その三

 ――月曜の仕事帰り、アパートに戻った私は友人から届いていたメールをチェックした。

『玲の奴また明と歩いているの見かけたぞ』

 私はそれを見るとカッとした。胸から熱が発し、顔が紅潮していくのが自分でもわかった。動悸が激しくなり、携帯を持つ手が震えてくる。

 玲は高校時代から付き合っていた私の彼女だった。同じ大学にも入り、ずっとうまくやっていたのだが、私が三年生の時から就職活動で忙しくなり、あまり彼女に構えなくなると、彼女は寂しさを紛らわすために、私の小学生の頃からの親友の明にちょっかいを出し始めたのだ。明は一年浪人して私達とは違う大学に入って、一年余裕があったし、玲の方はアルバイトに夢中で、就職活動をまともに考えていないようだった。適度に時間と気力を持て余した二人はやがて、いつの間にか付き合うようになっていた。

 それ以前から、それまで頻繁に来ていた玲からのメールの回数が減り、私から送るメールの返事も返ってこないことが多くなっていた。あまり相手できなかった私も悪いのだが、二人が付き合っているらしいという話を友人たちから聞いた時は茫然自失した。二人で泊まりの温泉旅行に行ったと聞いた時は憤怒で全身が震えるほどだった。私がせっせと将来の準備をしている時に、気楽な二人がそのような生活を謳歌していることにやりきれなさを感じた。私が一生懸命就職活動をしているのは玲のためでもあるのに。

 当然、昔からの私と明、玲の共通の友人知人は皆二人を非難し、関係を断ったようだが、明と玲はお構いなしに楽しく付き合って過ごしているようだった。

 私がこちらに来てから虚無感を感じていたのはこのこともあっただろう。もしまだ玲と付き合っていたなら、遠距離恋愛になるが、電話やメールでやり取りすることが出来たし、遠いながら時々あちらからも会いに来てくれたに違いない。かといって、二人の事が尾を引いて、こちらで新しい彼女を作る気にもなれなかった。

 メールを送ってきた友人は気のいい相手で、二人の事に関しても私を強く味方してくれ、そのメールも私の傷をほじくり返すというよりは、あくまで二人を非難する内容だったのだが、それにしてもやっと会社の他に碁会所に居場所を見つけ、内面の空虚が埋められつつあるのに、今更どうしてそんなことを言ってくるのか。もう二人の事は過去として忘れようとしているのに。



 カウンターの方で四人が談笑していると、エレベーターのチーンという音が鳴り、続いてガガガッとドアが開く音がした。

「あら伊藤君!」

 真っ先に高い声を出したのは70過ぎのお婆さんだった。

「おや、伊藤君いらっしゃい」

「おー、伊藤君、元気か?」

「こんにちは、伊藤君」

 次々に声が掛けられると、それに対して「こんにちは」と子供の高い声が返される。

「打ちに来たの? 多治見さん、相手してやってよ」

「いやー、マスター。さっき高橋君と二局打ったばかりでへとへとですわ。山本さんに相手してもらったら? 山本さーん!」

 多治見さんが振り返ると、エレベーターの入り口から左に伸びた碁会所の奥に向けて呼びかけた。この碁会所があるテナント室は長方形をしているが、トイレと給湯所が入り口手前側の一角を並んで占めて、皆が普段碁を打つために使用しているスペースはちょうど‘コ’の字型に、真ん中部分が細くくびれている。その狭くなった部分と、再びテナント室の幅一杯まで広まった、碁会所奥側の広さが変わる節の地点の席で、何も並べられていない碁盤を前に、脚を組みながら棋院の出している囲碁新聞を読んでいる、頭が完全に禿げあがって、ひょろりと細長く、皮膚が少し浅黒い70代絡みの男性に多治見さんは呼びかけていた。頭が禿げている上、痩せているためその分頭の骨格が浮かび上がって見え、碁を打つ時や、今のように集中して本を読むときなど口をへの字にして目をぎょろ付かせるため、ややきつい印象を与える人だったが、実際は、そこまで派手にはしゃぐ人ではないものの、それなりに明るく楽しい人だった。私がさっきまで多治見さんと打ち、今先ほどの対局の検討をしているのは碁会所奥の広まった場所の、カウンターから見て右手寄りで、席がそちらの方を向いており、張り出したトイレと給湯所のスペースに視界を遮られないため、ちょうど長方形の碁会所全体を見渡すことが出来る位置にいた。

 山本さんは多治見さんの声を聞いて、空いた碁盤の上に新聞を置いて、どっこらしょとチェアの肘掛けに両手をついて立ち上がると、今来たばかりの背が低く小柄でひょろひょろしており、目立つ黒縁の眼鏡をかけた小学生男の子の方に向けて歩いて行った。

「おう、じゃ、打とか」

 山本さんが言うと、小学生の男の子は硬くなっているというのではないが、作った真面目な顔で、

「お願いします」

と礼儀正しく言い、ぴょこんと頭を下げた。

 二人はカウンターすぐそばの空いた席に向かい合って座り、

「ニギリ(※互先たがいせん。最後の整地の際に後手で不利な白が余分に地のポイントをもらえるコミありで、どちらが黒白を持つか、目上、年上の人が白石を一つまみ握り、相手が一つ(奇数)ないし二つ(偶数)の黒石を置くことで決める。奇数か偶数で、黒を出した方が当たればその相手が黒を持ち、外れれば白を持つ。ハンデ無しの手合い)でいいな?」

