第8話 *8* 6月18日火曜日、夜
唇に伝わる柔らかな感触がくすぐったくて、紅はうっすら目を開ける。意識はぼんやりしていたが、視界も薄暗くてはっきりしない。だが、何かが動いているらしいことは光の加減からわかる。
――人……?
焦点がようやく合って、意識は急激にすっきりとした。それで状況を把握する。
――あたしは
「あぅっ!?」
「――気付いたか」
「気付いたか、じゃないわよっ!! この変態っ!!」
紅は全力で抜折羅の頬をひっぱたいた。ばちんっと景気の良い音が部屋に響き渡る。
「人が気絶している間に何してくれるのよっ!? あ、あたしのファーストキスをっ!!」
上体を起こすと、右肩を何かが滑る感触がした。手元に目を向けるとスタールビーが落ちている。
「ご、誤解だ――力の暴走を落ち着けるのに必要な処置だったんだ。許せ」
「適当なことを言って煙に巻こうって
右手にスタールビーを握り締め、紅は
「待て、本当のことなんだ。にわかに信じられるようなものじゃないだろうが、嘘はついていない」
赤く腫れた左頬をさすりながら、抜折羅は弁解してきた。そんな抜折羅を紅はきっと
「つーか、俺にばかり損な役回りを押し付けてくれるな、ホープっ!! フレイムブラッドも黙っていないで説明してやれっ! 俺は彼女に一カラットも信用されちゃいねぇんだよっ!」
抜折羅の訴えは見えない誰かに向けられたものらしく、日本語のはずだが紅には言っている意味がわからなかった。
『――面倒な奴だ。私は日本語が不慣れなのだ。説明なら抜折羅がすればよかろう』
「ん?」
どこからともなく聞こえてくるか細い声。日本語のイントネーションが少し違和感がある喋り方は抜折羅の話し方とは異なる。
ここには抜折羅と紅しかいないはずだ。辺りを見回すが、見事な水晶の固まりが一方の壁を覆う棚に並べられている他はとりわけ特徴のない、広々とした部屋だ。隠れられるような場所はブラインドの掛けられた窓際に置かれた机の下くらいだが、残念ながらそこは空っぽだった。
『娘、貴様は抜折羅に命を救われたのだ。感謝することはあれど、激怒するとは嘆かわしい。礼儀知らずにもほどがあるぞ』
「な、なんなの? 横柄なことを言うくせに姿を隠しちゃってっ!!」
『見えないのか? だがそれは仕方がない。今の私は抜折羅の右肩に埋まっている一カラットに満たない青いダイヤモンドなものでな。――名はホープ。スミソニアン博物館に展示されているものが一番有名だが、娘、知っているか?』
試されている――威圧感を覚えたからか、紅はホープと名乗った声の台詞をそのように解釈した。ゴクリと唾を飲み込み、慎重に言葉を選んで答える。
「持ち主を次々と不幸に遭わせたという呪われた青いダイヤモンドのことよね? 前にテレビで見たわ」
父がジュエリーデザイナーをしていることも影響しているのか、紅の家では宝石に関した番組や美術作品の特集番組を好んで見る傾向があった。昔見た番組の中に、そんな都市伝説じみた曰く付きのダイヤモンドの話があったのを紅は記憶していたのだ。
『ならば話は早い。私はスミソニアン博物館のホープの欠片だ。正確には、あやつとは〝フランスの青〟と呼ばれていた頃に切り離されたから、ホープの名は便宜的に使っているにすぎないのだがな』
「そんなあなたが、抜折羅にくっついているのはどんな趣向なのかしら?」
この面倒な状況や一連の厄介ごとが抜折羅に会ったことで悪化した気がして、紅はホープに訊ねる。結果的に抜折羅に助けられているのだが、それはそれだ。
『私は自分の身体の全てを取り戻したいのだ。そして、今度こそ、この不幸な連鎖を終わりにする』
「今度こそ?」
補足を求めて、紅は抜折羅に視線を向けた。抜折羅はやれやれとばかりに肩を竦めた。
