第120話 ★5★ 10月18日金曜日、放課後
誰かが身体を揺すっているらしい。それを認識して、
うっすらと目を開ける。焦点がなかなか合わない。ぼんやりとした視界の中で、抜折羅は懸命に相手の特徴の把握に努めた。
視界は明るい茶色とサファイアブルーが大部分を占めている。明るい茶色の部分はサラサラと揺れて、肩より長く伸ばされた髪だとわかる。サファイアブルーは宝杖学院のブレザージャケットだ。
近付けられた顔、それで詳細な部分が見えてきた。少しつり目で二重、瞳は琥珀色。心配そうに眉根を寄せて、顔を覗き込んでいる。赤くてこじんまりした唇が動いており、何やら声を掛けてきているらしいこともわかった。
――あぁ、彼女は……。
そこにいる相手が誰なのか、ようやっと理解できた。抜折羅は唇を動かして、彼女の名を呼ぶ。
「……
左手を伸ばして、彼女の頬に触れる。柔らかい感触。幻ではないらしい。
「……どうかしたのか?」
「どうかしたのかって、こっちの台詞よ」
声にまで心配そうな色が滲んでいる。頬に触れた抜折羅の手に、紅は包むように右手を重ねた。
――何だろう。とても心地良い……。
彼女に触れ、触れられている部分から力が流れてくるように感じられる。
「声を掛けてもなかなか反応がなかったから、ものすごく心配した。なんで給湯室で意識失ってんのよ」
「あぁ、それは――」
自分のやらかしたことが情けなすぎて一瞬言いよどむ。紅から顔をそむけて続ける。
「うっかり締め出されたから」
「らしくないミスね」
しょうがないなぁと言いたげに紅は告げると、彼女は立ち上がって抜折羅に手を差し出した。
「こんなことで、あたしのカードキーが役に立つなんてね。大丈夫、中に入れるわよ」
すっかり忘れていた。先日、紅をタリスマンオーダー社のバイトとして雇うにあたり、彼女にここのカードキーを渡していたのだ。
「助かる。――だが、どうして紅が?」
「高熱出して倒れているって聞いたら、様子くらい見に行くわよ」
「そうか……」
紅の手を借りて立ち上がろうとする。が――。
「あっ」
熱が高くて身体がいうことをきいてくれない。徐々に立ち上がったものの、見事にバランスを崩して紅へと身体が傾く。平均的な彼女の背丈で、筋肉質な抜折羅の身体を支えることは当然のように難しい。
「ひゃっ!?」
壁に手をついた衝撃で大きな音が廊下まで響いた。
「すまない……大丈夫か?」
抜折羅は壁に手を置き、壁との間に挟んでしまった紅を見下ろす。
「だ、大丈夫。すごくびっくりしたけど」
こちらを見上げる彼女の顔は赤い。
「身体がだるくて、うまく動かせないんだ。申し訳ない」
「しかたないことじゃない。謝らなくていいわよ。――肩を貸してあげるから、さっさと部屋にいきましょ」
「恩に着る」
壁と紅のおかげで、一人で給湯室に来たときよりも幾分か早く私室に戻ることができた。
二時間ほど給湯室にいただけなのだが、ソファーベッドがとても恋しい。ふかふかのソファーベッドに横たわると、紅が毛布を掛けてくれた。
「本当に助かった。ありがとう」
「いえいえ。まさか抜折羅がこんなピンチに陥っているとは思わなかったから、すっごく驚いたけど」
「うう……面目ない」
この生活をしていて一度もなかったミスだ。こんなタイミングでやらかすなんて、と抜折羅はしきりに反省する。カードキーを再び忘れることがないように、寝るのに邪魔ではあるが首からさげることにした。すでに実行済みだ。
「薬、ちゃんと飲んでる?」
「飲んだが、効き目が弱いらしい」
原因なら思い当たる節がある。ダイヤモンドの効能に《解毒》というものがある。薬と毒が匙加減であれば、解熱剤に対して影響を与えている可能性は捨てられないだろう。ダイヤモンドのタリスマントーカーである以上、条件に応じて発動してしまうダイヤモンドの効能を抑えるのは難しい。
――ん? 待てよ、効能だったら……。
「それは厄介ね。――夕食には少し早いけど、何か用意してあげようか? 体力を回復させないと、どうにもならないってことでしょ?」
「いや、それよりも紅に頼みたいことがある」
買い物に出るつもりらしい紅を、抜折羅はすぐに引き止めた。背を向けていた彼女は不思議そうな顔を抜折羅に向ける。
「……頼みたいこと?」
「少しだけでいい、添い寝を頼めないか?」
「……へっ!?」
彼女の肌がすぐに真っ赤に染まった。そして訝しげな目を向けられる。
「熱に浮かされて何を言っているのかな?」
「生憎、冗談を言っているつもりはない。大真面目な依頼だ」
「え、あ、それは……」
紅がもじもじとしている。誤解されているのかも知れない。
