


「実は今日からうちの両親と旅館のみんな、社員旅行で居ないんだ。だから宿のご飯を出せる訳でもないし、たいしたおもてなしは出来ないけど……母さんがね、真紀ちゃんと馨君と、我が家でお泊まり会でもしたらって」


 由理のお母さんは、小さな頃から私や馨の事を気にかけてくれていたし、とても信用してくれている。私たちをお泊まり会に呼んでくれるのも、度々あることだった。


「それと……実はちょっと相談ごとがあるというか」


「……ん、相談ごと?」


「真紀ちゃんと馨君になら、どうにかしてくれるかもと思って。……ふふ」


 人差し指を自らの口元に当て、意味深な事を言う由理。

 女子みたいに綺麗な顔をした由理の最後の笑みには、少しだけ黒みが……


「あ。帰りに駅前のスーパーに寄っていこう。今夜はみんなで焼肉パーティーだよ」


「やっ、焼肉!?」


 だけどこの一言で、私はもう一度飛び上がった。

 私の目はかなりマジだったのだろう。あの由理が一歩後ずさり、戸惑いがちにうなずく。


「え、えっとね……良い宮崎牛を親戚しんせきから頂いたんだ。あれ、母さんがぜひ真紀ちゃんと馨君にって。でもあんな量じゃ、とても真紀ちゃんを満足させられないだろうから、スーパーでお肉や野菜を買い足して行こう」


「行く行く! 早急に行きましょう!」


 私は急いで、そこらに置いていた荷物をかばんに詰め込んだ。

 部活動日誌だけは持って帰らず、いつもの通り机の下の引き出しに仕舞う。


「こういう時だけ支度が早いな」


「うるさい馨。あんたもすぐ支度をなさい」


 ゆるゆる立ち上がる馨をかし、部室から引っぱり出す。

 部屋を出る時に、ふとホワイトボードに記された会議の跡が目に入った。

 昨日皆で考えていた、とある“議題”があるのだけれど、最後がぐだぐだな会議になっちゃったから中断したのよね。

 まあ、ホワイトボードは消さなくていっか。まだ結論出てないしなー……


「おい真紀、人を急かしておいて、なに立ち止まってるんだ。早く行くぞ」


「ああ、待って待って」


 馨を追いかけつつ、密かに昨日の会議内容を思い出す。

 それは、私たちがあの時代、人間たちに殺されずに仲良く共存して生きる道があったのかどうか、と言う事だった。

 こんなこと、今更考えたって意味が無いと思うかもしれない。

 ただ、老人が同じ様な昔話を繰り返し語り合うように、お茶とお菓子を側において、あーだこーだ前世の未練を口にしている。ただそれだけ。

 皆の中にそれぞれある、あやかしから人間へと生まれ変わった戸惑いや、いまだぬぐう事の出来ない葛藤を、同じ様な生い立ちを持つ者たちで語り合うことが、何より重要なのだった。

 あの時代の無念を、未練を、感情任せに表に出さないように。

 



「ねえねえ、ちょっと良い?」


 帰宅のため旧館の廊下を歩いていた時、渡り廊下で待ち伏せしていた三年生の女子生徒に声をかけられた。

 それが誰だか分かると、私たちは三人揃って「げ」と嫌な声を漏らす。

 彼女は学校でも有名な“新聞部”の部長、田口たぐち先輩だったからだ。

 茶色のショートボブカットの髪にカチューシャを着けている、背の高い女子。

 健康的な笑顔とは裏腹に、学校内のエグいスキャンダル記事を書き上げる事で、教師陣や生徒会をも操作すると噂されている。


「私、新聞部の田口って言うんだけど、ちょっと良いかなあ!?」


「何も良くないですね」


「あー待った待った待った」


 すたこらと立ち去ろうとする私たちを、田口先輩は一生懸命追いかけてきて、前に立ちふさがった。

 彼女は怖いくらい爛々とした目つきをしていて、手にはメモ帳とペンを持っている。


「ねえねえ、知ってる? ちまたじゃ君たち民俗学研究部は、結構な噂の対象なんだよ。既に学校の七不思議の一つに数えられているんだけど」


「は? 七不思議?」


 私が思わず反応すると、馨が「無視しろ、目を合わせるな」と私の頭を小突いた。

 田口先輩は猛獣か。


「話題も話題、超話題。二学年一のイケメンと秀才美少年、そして美少女が、旧館の美術準備室に引きこもってるなんて、誰から見ても異常だよね! 気になっちゃうよねえ〜っ」


「…………」


「そもそも、君たちの部活って何してるの?」


 私たちはギクリと肩を上げ、「え、えっと」とあからさまに目を泳がせた。

 田口先輩はそういうのを見逃さず、何かをメモに取っている。


「そんな……大したことはしてないですよ。その名の通り、日本の民間伝承なんかを調べて、レポートにまとめている様な、至って真面目で地味な部活動でして」


 由理がすぐに当たり障りの無い事を言うも、田口先輩はちらりと私の方を見て、納得できないと言う顔をした。


「うーん、でもなんかイメージと違うんだよなあ〜」


「…………」


「君たちってほんとミステリアスっていうかー。まあだからこそだけど、この学校の誰もが君たちの事を知りたがっている訳よ! まあ何と言っても女子の興味は、そこの君、天酒あまさけ君にあるんだけどね!」


「はい?」


 今の今まで目すら合わせようとしなかった馨も、田口先輩のこの言葉に反応してしまい、はっとして口を押さえた。

 田口先輩はニヤリと口元に弧を描き、まるでマイクのごとく馨にペンを突きつける。


「二年一組、天酒馨。今時珍しい黒髪正当派イケメン。成績も常にトップ10に入る優等生。何と言っても大人っぽい色気がたまらないと話題に。あちこちの部活から勧誘が途絶えないほど運動神経も抜群に良い。そこらの雰囲気イケメンやチャラ男とは格が違うという話だよ!」


 馨が白目をむいている間に、今度は由理に向かってペンを突きつけた田口先輩。


「二年一組、継見つぐみ由理彦ゆりひこ。女子と見まがうほどの色白美少年で、成績は一年生の時から誰にも一位を譲っていない秀才。おうちは浅草の老舗しにせ旅館“つぐみ館”で、お金持ち。何と言っても高校生男子とは思えない落ち着いた雰囲気が、男女の生徒と先生という幅広い層に人気」


 田口先輩は自分のメモ帳に書いてある情報を得意げに読み上げつつ、恍惚こうこつとした表情でいる。

 うん。前世がどうとか言ってる私たちも大概だけど、この人も負けず劣らず……ヤバい。


「で……えーと、二年一組、茨木いばらき真紀。学校一の美少女とうたわれているのに、本人はそんなこと興味無さそうで、いつもクラスの窓際一番後ろの席で早弁してる……。成績も常に最底辺を彷徨さまよい……授業中の居眠り常習犯……あ、ただ運動神経は良くて、この前の体育の時間、バスケットゴールにダンクをかまし、そのままゴールをもぎ取ったことが例のつぶやき系SNSで話題に」


「…………」


 なんか……なんか私の情報だけ変なの多くない?

