第2話 ★2★ 6月10日月曜日、夜

 黒い髪の少年――金剛こんごう抜折羅ばさらはぶたれた左頬に冷やしたタオルを当てた。ヒリヒリと痛んでいるが、こうしておけば明日には落ち着いているだろう。

 助けたはずの少女にビンタをもらったことについては致し方のないことだと抜折羅は思っていた。彼女の胸に触ってしまったのは事実であるし、それに対する報復としてひっぱたくのは自然のことだってことは理解できる。

 だが、弁解くらいはさせて欲しかった。これは事故なのだ。抜折羅が気になっていたのは彼女が首から提げていた赤い石であり、決して彼女の豊満な胸部ではない。十六歳の少年らしく女性への興味はそれなりにあったが、彼には優先すべき使命がある。そんなことに構っている余裕はない。

「日本に来て早々からツイてないよなぁ……」

 走り去る彼女を追っている間に取り押さえた犯人に逃げられ、せっかく得たかに思われた手掛かりを失っていた。ため息をつきたい気分になるが、運を逃がしたくなくて抜折羅は堪えた。

 少女と男の両方に逃げられてしまった抜折羅は、しぶしぶ自分が寝泊まりしている雑居ビルに戻っていた。

 駅前に建ち並ぶ狭い雑居ビルの一つエキセシオルビル。七階のフロアを占有しているがそれほど広くはない。パーディションで半分に区切り、一方を事務所として、もう一方を私室として利用している。仕事で来日している都合もあり、事務所と住居を往復する手間を考えたらこうなったのだ。幸いオーナーも細かいことを気にするような人ではないので、甘えさせてもらっている。他のビルもこのビルも空き室がいくらか見られたので、使用する人間がいてくれることが単に有り難いのかもしれない。

 私室側の部屋は片付いている。長期滞在のつもりもなかった抜折羅は旅行用のトランク一つでアメリカから渡ってきた。調度品といえば、二人は横になれるソファーベッドと事務作業用の広い机。これらは来日する前に整えてもらった。

 壁を覆うように設置された棚には白く濁った水晶のクラスターが数多く並ぶ。水晶はオブジェではなく、彼の仕事道具だ。男を押さえるときに使用したのもこの棚に並ぶ水晶の一つで、今は棚の端に置いていた。

「――ったく、お前の意志を尊重して久し振りに日本に帰ってきたんだから、少しは協力しろよ」

 部屋には彼しかいない。彼の手に握られているのは冷たいタオルだけで、電話の最中というわけでもない。

 だが、抜折羅はこの部屋にある別の存在に向かって話を続ける。

「今の俺を不幸にしたところで、お前にメリットはないだろう? それともなんだ、俺が彼女に気を取られたとでも考えて、使命を思い出すように仕向けたのか?」

 問うが反応はない。抜折羅はつまらなそうな表情を浮かべて、ソファーベッドに寝そべる。

 ――日本語がわからないわけじゃないと思うんだが……。英語やフランス語のレスポンスと比べたら劣るんだよなぁ。

 文句を言うなら母国語が一番ラクだ。だが通じないなら、相手に合わせるのも仕方のないこと。

 ――日本にいる時間も長いんだから、日本語くらい慣れてくれりゃ良いのに。

 ひと手間かけて文句をつけてやろうと口を開いたところで、ようやく反応があった。抜折羅の聴覚を刺激するか細い声を認識する。

『通じていないわけではない。日本語で罵詈雑言を並べて返そうと思案していたのだ』

 返事は日本語として聞き取れたが、イントネーションがネイティブに比べると微妙におかしい。彼――ホープとは生まれたときからの付き合いだが、抜折羅はいつまで経っても上達しない彼の日本語につい苛立つ。

 養母に引き取られてアメリカに渡ってからは英語とフランス語を学び、ホープとのコミュニケーションはスムーズになった。初めの頃は相手が何を訴えているのか理解できず悩まされたものだったので、格段の進歩だ。長いこと王族や貴族とともにいたからか、彼は気位が高いのだろう。相手である抜折羅に合わせて日本語を学ぶことが億劫らしい。自分が主張したいことはフランス語で雄弁に語るくせに、一般的な会話を日本語でするのを避けたがる。抜折羅にとっては迷惑なだけだ。

「お前がすらすらと日本語で皮肉を返せるようになる日が待ち遠しいよ」

 ホープが一瞬殺気立ったように感じたが何も言わずに黙っているので、抜折羅はふぅと息を吐き出す。

「それはさておき、だ」

 抜折羅は日本語の次に使い慣れた英語で話を続ける。

「俺はホープの欠片があると聞いて住宅街に行ったはずなんだが、あれはなんだったんだ? あの男からホープの力の残滓は感じたが、彼が身に付けていた指輪の魔性石はホープではなかった。浄化してしまったから追跡もできない。近所にも反応なしだ。ガセネタではないようだが、これからどうするつもりだ?」

 抜折羅の問いに、ホープは充分に思案しているらしい間をあけて返答する。

しらみつぶしに回るしかあるまい。情報が少なすぎる』

 ホープは英語で告げる。

「それは俺に、率先してトラブルに巻き込まれて来いってことか?」

 気が乗らない声で問うと、ホープはそうだ、と短く返してきた。彼は英語で続ける。

『不幸を呼び込む力だけは他の魔性石と比べて強いからな。その力は無償で貸し出してやろう』

「無償って……お前なぁ。不幸になる能力を解除したくて、俺はお前に付き合っているんだぞ? 本末転倒なことを言わないでくれ」

『はて、そんな話は聞いた覚えがないな。私は自身のすべてを回収できればそれで良いのだ』

「絶対に全部回収して、この不幸体質からおさらばしてやる……」

 左手で拳を作り、抜折羅は誓う。

 今でこそ不幸体質は気の持ちようで乗り切ってきた。だが、この力に巻き込みたくなくて一人でいることが多い抜折羅は、一方で家庭を持つことを強く望んでいた。施設時代が穏やかだったこと、呪われた子どもだと知っていながらも養父母が優しく接してくれたことのおかげで、そういう夢を見られるようになったのだ。そのためには、いつか早いうちにこの不幸体質という呪いを解いてしまいたい。だからホープの情報を求めて、単身で日本に来たのだ。誓いは絶対だ。

「――彼女が身に付けていたのはスタールビーの原石だよな? 魔性石の気配があった」

 彼女が首から提げていた赤い石。ちらりとしか見えなかったが、鑑定士として仕事をしてきた経験と知識がそう導いている。よく見たかったのだが、事故が発生してしまったのでかなわなかった。

『フレイムブラッドと名乗っていた』

「名のある魔性石なのか」

『少なくとも、あれほどの力を秘めた魔性石は珍しい。今の彼女が制御できる器を持っているのかは不明だ。ただ、どういう理屈か魔性石は惹かれ合う。彼女が石の所有者であれば、また合うこともあるだろう』

「ふぅん……じゃあ、このスカーフを返す機会もありそうだな」

 ポケットの中に丁寧に折り畳んで入れていたスカーフを取り出す。彼女を追ったのは弁解したかっただけではなく、落としていった学校指定の物らしいスカーフを渡したかったからなのだ。

「ろくに謝ることもできなかったから、次に会うときにはちゃんと誠心誠意詫びておこう」

 日本語で呟いて、抜折羅は両目を閉じた。

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