「あのな、俺は下心があって頼んでいるわけじゃない」
全くないわけではないが、変に警戒されたり期待されたりしては、効果が薄れかねない。誠実な気持ちで伝えれば、意図はきっと伝わるはずだ。
「ルビーの効能に《風邪に効く》というのがあったはずなんだ。さっきも紅に触れただけで少しラクになった。だから、試させて欲しい。――紅が嫌なら、諦めるが」
視線を逸らし最後の一言を小声で告げるあたり、我ながらずるいと思う。紅が断りにくいように誘導している。
「す、少しだけなら……」
彼女は宝杖学院のジャケットとベストを脱いで、スクールバッグの上に畳んで置く。制服にシワをつけないためだろう。黄色いスカーフも取ってベストの上に重ねる。学校指定のワイシャツにボックススカートという姿になった紅は、恐る恐るといった様子でベッドに近付いてきた。
「言っておくけど、変なことしたら承知しないんだからね」
「わかってる」
ベッドに腰を下ろした彼女の腕を引っ張る。紅の身体は軽くて、簡単に引き寄せられた。すぐさま毛布の中に引き込む。
「ちょっ!?」
狼狽えて身を捩る紅の身体を、腕を伸ばして捕まえる。手のひらに弾力のある感触が伝わった。大きく膨らんだそれは、手のひらに余る。何だろうかと、つい揉んでしまった。柔らかくて気持ちが良い。
――これは……。
抜折羅が答えにたどり着く前に、反応があった。
「ひゃっ!? やっ!? 胸はナシっ!!」
紅が焦っている。腕でも腰でもないことはすぐにわかったが、まさかあえてそこを掴むとは。
「これは事故だっ。――ってか、それだけの存在感があるのに、触れない方が難しいだろうがっ」
できるだけ意識しないようにしているつもりだが、彼女の胸はかなり目立つ。同じ年頃の少女たちと比べても大きいのは明白だ。宝杖学院で一番の巨乳だと男子たちの間で話題になっているのを、果たして彼女はどの程度理解しているのだろう。
柔らかな胸の感触を楽しんでいた左手に名残惜しさを感じつつも、腹部の方に移動させて自分の身体に引き寄せる。後ろから包み込むように抱き締めた。
「言ってることとやってることが違うっ!!」
いまだに逃れようと懸命になっているのは感じられるが、離せとは言ってこない。それが少し不思議だ。
「お前は何を想像していたんだ?」
腰に回す腕に力を込めてさらに密着する。どこに触れていても柔らかい。空いている右手で彼女の頭を撫でた。宥めるのに、それが一番効果的であることを知っているからだ。
「そ、添い寝ってこういうのとは違うと思うの」
「ふぅん」
視界に入る彼女の肌は赤く染まっていて綺麗だ。衝動を抑えられず、頭を撫でていた手で彼女の髪を払い、露出した首筋に口付けを落とす。
「ひゃうっ」
思いの外、艶めいた声が部屋に響く。紅の身体がしなって震えた。
「や、やめて、そういうの……変な声出ちゃうから」
「ひょっとして、首筋、弱い?」
彼女の息が少しだけ上がっている。それはベッドに引き込んだときに暴れたからではないのだろう。
「知らない。ってか、同じことしたら焼き払うわよっ!?」
紅が扱うルビーの
――そういうことを言ってくる彼女を愛しいと感じてしまうのは、熱が高いからだろうか。
「紅はそうしないだろ?」
耳元で囁いて、再び口付けをする。びくっと彼女の身体が反応し、熱を帯びた。
「やっ……だからっ……」
鼻に掛かるような高い声はふだん聴けるような声ではなくて、とても色っぽい。
「あんまり感じてくれるな。直接肌で触れ合っているほうが、ルビーの効能を得やすいんだ。わかっているんだろ?」
「ぬ、脱げと仰いますかっ!?」
その発想はなかった。紅の慌てる声に、抜折羅は小さく笑う。
「そこまでは要求しないさ。襲うだけの体力が今の俺にあると思うのか?」
「現状、あたしは逃げられないんで、充分じゃないかと……」
「そうか。それなら紅からエナジーを根こそぎ奪えば回復しきれるだろうし、不可能ではないのか」
「へ……?」
「――冗談だ」
ぎゅっと抱き締めてやると、彼女からふっと力みが抜けた。
「悪ふざけがすぎた。――だが、ルビーの効能は大したもんだな。だいぶラクになったよ。紅のおかげだ」
「ど、どう致しまして」
「この礼は必ずするから、もう少しだけこのままでいて欲しい」
「うん……」
腕の中の紅が小さく頷くのがわかる。嬉しそうな、だけど少し不服そうな声。
「ありがとう」
心地良いエナジーを感じる。それに身を任せてしまうと、自然と目蓋がおりた。
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