 馨や由理はべた褒めされていたのに……


「で、どう? 君たちって、最近気になる子とか居る? あ、特に天酒君」


 本命はそこでしたか。

 流石は馨。酒呑童子の時も、あまりの美男っぷりに数多あまたの女子を恋煩いで殺したと言う伝説がある程のモテ男だったわけだけど、このスキルは今でも健在の様で。


「そういうのはノーコメントで」


「要するにフリーってこと?」


 馨は私をチラリと見て、「契約社員みたいな」と意味不明な濁し方をした。

 しかし田口先輩は「契約社員……」とメモ。


「じゃあ継見君は? 君のファンも結構居るし、むしろガチっぽいのはここに集中しているという説もある。男女共に」


「……ガチっぽいとは? 男女共にとは??」


「そもそも、君たち三人ってどんな関係なの? 部員で唯一の女子である茨木さんは、結局どっちと付き合ってるの? イケメン二人をはべらせてる気持ちって、どんな感じなの!?」


 最終的に私はとんでもない質問をぶつけられた。

 そんな事を言われても、私に答えられる事なんて一つしか無い。


「私たちの関係は、付き合うとか付き合わないとか、そういうものをとうに超えています。私は馨の妻であり、由理の親友……」


「あああああああああああああああっ!!」


 しかし私の返答は、馨と由理の大声によってかき消された。


「し、失礼しま〜す」


 由理と馨が私を引っ張りつつ、田口先輩から一刻も早く離れなければと、下駄箱へ猛ダッシュ。

 私はちらりと、置いてきた田口先輩の方を見やる。

 こそこそっと活動しているつもりだが、良い意味でも悪い意味でも、私たちは目立ってしまう。

 目立つ者、人とはどこか違う者を、最初は興味深く思うでしょう。

 でもね。いつしか怖くなって、どこかに閉じ込めたり、追いやったり、排除しようとしだすのよ……

 悲しいかな、人間とはそう言うものだ。


「おい真紀、あの人にいい加減なことを話すなよな!」


「うちの学校の新聞部、あんまり良い噂を聞かないんだよね」


 馨と由理が、下駄箱で私を注意した。二人とも随分と警戒している。


「でも、何を言った所で、人間は自分に都合の良い言葉しか耳に入れないし、自分が望む解釈しかしないものよ」


「……真紀?」


 私がいつもと少し違う感じで答えたからだろうか。馨と由理は顔を見合わせていた。

 なので下駄箱の靴と上靴を履き替えながら、フッと笑って皮肉を言ってやる。


「それにしても、高校生ってのは恋の話題が気になって仕方が無いお年頃なのね。男女が同じ学び舎に居るだけで、やれ誰と誰が付き合っている、誰が誰を好きらしいとか、勝手に噂が流れてるんだもの」


「そんなの平安時代はもっと凄かったぞ」


「確かに〜……意味も無く恋の歌を何度んだことか」


 馨のつっこみは冴え渡っていた。

 由理も歌人として有名だったため、雅やかな千年前を懐かしんでいる。

 た、確かに。あの時代は、恋愛沙汰しか刺激が無かったから……


「真紀ちゃんと馨君、もう付き合ってるって事にしちゃえば良いのに。絶対楽だよ、そっちの方が……」


「はああ? ふざけんな由理。自分だけ被害を免れると思って」


「馨、それどういう意味?」


 まだこの話題を引きずりながら、私たちは校門を出た。

 前世の記憶を分かち合う、この特別な関係のせいで、私たち三人はいつも一緒に居た。

 当然、男女が混ざった妙な三人組だから、変な噂を流され、厄介に巻き込まれた事もある。

 元大妖怪の私たちにとって、噂というのは蚊に刺されるよりもずっとどうでも良い事だけど、せめて平穏な毎日が脅かされるのだけは遠慮願いたいものだ。




「お肉は何種類買う? 牛はカルビと、ロースと、あ、はらみも食べたい。ああ、でも豚バラも塩こしょうふって焼くと美味しいわ。あ、あと、手羽先も。あ、あとあと、せせりも。せせりも焼く」


「はいはい、全部入れて良いよ」


 駅前のスーパーの、お肉コーナーにて。

 まるで、お菓子は何円まで買っていいのお母さん? と聞いている子供のように、肉を持って来て由理に了解を得る私。


「おい真紀。人様の夕食に招かれているだけなんだから、余計なものは買うなよ」


「大丈夫。高級なお肉は入れてないわよ。一応、牛肉は日頃もよくお世話になってる安いオージー・ビーフだし。後は鶏肉や豚肉で量を増してる訳だし」


 ただ私の気遣いも虚しく、由理はさっきからすぐそこで目を丸くしていた。


「へええ……オージー・ビーフ! 僕、黒毛和牛以外の牛肉って、家じゃほとんど食べないんだよね。楽しみだなあ」


「…………」


 ぱちくり。

 私と馨は口を半開きにしたまま、横目にお互いを見た。

 由理のこの発言があまりに衝撃的で、固まってしまっている。

 いえ、そうね。

 継見家って言ったら浅草で最も歴史のある旅館を営むお家で、何と言ってもお金持ちなのよ。私たち一般庶民とは感覚が何もかもが違うのよ。

 いえ、決してオージー・ビーフが悪い訳じゃないのよ!

 このクソ金持ちめっ!!