と、山本さんが席に腰を下ろしながら言って、座り込むなりジャラリと白石を握る。それに対して小学生の男の子が黒石を示し、結果を見た二人はいったん石を碁笥ごけに戻し、蓋をした上で交換し合い、お互い「お願いします」と軽く頭を下げ合って、改めて対局が始まった。

 ちょうど話し合っていた四人がぞろぞろと周りに集まってその勝負の観戦を始めた。お婆さんと、もう一人の老人の方は勝負の二人の隣り合った席に座って観戦する。席亭は立ったまま腕を組んでじっと見つめている。

 多治見さんは顎に手をやってしばらくじーっと眺めていたが、パシッ、パシッと二人の打ち付けられる石音を尻目に、こちらの方に向かって戻ってきた。

 再び私の向かいの席に腰を下ろす。

「あの子確か五段でしたよね?」

 私が向かいに座った多治見さんに訊いてみる。今まで3か月ほど通い続けて、何度か見かけた顔だ。

「ん? ああ、あの子は強いよ――」

 多治見さんが肘掛けに両手をついて、半分腰を浮かすようにして改めて二人のいる場所を振り返って言う。

「すごいですね、小学五年生で五段なんて。何か前プロ目指してるって聞きましたけど」

 ちょうど私が遊びにかまけて囲碁教室をやめたぐらいの年齢だ。熱心度が違うにしても、7級と五段では全然違う。第一、私が通っていた場所では同年代の子はせいぜい二段が最高だった。素直に小学生の彼に対する感心を表に出して私がなおも続けると、多治見さんはこちらを振り向いて、私の顔を見つめると、寂しそうに笑った。

「うーん。まあ、ね――」

 含むところのある言い方だ。それきり黙り込んでしまった。私はよくわからないので、とりあえず遠目に、碁盤は見えないながら、二人の対局の様子を眺めていたが、やがて、多治見さんが身を乗り出して、少し声を低くしているが、潜めてというほどではない、場合によっては周りや向こうの相手に聞こえても構わないというようなしゃべり方で口を開いた。

「――プロ目指すっていうけどね――。あの子には無理だよ」

 口の端を曲げて、軽く皮肉な笑みを浮かべて言う。目も笑ってはいるが、どこか奥に一抹の寂しさを感じさせ、別に相手のことを馬鹿にしたり貶めたりしたいのではない、素直に思ったままを話しているという感じだった。

「あの年齢で僕相手にせん(※黒を持って先に打つこと。コミ無し。囲碁における最小のハンデ)で勝ったり負けたりするようじゃね。ほんとにプロ目指すってんなら僕に二子にし置かせて軽く勝ち越すくらいでなきゃあ。僕もこんな碁会所で六段だって威張ってるけど、県代表クラスの人達とも何度か打ったけどありゃまるで次元が違うからね。全然かなわないよ。小さいうちからあれくらいの強さに近づいてなきゃあ。

 林君は知ってる?」

 いきなり話を振られた。知らなかった。

「――そう。今年の少年少女囲碁大会のうちの県の代表でね。あの子と同じ小学五年生だけど、そりゃすごいよ。――と、いっても直接打ったことはないけどね。2年前職域の団体戦で子供教室から出てるの見たの。その時ちょうど5級くらいでね。今の君と同じくらい。それだけどすごい早打ちでね。それにちょっと無理するけど打ち方にセンスがあるの。僕はその時周りに、『この子は絶対強くなる』って言ったんだけどね、実際そうなっちゃった」

 背を伸ばして座り直し、ニヤッと笑う。過去の自分の眼力が証明されて得意がっているようだった。話を続ける。

「――でね、やっぱりプロになるくらいにはやっぱり才能が必要だと思うの。あの子――林君の事ね――はぴしぴし早打ちするし、着手も自信たっぷりでね、ほんとに強くなりそうなオーラが漂っていた。伊藤君にはそれがない――」

 再び、上体を大きく無理に捻って対局の二人の方を眺めやった。

「いちいち一手ごとに考えるしね。それにどこか対局に真面目すぎるというか、真面目なのはいいんだけど、ちょっと気負い過ぎというか鬱屈したものがあるよね。そりゃ思春期の中学、高校でその時点で院生になって本格的にプロ目指してるってんならいいけど、小学生のうちからあんなんじゃダメだよ。もっとこう、余裕がないとね」

 また身を乗り出して私の方を見つめる目はどこか寂しげな笑いだった。私は話を聞いたが、そんなものかと思うしかなかった。いずれにせよ、五段の強さなんて私には雲の上の世界だ。実際、多治見さんや、今打っている山本さん相手にも普通に勝っているのを何度か見かけている。私はまだ浅いので碁の世界の事はよくわからないが、多治見さんがそこまで言うのならそうかもしれないと思う半面、どこか腑に落ちない面もあった。

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