第121話 *6* 10月18日金曜日、20時過ぎ
「――
揺すられているとわかっているが、身体がだるくて素直に動かない。その原因に、紅はすぐに思い至らなかった。
「そのまま俺のベッドで寝てるなら、俺はお前の身の安全を保証しないぞ?」
「……はいっ!?」
今の状況がどんなことになっているのか、紅は思い出して目を開けた。
――あたし、
同じベッドで寝てしまったのであれば、とんだ失態だ。抜折羅が自身に手を出すことはないだろうと信用している紅ではあったが、だからといってやって良いことと悪いことというものはある。
「お目覚めのようだな」
ほっとした様子で見下ろしてくる抜折羅の顔には、給湯室で発見したときの赤みは消えていた。
「ごめん、あたし――」
身体を起こそうとするが、うまく力が入らない。全身が気だるく、重たい。
――あれ?
そんな紅の様子を見て、抜折羅は心底申し訳ないといった態度で口を開いた。
「う……悪い。そのつもりはなかったんだが、紅からエナジーを吸い尽くしてしまったらしい。お前が動けないのは当然だ」
「は、はいっ!?」
抜折羅はさらりと言ってくれるが、これは危機的状況だ。本当に身体がうまく動かないのだ。洒落にならない。
「申し訳ないんだが、回復するまでの数時間はそんな状態だと思う」
「な、何してくれるのよっ!?」
「悪い……」
落ち込んでいるのがわかる抜折羅をこれ以上責めてもどうにもならない。紅は小さく息を吐き出す。
「――顔色は良さそうだけど、身体の具合は良いの?」
「それはおかげ様で。熱は下がったし、身体は軽い。咳もおさまったから、もう大丈夫だ」
「良かった。それなら、あたしが来た甲斐はあったわね」
朝、
――問題は、この状況をどうするか、よね……。
身動きが取れないのは困る。加えて、抜折羅は完治した様子。彼が元気になってくれたのは喜ばしいことだが、この状態というのは自身のピンチであることを示している。
「今、何時?」
外はすっかり暗い。家に何の連絡も入れていなかったことに気付いた。
「二十時は回ってる。門限までに帰れるか?」
「自転車でここに来ちゃったから、このままだと難しいかも」
門限は二十一時だ。一応、婚約者がいる身でもあるので、夜遅くまで外を彷徨いているのはよろしくない。
「……俺は、別にこのまま泊まっていってくれても構わないんだぞ?」
魅力的過ぎる誘惑に一瞬心がひかれたが、紅は考え直す。
「嫁入り前の娘の外泊を、そうしょっちゅう許してもらえると思う?」
先週の連休はここに泊まり込んで抜折羅と一緒に試験勉強に励んでいたのだ。こう毎週外泊が許されるような家ではない――と、紅は思っている。
「それもそうだな……」
「とはいえ、ものは試しで電話してみましょうか。――病み上がりで悪いけど、スクールバッグに入ってるスマホ、取ってくれない?」
「了解」
身体が動かない以上、少し帰宅時間を延長する必要はあるだろう。外泊はできずとも、帰宅時間を延長出来れば充分だ。
抜折羅に指示を出すと、彼はすぐにスマートフォンを取り出して紅の手に渡してくれた。身体を起こすのも手伝ってもらう。
――どっちが病人なんだか……。
互いに想定外の事態であるため、恨むにも恨めない。ため息が出そうになるのを堪えて、紅はスマートフォンの画面に目を向ける。数回、母親から電話が掛かってきていたようだ。気が引けながら、続けてメールのチェックをする。
――ん?
――光、何を……。
本文を表示する。内容はとてもシンプルだ。
〝
「どうかしたのか?」
苦笑せずにいられなかったからだろう。抜折羅が訝しげな目を向けてくる。
「出来過ぎる友人を持つと怖いって話よ。――電話するから、ちょっと待って」
「おう」
アドレス帳から長月光の名前を呼び出して、紅は電話を掛ける。数コールの後に繋がった。
「もしもし、光? 今、大丈夫?」
「こちらは大丈夫ですわ。それにしても、ずい分と電話までに時間がかかりましたのね」
おっとりとした口調なのだが、指摘はとても鋭い。
「これには色々と事情がありまして……」
まさか正直に、抜折羅の家で寝ていたからだとは言えまい。添い寝以上のことはないのだが、それでも、だ。
「それで、電話をいただけたということは、裏工作が必要な状況、ということですのね」
彼女は物分かりがよいと、心底思う。話が早い。同時に侮りがたく、敵に回したくない相手だとも思う。
「うん、そんなところ。終電まででいいから、どうにかならない?」
「終電と言わず、朝までいればよろしいではないですか」
のほほんと返される。紅は自分の口元が引きつるのを自覚した。
「あたしが先週も外泊しているの、光は知っていたわよね?」
「良いじゃありませんか。わたくしの家で毎週パジャマパーティーでも。一泊であれば、中間テストの打ち上げってことにできますでしょう? ――あら、それとも、日曜の朝まで必要なのかしら?」
「いや、大丈夫。明日の朝にはちゃんと帰るから」
「うふふ、それなら安心ですわ。――先程、
「わかっているわよ……たまたまスマホが手元になくて、出そびれたの」
「そうですか。――とりあえず事情を察したので、お母さまへの返答ではわたくしの家に寄っていることにしておきましたわ。はしゃぎすぎて眠ってしまわれたので、このまま泊まっていってもらうかも、ともお伝えしております」
――話がわかりすぎていて、マジで怖いんですけど。