 

「じ、じゃあ、由理の分はとりあえず国産和牛にしましょう……」


「そうだな。そうしよう」


「え、なんで? 僕別に……ていうか、それならみんなで食べようよ!」


「「ありがとうございます!」」


 と言う訳で、私たちは国産和牛とオージー・ビーフ、両方の焼肉セットをカゴに詰め込む。何だろう、この敗北感……


「おや真紀ちゃん。夕飯の買い物かい〜?」


「あ、鎌谷かまたにさん!」


 馨と由理が、それぞれ飲み物や調味料やらを探しにっていっていた時、まだお肉のコーナーに居た私に、精肉のお仕事用の白い服をまとった、おっとりした小柄な中年男性が声をかけてきた。

 彼の名は鎌谷さん。駅前スーパーの精肉部のチーフだ。

 実のところ、彼は人間に化けて浅草に住むあやかしの一人で、その正体はカマイタチである。

 精肉部で働く理由は、ただただお肉を沢山カットできるという、若干恐ろしい動機だった事は秘密……

 妻子持ちで、一生懸命家族を養う良きパパだ。

 私はそんな鎌谷さんが手に持つ、丸いシールをガン見する。


「鎌谷さん、その手に持っているのは、夕方に貼られる割引シールよね、そうよね」


「うわあ、流石にいつもここで買い物してるだけあって、目ざといなあ。……でも、真紀ちゃんはこの前、うちの子に竹馬を教えてくれたからねえ。おかげで学校の友人に馬鹿にされなくなったって言ってたよ」


「そう。良かった」


 鎌田さんは買い物カゴの中のお肉のパックに、二割引や三割引、ものによっては半額のシールをペタッと貼ってくれた。元々そうなる予定だったんだろうけれど。

 スーパーでは、このシールを貼ってくれる鎌谷さんは神様仏様。

 私はいつもお世話になっているし、このシールが貼られる時間帯を狙って買い物に行くようにしている。




 由理のお家は、通称“浅草仏壇通り”沿いにある、創業二百年を誇る老舗旅館“つぐみ館”だ。

 著名人や文化人に多く愛された高級旅館であり、良くテレビでも紹介されている。

 八階建ての新館では、最上階の大浴場からスカイツリーが見えるとか何とか。

 しかし私たちがやってきたのは大きな新館ではなく、新館の裏手にある旧館だ。

 入り口から江戸情緒たっぷりの、瓦屋根の古い建物。

 今では継見家の自宅兼、つぐみ館の事務所。


「なんか久々に来たなー由理の家」


「ふふ、今日は貸し切りだよ」


「妹さんは?」


「旅行について行っちゃった。僕はお留守番なんだ……まあ、一人って訳じゃないけどね」


 由理は裏の玄関から中へ入り、私たちを招いてくれた。

 ギシギシと音の鳴る古い木目の床を歩き、友人や親戚などのお客が遊びに来た時に使うと言う客間へ辿り着く。

 リフォームされたばかりのフローリングの洋室だが、窓や襖、家具などにも随所に和モダンなこだわりもあり、インテリアにもお金がかかってそう……


 さっそく夕食の準備をして、我々三人だけで鉄板を囲む、楽しい焼肉の宴が始まった。

 ジュージューと肉の焼けるたまらない音と匂いは、空腹の高校生たちにはたまらない。

 何と言っても、目の前で焼けているのは宮崎牛なのだから。


「ああ……宮崎牛なんて初めて食べたわ。なにこれ……口の中で脂の甘みが溶け出したと思ったら、スッと溶けちゃった……」


 宮崎牛……一口食べただけで、その味の虜になる。

 さすが日本一のブランド和牛と名高いだけあるわ。

 色鮮やかな赤身、バランスの良いサシ。

 生肉見てるだけでも芸術品かってくらい綺麗なのに。さっと焼いて口に入れた時のお肉の旨味ったら言葉にできない。

 甘くて濃厚なのに、後味の良い脂身……最高。


「あ、それお前、人がせっかく焼いた肉を……っ」


「馨がぼさっとしてるからよ。鉄板の上は戦場なのよ。食うか食われるかの」


「お前はさっきから俺の肉を奪い過ぎなんだよ。まだ生っぽいのに……腹を壊しても知らないぞ。野菜も食え」


「野菜も食べてるわよ。焼いたタマネギは甘くて美味しいし、ピーマンとカボチャも好き。お肉の肉汁が絡まった炒めもやしも最高よね……」


 炒めもやしをがっつりお皿に取って、ちょっとだけ焼き肉のたれをつけて食べる。このしゃきしゃきした歯ごたえが、こってりお肉の後に欲しくなるのよね。

 馨は私がお肉から目を逸らしている間に、「今だ!」と言わんばかりに鉄板の上の焼けた肉を取って、白い米と共に口に搔き込んでいた。


「真紀ちゃんっていつから大食いになっちゃったんだろう。元々藤原ふじわら家の、か弱くて麗しいお姫様だったのに……気がつけば大食いになって、金棒を振り回す様になってたって言うか、お肉を丸かじりしてたっていうか、たくましくなったと言うか……」


 由理は鉄板に新しいお肉を並べつつ、私の大食いっぷりを眺めている。

 改めて言われると、私も良く分からない。気がつくと良く食べる様になっていた。

 そして大食いな所は、生まれ変わった今でも健在。

 馨も由理も、成長期の男子と言う事を抜きにしてもそこそこ食べる方なので、おそらく霊力を使う人間の特徴の一つだと考えている。

 そしてあやかしたちも、基本的に人間より大食いであり、グルメである。


 さて。焼肉を楽しんだ後、私たちは由理のお母さんが用意してくれていた高級なフルーツアイスに度肝を抜かされる。

 つぐみ館が何かとお世話になっていると言う、銀座の老舗フルーツパーラーで買ったらしい、数種のアイスクリーム。

 立派な木箱に、六種のアイスカップがお行儀良く詰められていて、更に一つのカップがとても小さい。ただならぬ高級感だ……

 味は、桃クリーム、柚子はちみつ、ストロベリーチーズ、メロン、マンゴー、ブルーベリー……


「一人二つずつ、かなあ……一個が小さいから。じゃんけんしよう」


 由理が全てをテーブルの真ん中に並べ、さっそく三人でじゃんけんをする。

 まず大勝利した私が、激しいガッツポーズの後、狙っていた桃クリーム味を選ぶ。

 その次に勝った由理が柚子はちみつ味、やっぱり勝てない馨がメロン味、その後も同じ順番で私がブルーベリー味、由理がストロベリーチーズ味、馨がマンゴー味を選んだ。


「まあでも、どれも美味そうだし……残り物には福があると言うし」


 ことごとくじゃんけんに負けた馨が負け惜しみっぽい事を言っていたけれど、私はさっそく自分の選んだ桃クリーム味のカップの蓋を開ける。

 果肉入りの濃い桃のアイスと、真っ白なミルクのアイスが、綺麗なマーブルを描いている。

 十分観察した後、一口パクリ。思わず目をぎゅっと瞑る。

「ああ……甘いっ」

 桃を丸かじりしたような、フレッシュな甘みと、ほんのりある酸味に悶えた。

 果汁と果肉たっぷりの濃厚なアイスクリームで、一口食べた時から爽やかな桃の香りが口一杯に広がる。それでいて、桃のアイスを包むミルクアイスが、まろやかな後味を作る。

 焼き肉の後にはぴったりなアイスクリームだわ。

 由理も柚子ハチミツ味のアイスを、馨もメロン味のアイスを一口食べ、舌鼓を打っている。

 二人のも美味しそうだ……まずアイスの色が素材そのもので、綺麗なんだもの。

 これはもう、馨の言っていた通り、どれを選んでも当たりだったかもしれないわね。


「現代にはアイスクリームがある……それだけで凄い話よ。平安時代のスイーツって言ったら、まず果実の水菓子か、唐菓物からくだものだったもの」


「唐菓物か……懐かしいな」


 私たちは懐かしいそのお菓子を思い出す。

 唐菓物とは、平安時代の貴族たちが食べていた、遣唐遣によって唐より伝わった揚げ菓子だ。米粉や小麦粉などに甘葛あまずらの汁などを加え、胡麻油などの油で揚げて作る。

 あの時代はそれでも高価な御馳走だったけれど、今となっては、よりバラエティ豊かでたまらなく美味しいお菓子が、巷に溢れんばかりに存在する。

 現代に生まれた価値は“食”にありという気もしてくる。

 私の食欲も、より刺激されるというものだ。

 調子良く宣言する……現代人万歳!




