タリスマン*トーカー【本篇完結済み】

一花カナウ・ただふみ

第一部 青いダイヤモンドとスタールビー

第1章 青いダイヤは災厄を呼ぶ

第1話 *1* 6月10日月曜日、夕方

 梅雨入りしたという情報が気象庁から発表された翌日の六月十日の東京の天気は晴れだった。

 夕陽が赤く染める住宅街を少女――火群ほむらこうは帰宅するために歩いていた。今日の遅刻のペナルティを消化するべく雑用を一人でこなしていたため、一緒に帰宅する友人の姿はない。最終下校時刻の前という中途半端な時間に高校を出てきたせいなのか、同じ制服の生徒の姿もなかった。

 不意に吹き抜けた風が六条の線で構成された校章入りのスカーフとサファイアブルーの短いスカートの裾を揺らす。風で広がったセミロングの髪に手を当てると、紅はため息をついた。

 ――気のせいってことはなさそうね。

 誰かが後を付けている。

 最寄の駅を降りたときまではいなかった。しかし、この住宅街に入って人の姿が疎らになったときからずっと付けられている。

 最初に気が付いたときは単に同じ方向なのだろうと思った。それでも不気味に感じて、念のためにと道を曲がってみることにしたのだがそれでも付いてくる。二回目に角を折れても付いてきたので、三回目に元の通りに出る道に繋がる角を曲がったときには走ることにした。

 ――これは絶対におかしい。

 角を曲がると同時に足に力を込める。ローファーは走りにくいが構っている場合ではない。紅は必死に駆けた。全力で走ったのは中学の部活動以来だったので、ほとんど一年振りだろうか。あの時とは違う大きく膨れた胸が邪魔で苦しい。

 二区画ほど走ったところで脇道に入り、紅は足を止めた。

 ――遠回りにはなるけど、こっちから帰ろう……。トラブルに巻き込まれないために道を変えたっていうのに、こんな目に遭うなんて。本当についていないわ。

 紅はため息を再びつくと、胸元に手を置いた。麻で編んだネットに入れた石のひんやりとした感触が伝わってくる。四月に急逝した祖母からもらった大事な御守りである。肌身離さず身につけているようにと言われていたので、紅は首から提げてワイシャツの中に隠しながら持ち歩いていた。

 ――千晶ちあきお祖母ちゃん、あたしを守って。

 願い、そして動き出す。もう追っては来ていないようだ。後方を確認し、前方を見たところで紅は固まった。

「見つけたぞ……」

 別の通りから姿を現したのは三十代後半の男性。身長も体格も標準だろう。きっちりとネクタイを締め、皺のない整った背広を着こなしている。髪もきちんと整え、髭も剃って清潔にしているようだ。一目見れば堅い仕事をしていそうな印象を与える男性は、しかし息を荒げた様子で紅の前に立ちはだかっているのだった。

「……あたしに何の用ですか?」

 退路を確認しつつ、紅は問う。恐怖から来るものか、それとも走ってきたからだろうか、低めた声はわずかに震えている。

「探していた」

 返事とともに跳躍。常人では奇妙なほどに跳んだ男に、逃げ遅れた紅は押し倒された。

「誰かっ……」

 叫ぼうと開いた口に男の手のひらが被さる。空いているもう片方の手はスカーフに伸びた。

 ――やめてっ!

 抵抗する紅の手は男の腕を掴んで爪を立てるが、行為をやめる気配はない。

 校章入りのスカーフが紅の視界をふわりと過ぎった。男の手はワイシャツの一番上のボタンを器用に外す。

 ――やだっやだっ! 助けてよっお祖母ちゃんっ!

 紅は祈りながら目を閉じる。

 二つ目のボタンが外されたのがわかったとき、新たな影が重なった。

「やめな、オッサン」

 若い少年の声に、紅はそっと目を開ける。涙でうるんだ視界に声の主が映る。

 男の肩越しに見えたのは真っ黒な髪をもつ少年。何故か瞳に青白い光を感じる。彼は紅の胸元に伸びていたはずの右手を背へとひねり押さえていた。

「魔が差したにしてはやりすぎだ」

 少年はごそごそと何かをウエストポーチから取り出すと、男の手に当てた。するとどうだろう。一瞬遅れてフラッシュのようなまぶしい光を放つ。上体が揺れる男の身体を、少年は紅から離れるように背面側に引いた。

「大丈夫か?」

 同じ年くらいの少年だ、と紅は思った。大人になる前のあどけなさが顔に滲んでいる。

 心配げな表情を向けてくる彼に紅は頷いた。押さえられていた口元に痛みは残っているが、傷にはならないだろう。

 少年はウエストポーチに先ほどの道具をしまうと、男を紅の上から退けて外壁にもたれさせる。男は意識を失っているらしく、ぐったりとした身体は少年に引っ張られるままに置かれて動かない。

「立てる?」

 差し出される右手。何が起きているのか、どうなったのかがよくわからない紅は、声を出せないまま彼の手を取る。掴んで引き上げてくれる右手は思ったより大きくて、紅には頼もしく感じられた。

 ――何者なの? それにさっきの光は……。

 今でも彼の瞳は青白く光って見える。それはまるで、きらきらと光を反射するダイヤモンドの輝きのようだった。

 ――あ。

 彼の視線が自分の胸元に向いているのに気づいて、紅は離された手を自分の胸に当てた。第二ボタンまで外されると胸の谷間のギリギリが見えてしまう。紅の手で掴める以上にはたっぷりと脂肪が詰まっているので、この状況ではさぞかし目立っていることだろう。男の視線を集めるには充分なくらいなサイズであると、少なくとも紅は認識していた。

「ご、ごめん、ちょっと待って」

 さっきの恐怖が残っているのだろう。ボタンが上手く嵌らない。焦ってしまって、紅は咄嗟とっさに彼に背を向けようと半身をひねる。

 ――ん……?

 何かが胸に当たった感触がした。胸元にあるそれを見て、紅はそれの持ち主の顔を見た。

 少年はしまったという表情をしている。少年の右手が、紅の胸元に置かれていた。

 頭に熱が上ってくる。それも急速に。

「この痴漢ッ!!」

 右の平手打ち。ばちんという破裂音が通りを響く。少年の左の頬をしっかりと捉えていた。

「サイッテー」

 紅は転がしていたスポーツバッグを掴むと、全力で走った。この場からすぐに離れたかったのだ。

 ――なによなによっ! 男って最低っ!

 一瞬でも気を許すのではなかったと紅は反省する。

 ――あ、でも、助けてくれたのよね……ああっもうっ! いきなり胸なんか触ってくるから、お礼を言い逃しちゃったじゃないのっ! もう、最悪っ! あんなやつ、知らないんだからっ!

 慣れない道を紅は家に向かって懸命に足を動かして進んだ。

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