第77話 *5* 9月30日月曜日、放課後

 九月三十日月曜日。

 放課後の美術室で、こうは机に突っ伏していた。

 ――うぅ……絵を描く気力が湧かないよ……。

 昨日は慌ただしい一日だった。黙ってアメリカに帰ろうとした抜折羅ばさらを羽田空港まで追い掛けて見送り、そのあとで蒼衣あおいの誕生日パーティーにて婚約者として振る舞った。ばたばたしていて疲れたのは確かだが、いつも近くに感じていた抜折羅がいないという状態からくる喪失感は半端ではない。

 ――ホープの回収が終われば会いに来てくれるみたいだけど、それっていつなのよ……。あたし、そんなに長くは待てないよ。

 クラス担任の財辺たからべ先生が生徒たちに話したことには、抜折羅は家庭の事情により一時的にアメリカに戻らねばならず、急遽きゅうきょ休学することになった――とのことだった。退学や転校としなかったところから考えるに、彼は割とすぐに日本に帰ってくる気があるのだろう。

 ――部活に出ていれば気が紛れるかと思ったけど、全然ダメね。こんなに凹むとは想像していなかったわ……。

 自然とため息が漏れる。二年生たちの姿が見えないのも、寂しさを増長させていた。

 今頃二年生たちは明日からの修学旅行に備えて、最後の研修を受けているはずだ。宝杖ほうじょう学院高等部の修学旅行は毎年海外であり、今年はオーストラリアに決まっていた。明日、十月一日から四泊五日の旅である。その間は二年生の遊輝と顔を合わせることもない。

 ――あぁ、もういいや。家に帰ろう。

 立ち上がり、新しいクロッキー帳を閉じたところで、美術室前方の扉が開いた。ひょこっと顔を出した銀髪の美少年――遊輝ゆうきが紅を見つけるなり、にっこりと笑んだ。

「良かった。まだいてくれて」

 歩み寄りながら話し掛けてくる。紅は片付けの手を止めた。

「今日はもう帰りますよ」

 いつも通りの対応をしたつもりなのだが、うまく笑顔を作れた自信はない。

「やっぱり元気がなさそうだね」

「そう見えますか?」

 紅が思ったように、遊輝はすぐに察したらしかった。

「好きな相手と離れるのは寂しく思えて当然だよ。抜折羅くんがいつ戻ってくるつもりなのかは知らないけど、僕は四泊五日の修学旅行中に君の顔を見られないかと思うだけで胸が苦しくなるよ」

 告げて、遊輝は細く長い指先で紅の顎を優しく持ち上げる。そのまま流れるようにゆっくりと顔を近付けてきた。

「――今日は逃げないのかい?」

 唇に触れないギリギリの距離で、彼は問う。

 紅は我に返って、素早く一歩下がった。美術部員たちがいる中で、自分は何をしているのだろう。

 紅のそんな反応に、遊輝は小さく笑った。

「ふふっ。僕は構わないよ。抜折羅くんの代わりにされたとしても。君の暗く沈んだ心に光を灯すことができるなら、なんだってしてあげる」

「――余計なお世話ですよ」

 呟くような声で応えると、紅はクロッキー帳を持って美術準備室に向かう。後ろをついてきた遊輝は、準備室に入るなり扉を閉めた。鍵を掛ける音が室内に響く。画材やら教材でいっぱいになっている狭い部屋には紅と遊輝の二人きり。クロッキー帳を指定の棚に片付けた紅は、美術室とを繋ぐ扉の前に立つ遊輝をにらんだ。

「何のつもりですか?」

「修学旅行のお土産、何がいい?」

 問いを別の問いで上書きされる。紅はしぶしぶ彼に合わせることにした。

「いただけるんですか?」

「うん。――閣下に対抗してアクセサリーにしようかな、なんて思っているんだ。希望はあるかい?」

「対抗して?」

 小さく首を傾げる。対抗してと告げたのは、おそらく蒼衣から誕生日プレゼントとして貰った魔性石アイススフィアのヘアピンと張り合おうという意図だろう。だが、土産で対抗するには何か情報が足らない気がした。

 紅の問いに、遊輝が応える。

「オーストラリアはブラックオパールの産地だからね。あんまり高価なものは買えないけど、ダブレットとかトリプレットのオパールなら安価で手に入るはず。〝スティールハート〟みたいに七色入ったマルチカラーを求められると困っちゃうけど、ご希望であれば探してくるよ」

 ダブレット、トリプレットというのは、石を張り合わせて美しく見えるように加工した物を指す。その知識はジュエリーデザイナーの勉強をする過程で得たものだ。ダブレットは上下で重ねて張り合わせたもの、トリプレットは上中下で重ねて張り合わせたものだ。イミテーションの一種である。

「先輩のって、ブラックオパールなんですか?」

 オパールには地色によって大きく分けると四種類ある。地色が白っぽいホワイトオパール、黒や濃青などの色の濃いブラックオパール、赤系のファイアオパール、水のような色味のウォーターオパールだ。彼がタリスマントーカーとして魔性石の力を使用しているときに瞳に宿す色がミッドナイトブルーなので、ブラックオパールだというのは本当なのだろう。しかし、紅は彼からそれを聞くのは初めてだ。