 数々の高級アイスクリームを楽しんだ後、皆で後片付けをした。

 高校生のくせにこんな贅沢ぜいたくをしては罰が当たるかしら。

 今日は由理の家族が居ないけれど、今度お礼を言わなくっちゃ。

 その後はまったりとトランプでもしながら過ごしつつ、お風呂ふろの時間だ。

 一番風呂に入る権利を、“大富豪”の真剣勝負で決める。

 こういう時だけ勝てる私が、一番風呂の権利を得た。


「ああ、極楽極楽」


 継見家には大きなひのき風呂があって、たっぷりお湯を張った浴槽に肩まで浸かるのが最高に気持ち良い。檜の香りも心落ち着く。

 ユニットバスの我が家ではこうはいかないわね〜。


「真紀ちゃん、浴衣ゆかたを置いとくからね」


「はーい」


 お風呂を上がったら、由理が用意してくれていた浴衣を着る。


「それにしても可愛い浴衣ね」


 白地に赤い小梅が散る、愛らしくも上品な浴衣。

 由理の旅館は、女性の宿泊客には好きな柄の浴衣を選んでもらっていると言っていたから、これもそのうちの一つなんでしょうね。


「お風呂が空いたわよ〜……次は誰?」


 私がタオルで髪を乾かしつつ客間に戻ると、テレビを見ながら由理とだらだらしゃべっていた馨が「俺だ」と即答して、何だか待ちわびていたような顔をして立ち上がった。


「ねえ馨、見て、浴衣」


「…………」


 何か言う事は無い? と期待感あふれる眼差しで馨を見上げていたのだが、馨は真顔でぼそっと。


「お前、髪はちゃんと乾かせよな」


 そして、何だかるんるんな足取りでお風呂場まで行ってしまった。

 馨はお風呂大好きだから……

 ぶるぶる震える、私。


「まあまあ、真紀ちゃん。似合ってるよ真紀ちゃん」


「由理は由理で、まるで心にも無い適当な言葉だしね」


「そんな事無いよお」


「…………」


 はあ……とため息。

 さっきまで馨が座っていた客間のソファに座りこみ、タオルで髪のしずくを拭う。

 そしたら由理がすぐ側までやってきて、「かしてごらん」と私のタオルを取った。


「髪、拭いてくれるの?」


「うん、良いよ」


 由理の柔らかい微笑みの前に、私は母に背を向け髪を預ける子どもみたいになる。

 由理の手つきはとても優しく、髪を拭かれているだけなのに温かい何かが髪に伝わって、背中までぽかぽかしてくる。

 それは彼の、澄み切った優しい霊力のせいだと私は知っている。


「ねえ由理、あんた、さっきの大富豪わざと負けたでしょう?」


「そんな事無いよ。あの時、僕は劇的に手札が悪かったからね」


「……まあそう言う事にしといてあげる」


「ほんとだよ?」


 由理はあっけらかんと。本心は相変わらず読めない。


「はあ……それにしても、馨も由理くらい紳士的だったらな。さっきのあれは無いわよ」


「あはは。馨君は恥ずかしがり屋なんだよ。彼のひねくれた所は、真紀ちゃんが一番良く知っているだろう」


「それは知ってるけど……」


「馨君はああ見えて、真紀ちゃんが居ないとダメなんだから」


 諭す様な口調で、由理は私に語りかけた。


「前世だけの話じゃないよ。今だって、馨君は君が側にいるから、たとえ家族に放ったらかしにされていても、君の事を思って色々な事を頑張れる。バイトだって勉強だってね」


「………由理」


「君たちはまごう事無く良い夫婦だと、僕は思う」


 ちらりと由理の方を見ると、彼は微笑んでいるのに、どこか物悲しげな眼差しをしている気がした。

 この顔には少し覚えがある。

 由理もまた、前世は平安時代を騒がせたあやかしであり、酒呑童子や茨木童子と同じ時代を生きた大妖怪、“ぬえ”だった。

 私たちとは違う形で行き場の無いあやかしたちを助けようとしていた、気高く美しいあやかし……

 鵺というあやかしの正体には、様々な説がある。

 猿の顔、狸の胴体、トラの手足と蛇の尾を持つなどとされていたり、資料によっては、別の動物が体の一部とされていたり、様々な獣の合成で語られる事が多い。

 しかし、私たちの知っている鵺とは、白く美しい鳥獣のあやかしだ。

 高度な“まやかし”を得意とし、長い間その姿を偽り、人間に化け、朝廷に関与し続けていたあやかし……それが鵺だった。

 鵺は、平安の都の大内裏で、権力を持った藤原家の公卿くぎょうとして働いていた。

 私も、鬼見の才を持つ藤原家の姫として生まれた時から、何かとお世話になってたっけ。

 だから今も、由理のことは保護者の様な気持ちで頼りにしてしまう事がある。

 彼は長年、人間とあやかしの営みのバランスを朝廷の内部から保っていたのだけれど、結局それが人間にバレて、退治されてしまったのよね。

 私や馨の様に、完全にあやかしたちの味方であったなら話は単純だった。

 けれど、彼の場合どちらも捨てきれなかったのだから……

 それはある意味で、とてつもない孤独だったのでは無いかと思っている。


「はい、出来たよ真紀ちゃん」


 昔の事を悶々と考えている間に、長い髪はくしかされ、しっとりふわりと乾かされていた。い、いつの間に……

 乾いた髪を一房とって指でいじりつつ、私は振り返る。


「ありがとう由理。霊力をドライヤー代わりにするなんてそんな器用な真似、由理にしか出来ないわ」


「大した事じゃないよ。現世ではこんな事にしか使い道が無いし、せっかく大きな霊力を持って生まれ変わったんだから、何かしら役に立てないとね。馨君にもやってあげようかな、風邪ひいたら大変だし」


