第4話 日常と足音
昇降口を抜け、二年生の廊下に入ってから別行動。
桜斗は手前の一組へ。エレニアは温和なオーラで観衆を掻き分けながら、廊下の中央にある三組へ。
別れ際、二人は実にサバサバとした挨拶を交していた。好意の理由を尋ねた後の、浮かない表情は消し切れていた――と思う。
そう、何事も切り替えは肝心だ。くよくよ気にしていたって、彼女が考えを改めるわけではない。改める、という表現自体が間違っている場合もあるし。
余所は余所、うちはうち。
人の歴史は十人十色だ。挨拶をしていくこの瞬間にも、同級生達は誰一人、同じ行動をしていない。雑談にしたって、個性に応じた違いで溢れている。
自分の価値観に誤りがないことを自覚し、桜斗は堂々と教室へ。
「……」
しかし一つ、動きを鈍らせる理由がある。エレニアだ。彼女に向けられる視線の少数が、何かを探るように薄暗い。
もっとも、現段階で悪意となる程ではなさそうだ。
昨日と今日では変化も幾つかあるし、今は教室に入るとしよう。立ち止っていたら通行の邪魔だし。
「おめでとさーん!」
クラッカーの雨が、さっそく出迎えに飛び散った。
やっているのは雄桐と、知人のクラスメイト数名。他の生徒達は男女問わず、疎らな拍手を送ってくる。
肩を叩いてくる連中の力が妙に強い。っていうか怒りさえ籠ってないか?
「いやあ、めでたいな! ……って何だ、浮かない顔だな?」
「驚いてるだけだよ。――まあ、新しい問題が出たと言えば出たんだけど」
「ほほう」
意味有りげに頷くと、親友は桜斗の席へ歩き出す。相談には乗るぞ、の意思表示だった。
彼と共犯だった生徒は徐々に散っていく。気遣いも何もない自然な流れだが、これには大助かりだった。内容的に一般人へは相談できないので。
自分の席は窓際、居眠りに適した最後尾に置かれている。獲得までに熾烈な争いがあったのは言うまでもない。
「で、どうしたんだよ?」
単刀直入な問い。雄桐は正面、他人の席を借りて頬杖を突く。
「ツェニアさんに襲われた」
これまた桜斗も、端的な表現で告白する。
しかし雄桐は眉根を顰め、今にでも拳を振り下ろさんばかりだった。身に覚えなんて当然なく、ただただ唖然とするしかない。
「ちくしょう、ハーレムってわけかよ。やっぱリア充は違うな……。この学校で自由な気風だからって、まさか一夫多妻とはなあ」
「そういう意味じゃないからね!? 命の危機ってことだよ!」
「修羅場的な? ――って悪い悪い、睨むなよ。いきなり攻撃された、ってことだろ? あくまでも物理的に」
「……何だか表現に罠がありそうだけど、まあその通りだよ」
成程なあ、雄桐は一人納得の顔。
周囲に生徒がいないことを改めて確認し、椅子を更に近付ける。
「今日、ツェニア先生休んだろ? それがどうも、良からぬ噂を帯びててな」
「噂?」
「ほら、ニュースでもやってたろ? ここ数週間で連続してる誘拐事件。あれの犯人がツェニア先生じゃねえかって、皆が噂してるらしいぜ」
「ああ、まだ被害者が一人も発見されていない、っていう?」
「お、さすがに知ってたか。まあ自分のお膝元じゃ、興味も湧いてくるんだろうけどよ」
「無視は幾らなんでもね」
父も、随分と手を拱いている様子だった。
どうも現場には、不自然な陥没が決まって残っているんだとか。金霧家による調査は、それを獣化した超種の足跡と断定。犯人を洗い出そうとしているらしい。
超種が相手である以上、警察に任せるのは危険すぎる。最悪、死傷者を出す事態に繋がりかねない。
そうなったら、打撃を被るのは金霧家だ。
幾ら森へ引き籠っているからとはいえ――いや、引き籠っているからこそ、外部との折衝は生じてしまう。今は開拓の時代。自分達の森を守るためには、町の有力者と伝統的な繋がりを破るわけにはいかないのだ。
