その五

 私が誰からだろうかと、碁会所の一番奥端に行って話すためにチェアから腰を浮かせながら、ポケットから携帯を取り出し、その着信番号を見ると――私の体と頭の内部が熱を持っていくのがわかった。生み出された体熱が徐々にこもっていき、全身を鬱屈した熱さが満たす。

 何年も付き合い、見て、かけたおかげで、今はもうその数列を見るだけで条件反射的に、相手の顔から、触れた感触、匂いまでもが思い出される――玲子の携帯番号だった。明と付き合うようになってから、メアドも電話番号も変え、一切連絡を絶ったつもりなのだが、どうしてこちらの電話番号を知ることが出来たのだろう。一瞬考えたが、すぐに、まだ地元や大学のなじみとある程度関わりを持っていたら知るのはそんなに難しくないだろうと思い直した。二人の事で私の味方をしてくれた親しい友人知人だけに教えたつもりだが、秘密事はどこからかすぐに広まっていく。それより、今の状況をどうしようかと思った。

 ブブブブ、ブブブブ、と携帯のバイブの振動が鳴り続ける。手の皮膚と筋肉、骨と神経に伝わるその一振動ごとに、かつて彼女と携帯で連絡を取り合った日々の事が思い出された。振動が内部の熱をかき回して拡散させるとともに、またそれが記憶を刺激して新たな熱を生み出す。

 私はしばらくそうして、振動する携帯を手に持って見つめたまま茫然としていたが、はっと、碁盤を前にした席から立ち尽くしたままだったのに気付いた。幸い、向かいの多治見さんはまた体を投げ出して休む体勢だし、碁会所の広まった奥の一角にいるのは私達だけで、他の皆は入り口からの狭く細長いスペースで対局か観戦に集中している。出るか出ないか迷ってそうしていたわけでない。あまりのことに、そのまま頭と体の行動が停止していたのだった。起こっていたのはただ、過去の感情の追憶と、そこから生じた体調の乱れだけだった。意志ではどうしようもない奥深くから来る作用で徐々に動悸の乱れ、発汗が強まっていく。

 そうした段階を通過し、今度こそ頭の働きが復活し、出るかどうしようか迷っていると――振動は鳴りやんだ。私はぼーっとして、恐る恐る着信履歴を見る。やはり今しがた入った彼女からの電話番号が履歴の一番上に残っていた。当たり前だが、受信時刻はほんの1分前だ。だが、その当たり前のことが改めて今しがたの出来事を現実感あるものとして、見る私の頭の中に入り込ませる働きをしていた。奇妙なことに、単なる記録として残されたその日付と時刻、電話番号の数列を見ているとかえって落ち着き、徐々に頭が冷え、体調も取り戻してくるのがわかった

 私は迷った、が何はともあれ、彼女に関することを碁会所の中で話すわけにはいかない。私は席から離れると、真っ直ぐ入口エレベーターに向かった。

 再び腕を組んで伊藤君と山本さんの対局を見守っていた席亭が声をかけてきた。

「おや、高橋君お出かけ?」

「ええ、ちょっと」

 私は知らず素っ気なく答えると、ボタンを押してエレベーターの到着を待った。この雑居ビルでは他にもいくつかテナント店舗が入っているが、それほど多くの人が利用することはないので、いつも待たされずにすぐ来る。エレベーターの前に来る途中、伊藤君と山本さんの対局をちらと見るともうヨセ(※戦いが終わり、最後の双方の地の細かな確定作業)もかなり煮詰まっている所だった。もうすぐ終わるだろう。伊藤君が小さく細い体を乗り出してピシッと打ち付けると、それに対して山本さんが腕を組み、身を乗り出して前後にゆらゆらとさせながら考え込む。いつもなら形勢に興味があるところだったが、今はどうでもよかった。エレベーターの到着を待って乗り込む。


 エレベーターを降りて出ると、繁華街の雑踏だ。行き交う人々と、そのガヤガヤザワザワいう音がいつも以上に意識された。私はエレベーター横の、普段ほとんど使われることのない非常階段の暗がりに入り、2階までの中間地点の踊り場に上り、今の着信履歴への返信ボタンを押す。九月の上旬でまだまだ暑かったが、中はひんやりとして、喧騒も不思議と遠ざかる。埃っぽい臭いが鼻を打った。

 すぐに相手は出た。が、無言だ。

 私も無言で返した。今さら言うべきことなどあるはずもない。しかし、電話越しでも相手のみのまとっている空気や感情の質感はわかる。不思議なものだ。単に電気信号を電波に変換してまたそれを音声情報に処理しているだけというのに。かすかに聞こえてくる息遣いから、私は長年付き合った彼女の今の感情、置かれている状況が全て理解された。久しぶりに耳元に当てて聞く彼女の呼吸は私に全てを思い出させ、感情を一気に乱した。しばしば送られてきた友人たちからのメールで彼女の話題を見るのとはやはり全然別物だ。私の息も荒くなってくるのを感じた。

