カウント3◇彼女は誰も救えない(1)
◇ ◆ ◇
もしも生まれ変わるなら、あたし意外ならなんだっていい。
道端の石ころでも、日陰の雑草でも。自分の役割を全うして終われるのなら、なんだって。
――〝力に呑まれてる時点で無能もいーとこじゃねぇか〟
…訂正。あたしと、あいつ以外。それだったらなんだっていい。あたしもイヤだけど、あいつにだけはなりたくない。
それ以外だったら。アスファルトにへばりつく吐き捨てられたガムでも、須らく人類から嫌悪される黒光りする害虫でも。
きっとあたしよりマシなはずだ。もっと何か、意義を見出せるはず。
来世のあたしはイマよりきっと。
◇ ◆ ◇
「本当に来た」
ひとの顔を見るなりそう言われ、あたしは声の方をじとりと睨みつける。
その先に居たのは、同じクラスの岸田篤人。不本意ながら彼とは昨日〝友達〟関係になった。あたしの意志を置いて半ば無理やりだ。
今しがた開けた扉を溜息と共に閉める。
「あんたこそ、なんで居るのよ」
ここに彼が居ること自体はおかしくない。もとよりこの部屋は彼が頻繁に利用していた部屋のようだし、昨日も一昨日も彼は放課後はこの部屋を利用している。
だけど今は昼休み。ひとりでここに居るのは少し不自然だ。あたしと違って彼はいつも、休み時間毎に友達に囲まれている。お昼だって例外じゃない。
だけどあの口ぶりは、まるであたしがここに来ることを知っていたかのようだった。
「お昼、今日から砂月がここに来るって聞いたから」
「……」
勿論相手はシラセだろう。あたしもシラセに言われて仕方なく来たようなものだ。今日からお昼はここで食べるように、と。
あたしはいつもの通り、裏庭ででも保健室ででも、いっそトイレの個室でもどこでも食べれる。教室内に居るのだけは苦痛でいつもひとりになれる場所で食べていた。ひとりになれるならどこでも良かった。
だけどシラセに言われなければ、きっとこの場所だけは選ばない。二度とここに来る気もなかったし、この人達に関わる気も決してなかったのに。
「…ひとりなの?」
「逸可はお昼はここに来ないんじゃないかな。僕も普段は放課後しかここに来ないけど、今日からここで食べることにした」
「いつも一緒に食べてる人たちは?」
「大丈夫だよ」
イマイチ彼は、うさんくさい。まともに話したのはつい先日が初めてだけれど、印象は良いものではなかった。
他の同級生たちが幼稚だという次元ではなく、彼は人よりどこか突出して大人びた印象。それがなぜなのかは勿論あたしには分からないし、知りたいわけでもない。ただ、関わりたくない。本能的にそう思えた。
狭い乱雑とした部屋の中央にはひとつだけ長テーブルがあった。部屋の中が昨日より少し片付いている気がする。昨日時点ではこの長テーブルは部屋の隅にあったと記憶しているから、わざわざ移動させたのだろう。
机の上には既に中身の減っているお弁当と黄色いラベルの紙パックのジュースが置かれていた。その席に岸田篤人が座っている。
あたしは手近な椅子に腰をかけた。岸田篤人の向かいの席だった。
「砂月はいつもお昼はどうしてたの? 教室には居なかったよね」
「…適当。人がいないところ探して食べたり、特別教室行ったり」
「じゃあ、この部屋の合鍵あげようか。今日は来るって知ってたから先に来て待ってたけど、いつも僕が先とは限らないし」
益々うさんくさい。
通常は教員が管理している場所の合鍵を持っていることもそうだし、わざわざあたしにやさしくすることも。すべてが訝しくみえる。
でも確かにこの部屋の合鍵は魅力的だった。というかこの教室の場所が、とても都合が良い。
ここは教室のある校舎とは離れているから人気も無いし、特別授業や選択授業で使用する教室しか無いので静かだ。教科担当教員の準備室からも離れている。授業中にこっそりここに来ても見咎められる可能性は低い。
だからと言って素直にそれを受け取るのは癪だし、そうしたら否応なく彼らとの接点は増してしまう。それは不本意だった。
「迷ってるくらいなら、あげる。砂月の好きな時に好きに使っていいよ」
岸田篤人はあたしの答えを聞くより先に、あたしの目の前に銀色の鍵を差し出した。複製されたばかりの真新しい光に違和感を覚え、訝しげに見つめる。
「…合鍵?」
「そう、合鍵」