「うん。教えなかったっけ? 見たいなら、僕の家までおいで。人前じゃ見せられないから」

 しれっと誘ってくるので、紅は片手を小さく挙げて断りの意志を表した。

「いえ、結構です。――お土産はおまかせしますよ。いただけるなら、安いもので構いません」

「そう? じゃあ、こうすればいいかな?」

 瞬時に間合いが詰まり、紅が気付いたときには彼の腕の中に抱きすくめられていた。

「え、あのっ、白浪しらなみ先輩っ!?」

 彼の手がしっかりと腰を押さえて密着する。身動きが取れない。

「しばらく会えないと思うと、抱き締めておきたくなって。――安心して。これ以上のことはここでするつもりはないから」

 耳元で囁かれる声は穏やかで優しい。鼓動が早くなる。ドキドキしてしまっているのが、押し付けている豊かな胸を通して伝わってしまいそうだ。

「し、信用できませんっ」

「でも、そう言いながらも君は抵抗しないよね」

「いつだって抵抗させてくれないじゃないですか」

「どうだったかな。僕はそんなつもりはなかったのだけど」

 左手を腰元に残し、彼の右手が紅の髪をすくって首筋をなぞる。

「ひゃっ、あのっ」

 紅が見上げて睨むと、遊輝は薄く笑った。

「可愛い声で鳴いてくれるんだね」

 彼の赤い瞳を見ていると、心を奪われてしまいそうな気がしてくる。抜折羅を好きだと自覚しているにもかかわらず、元々憧れがあって好みの外見である遊輝に迫られると抵抗するのに遅れてしまう。どうにも困ったものだ。

 うっかりすると揺れて委ねてしまいそうになる心に渇を入れるべく、紅は告げる。

「からかうのも大概にして下さい。いつまで抱き締めているつもりなんですかっ!?」

「僕の気が済むまで、かな」

 頭を撫でる手がくすぐったい。このまま彼のペースに巻き込まれてしまってはまずいと、紅は必死に台詞を考える。

「それってどのくらい掛かります?」

「君が僕を選んでくれるまで」

「それじゃあ、あたし、帰れないじゃないですか。困ります」

「ふふっ、それならそれで僕は嬉しいな。でも、このままの状態を続けるなら、僕は必ず君を落とせると思っているよ」

「そんなところに自信を持たないでくださいっ! 抜折羅がいなくなって、星章せいしょう先輩が入試で手が回らないのを見計らってこういうことをしてくるなんて――」

 非難してやると、頭を撫でていた彼の手が止まった。彼は愉快そうに笑む。

「卑怯だと言いたいのかい? だけど、僕もそれなりに必死なんだよ。抜折羅くんと君は気持ちが通じ合っているし、表向きは閣下の婚約者だ。僕と紅ちゃんはただの先輩と後輩でしかないんだよ。少しくらいずるをしないと、君に近付けないじゃない。僕はもっと君と親密になりたいんだ」

「……あたし、先輩のその台詞が本気で言っているのか、疑っているんですけど」

非道ひどいことを言うんだね。どうしたら本気だと思ってもらえるかな?」

「どうしたらって……」

 彼の言動が演技じみて感じてしまうのはどうしてなのだろう。普段はただ誇張するためにそう振る舞っていて、本心なのだろうと受け取れるのに、彼の『好き』と告げられる想いはどうしても、少なくとも抜折羅が寄せてくれる想いや蒼衣が向けてくれる想いとは全く違うものとして捉えていた。

 ――あたしがおかしいのかしら。うまく表現できなくてもどかしいよ。

「――困っている紅ちゃんもそそられるね。これ以上のことはしないって宣言したのに、前言撤回したくなる」

 いつの間にか遊輝の右手が紅の顎を持ち上げていた。

「え、ちょっ……」

 ただでさえ近いのに、さらに顔が寄せられる。

「目、閉じて」

「お断りしますっ!」

「じゃあ、そのままでいいよ」

 唇が触れる。軽く触れるだけの口付け。身体をよじるが逃げられず、そのまま彫刻にでもなってしまったかのように固まって、解放してもらえるのをただ待った。

 ずいぶんと長いキスだった。唇に伝わる熱が去っていくのを感じて、いつの間にか閉じていた目蓋まぶたを持ち上げる。遊輝の不安そうな顔が目に入った。

 彼の唇が動く。

「――紅ちゃん? 僕がいない間もいい子にしているんだよ。抜折羅くんや僕がいない間は星章先輩にちゃんと守ってもらってね。君を心配している気持ちくらいは、本気だと感じてくれるかな」

「……お気持ちは、ちゃんと受け取りました。心配しないでください」

「――ありがとう」

 ありがとうと告げられた台詞だけは、演技ではなくて心からの言葉に思えた。

 ――何なのかしら、この違和感は……。

 最後にぎゅっと強く抱き締められて、そして解放された。

「ふふっ。紅ちゃん、すっごくドキドキしていたね。寿命、縮めちゃったかな?」

「そう思うなら止めていただけませんか?」

「嫌いじゃないくせに」

「これでも嫌がっているつもりなんですけど」

「だったら、もっと真剣に抵抗しなくちゃ。伝わってこないよ?」

「ご忠告、どうもです」

 返して、紅はスタスタと扉に向かう。鍵を開け、ドアノブに手をかけたところで一度深呼吸をした。心拍数は平常に戻りつつあるが、顔は火照ったままだろう。

 ――白浪先輩の馬鹿っ! あたしの馬鹿っ!

 予測するか慣れるかして遊輝に対処できるようにならないといけない。そうでないと、アメリカに戻ってしまった抜折羅に申し訳ない。

 紅は心に誓って、美術準備室の扉を開けた。

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