「馨はなんか嫌がりそうだけど、由理ってほんと、昔から私たちのお母さんみたい。顔も女の子みたいだし」


「…………」


 由理は明後日の方向を死んだ魚のような目で見つめている。

 うーん、今のは褒め言葉じゃなかったみたいね。


「でも私……由理には本当に感謝してるわ。由理と馨は、かつての私の恩人だもの」


「……真紀ちゃん」


「この時代は平和で、豊かで、美味しいものも沢山食べられて、何も無かった千年前の苦しみが……ほんとに嘘みたい。それでも、今は今で悩み事は絶えないけどね」


 クスクスと笑った後、由理に向き直り、強く断言する。


「何かあったら、絶対に力になるからね、由理」


 素直な笑顔を作った私に、由理は少しだけ驚いた顔をしていたけれど、彼もまた優しく微笑み返し、うなずいてくれた。


「あ、そうだ。由理の髪も、後で私が乾かしてあげる。私の霊力をちょちょいと使って」


「そ、それは遠慮しとくよ……真紀ちゃんの霊力は、なんて言うか刺激が強いし、絶対僕の髪を焦がす……。いや、それならまだマシだ。下手したら全部無くなる……毛根も」


「失礼ね。上手くやるつもりよ?」


 元々色素が薄いのに、更に青白くなってしまっている由理。

 私の霊力は毒薬か何かか。

 あ。そう言えば由理、そもそも私たちに、何か相談があるって言ってなかった……?


「はあ……いまだにお前んちは迷いそうになるな。元々旅館だったからか、部屋が多すぎて」


 ちょうど馨が、お風呂から上がって戻って来た。


「お風呂場が一番奥にあるからね〜。元々お宿だったのもあって、ちょっと不便な作りなんだ。ごめんね、少し廊下が暗かっただろう? お湯加減は良かった?」


「ああ、良い湯だった。ここの風呂は広くて羨ましいよ。家もでかいし」


「あはは。まあ古くて無駄に歴史があるもんだから、“変なの”もいる家なんだけどね……」


「……変なの?」


 由理は笑顔で意味深な事を言い残し、「じゃあ僕も入ってくるよ」と客間を出て行った。

 私は馨をまじまじと観察する。

 冷たい水を飲みながら、馨は「何だ?」と妙な顔をした。


「馨、浴衣ゆかた着てる……昔の酒呑童子しゅてんどうじみたい」


「あ? ああ……まあな」


 自分の着ている浴衣、そして私の着物をチラチラと見て、馨はすぐそこのソファにストンと座った。

 しばらく二人で、客間のテレビを付けて、ちょうど続きが気になっていたドラマを観てたんだけど……馨が突然、こんな事を言った。


「なあ真紀……ちょっと変な感じがしないか?」


「え、何? もしかして私の浴衣姿、変?」


「は? そうじゃなくて……この家だ。前はこんな感じじゃなかったのに」


 馨の言葉にピンと来て、私は周囲の気配を探ってみた。

 確かに……何か変な感じがする。


「……見られているような気配があるわね」


 スッと視線を横に流し、ふすまの隙間ににらみを利かせた。

 今までのほのぼのとしていた空気が、一瞬でピンと張りつめる。

 途端に、私たちを見ていたものの気配がスッと引いた。


「待てい!」


 ガラッと襖を開け放ち、逃げようとしていたものを捕らえようとした。

 しかし、開け放った襖の向こう側には誰も居ない。

 暗く長い廊下がずっと先まで続いているだけだ。


「……どこへ行ったのかしら。絶対何か居たと思ったんだけど」


「あやかしか?」


 馨が私越しに廊下をじっと見つめる。

 私たちは顔を見合わせ、頷き合うと、そろそろと廊下へと出た。


 ギシ……ギシ……


 誰も居ない真っ暗な、旧旅館の廊下。

 しんと静まり返っているからこそ、廊下の奥のやみ、天井や壁の染み、床のきしみが嫌に気になるのだ。人間はそういうものから、あやかしや霊的なものを見いだしたとも言う。

 ひんやりとした空気が、まだしっとりとした肌に絡み付く……


「幽霊だったらどうする、馨」


「あやかしも幽霊も、そんなに違わねーよ」


「全然違うわよ。私、物理攻撃ができないものはちょっと……」


「俺はお前が怖い。切実に」


 ぶつくさ言っていた馨がぴたっと立ち止まった。

 耳を澄ますと、どこからか変な鳴き声が聞こえる。


 ヒョー……ヒョー……


 細く、不気味な鳴き声だ。

 その鳴き声は、どうやら上の階から聞こえてくる。

 私たちは導かれるように、暗い階段を上り、古い客室の並ぶ二階の廊下に出た。


「ここね」


 私はごくりと息を呑み、まだ鳴き止まない不気味な鳴き声のする部屋の前まで、足音を立てずに歩む。馨も同じく。

 人様のお家のお部屋を勝手に開けるのはダメだけど、何か変なのが居る方が、よっぽどまずいからね。

 私はドアに手を伸ばした。馨もその隣で、ごくりと息を呑む。

 しかし、私がドアを開ける直前、


「「ぎゃああああああああああっ!」」


 私と馨の肩に、後ろからポンと手が置かれ、私たちは揃って凄まじい悲鳴を上げた。


「ちょ、ちょっと……どうしたの?」


 振り返ると、きょとんとした湯上がりの少年が立っていた。

 白い浴衣姿に藍染めの羽織を羽織っていて、確かに淡くはかない雰囲気をまとっているが別に幽霊でも何でも無い、ただの由理だ。


「由理! 脅かさないでよね!」


「え? 驚いたの? 君たちが??」


「心底ビビらされたぞ……」


 馨と私はお互いに身を寄せ、ガクガクガク、と。

 由理は私たちの態度に、たまらず腹を抱えて笑い出した。


「あんた何笑ってんのよ」


「なんか腹立つな。一発殴って良いか?」


「だ、だって、おかしいよ。君たちって歴代のあやかしの中でもトップクラスの強さを誇った酒呑童子と茨木童子いばらきどうじだよ? 現代の陰陽局おんみょうきょくが公式で出している、歴代調伏難易度ランキングSSに君臨してる鬼だよ? それなのに……ふふ、こんな……ビクビクして……あははは」