「これをあたしがもらったら、あんたはどうするのよ」
「大丈夫」
彼の返答は答えになっていない。少なくともあたしの望む答えではない。
「まだ合鍵あるから」
言って、にこりと笑う。それはあたしの望んでいた答えではあるけれど、なぜだろうやっぱり気に食わない。
それから差し出していた拳の閉じていた残りの指を開くと、そこにはあたしに差し出した合鍵と同じものが、ふたつあった。
「逸可に頼まれてたんだ、ここの合鍵。ついでに砂月も要るんじゃないかと思って、作っておいた」
もはや鍵がその役割を果たしていない気がする。いや果たしていないのはこの学校の管理とセキュリティか。
半ば呆れた気持ちになって差し出された合鍵を受け取った。あたしのだというのなら、もらっておくことにしたのだ。なぜならここが、あたしにとってとても都合の良い場所だから。大事なことなのでもう一度そう自分に言い聞かせる。
それから持参したお弁当の包みを広げる。岸田篤人も正面で昼食を再開した。
お弁当を食べながら昨日シラセと話していたことを口にする。
「シラセがあんたのこと、気になるみたいよ」
「僕? 逸可のほうじゃなくて?」
「あいつの能力はある意味単純だもの。あたしと反対なだけ。昨日話した内容で十分把握できたみたい。でもあんたのは、不可解だって」
「一番そう思ってるのは僕だけどね」
言った彼は肩をすくめて笑い、紙パックのジュースのストローを啜った。その仕草は年相応で、素のものに見えた。だからつい、会話を続ける。お弁当の中身に手をつけながら、興味のない素振りで。
「…ひとつ訊いていいかしら」
「砂月が? それとも白瀬さん?」
「あたしも、興味あることよ」
「ならどうぞ」
「時が止まったその6秒間で、止まった世界に干渉できるの?」
「…干渉…?」
「…質問を変えるわ。その力は今までどんなことに使ってきたの?」
その質問に岸田篤人は笑った。そこに漸く、彼の感情が少しだけ滲む。
「特に、なにも」
なぜだろう彼は、ひどく不安定な子供のようだと感じた。
最初は物怖じしないその様子は大人びているのかもと思っていた。だけど違う、逆だ。まるで無垢な子供のように、自分の欲求に忠実なのだ。それを持っているから彼は、それ以外のことにぶれないのだ。
彼の目的を、望みをあたしは知っている。一番はじめに言っていたから。岸田篤人が救いたいのはあたしじゃない。
「自分のこの力に関してはあまり興味がなかったんだ。でも、そうだな。せっかくだし試してみようかな」
「…え…」
ふ、と目の前で岸田篤人が息を漏らした次の瞬間。その口が今度はもぐもぐと動いていた。何かを頬張っている。それをごくんと呑み込んで。
「美味しいね、砂月の手作り?」
その言葉に、はっと自分の手元のお弁当箱の中を見る。卵焼きの最後の一切れがなくなっていた。
「あたしの卵焼き…!」
「砂月の言ってる干渉って、こういうことで合ってる?」
「シラセに報告しておくわ」
言ってお弁当の残りを口にかきこむ。今日は午後から仕事がある。食事は大事なエネルギー源だ。
「僕からもひとつ、訊いていい?」
岸田篤人が言いながら、どこからともなく銀色の包みのチョコレートを取り出してあたしの目の前に置いた。目で問うと「卵焼きのお返し」と笑う。奪っておいてお返しだなって身勝手もいいところだ。だけどチョコレートは嫌いじゃないのでもらっておく。甘いものも大事なエネルギー源だから。
「どうして自分の身を投げ出そうとするの」
「あんたには関係ない」
「捜査協力って、拒否できないの?」
「あくまで自分の意志で〝協力〟しているの。強制じゃないわ」
食べ終わったお弁当箱の蓋を閉じ、包みを結ぶ。それから腕時計で時間を確認。約束の時間まではやいけれど、もう行こう。これ以上ここに居たくない。これ以上余計な会話をしたくない。
「…被害者、うちの生徒だってね」
「……」
岸田篤人は主語を省略していたけれど、何を指しているかはすぐに分かった。今朝から大きくニュースで取り上げられているし、校内でも事件の噂で朝から騒然としている。被害者の学年の階は特に。
でもおそらくこの人に言ったのはシラセだろう。なんとなく想像はついた。
「逸可が言ってたでしょ。つぎは砂月かもしれない。砂月が行くなら不確かな未来が現実になるだけだ」
