第17話 *7* 6月20日木曜日、放課後

 紅は美術室にいた。美術部員たちが自分たちの課題にそれぞれ取り組んでいる。しんと静まり返り、適度な緊張感があるこの教室は紅には心地よい場所だ。

 中間テストが終わったときから顔を出せないでいたので、ほとんどひと月振りである。ほこりを被りかけたクロッキー帳を取り出すと、紅はページをめくった。

 紅が美術部に入部したのはジュエリーデザイナーに必要なデッサン力を磨くためだ。基礎がさっぱりできておらず、転科試験で落とされたのを機に真剣に取り組んでいるのである。

 ――色々なものを思った通りに描けるようにならなくちゃ。

 新しいページを開くと木炭を握り、ミロのヴィーナスの石膏像に向かう。

 と、そのときだ。副部長の宮古澤みやこざわあや先輩が小さな声を上げた。沈黙が破られ、皆が顔を上げる。紅も例外なく彩に目を向けた。

「顔を出すなんて珍しいわね。少しは部活動をする気になったの?」

 彩が声を掛けた相手は、音もなく美術室のドアを開けて教室を見渡している華奢きゃしゃな少年――白浪しらなみ遊輝ゆうき先輩だ。一応の美術部員である彼がくるのは非常に珍しく、教室がざわつく。

「部活をするつもりはないよ。今日はモデルのスカウト」

 遊輝の回答に、彩は表情を引きつらせる。

「あなたのいうモデルって――」

「あ、やっぱりここだったんだ。探したよ、紅ちゃん」

 彩の台詞を遮り、つかつかと遊輝は紅のそばにやってくる。紅は下の名前で親しげに呼ばれたせいで、すぐに反応できなかった。

「僕のモデルになってくれるよね?」

 ニコニコと人懐ひとなつっこい笑みを向けてくる遊輝に、紅は戸惑いを隠せない。

「て……丁重にお断りしたいんですけど……」

 紅は席に座ったまま、遊輝を見上げて応える。笑顔を作ったつもりだが、苦笑いになってしまっている自覚はある。彼が得意とするのが裸婦の絵であり、それらにまつわる噂はろくなものがないのだ。

「えー、紅ちゃんはこの世に新しい芸術作品が生まれ落ちるこのチャンスをどぶに捨てろっていうのかい?」

 身振り手振りの大げさなアクションで遊輝は告げる。演劇部員でもないのに、舞台俳優みたいに様になる。動きに応じて、彼の長い銀髪と二年生を示す緑色のネクタイが弧を描いた。

「それに――」

 彼は紅の耳元に唇を寄せてささやく。

「今日は脱がなくて大丈夫だよ」

 全身に熱が走った。遊輝に考えを見透かされて恥じたのと、顔の近さによる照れだ。綺麗に整った顔が至近距離にあれば誰だって戸惑うはずだ。

「そ、そういう問題じゃ――」

 反論しようとした紅の肩に手が載せられる。それは彩の手で、彼女は宝塚の男役が似合いそうな顔に苦悩の色を滲ませていた。

「火群さん。申し訳ないがスケープゴートになってくれ」

「助言をいただけるなら、協力してやってくれって台詞の方がありがたかったです……」

 苦渋の選択なのだろう。このまま彼がここに居座れば、部活は中断したままになってしまう。中等部時代から遊輝と同じクラスである彩には、そうなることが身にしみてよくわかっているに違いない。

 彩の声に押され、遊輝はにっこりと笑んだ。

「じゃあそういうことでっ! 紅ちゃんを連れていくね♪」

「え、ちょっ、あたし、まだっ」

 遊輝は紅が片付けるのを待つことなく腕を取り、彼女の足元に置いてあったスポーツバッグを掴む。

「では皆さん、お邪魔しました、ごきげんよう」

 告げるなり遊輝は紅を引っ張って美術室を後にしたのだった。



 学校を出るなりタクシーに乗せられ、たどり着いたのは大きなホテルだった。街では高い建造物で、ランドマークにすることも多い。

 遊輝は紅の腕を引っ張ったまま、フロントに寄らずにエレベーターに乗り込む。

「どこに連れて行くつもりですかっ!?」

 モデルを頼まれたはずだが、こんな場所に何の用事があるのか紅にはわからない。手を振り解こうとしているのだが、しっかりと掴む大きな手はびくともしなかった。

「今の僕のアトリエだよ。部屋が画材や絵でいっぱいになっちゃったから借りたんだ。眺めもいいし、素敵な場所だよ」

 やがてエレベーターは最上階に止まり、遊輝はやはり強引に紅を誘導する。フロアにある一つのドアにカードキーを差し込むと、ドアを開けて紅を引っ張り込んだ。力任せに引っ張られたせいで、紅はつんのめったみたいな体勢で部屋に入れられる。ドアの前にいる遊輝はチェーンをかけていた。

「これで邪魔者は入れない」

 遊輝は紅と向き直るとにっこりと笑った。その表情がとても妖艶ようえんで、不気味に感じられた。

「あたしにモデルを頼むなんて、おかしいと思ったんですよ。何が目的なんです?」

「紅ちゃんは魅力的な女の子だと思うよ? メリハリのある身体は描き甲斐がありそうだし」

 ――う、うん。絵のモデルというフィルターを通してあたしを見ているだけなのね。閉じ込められた気がするけど、それは絵を描くのに集中したいからってこと。気にし過ぎ……にしては、安心できる要素が少ないわ……。