「あんた何まだ笑ってんのよ」


「やっぱり殴りたい」


 だんだんと恥ずかしくなってきて、顔を赤くして掲げるこぶしを震わせる私たち。

 そりゃあ、確かに元大妖怪の私たちが、こんな所でビクビクしている姿は、事情を知っている者からしたら異様なんでしょうけれどね。

 私たちだって、ちょっと驚く事くらいあるわよ。


「ふふ。でもその扉の向こう側の者たちの方が、もっとずっとビクビクしてると思うよ。君たちのような大物がすぐ近くまで来てるんだからさ」


 由理は私が開けようとしていたドアを開け、中の襖を開く。

 すると驚いた事に、小さな一つ目小僧や座敷童ざしきわらし、なんか良くわからない小動物系あやかしが、部屋の隅っこで身を寄せ合って震えていた。


「え、なんで由理の家にあやかしが?」


 ここは普通に、人間の住んでいる場所なのに……


「ぬえ様〜っ」


 か弱いあやかしたちは、由理がこの部屋へやってきた事に安堵あんどしたのか、涙目で由理の足下にすがっていた。

 由理はそんなあやかしたちの頭をでながら、困った顔をして笑う。


「弱くて……人に化けて働く力も無い、この都会に居場所の無いあやかしたちが、僕を頼ってここへ来ちゃうんだ。まあ、部屋は多いから、静かに暮らしてくれる分には良いんだけどね」

 よくよく周囲を見ると、小さくてか弱いあやかしや、今にも消えそうな火の玉たちが、沢山この部屋に集い始めていた。

 要するに、それだけこの手の連中が、この旧旅館に住み着いていると言う事だ。


「……由理、大丈夫なの?」


「そうだね……限度はある。この家は、あくまで僕の家族のものだ。最近、家族のみんなが少し、この家の空気に違和感を覚えつつある。特に、僕の妹が……」


 その時、ヒョーヒョーと言う不気味な鳴き声が再び聞こえた。

 由理はその鳴き声を聞くと、側の窓辺へ寄って行って、障子と窓を開ける。

 明るい、月の綺麗きれいな濃紺の空。そこから、窓辺の出っ張りに飛んできた、小さくて白い鳥がいた。

 この月夜のように青白く発光した、美しい鳥のあやかし。

 私はこの鳥から、なんとなくかつての由理の姿を連想する。


「これは……鵺鳥ぬえどり?」


 体をかがめ、小さな鳥のあやかしを見つめる。とても可愛らしい。


「そう。あやかしの鵺鳥は白銀に発光する羽を持っているから、ツキツグミとも呼ばれる」


「鵺の超低級バージョンか。それにしても、こんなところにいるなんて珍しいな」


 馨もまた、興味深そうにそのツキツグミを見ていた。

 由理が窓辺の出っ張りに腰掛け、白い指を伸ばす。

 するとツキツグミは迷わず由理の指にとまり、「ヒョーヒョー」と細い声で鳴く。


「もしかして、お前が相談したい事って、こいつの事か?」


 馨は、放課後に部室で話していた事を思い出し、由理の事情を察した様だった。


「……うん。実は少し困っているんだ。このツキツグミの鳴き声が夜な夜な我が家に響き渡るせいで、少しだけ霊力の強い、僕の妹が眠れなくなっちゃったんだ。今日の社員旅行に、学校を休ませてまで妹が連れて行かれたのは、安眠出来るようにって僕が勧めたから……なんだよね」


「そう言う事だったの……」


 あやかしというものは、どんなにひそかに暮らしていても、何かしら人間に影響を与えてしまう厄介な存在だ。

 悪意が無くとも、妖気が人間に害を及ぼす事がある。

 特にツキツグミの鳴き声は、昔から人々に恐れられ、災いの前兆とまで言われたものだ。

 毎夜、得体の知れない鳴き声が聞こえてくるのは、あやかしの事をほとんど知らない人間からしたら怖いでしょうね。


「あやかしたちが僕を頼ってここへ来てくれるのは嬉しいんだけど、僕はもう人間だ。人間として、大事な家族の生活を守らなきゃならない」


「それはそうだろう。この家はお前の家族のものだ。不法侵入して勝手に暮らしているあやかしたちの方が問題なんだから」


 ギロリと馨ににらまれた低級妖怪たちは、ガクガクと震え出した。

 確かにこれは困った問題だ。

 行き場の無いあやかしたちや、問題を抱えたあやかしたちが、私たち元大妖怪を頼ってやってくる事はままあるが、由理の場合、元々優しくて清らかなあやかしだった分、か弱いあやかしたちに慕われ、愛されがち。

 部屋の余った古い和式の旧旅館に住んでいるというのもあって、あやかしが住み着きやすいのだろう。

 だけど由理はもう人間だ。

 家族が一番大事だと、彼は常々言っていた。


「この子が僕の元へ通い始めたのは、二週間くらい前だったかな。まだ小さいのにこんな都会に迷い込んでしまって……本来は森で生活し、思い切り空を飛んだり鳴いたりして、自然の空気や霊力に触れて過ごすべきなんだけど……ここら辺には、この子が暮らせる場所が無くてね」


「確かに。人に化ける力の無い小動物系あやかしには、浅草は不向きだな。かといって、そいつの羽は一部のマニアに高値で売れるし、森に放してもすぐ捕えられて、売り買いされる可能性もある。そう言う悪徳な商売をしているやからは、あやかしにも人間にもいるからな」