「スミソニアン博物館に寄贈される前に所有していたハリー・ウィストンは大宝石商として有名だったが、ダイヤモンドのコレクターとしても知られている。彼はホープに呪われることがなかった。その理由がホープの願いを聞き入れていたからだ。ウィストン氏はホープの願いを叶えるため、ダイヤモンドの噂を聞いては足を運び、買い集めた。ホープダイヤモンドを博覧会に出していたのも、情報収集のためだったらしい。――俺は彼が集め損ねた青いダイヤモンドの欠片を回収するためにここに来たんだ」
「えっと……話がぶっ飛びすぎて、頷くことができないんだけど。――あたし、ホープの声が聞こえるみたいだけど、普通の人には聞こえないものって認識で良いのよね? それとも、任意の人間には言葉が通じたりするの? 気絶する前、このスタールビーがあたしに話し掛けてきたの。フレイムブラッドだって名乗っていたんだけど……」
紅は握り締めていた右手を開き、手の中にあった赤い石を見つめる。
「最初の問いにはイエスだ。誰もが石たちの声を聞けるわけじゃない。石に選ばれた人間だけが声を聞ける。俺が所属している組織ではそんな人間をタリスマントーカーって呼んでいる。紅はそのフレイムブラッドに選ばれたことで、タリスマントーカーとしての素質に目覚めたということだな」
「うーん……なんか騙されているような気が……」
「無理に信じ込む必要はない。そのうちフレイムブラッドも話し掛けてくるだろう。そのときに色々聞くといいさ。日本語が通じる相手なんだろう?」
「あ、うん」
「俺のところはフランス語が第一言語で英語が第二言語だったから、会話が成立するようになるまでにかなりの時間を費やした。羨ましい話だね」
「それはいきなり不運だったわね。同情するわ」
抜折羅が言っているのはホープのことなのだろう。日本語で懸命に説明やら質問をしていたが、あの態度や性格から察するに、あの状態にするまでさぞかし骨が折れたことだろうと推察できる。その点については、紅は同情してやってもいいと本気で思えた。
「そんな優しい言葉をくれたのは紅が初めてだ」
言って、抜折羅は少し硬い笑顔を作った。
「――で、ここからが相談なんだが」
「何?」
改まった様子で
「どういうわけか、紅の持つフレイムブラッドにホープの欠片が反応している。君の危機を察知することができるらしい」
「あ、だからさっきも助けに入って来られたのね」
「そういうことだ。それは俺のホープだけじゃなく、他の
そこまで説明されて、
「それらを含めて、改めて提案する。俺の――いや、ホープの願いを叶えるため、付き合ってくれないか?」
抜折羅の台詞に一瞬だけ頬に熱を感じたが、すぐに冷静になる。
――今の〝付き合って〟は恋愛の話は絡まないわ。こんな言葉に惑わされるなんて、どうかしてる。
「頼む。もし紅が危険に晒されることがあっても、必ず守ると誓ってもいい」
頭を下げる抜折羅に、紅はため息をついた。
「悪いけど、断るわ。ってか、あんたが一番あたしにダメージ与えているんだからねっ! 男に胸触られたのもあんたが最初だし、初めての唇を奪ったのも――抜折羅、あんたなのよっ! 身の危険を感じているんだからっ!」
「同じベッドの上にいる状況で言われても説得力がないのだが……」
ここは俺のベッドだと指摘するように抜折羅は自分の足下を指す。
紅は全身に熱を感じた。赤くなっていることを自覚する。
「ちょっ……抜折羅、あなた本当にあたしにキス以上のこと、していないでしょうねっ!?」
慌ててベッドを下りて抜折羅との距離を取り、彼に人差し指を向ける。
「安心しろ。君の信じる神に誓ってやる」
「あぁ、そう。安心はしていないけど、それならこの場は収めてあげる。だからもう、あたしには近付かないでっ!!」
二度も助けてもらったものの、胸を触った件とキスの件を思うと信用できない。紅は扉の前に置かれていたスポーツバッグを手に取ると、部屋を出た。もう二度と会わないでくれと願いながら歩く足音は、ひどく荒れたものだった。
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