 鼓動が早くなっているのがわかる。色っぽい噂が多い遊輝と二人きりの状況は、とてもではないが落ち着かない。

「――緊張してる?」

 遊輝が近付いてくる。反射で一歩下がったが、すぐに捕まった。手を引かれたかと思うと、抱き締められる。

「身体の力を抜いて。リラックスしてごらん」

「お、男の人に抱き締められた状態でっ、そんなことができると思いますかっ?」

「ふふ。可愛い反応だね。抱かれたこと、ないの?」

 紅のおろしたセミロングの髪を彼女の耳にかけると、鼻先を寄せる。

「セクハラ発言ですよっそれっ」

「僕は君を口説いているんだよ」

 耳元で甘く囁かれて、紅は身体を震わせた。

「いい反応だ。昨夜みたいな可愛い声を聞くためにはどうしたらいい?」

「な、なんのことを――あっ……」

 首筋を指でなぞられて、ようやく対峙している相手の正体に気が付いた。

「先輩が……怪盗オパール……っ!?」

「正解。ご褒美だ」

 右耳の後ろ辺りに口付けを受ける。

「やっ……」

 身体が慣れない刺激に過剰反応している。思った通りに動けないし、熱を感じる。

 そんなとき、左の太ももに振動が伝わった。スカートのポケットに入れていたスマートフォンに着信があったのだ。

 ――抜折羅……。

 自由なはずの左手を懸命に動かし、ポケットからスマートフォンを取り出す。目だけを動かし画面を見ると、掛けてきたのは抜折羅だった。通話状態にすれば、抜折羅のことだ、察してくれるかもしれない。

 指先に注意して動かしていると、スマートフォンの位置が変わった。遊輝に取り上げられてしまったのだ。彼は手際良く電源を切ると、足元に落として部屋の端へと蹴り飛ばした。

「無粋なやつだね。邪魔しないでほしいな、大事なところなんだから」

 注意がスマートフォンに向いている間に逃げようとするが、紅はあっさり捕まってしまう。視野が広いのか、どうしてもかわせない。

「あなた、フレイムブラッドを狙っていたんじゃないの?」

 交渉を試みる。身を危険に晒してまでフレイムブラッドを守るのも限界に紅は思えた。譲ってくれた祖母には申し訳ないが、自分が傷ついてまで守ってほしいとは思っていないんじゃないかと感じたのだ。

 話し合いに応じるだろうと想像していたのだが、遊輝は想定の範囲外の行動に出た。捕まえた右腕を引き寄せ、再び抱き締めてくる。髪に触れ、頭を優しく撫でる。彼の赤い瞳に深い藍色の光が宿るのが見えた。

 ――石に操られている……? 違う、これは抜折羅のそれに似ているような……。

「ちょっ……話聞いてよっ!?」

「フレイムブラッドだけじゃ足りない。君自身が欲しくなったんだ」

 想定外のことに狼狽うろたえる紅。抵抗しようと身体をよじれば、腕に力が込められて強く抱き締められる。

「僕の中の石が君を求めているんだ。すべて欲しい、君をもっと知りたい」

 唇を包むようにされた口付けで紅は声を出せない。さらに舌先で唇をなぞられ、その刺激に耐えかねて唇を開けば、別の生き物のようにうごめく舌に侵入を許してしまう。

「んんっ……」

 息が苦しい。そのせいなのか、意識がぼうっとしてくる。

 歯茎をなぞられたり、頬の内側を舌で擦られたりしてくすぐったい。思わず口を開けると、さらに奥に侵入された。遊輝の舌に攻められて、逃げ場を失った紅の小さな舌は大人しく犯される。

 どのくらい口付けをされていたのかわからない。随分と長い時間だったように思えるが、実際はそれほどでもないような気もする。

 唇が離れていくと、紅はもう立っていられなかった。その場に崩れそうになったところを抱き上げられる。

「僕のディープキス、なかなかでしょ? 抱き締められていても力が抜けるレベル」

「あっ……うっ……」

 麻痺してしまったのは身体だけではないようだ。舌も痺れて言葉を紡げない。

 ――どうして……。

 動けないことに募る焦燥感。思考も鈍くなっている。身体中が熱い。

「初めての人には刺激が強すぎたかな?」

 華奢な体格のどこにそんな力があるのだろう。遊輝は抱き上げた紅を部屋の奥へと軽々と運ぶ。ベッドに彼女の身体を横たえると、彼は覆い被さるように陣取った。

「素敵な表情だよ。とろんとした心地でしょう?」

 息が上がっている。紅の胸はせわしく上下した。

「もっと気持ちよくしてあげる。だから僕にだけ可愛い表情を見せて」

 黄色のスカーフを緩めると、紅のワイシャツの襟を引っ張る。露出した首の付け根に彼は口付けを落とした。

「ひゃっ……んんっ……」

 言葉にならない。遊輝が入力してくる刺激に処理が追いつかず、言葉どころか思考さえ出力できない。

 ――このままじゃ……。

 動かないといけない。身を委ねたらダメだ。紅は遊輝からの刺激に耐えながら、フレイムブラッドに手を伸ばす。遊輝を抱き締めるような体勢にはなるが、彼の目を盗むにはちょうどいい。左手に赤い石を持ち替えると、紅は自身の右肩に当てる。

 ――威嚇でいい。発動してっ!

 紅の視界に赤く揺らめく炎が映った。岩ヶ峰いわがみね先生に放ったのと同じ浄化の炎の光だ。それを見てほっとしたのか、意識が急に遠退いていく。

 ――ダメ、ここで気を失ったら……。

 バンッという何かが壁にぶつかる音が遠くに聞こえる。部屋に誰かが入ってきたように感じたが、その像を結ぶ前に紅は意識を手放した。

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