「そう。だから、勝手に森へ連れて行く訳にもいかなくてね。自分で身を守れるようになるまでは……」


 馨も由理も、腕を組んで、眉根を寄せうなった。

 人間の世界でも、貴重な動物の毛皮や角が密猟されたり、動物たちが売り買いされるように、あやかしたちにもそのようなパターンがある。

 例えば、この小さなツキツグミのあやかしの場合、その美しい姿と発光する羽のせいで、あやかしの見える人間たちの間で、高値で売買されるのだった。


「ねえ由理。なら私がしばらく、その子を預かっておくわよ。私には家族が居ないし、あのアパート、ボロ過ぎるのと曰く付きって事で、人間は一人も住んでいないし」


「……またお前はそうやって、あやかしの面倒事を引き受ける」


 馨は、得意げに申し出た私の提案が、少し気に入らない様だ。

 顔に手を当て、やれやれと首を振っている。


「何よ、他に良い手は無いでしょう。私がこの子をきっちり鍛えてあげるわ。一人前になったら、森に返すのよ」


「眠れなくなっても知らないぞ。そいつは夜に鳴きまくるあやかしだ」


「大丈夫。私、どんな雑音の中でも寝られるし……」


「相変わらず繊細さに欠ける女だな」


 言い合っていると由理が毎度のごとく「まあまあ夫婦めおと漫才はやめて」と。「夫婦漫才じゃねえよ!」と馨が文句を言うところまでワンセット。


「でも、やっぱり真紀ちゃんに迷惑はかけられないよ」


「大丈夫よ由理。その子、確かに由理に懐いているみたいだけど、私だってこれでも元大妖怪。ツキツグミを忠実な私の眷属けんぞくにしてみせるわ」


「あれ、なんか趣旨変わってねえ?」


 馨のつっこみは無視して、由理の指にとまっているツキツグミに「こちらへいらっしゃい」と声をかけ、指を差し出す。


「あんたは由理の元から離れなくちゃならないの。大好きな由理に迷惑をかけたくないでしょう? 明日からは私のところへいらっしゃい」


 ツキツグミは由理と私を交互に見つめた後、一度私の指をガジッとんで、窓からスイーと飛び去っていった。


「あいたっ、私の指を噛んでどこかへ行っちゃった!」


「ふふ。あれはスキンシップだよ。真紀ちゃんの事、一応気に入ったみたい。多分明日は、君について行くよ」


 私が噛まれた指を撫でていると、由理はそっと私の手を取った。

 伝わってくる温かい霊力のせいか、すっと痛みが引いてく……


「……ありがとう、真紀ちゃん」


「由理」


 私にお礼を言う由理の笑顔は、相変わらず儚い。

 彼はそうして、視線を月夜の空に向ける。

 端整な横顔は憂いを帯びていて、青白い月明かりの下、それは際立って綺麗なもののように見えた。

 ずっとずっと昔……まだ鵺と呼ばれた大妖怪だった時代も、彼は時々こんな表情をして月の夜を見上げ、世を儚んでいたっけ……


「あ、あいつまた鳴き出しやがった」


 さっきのツキツグミは、庭の木にでもとまったのだろうか。

 馨の言うように、また、どこからか細い鳴き声が聞こえてきた。


 ヒョー……ヒョー……


 平安の時代、この細く不気味な鳴き声を聞くと災いが起きると信じられていた。

 今夜はこの凶鳥ツキツグミの鳴き声を聞きながら、0時をすぎた頃に寝室に入ったのだった。





「やっぱり……この鳴き声不気味ね」


 なかなか寝付けない。

 ふすまで仕切られた隣の部屋で馨と由理が寝ているはずなんだけれど……

 うーん……なんかさっきから、隣の部屋でパチパチ、ごにょごにょ、音がするのよね。

 ツキツグミの鳴き声も相まって、やっぱり気になって眠れない。

 そろっと襖を開けてみると、この宿に住み着いている火の玉の灯りを頼りに、将棋を指している馨と由理の姿が。


「あああっ! 二人でこそこそ遊んでる! パチパチ変な音がすると思ったのよね!」


 スパーンといきなり襖を開けたものだから、馨と由理は将棋を指したり何か考え込んでいるポーズのまま、首だけこちらに向けた。


「やっぱり来てしまったか……」


 馨はこの状況を少し予想していたらしい。

 奴らしい嫌みなため息をついた。


「由理、だから言ったろ。真紀はかぎ付きのシングルルームに閉じ込めるべきだって」


「う、うーん」


「つーか真紀。お前、さも当たり前のように男子の部屋に入ってくるなよな。いったいなぜ俺たちが別の部屋で寝かせられているのか分かっているのか? まあそもそも襖で仕切られただけの部屋なんて、俺たちの安眠を守るには甘すぎたみたいだが」


「何言ってんのよ遊んでたくせに。というか、私たち三人が隣り合って寝てたって、老人の川の字でしかないってあんたいつも言ってたじゃない」


「そういう問題じゃねーよ」


 馨はきっぱりと言いきったが、私はずかずかとこの部屋に踏み入る。


「あんたたちだけ一緒に遊んで、おしゃべりして、なんかずるいわ」


「おしゃべりじゃないよ。今夜は雨が降るらしいって、天気について少し話してただけだよ……将棋で遊びながら」


「あと健康について少し……将棋で遊びながら」


「年頃の男子が夜中にこそこそやってる遊びがそれなんて、あんたたち本当にただの老いぼれじじいね。……まあでも、あんたたちが将棋とか囲碁とか好きだって、私も幼稚園時代から……むしろ前世から知ってるから。続けてどうぞ。……でも襖は開けといてよ」


 こういうと、二人は一度顔を見合わせ、遠慮なく将棋を続けた。

 私は襖を開けっ放しにして、ちょろちょろと飛んできて、じゃれつく火の玉の灯をお供に、ごそごそ自分の布団に戻る。

 あ、そうだ。この火の玉を抱き枕にしよう。きっと温かいわ。

 と言う訳で、側を浮遊していた火の玉を取っ捕まえ、布団に引きずり込んで抱きしめる。

 この様子を見ていたらしい馨が、「火の玉が真紀に補食されたぞ!」とかこっちを指差して言ってたけど、無視無視。

 火の玉を抱き枕にする女子高校生はあまりいないと思うけど、これが結構ふよふよぷにぷにで気持ちいいのよね……

 心地よく思っていた時、しとしとと小雨が降る音と、雨の匂いにハッとする。


「あれ、本当に雨が降り始めたわ」


 私は布団今一度布団から出て、慌てて開けっ放しにしていた外廊下の窓を閉めに行った。

 由理や馨も、そそくさと内廊下側の窓を閉めに行っている。


「……ん?」

 

