第172話 *12* 3月15日土曜日、4時前
午前四時前。
部屋に書き置きが残されているのに気が付いたとき、
言葉よりも先に身体が動き、部屋を飛び出そうとして、
「顔を合わせたくないと言っている以上、彼は魔性石の能力を使って追跡を逃れるだろう。俺たちでは無駄だ」
俺と二人きりでは駄目なのか――そう言って来なかったのは、きっと抜折羅にも遊輝を追いたい気持ちがあったからだろう。冷静な判断力が行動を制限している。
「でも……」
紅は抜折羅と向き合う。彼の漆黒の瞳には揺らぎがない。
「またお前は許すのか?」
淡々とした問い。手首は掴まれたまま放してくれない。
「だって、あたしが――」
「誘った訳じゃないのだろう?」
自身の非を告げようとしたのを遮られる。紅は抜折羅の台詞に首を横に振った。
「自覚がなかっただけで、同じことをしていたのよ」
「お前のそういうところが、
「それは……」
紅はうなだれる。反論できない。
「紅?」
抜折羅に引き寄せられて、抱き締められる。
「今回の件、俺は自分の非を認めるが、彼を許すことはできそうにない。どうしてかわかるか?」
紅は抜折羅の肩に押しつけられた頭を横に振る。
「お前を泣かせたからだ」
「…………」
「俺はお前を泣かせるような奴を許せない。紅には笑顔でいてほしいんだ。お前の笑顔は俺に生きる力を与えてくれる。だからそばにいたいと願う。笑顔を守りたいと思う。――そう願い、そう思うからこそ、お前から笑顔を奪うヤツを憎く感じてしまう」
抜折羅の腕に力がこもる。さらにきつく抱き締められた。
「紅、俺は先輩を許すべきじゃないと思う。これは先輩に対する焼き餅や嫉妬があるから言っているわけじゃない。傷つけ合うのを見たくないからだ」
紅はただ耳を傾ける。
「先輩はお前を大事にしようとしている。奪う気になればできるのに、そうしないのが証拠だ。大事にするために、自分が傷付くのを厭わない。俺の推測が正しければ、このままだと彼は確実に壊れてしまう。そうなれば必ず、先輩はお前を傷つける。互いに不本意な形で。――俺が止められるなら、今しかないと思うんだ。もう、白浪先輩を許すのはやめてくれ」
「……あたしは」
言葉が出て来ない。
「紅、約束しろ。お前が約束してくれるなら、俺は全力で先輩と相対できる。余計なことを考えずに済む。言うことを聞いてくれ」
――あぁ、なんてことを彼らに要求しているのだろう……。
「抜折羅は……」
泣きたい気分だ。さっきとは違う理由で。
紅はぐっと堪えて続ける。
「抜折羅は白浪先輩と対立したくないのね」
「違う」
「嘘よ。許せない気持ちも、許したい気持ちも、両方あるんだわ」
「違うっ!」
「違わないでしょうっ!? あたしに決めさせて、自分を縛ろうとしているのよ」
「…………」
抜折羅が奥歯を軋ませたのがわかった。紅は顔を上げる。
――自分の言葉で伝えないと伝わらない。
「あたしは抜折羅がいう未来を回避してみせるわ。ちゃんと白浪先輩と向き合って、うやむやにするのをやめるわよ。あたしは抜折羅が好きだし、そばにいたいと願うから、あなたが不幸になるのを見たくないの。あたしのために犠牲になるのはやめてっ!!」
「どうしてお前は強くなろうとするんだ? そんなに俺が頼りないのか?」
「あたしはあたしの道を進むために他の人を巻き込みたくないの。自分の足で踏ん張って、道なき道も切り開きたい。どんな運命が待ち構えていても、乗り越えて進んでいきたいの」
「お前のその願いを叶えるために、俺は何度お前の泣き顔を見ることになるんだ? わかってくれよ、俺がどんな気持ちでいるのか」
「あたしは泣かない。あなたを悲しませない」
「そんなのはおかしい」
「信じてよ、抜折羅」
抜折羅の腕を解き、紅は背伸びをする。口付けをして、抱き締める。強く、しっかりと。
「あたしを信じてよ」
「紅……」
「逃げたくないの、白浪先輩の想いから。あなたを縛って自分を守ることにしたら、それはもうあたしじゃないし、あなたもあなたじゃなくなってしまう。結局、壊れてしまう。そんな未来を受け入れるくらいなら、傷つけ合った方がマシでしょう?」
「だが、俺は……」
紅は抜折羅を見つめる。
「あたしは間違っていたわ。心地よさに惑わされていたの。まやかしだった。だから、正さなくちゃいけない。ぶつからなきゃいけない。後悔をしないためにも、やれることはしたいの。――抜折羅、あなたはあたしの意志を認めてくれないの?」
抜折羅は唇を動かしたが、何も言わなかった。どうしたらよいのか迷っているような表情で、紅をじっと見つめ返している。
「……あたしを止めたいなら、あたしを壊してくれていいよ。あなたになら、壊されても構わない。壊れてしまうというなら、そうなる前に壊してよ」
「――非道いことをお前は要求するんだな」
「えぇ、そうね」
「そんな顔で俺を見つめないでくれ。俺は俺を許せなくなる」
彼の大きな手のひらが頬に触れる。撫でる指先は濡れていることだろう。
視界が歪む。
「ごめんね、抜折羅、我が儘ばかり言って。……泣かないと言ったばかりなのに、駄目じゃない、あたし。こんなんじゃ、信じてもらえないよね」
「……もういい。紅の気が済むようにしろ。俺は俺の気が済むようにするから」
「……っ!?」
唇を奪われる。強引なディープキス。
戸惑いで動けなくなった身体を、抜折羅は優しく押し倒した。
どのくらいキスをされていたのかわからない。ただ、抵抗はしなかった。抜折羅がしたいようにすればいいと思った。
「――怖がるな」
上から見下ろして、短く告げられる。言われて、身体が震えていることに気が付いた。
「俺だって、色々なものを抑えているんだ。伝わったならそれでいい。――少し頭を冷やしてくる。お前も頭を冷やせ」
彼はそっと離れていく。
「でも、抜折羅――」
上体を起こして、抜折羅を引き止めようと声を掛けてしまう。身体は震えたままだというのに。
彼は背を向けたまま、紅を見なかった。ドアに向かったままで告げる。
「俺はお前を壊したくない。壊れる様を見たくもない。そんな俺の想いを心に留めておいてくれ。そうしてくれる間は、お前は自由だ。束縛したりしないと誓うよ」
その声にはやるせなさが混じっていた。
「うん。心に刻んでおくわ」
部屋を出る前に抜折羅はちらりと紅を見たが、何も言わずに出て行った。
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