第173話 *13* 3月15日土曜日、16時前

 ホワイトデーの贈り物は部屋に置いた――確かにそう聞いていた。

 三月十五日土曜日、十六時前。下田から帰宅したこうは、自身の部屋に置かれたキャンバスをすぐに見つけた。ベランダに繋がる窓際に、カバーを掛けた状態で立て掛けてある。ボストンバッグを足下に置くと、ゆっくりとキャンバスに近付いた。

 ――彼はあたしのために描いたと言っていたけど……。

 遊輝ゆうきの台詞から、それは紅の肖像画なのだろうとは推測できた。だが、どんな絵であるのだろうか。

 紅は布製のカバーをそっと取り払う。まず目に入ったのは、画面の半分近くを埋めるホワイトオパールのような複雑な色味の白。その次に印象的なのは、下地と背景を兼ねる透明感のある鮮やかなルビー色。

 ――これは……。

 両手に取って、まじまじと見つめる。油絵だとは思えない繊細な筆致で描かれたそれは、ウェディングドレスを纏う紅の全身像であった。

 手元の華やかな薔薇のブーケに視線を落としている横顔は、嬉しさよりも緊張の色が濃い。ティアラに散りばめられた透明な石の輝き、床につくほどに長いベールの薄く透ける様、ドレスに施されたフリルの柔らかな質感――それらは写真よりも本物に近いように感じられた。まるで、実物を見て描いたみたいだ。

 こんな絵を描く彼の精神とはどんなものなのだろう。

 ――そうだ、電話……。

 抜折羅ばさらの前では電話はできなかった。あのあとは気まずい空気ではあったものの、気分転換を兼ねて下田を観光し、昼過ぎには帰路についた。その間は抜折羅に監視されているようなもので、とてもではないが遊輝と連絡が取れるような状況ではなかったのだ。

 コール音が数回。そして繋がった。

「ふふっ。お疲れ様。家に着いたのかな?」

 スピーカーから聞こえる遊輝の声は妙な明るさを伴っていた。開き直っているというより、そう見せようと演じているように感じられる。

「さっき着きました」

「抜折羅くん、怒っているんでしょ? この時間まで連絡して来なかったのをみると、さ」

 彼は今、どこにいるのだろうか。遊輝の声だけがはっきりと聞こえる。

「許さないって、心にもないことを言ってましたよ」

「心にもない、か。君はそう評価するんだね」

「えぇ」

 紅が頷くと、嬉しそうに笑う声がした。

「ふふっ。君たちに慕われるこのポジションは居心地が良すぎるね」

 ふぅ、と息を吐き出す音。遊輝は声色を変えて続ける。

「今回は本当にやりすぎたって反省してる。どうしても抑えられなかったんだ。ごめんね。君たちの関係も僕たちの関係も、できるなら壊したくないよ。そう祈りながらも、僕は僕の想いを伝えたかったんだ。それだけのつもりだったんだよ」

「あたしには伝わってますよ。あたしが望むように演じると言ったのも、この中途半端な関係を維持したい気持ちが強いためですよね」

 遊輝は何も言わない。ただ、息を飲む音が聞こえたように感じた。

 苦笑して、紅は続ける。

「先輩とあたしは似ていますよ。認めます。欲張りな面は本当にそっくり。――あたし、抜折羅に怒られちゃいました。先輩を許すな、そういう態度が先輩を傷つけているんだ、って」