 やがて、喉の奥から無理に吐き出すような声でぽつりと相手は言った。

「振られた」

 言葉を発すると、相手は一気に息遣いが荒くなった。最初に吐き出したからだろう。

「あいつ――明の奴、大学の後輩の女の子と付き合ってた――一年の子――。私がそれに気づいて――怒ったら――わか、別れよって――」

 段々かすれるような鼻声と、涙と鼻水をすするので途切れる、乱れた息遣いが目立ってきた。私は彼女の言葉を聞いても、なおも黙りこくっていた。

「私――後悔してる――。豊が構ってくれないからって――おかしなことしちゃったけど――やっぱり――ごめん――。ごめん――。また、会えないかな――。豊のとこでもどこでも行くから――」

 グスッグスッと涙と鼻をすする。その崩れた表情と化粧がぐちゃぐちゃに乱れているのが見えるようだった。しかし、私はなおも黙っていた。相手が問いかけてくる。

「――ねえ――、豊だよね――? 綾から新しい電話聞いたの――。会えないかな――? やりなおせない――」

 私はぷつっと電話を切った。即座に電源をオフにする。私の感情は乱れていたが、妙に頭の方は冴えていた。今さらやり直すことはできないし、言葉をかける気もしない。頭の方がもう関わるなと告げていた。私に取った態度は許せないものであったし、今になって戻ろうなど都合が良すぎる。私の肩を持ってくれた友人たちのためにも、再び付き合うなど考えられない事だった。だが、五年も付き合った相手だ。改めて気持ちを向けられることで、何も感じずにいることは不可能だった。私の心は乱れたまま、再びエレベーターに戻った。


 上に戻ると、さっそく席亭が出迎えてきた。

「あ、高橋君、もう用事終ったの? よかったら岡田さんの相手してくれないかな。今度の職域出るなら下手したての相手に当たる可能性もあるわけだし、いい練習になると思うんだ」

 いつものにこやかな調子で、私の先ほどからの動揺には気付いていない様子だ。席亭の明るい顔を見ていると、私の心も晴々してくるようだった。

 伊藤君と山本さんの対局も終わっており、二人で検討を加えている。

「ここはこうなんちゃうか?」

「こうやったら――」

「こうや――」

 二人で石を置き直している。口調の様子から察するに山本さんが勝ったようだ。いつの間にか多治見さんが先ほど休んでいた席からこちらに来、顎に手をやりながら二人の検討を見守っている。

「いや、ここはケイマに外すのが筋ですよ」

手を出しながら時々口を出した。

 私は二人の対局に並んだすぐ横の席の奥についた、眼鏡をかけた70過ぎたお婆さんの方を見た。彼女が岡田さんで、全身皮膚がしわくちゃで、やせ細っているのだが、その骨と皮ばかりの体は残った硬い筋がそのまま形を維持しているようで、妙に姿勢がいい。化粧はやや濃いが、花柄をした上下揃いの西洋の貴婦人風のフリルのついた服を着ており、上品な見た目の感じを与えていた。

 彼女は私が軽くうなずいて席の方に向かうと、はしゃいだような笑顔を浮かべて席亭の方を見た。

「いや、私高橋君の相手すんの~? そんなんかなわへんわ~。もうちょっと優しい人と当ててよ~」

「まあまあ、もうすぐ対抗戦ですから、お互い練習になりますよ。岡田さんの三子さんしで」

 にこにこしながら言う。

「いや、三子さんし置いてもかなわへんと思うわ~」そう言いながらも、ちょんちょんと慣れた手つきで、こちらから見て左下、右上、左上の順序で隅の各星に石を置いていく。こちらに身を乗り出してきた。「確か高橋君、ここ来た時おばちゃんと同じ8級ちゃうかった? ほんまあっという間に置いていかれて。若い人はほんますぐ強くなるわあ~」

「ええやん岡田さん。若い子と打ててうれしいやろ?」

「そりゃそやけど~」

すぐ横で多治見さんが口を出すと、笑いながら返した。

 私はふと笑った。昔からの親友だった明が玲子に手を出して、また他の女ととっかえひっかえして遊んでいるのに、私が今から打とうとしている碁の相手はこんなお婆さんだ。恐らく彼なら馬鹿にするところだろう。しかし、私にとっては向かいの彼女もまた、かけがえのない囲碁仲間であり、そういってよければ年の離れた友人だった。

「それじゃ、お願いします」

 腰を浮かせて、スカートの裾を整えながらこちらをお辞儀して岡田さんが言う。さっそく集中した目付きになった。

「お願いします」

 私もお辞儀を返し、碁笥ごけの蓋を開け、白石をつまむと、ピシッと小目こもくに打ちつけた。岡田さんは間髪入れず、左手で袖を整えながら、高く一間いっけんにかかってきた。

 私は考え始めた。小目こもくから受けるのはぬるいとして、挟むか、かかり返すか。挟むとして高いか低いか、高いとして一間いっけん二間にけんか――。かかり返すとしたらどの位置にどの方向から――。確か置き碁では黒に模様を作らせてはいけないと教わった――。

 さっそく多治見さんと、さっきまですぐ隣の対局を見ていて、私に席を譲ったお爺さんが私たちの対局の観戦を始め、伊藤君と山本さんはなおもああでもないこうでもないと検討と議論を繰り返している。


 忘憂――私が考え出すと、徐々に玲の事も明の事も意識から抜け落ちてゆき、集中に入り込むのみで、点と線の交錯する上に白と黒のビジョンが浮かぶ、ただ純粋な世界に私の意識は遊んでいった。

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忘憂――碁会所にて 猫大好き @nekodaisukimyaw

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