 外廊下側の窓からは、由理の家の庭が見える。

 驚いた事に、そこにぽつんと佇む白金の狐が居た。

 その毛並みは小雨の中でも、煌煌と輝いている。


「妖狐……? もしかして、由理を頼って来たのかな」


 外廊下で膝をついて、締めようとしていた窓から顔を出し、「あんたどうしたの?」と声をかけてみるも、その狐はスッと音も無く逃げてしまった。

 何だったんだろう……とても綺麗な狐だったし、どこか懐かしい感じもした。

 窓を閉めてしまって部屋に戻る。由理と馨も戻って来た。


「ねえ二人とも、さっき庭に狐が……」


 さっき見た狐の事を伝えようとした、その時だった。

 酷く明るい光が目に飛び込み、ドーンと雷鳴の音が響いて飛び上がる。

 私と馨と由理はぎょっとしたまま、身を寄せ合う。

 というか、さっき私が窓を閉めに行った外廊下側の障子に、目が釘付けとなる。


「…………え?」


 再び雷光によって暗い部屋が照らされ、白い和紙が貼付けられた障子に、パッと映った人影を見たのだ。

 私たちはあんぐりしたまま、言葉も出ない。

 ゴロゴロ鳴る雷が遠くなった頃には、人影はもう見えなくなったけれど……

 しばらく障子から目を逸らす事も出来ず、固まってしまった。


「……見た?」


「え、あ、ああ……」


「ちょっと私、確かめてみる!」


「ちょ、真紀!」


 私は表情を引き締め、勢い良く障子を開けた。

 しかしそこには誰も居らず、左右確かめても暗い外廊下が続いているだけ。

 何だかその奥にある異様なやみに、先ほどは感じなかった怖気おぞけを感じてしまった。

 やけに……足下が冷えている。


「もしかして泥棒とか?」


「でも、ホームセキュリティの会社入ってるんだけどな……うち。そもそも、そういうやからが入ってきたら、ここに住んでいるあやかしたちが教えてくれるだろうし」


 由理も馨も、残り香の様に漂う異様な何かに、ゴクリと息を呑んでいた。

 しとしとと雨の降る丑三うしみつ時……遠くゴロゴロと鳴る雷。

 なおさら、この妙な体験を印象深いものにする。


「ん? あれ……真紀ちゃんそれ持ってきてたの?」


「え?」


 そして、不思議な事は、もう一つ起こっていた。

 由理が最初に気がついたのだが、縁側に立つ私の足下に、民俗学研究部で使っている“部活動日誌”が、表紙を一枚めくった状態で落ちていたのだ。



『なぜ我々あやかしは人間に退治されなければならなかったのか』



 見開きに堂々と書かれた、私たちの永遠のテーマ。

 ずっとずっと考え続けて、それでも答えの出ない、もやもやした文句や不満、未練、嫌み、そんなものが詰め込まれた私たちの活動の記録……

 私はゆっくりと、目を見開く。


「え……な、なんで!? 私、ちゃんとこれを机の引き出しに仕舞ったわよ」


 混乱したまま拾い上げ、何となく、その日誌を胸にぎゅっと抱きしめた。

 まだ胸がバクバクしている。どういう事なの……


「真紀、お前、間違って持って帰ったとか……」


「いや、この感じだとそれは無いっぽいよね。真紀ちゃん固まっちゃってるし」


 馨も由理も随分と驚いている。

 そりゃそうだ。二人とも私が机に仕舞うのを、ちゃんと見ていたもの。

 ならば、いったい誰がここまで持ってきて、縁側に置いたと言うのだろうか。

 あの人影……?

 私たち三人は不可解と言う顔をして、それぞれ視線を交わし合った。

 やっぱり何かこの家に居る……いや、居たんだろうか……

 その後、他の部屋を見回ったんだけど、住み着いている低級あやかしたちにこの件を尋ねてみても、不審な者や不審なあやかしを見たと言う情報は一つも無かった。




 得体の知れない状況に、何とも言えない恐れを抱き、私は結局、今夜に限っては馨と同じ部屋で眠る事になった。

 由理がそうした方がいいと言ってくれたのだった。

 由理だけはちゃっかり自分の部屋に戻っちゃった訳だけど。


「おい真紀……お前の刺激的な霊力が体に刺さりそうだ。チクチク痛い……」


「私は今、毛を逆立てた猫と同じ状態だから」


 布団に入ったまま、私は警戒モード。この私がこんなにピリピリと警戒してしまう程、さっきのあれは、足下の冷える感覚だった。

 結局、何だったのかはわからなかったけれど……


「ねえ馨」


「はい、寝た。俺は寝たから喋りかけんなよな」


 話しかけた途端にこのツンツンした態度だ。

 流石は馨。こっちに背中を向けてるっぽいし。

 まあ、でもまだ起きていると言う事ね。


「さっきのあれ、この悪寒具合から、悪霊か何かだと思うんだけど……ねえ馨」


「未練を残して死んだ魂は霊になる。人間やあやかしに限らずな。それに、強い未練や恨みは悪霊を生む。……今までもこの手の輩は見て来ただろ」


 左側の布団から飛んでくる淡々とした馨の正論に、「そりゃそうだけど……」と鈍い返事をする。

 私は布団から顔を半分だけ出し、警戒心はそのまま、物思いに耽る。

 暗い部屋の中で、思い出されるのは、前世のまだ弱々しいお姫様だった頃の事。

 鬼見の才があったせいで、霊に体を乗っ取られかけた経験が数えきれないほどある。

 だから、今でも霊は少し苦手なのだった。


「真紀……?」


 私が大人しくなったのが、馨には少し気がかりだったのだろうか。

 彼は天井を見上げる体勢になって、一度だけこちらに顔を向け、ボソッと私に声をかけた。


「……似合ってたよ」


「ん? 何の話?」


「今日の浴衣姿……昔のお前……みたいだったな」


「………え?」


 いきなりだったので私は間抜けな声を出し、ただただぽかんと口を開けてフリーズ。

 だけどすぐに正気を取り戻し、布団から腕を伸ばして、強く馨の体を揺さぶった。


「え、何? もう一回! もう一回言って!」


「いきなり元気になりやがって。あーもー絶対言わない。死んでも言わない……つーかお前のその馬鹿力で人を揺さぶんな! 死ぬ」


 馨ときたらまた恥ずかしがって……

 私はいそいそと自分の布団の一番端っこまで行って、馨に「手を出して」とお願いしてみる。すると馨は、もう要らないものだから好きにしろとでも言う様に、投げやりな感じで右手を布団から出した。

 私はそんな彼の手を、ぎゅっと握る。


「熱い……お前の手って、いつも熱いよな」


「私は体温が高いの。きっと代謝が良いのね。馨の手は相変わらず冷たいわ……」


 しばらく無言で、馨の手を握っていた。

 馨の大きな骨張った手が、強く私の手を握り返す事は無いけれど、触れているだけで落ち着く。

 雨は少しの間だけ降って、また上がってしまったらしい。

 真夜中の、通りすぎていっただけの雷雨だった。

 空が晴れたのか、明るい月明かりが差し込み、障子の格子の影が、白い布団に映り込んでいる。

 そしてふと、私は、何かの話の続きのような事を呟いた。


「ねえ……馨」


「…………」


「なぜ、私たちは幽霊にはならずに……こんな時代に生まれ変わったのかしらね」


 その言葉に、馨は何も答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 その代わり、さっきまで適当に繋いでいた手を、ほんの少しだけぎゅっと握り返してくれた。

 枕元に置いている、私たちの前世の事が記されている日誌……

 あの平安の時代、確かな未練と無念だけを抱いて死んだけれど、私たちは幽霊……怨霊おんりょう、悪霊のたぐいにはならなかった。

 その手の存在に成り果てていてもおかしくはなかったのに……

 私たちは今、確かに人として転生を果たし、“現代”を生きている。

 

 ヒョー……ヒョー……


 部屋が静かになると、途端に耳につくツキツグミの鳴き声。

 何だか分からない事ばかりで疲れてしまった。

 こういうのは考えていても仕方が無い。それに眠い。

 馨が側に居るのだから、怖いものなんて何も無いわよね。


 明日は休日。ゆっくりと寝て、思い切り寝坊しよう。


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