「彼も面白いことを言えるようになったんだね。紅ちゃんだけを見ていればいいのに」

 その台詞には、どうにもならない気持ちを整理しきれずにいるのが透けて見える。

「あなたを信頼しているんでしょう、きっと。それは仕事の面だけじゃなく、一人の人間として」

「僕はその信頼を裏切ったんだ」

 後悔。その感情は演技ではないように思えた。

 紅は続ける。

「でも、関係はまだ壊れていません」

「君は僕を許すの? だとしたら、君は狡いよ。僕を飼い慣らそうってことでしょ?」

「許されたくないなら、あのときやめるべきではなかった。あたしに拒絶されるのを覚悟してでも、引き返せない一歩を踏み出すべきだったんだわ。違いますか?」

 彼はいつだってそうだ。絶対に越えてはならない一線を意識し、踏みとどまる。逃げ道を必ず残している。いつでも引き返せるように。

 ――そう。そこが抜折羅と先輩の一番の違い……。

 紅が責めると、遊輝は沈黙した。まもなくして、彼は息を吐き出し、返す。

「全く……紅ちゃん、君はずい分なことを求めるんだね。僕はそこまで過激にはなれないよ」

 降参したと言いたげな声。遊輝は続ける。

「あぁ、ほんと、電話越しで良かったよ。今の台詞を目の前で言われてたら、確実に僕は君を食べてる。迂闊なことを言うんじゃない」

 この台詞は演技だろう。何かを飲み込んだのがわかる。それがどうにも引っ掛かった。

 ――ひょっとして、先輩、誰かと一緒にいる?

 違和感の原因に思い当たるも、遊輝が演技を強いられている状況であるなら合わせるべきだと紅は判断する。

「すみません。あたしがこういう女で」

「よくわかっているつもりなんだけどね。君の思わせぶりなところとか、少し強引な方が好みで、未知への恐怖よりも好奇心の方が勝るタイプだってこととか」

「えっと……」

 どう返したらいいのかわからない。

 遊輝は紅の反応を待たずに続ける。

「ねぇ、紅ちゃん。僕は傷ついても構わないよ。気にしなくていい。君は抜折羅くんだけを見てあげて。彼に申し訳ないと思うんだ。それに僕を許さない方が良い、表向きだけでも。もう、今までどおりの関係はやめよう。僕の気持ちが伝わっているなら、仲直りの必要もないし」

「どういう――」

 その台詞で、彼のそばにいるのが抜折羅であると直感した。だが、確認する台詞が浮かばない。

 畳み掛けるように遊輝は続ける。

「もし、抜折羅くんから僕に乗り換える気になったらいつでもおいで。たっぷり可愛がってあげるから」

「どうして今、そんな冗談を言うんですか!? あたしは真面目な話を――」

 ここで電話を切られるわけにはいかない。別れを告げられているのだとわかるから。

 ――あたしはまだ、応えていない。向き合えていないっ!!

 紅の必死な台詞は遊輝に遮られる。

「紅ちゃんは、まだ僕たちが続けていられると本気で思ってる? 僕はね、限界なんだ。このまま先に進むと、君のウェディング姿を見ることができなくなってしまうから」

白浪しらなみ先輩」

 やめてとは言えない。聞きたくないとは言えない。

「紅ちゃんが僕を見捨てずにいてくれて嬉しいよ。電話をもらえただけで充分だ。だから、少しだけお別れだよ。――じゃあね、紅ちゃん。そこにある絵、大事にしてね」

 一方的だった。通話が途切れる。呆然とする間もなく、リダイアルするが、電源を切られたらしかった。留守電にコメントを残し、紅は画面を見る。

 ――もし、本当に今、抜折羅と先輩が一緒にいるのだとしたら、何をするつもりなのかしら。

 気になるが確認のしようがない。居場所を突き止めたくても紅の魔性石フレイムブラッドでは抜折羅のホープも遊輝のスティールハートも見つけることができない。むしろ、二人からはフレイムブラッドがどこにあるのか感知できるので、容易に逃げることができよう。

 不安な気持ちを抱えて、自身の肖像画に目を向ける。

 ――お礼、言えなかったな……。

「あれ?」

 紅は肖像画に顔を近付けて、ふと湧いた違和感を探す。

「そういうことか……」

 やがて理解した。その絵に描かれているのは、現在の年齢の紅ではないのだ。

 ――ただのイメージ? それとも、他に意図が……。

 はっとして、紅はスマートフォンで検索を始めた。オパールが持つ伝説や伝承、パワーストーンとしての効能を知るために。


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