被害者はもう3人目。皆死んでいて手がかりが多くない。目撃情報も殆ど出てこないし最初の事件から日が経ち情報は錯綜してる。流石に報道規制も抑えられなくなり、公開捜査が決定したのだ。それがつい昨日の話。
被害者はうちの学校の生徒を含め、皆近隣の女学生だという。
「じゃああんたは」
手早く荷物をまとめて席を立つ。今日はこのまま早退する予定で、帰る準備も整っていた。待ち合わせ時間にはまだはやいけれど、きっとシラセが校門の所で待っている。
「どうしてあたしを救おうとするの。あたし達は昨日までほとんど話したこともない、他人だったのよ」
「でも今は他人じゃない」
「他人よ。ただ目の前で死なれるのがイヤなんでしょう? それとも過去への贖罪のつもり?」
あたしを見つめる岸田篤人の瞳が僅かに陰る。滲む感情。揺れる焦燥。
だから、イヤなのよ。自分で言っておいて結局、目を逸らすことしかできない自分も。
「あたしが視る世界では、決して誰も救えない。でも過去が変えられない限り、真実も揺らがない。あたしはあたしにしかできないことを、やるだけよ」
岸田篤人は何も返さない。彼が今どんな顔をして何を思っているのかも、あたしにはわからない。でもわからなくて良いと思った。
早々にあたしは史学準備室を出て昇降口へと向かった。校門へと辿り着く頃、昼休み終了のチャイムが鳴り響く。
校門から少し離れた場所にシラセの車を見つけ、足早に駆け寄る。車に寄りかかり煙を吐いていたシラセがあたしの姿を見つけ、煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
「サツキ、はやかったわね。急がなくていいって言ったのに」
「いいの。はやく行こう」
後部座席に乗り込むとようやく深く息をついた。ここは用意された居場所のひとつに過ぎないけれど、やはり見知らぬ空間より遥かに安堵する。
運転席にシラセが乗り込み、反射的にシートベルトに手を伸ばそうとした時自分の手の中に握っていた物に気付く。
銀色の鍵と小さな包み。チョコレートは溶けていた。
◇ ◆ ◇
自分の存在価値を決めるのは自分だ。他の誰でもないし、他人になんか委ねない。自分で自分を見失ったら、それこそすべてを失ってしまう。ぜんぶ呑み込まれて跡形もなく。
「――サツキ」
薄暗い廊下にシラセの声が響き、あたしは顔を上げる。長い廊下の先にシラセが居てあたしを手招く。その背には冷たい扉があった。
あたしは立ち上がり、ゆっくりと足を動かしてシラセの元へ向かった。
ここに来るのは何度目だろう。もう何回も来ている気がする。でも同じ場所はあたしにとって混同しやすいだけで、実際はそう多くはないのかもしれない。この場所で力を使うことが多いだけで、本当は。
場所、物、人。一番苦手なのは人だ。年齢を重ねた人であればあるほど、その身に刻んだ時間が、情報量が多すぎて。人はおそらく自分で意識しているよりも、膨大な情報をその身に宿している。無意識下において。
シラセが白い布を取り払い、目配せする。
知りたいのは、この
深呼吸。シラセがいつもの顔で笑って見ている、すぐ傍で。
目を閉じる。視界からシラセが消えてすべての音も存在も消えた。
次の呼吸と共に瞼を開けると目の前に黒い影があった。
一筋の、鈍色の光。振り下ろされる刃。視界に血が飛ぶ。
――『謝ってよ』
高架下、遠くで電車の走る音。記憶の中のその場所が重なった。より鮮明に、身体を赤く染めて。
――『ああ、どうして神様は間違えるんだ。死ぬべき人間と、生きるべき人間を』
声は自分の正面から投げかけられる。痛みは感じないのに死の恐怖がこの場を、空間を支配していた。
だめ、同調し過ぎている。切り離さなければ。これはこの
だけどこの
あの冷たい部屋だ。
目を逸らしたいのに逸らせない。逸らしちゃいけない。これはあたしに課せられた義務。どんなに残酷な世界でも、あたしは目を逸らしちゃいけない。
顔を、服装を、特徴を、凶器を――得られる情報を、取りこぼさないよう。脳裏に焼き付ける。だってこれがあたしの仕事だから。役割だから。
鮮やかな赤に光る刃が右足を割いた。吹き出す血しぶき。痛みに眩む。意識が視覚に侵される。
いたい、たすけて。なんで、あたしまで――こわい、やめて。ころさないで。ころさないで。だれか――
違うあたしじゃない…!