変な汗が流れている。空調がきちんと効いていて、ワイシャツにスカートという薄手の格好であるのに。
「あ、ありがとう。いつも以上に完璧なアリバイです……」
はしゃぎ疲れて眠るなど、幼稚園児レベルかと突っ込みたい気持ちはある。しかし一方で、電話に出られない状況と光が電話に出たときに静かである状況を同時にカバーできる言い訳なのだから、文句は言えまい。咄嗟の嘘にしては充分だ。
「うふふ、この程度で感謝していただけるのでしたら、いくらでも協力いたしますわ」
「このあと、あたしはどうしたら良いのかしら? 自宅に電話した方が良い?」
「いえ、こちらからお泊まりの連絡をしておきますから、紅ちゃんは気にせず金剛くんのそばにいてあげて下さい」
「――じゃあ、お言葉に甘えて」
「今回は貸しにしますから、いつか返して下さいね」
珍しい台詞だ。今度礼をすると言う前にそんな台詞を返されるなんて。
「貸しってことで構わないけど……どんな風の吹き回し?」
「うふふ、いざという時のために保険を作っておくのも良いかと思いまして」
「光のいざという時って状況が想像できないんだけど?」
何事も計画通りに進めていくタイプの人間だと評価しているため、紅には彼女が予期せぬ事態に遭遇する様が浮かばない。
「まぁ、良いではありませんか。――では、長話していても金剛くんに悪いですし、この辺で。お大事にとお伝え下さいな」
「うん、了解。おやすみ、光」
「おやすみなさいませ、良い夢を、紅ちゃん」
告げて、通話を切る。紅はソファーベッドの端に座っていた抜折羅に顔を向けた。
「光が抜折羅にお大事にって」
「あぁ、うん。もう完治してるけどな」
「あたしの体力と引き換えにしてね」
わざとらしく言ってやると、抜折羅の顔色が曇った。
「それは本当に申し訳ないと思っている……」
「引き止める口実で意図的にしていたなら、一発以上はビンタを飛ばしているところよ」
今は力が入らないのでビンタすることはできないが、回復次第そうするだろう。
きっぱり言い切ると、抜折羅はずいっと紅の顔を覗き込むように近付いてきた。反射的に身体を退くと、すぐに背が当たる。逃げられない。ふさふさとした睫毛の一本一本を数えられそうな距離だ。鏡のように映す抜折羅の真っ黒な瞳がとても近い。
「――そういう心積もりなら、正直に言おうか?」
「え、何を?」
「俺は多分、この状況を楽しんでいる。悪いとは思っているが、同時に紅のそばにいられることが嬉しい。それに、今なら抵抗されない」
紅の頬に触れた指先は、優しく顔の輪郭をなぞる。その動きがくすぐったい。
「あの……抜折羅? 熱で頭がショートしてません?」
「紅、お前、相手が俺だからって油断し過ぎだ。無条件でいつまでも欲望を抑えられるとでも思っているのか?」
顎を持ち上げられて、目を合わせられる。
――なんでだろう。すごくドキドキする。不本意なことをされているのに。
「俺に喰われても、文句言えないことをしているって自覚はしておいてくれ」
顔がさらに近付いてくる。自然と目を閉じていた。
唇がそっと軽く触れて、次は強く押し当てられた。柔らかで熱い。
「コラ……脅しているんだから、素直に受け入れるなよ」
抜折羅の呟きで目をゆっくり開けると、彼の瞳には困惑の色が滲んでいた。
「えっと……久し振りのキスだったものだから、つい」
そうなのだ。抜折羅がアメリカから日本に戻ってきて一週間が過ぎている。色々な出来事があったものの、供にいる時間は長かったはずだ。それにも拘わらず、彼とはしていないのである。
――ってか、何かそういうの避けられている感じだったし……。互いの気持ちを確認したあとだっていうのに、ひどい仕打ちじゃない?
「――確かにそうか。エナジーの供給や暴走時の処置以外でしたのも、初めてだな」
「……そうなるわね」
改めて言われるとこっぱずかしいものがある。紅は俯いて、視線だけを窺うように彼に向けた。
「っ……その仕草、俺の前でするな」
突き放すような強い語気で抜折羅は告げると、紅の頭を乱暴に撫でる。
「え、ちょっ!? あたし、何かしたっ!?」
寝起きで既にボサボサであるのに、さらに乱されてはあとが困る。紅は抜折羅の手を掴むが止めてくれない。
「白状すると、お前の上目遣いに弱いんだよっ!! あんまり煽ってくれるな!!」
「知らないわよ、んなことっ!」
「だったら覚えておけっ!」
言い付けるように告げると、抜折羅は紅から離れる。充分な距離を取ったところで、彼は紅を見た。
「夕飯、適当に調達してきてやるから、留守番してろ。ついでに頭を冷やしてくるから」
今さら気付いたが、抜折羅は薄手のパジャマ姿ではなく、スウェット姿だった。紅が寝ている間に着替えを済ませたらしい。
「うん。わかった。気を付けてね。とりわけ、カードキーの持ち忘れには」
「わかってる」
不機嫌そうな口調だったが、彼の顔には優しい微笑みが浮かんでいた。身近で観察していないと、それが笑みなのか判別がつきにくいのだけど。
「行ってらっしゃーい」
「ん、行ってくる」
出て行った抜折羅が照れくさそうに見えたのは気のせいだろうか。
――きっと、気のせいよね。
思わず、小さく笑う。部屋に独り残されたのに不思議と寂しさはない。彼の匂いを感じる毛布にくるまっていることに幸せを覚えてしまう自分を、紅はほんの少しだけ浅ましく思った。
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