その四

 ――それからも、他の友人たちからも明と玲の事についてメールがしばしば届いて来、私の心はいちいちかき乱された。明は就職活動をどう考えているのか知らないが、かなり遊んでいるように周りの目に映っていたようだし、玲の方は結局会社への就職口が決まらず、フリーターとして日々を過ごしているようだった。そして、そんな二人が連れ立って歩いているのを、地元に残ったり、たまに帰省した友人が見かけて私に報告してくるのだが、正直煩わしかった。もう二人の事はなかったものとして過ごしたかったのだが、皆、私のそういう気持ちが察することが出来なくても、私に対する善意で二人に対する非難の意味のメールを送ってくるので、無下に、もうそういうことを送ってくるなと言うことも出来なかった。結局そうした内容に対しては返事を返さず放置することにしたのだが、そうすると徐々に二人の事に関する連絡が来なくなってきた。それでも、やはりごくたまに二人に関するメールが届いて来ると、そのメールが届いた、仕事のある平日の週中鬱々として過ごし、休日にこの碁会所に来ることでその気分を紛らわせた。

 しかしそういったことを繰り返すうちに徐々に慣れるもので、今は仕事帰り、一人で過ごすアパートの部屋で二人に関するメールを見ても何とも思わなくなってきた。今居心地のいい碁会所という場所を得たからには、二人のことなどどうにでもなれという感じだった。私はそういうメールが届くたび、ふっと笑ってゴミ箱に入れて削除するのだ。



 話し終った多治見さんは、休む意味なのか、肘掛けに前腕を乗せて、チェアの背もたれに大きく寄りかかって体を預けると、その全身をだらんとさせた。脚は開き、天を仰いだ顔の目は閉じられている。熟睡しているようなだらしない恰好なのだが、大きな体つきから妙な存在感を与える。まるで熊に見えないこともなかった。私の知る多治見さん自身の碁の強さと、豪快な性格が見た目だけではない、そういった印象を多く強めていた。

 私は多治見さんがそんな風に休んで黙ってしまったので、なおも、先ほどの対局を覚えている限りぽつぽつと並べ直して、時々一人で黒石と白石をあちこちいじっては、納得いくような形に置き直し、合間にちらちらと、さっきから続いている、カウンターそばでの伊藤君と山本さんの対局二人の様子を遠くから眺めやっていた。

 私がそうしていると、腕を組んでその二人の対局を眺めていた席亭が見るのをやめ、こちらに近づいてきた。近づき、私と目が合うと、

「高橋君はほんとに碁が好きのようですね」

ちらと、私が一人で並べていた碁盤の方に目をやり、微笑みながら言う。背が180センチ以上はある背の高い人で恰幅がいい。四角い顔に豊かな白い髪と口髭を生やして、いつも柔和な表情をしており、実際穏やかな性格のため、体つきから来る威圧感を全く感じさせない人だった。むしろ、頼りになる父性のような好もしさがあり、この碁会所全ての人に好かれている存在だった。

「え、まあ」

 私はいきなり話しかけられて、石を並べる手を止めて、席亭の方を上目遣いに見上げながら言った。

「高橋君は酒は飲みますか?」

 なおも笑顔で、手酌の形をきゅっと口元で動かしながら言う。

「ええと、飲み会とか友人と飲みに行ったりはしますが、自分一人ではあまり飲まないですね――」

 私はよくわからなかったがとりあえず答えてみた。もう、手に石を持つのをやめ、はっきり座り直して相手を見上げる。

「そう。高橋君は忘憂って言葉を知ってる?」

「ぼうゆう?」

 私は聞き返した。

「憂いを忘れるって事。昔から中国では囲碁と酒が浮世の憂さを忘れるものとして愛されていてね。実際碁を打つと夢中で時間が立つのを忘れ、嫌なことも頭から飛んで行ってしまうでしょう。三国志の曹操なんかも酒と囲碁を愛したんだよ。もっとも、彼は詩も愛していたけどね」

 寝たふりをしていた多治見さんが身を起こし、肘掛けに腕を乗せたまますぐ横の席亭の方に体を捻って曲げ、見上げて言う。

「ま~た席亭の囲碁の人生論が始まりましたな」

 変にかすれさせて作った茶化すような声だった。席亭の方はそんな多治見さんの方を優しく微笑みながら見下ろす。私の方に顔を戻してまた続けた。

「直木三十五は知ってる?」

「えと、直木賞の――」

「そう、大正から昭和初期に活躍した作家ね。彼はこう言ってるの。

『碁打ちは羨ましい。碁は時々、こんな時間潰しの悪遊戯があらうかと思ふ事もあるが、大抵の時には不思議なる魅力である。無価値と言へば絶対無価値、価値と言へば絶対価値である』(※私小説【私】より)

ってね。

 たかが遊びではあるけれど、観念に捉われない分、世俗の事から離れて純粋に集中して取り組むことが出来る。碁を覚えて打てたからといって世間じゃ何の役にも立たないけど、それがいいんじゃないかな」

 微笑みながらこちらを見下ろす相手に見透かされたようであったが、確かにそうだと私は思った。もし子供の頃母親に囲碁教室に通わされておらず、碁を覚えてなければ、この居場所も、ここの人たちとの出会いも無く、今もひょっとすると部屋に一人でこもるか、ここを偶然見かけて入ったあの日のように、先の気持ちのあてども無く、街を歩くだけの日々だったかもしれない。小学生の時は仕方なくやらされるままだった囲碁が、今こうして私を救うことになっているとは本当に不思議なものだった。

 私が席亭の方をぼんやりと見上げながら考えていると、

「来月の第二日曜、職域の団体対抗戦があるんですがね。高橋君も出ませんか」

優しく問いかけられた。それを受けて多治見さんが半分腰を浮かせて、私の方に大きく身を乗り出して言う。

「そうそう、碁会所ごとの対抗戦ね。出なさいよ。さっき言った林君の出てた子供囲碁教室も参加しますよ。まあ彼はもう出るかわからないけどね。碁会所ごとに10数人のチームで出て、個人の勝ち負けの数で互いのチームの星を付けるの。ずらっと机に碁盤が並んでね。なかなか壮観で楽しいよ。他の碁会所の人達とも触れ合えていい交流と刺激になるし。お弁当も出るしね。大体朝9時から始まって、間に昼休憩を挟んで4試合するんだけど、何しろ朝から一日遊んで弁当も食べれて2000円の参加費なんて安いもんですわ。パチンコ行くなんかよりよほどいい」

 大きく笑い、同意を求めるように脇の席亭の方を見上げた。席亭もそんな多治見さんの方ににっこり笑ってうなずき返す。

 私は面白いかと思った。何せまだ再開したばかりで、この碁会所以外知らないが、多治見さんの言う通り、他の碁会所の人たちを知るのはいい刺激になるだろうと思った。話通りなら数十人、ひょっとすると百人近く集まるかもしれず、自分と同年代や同じ強さの人にも会えるかもしれない。子供教室の子達というのも、昔の自分を思い出して楽しめるかもしれない。私はしばらく思いをはせた後、うなずいた。どっちみち休みの日はいつもこの碁会所に来ているのだ。急な仕事が入らない限り普通に参加できて問題ないだろう。

 私の反応に、席亭もうなずくと、また元の場所に戻って行った。盤面は当然見えないが、伊藤君と山本さん二人の対局はもうそろそろ終わりそうな気配だった。あの二人も団体戦に出るのだろうか。

 私がそろそろやることもなくなったので、盤上の石をジャラリと崩して片付け始めると、ポケットに入れた携帯の着信を告げるマナーモードの振動が起こり出した。

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