「――――…!」
「サツキ!」
暴力的な白い光が視界を覆い、あたしは思わず膝を折る。
ゆっくりと感覚が自分の本当の
ちゃんと、ある。
立っていられずよろけた体をシラセが支えてくれる。抱きしめてくれる。あたしの体の感触を、しっかりと教えてくれる。
そこでようやく、自分がどこに居て誰なのかを取り戻すことができた。
「大丈夫?」
「…うん」
「やっぱり年が近いせいかしら…いつもより深く、入り込んでたカンジだったわね、今回も…」
シラセの言葉に適当に相槌を打つ。
対象が人である場合は特に、性別や年齢が近い分同調しやすい。目線がまるで同じだったから、視るというよりは体感に近かった。
あくまであたしは〝視ること〟しかできないのに。また力に呑み込まれている証拠だ。
「何か、わかった…?」
やさしく、シラセが確認する。あたしはシラセの手を離れて自分の足で立ちシラセと向き合う。報告は、あたしの義務だ。シラセがあたしの支えをしてくれるように。
「場所は昼間に確認した高架下のトンネルで間違いないみたい。犯人は男だと思うけど…暗くて顔までは見えなかった。だけど見上げた目線のかんじから、身長は高い。あたしより15㎝くらい。凶器は包丁よりは大きなカンジだったけど…はっきりとは、見えなかった…右足は、死ぬ前に切られて……」
振り上げられる刃の残像が、脳裏を掠める。
疼く傷口。だけどそこに傷は無い。切られたのはあたしじゃないから当然だ。
「先に殺されたふたりと友人関係であったことも確かみたい。シラセの予測する殺害動機と人物像は間違ってないと思う」
「…そう、あとは裏付けが取れれば少しは捜査範囲も広げられるんだけど…どうしてこう大人っていうのは隠し事が好きなのかしらね」
頬に手を当ておおげさに溜息をつくシラセに少しだけ笑う。シラセも確かに隠し事が好きだ。
「例の女の子は、居た?」
あたしを壁際の椅子に座らせ、白い布を元に戻しながらシラセが訊いた。あたしはそれを見つめながら、頷いた。
「居た。けど…顔は、わからなかった」
「…そう」
「どうでもいい人間の顔なんて、覚えていないものなのね。彼女の記憶のなか、まるでのっぺらぼうみたいにそこに顔はなかった。興味が、ないものなのね。過去に自分がいじめて自殺にまで追いやった相手の顔なんて。…誰ひとり正確に、覚えているひとは居なかった」
◇ ◆ ◇
学校は今しか学べない物事を学びに行く場であるから、出来る限りは参加すること。それがあたしの保護者でもあるシラセとの約束だった。あたし自身は、学校なんか行かなくてもいいと思ってる。だけどそうもいかない。
あたしが学校を遅刻したり早退したり休む理由の大半は、力を使う関係が多い。 シラセもそれを承知しているから無理してまで行けとは言わないけれど、あたしが学校に行く時間を減らすとシラセは責任を感じる素振りを見せるので、起き上がれる内はなるべく行くようにしていた。
だけど流石に昨日までのダメージは思ったより体に残っていた。上手く対象と自分を切り離せず視たものに感化されてしまい、その影響が大きいほど体への反動も大きい。それらすべて、自分の力不足のせいだと自覚している。だから余計な心配はシラセにかけたくなかった。
遅れて学校に来たものの、教室には向かわず別の校舎を目指す。授業中の校舎内はしんとしていて静かで、だけどそこら中の教室に生徒たちが押し込められているかと思うとどこか不快にも感じる自分が居た。
制服のポケットから、銀色の鍵を取り出す。合鍵をもらえたことをこんな早々に感謝することになるとは甚だ不本意だけど仕方ない。
冷たい扉の鍵穴に、手に入れたばかりの銀の鍵を差し込みカチリと回して扉を開ける。昼間なのに窓は本棚に殆ど隠れていて、カーテンのひかれた薄暗い部屋。
当たり前ながら無人であることにほっと胸を撫で下ろす。この部屋の合鍵を持っている人物は少なくとも3人。先客が居ないとも限らないのだ。
そっと足を踏み入れ、扉を閉めて鍵をかけた。
入って右側にある本棚の前に置かれた黒い革張りのソファが目についた。確か藤島逸可の定位置だ。先日もそこでふんぞり返っていた姿を思い出す。同時に彼に言われた数々の嫌味も。
岸田篤人は昨日、好きに使っていいよと言っていた。この部屋で何かを制限された覚えはない。
ソフォをまじまじと物色する。確かにふんぞり返るにはちょうど良さそうなソファだ。横になるのにもうってつけだった。
荷物を椅子に置き、ソファに体を沈める。途端に埃の匂いに包まれた。だけど嫌いではなかった。
そのままゆっくりと体を横に倒す。視界が九十度傾いて、あたしはそのまま瞼を閉じた。
シラセの言葉を思い出す。ここで言っていた言葉。
『あなたのその力はもっと緻密に制御してもらえると助かるの』
裏を返せばこのままだと困るということ。役立たずだということだ。
シラセにあのふたりの話をした時、イヤな予感はずっとしていた。
最初はあたしの力が他人に知れてしまった報告だけのつもりだった。それはあたしの能力の管理、保護をしているシラセへの義務だからだ。
だけどシラセは、相手にやけに興味をひかれたようだった。知られた経緯、人物像、相手の力。そして果てには会いたいとまで言い出してきた。
わかっている。あたしの力は未熟だ。あたしは未だにこの力に振り回されている。5年前から何も変わらない。制御しきれていないどころか、呑み込まれてしまう。過去の濁流に。
藤島逸可の言ったことは図星だった。だから余計に悔しかった。
シラセは〝まだ〟と言っていたけれど…必要があればあのふたりにも、捜査の協力依頼をするのだろうか。そうしたら…あのふたりの方が、あたしよりも有能だったら。あたしはどうなるのだろう。シラセのただのお荷物でしかなくなる。
ぎゅっと瞑った瞼の向こう。見えないはずの天井が揺れた。
すべての音が遠ざかる中、一瞬のノイズ。霞んだ景色。馴染んだ感覚。
ダメ、入ってこないで。触らないで。
こじあけられる。瞼の裏の視界を、鼓膜を、決して触れることのできない感覚を。
あたしの手を離れたこの力を、もはやあたしはどうすることもできはしない。
無意識に瞼を押し上げると、そこがこの部屋の過去であることがわかった。景色の鮮度からそう遠くはない。おそらくごく最近の。
『それに、変える意志のないヤツには他人が何をやったって、やろうとしたってムダだ』
少し離れた場所で岸田篤人が座ってこっちを見ていた。仕方なさそうな、少し困った笑い。
『運命も、未来も。変えられるのは自分自身だけだ』
その声は藤島逸可のもの。あたしのすぐ脇でソファにふんぞり返りながら言った。すべてを知っているかのような、傲慢な目。
この場所を座標として、時間が動く。遡っていく。
目の前にはやっぱり岸田篤人が居た。同じ景色。だけど同じ時間ではないことを、あたしの
見下ろすその目はあの時と同じ色。なぜかあたしは、その目を見ていられなかった。その目が見ているのはあたしじゃない。
『入沢を死なせない、絶対に』
――やめて。あたしに、近づかないで。触らないで。はいってこないで。
あたしには、救えない。
過去も今もそしてこれからも。
あたしには誰も、救えない。
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