当然、彼らも無条件に協力してくれるわけではない。あくまでも金霧側へ利を感じるからこそ、仮初の協力関係を築いている。
超種による文明社会への干渉を行わない――これが人間との前提であり、数々の超種が土地を守れている理由だった。
それが破られているとなれば、彼らも黙ってはいないだろう。住民な抗議に繋がることは有り得ないが、権力者に態度を変えられれば同等の意味が出る。
「ツェニアさんが本当に犯人だったら、一大事だな……」
「加えてあの人、親父さん直属の部下なんだろ? 責任がー、って飛び火しそう――」
言葉の途中で、彼は唐突に後ろを向いた。
教室にとっては正面。しかし別段、異常らしきものは見当らない。爪を立てて異音が鳴っているわけでもなし。
しかし、廊下の方が妙だった。
「二組……じゃないな。三組か四組の辺りか、騒がしいのは」
「何かあったのかな? 三組って、確かツェニアさんの担当だったし」
「そういやそうか。――よし、見に行くぞ」
「え、ちょ、雄桐!?」
跳ねるように席を立ち、駆け足で廊下へと移動する。
「……」
無視を決め込みたいところだが、三組はエレニアのいるクラスだ。例え巻き込まれてでも、彼女の現状ぐらいは確認したい。
数秒の間を置き、桜斗も違和感の舞台へ踏み込む。
その規模は既に喧騒と言っていいレベル。今まで気付かなかったのが不思議なぐらいで、すっかり人間の壁が溢れていた。
雄桐は今まさに波を掻き分けていく中。せっかくなので、閉じる前にその痕跡を利用させて貰おう。
徐々に近付く中心。人混みが廊下にある以上、それが教室なのは明らかで――
「用意をしろ、とワシは言ったぞ」
獣の威嚇と変わらない、厳かな声色が聞こえてきた。
悪寒に急かされ、最前列へと力強く押し進む。前を進んでいた雄桐さえ追い越して。
現場の光景を収めた直後、隣りからは嫌悪感を知らせる声が。
「げ、理事長様かよ……」
女子生徒の前に立つ、如何にも偉そうな初老の男性。
千浄忠将。雄桐が口にしたように、この高校の理事長を務めている。金霧家とも縁のある人物で、協力者の一人だ。
彼と対峙しているのは無論エレニア。彼女は目を瞑り、視界にさえ入れたくないという徹底ぶり。
「いいかね? 貴様の姉が疑いを掛けられているのだ。他の生徒達に不安を与えないよう、今直ぐこの学校から立ち去れ」
「……」
「貴様に一体どんな責任が取れると? 学生の分際で、大人に歯向かうな」
最後の暴言は、さすがに外野の気を逆撫でする。無言で観衆に徹していた生徒達が、次々に文句を口にした。
が、千浄の睥睨が一瞬で黙らせる。伊達に歳を重ねていない、凄みのある一瞥だった。
「――おお、若様」
こちらの存在に勘付かれるのも、半ば必然。
エレニアと反対に目を開けて、大人の前へと近付いていく。
「お久しゅうございます。昨夜、儀式を無事終えたと聞きましたが……お相手は?」
「えっと、貴方の前にいる彼女が、その相手です」
「なんと!」
喜びも束の間。露骨に芝居がかった反応で、桜斗の肩に手を乗せる。
「それはいけませんぞ! 一族のためにならない! このような半端者、桜斗様のご寵愛を賜わる資格は――」
「あー、あのですね」
エレニアは未だ無言。こちらに同調する素振りもなく、我関せず、の姿勢を貫いている。
面倒だが仕方ない。彼女が口にしたところで、問題を悪化させるかもしれないし。
「俺が決めたことなんで。口、出さないで貰えます?」
「――」
おお、と観衆が戦慄いた。
千浄は即座の反論も肯定もない。宣言をしっかり反芻しているのか、瞬きもせず固まっている。
冷えた眼差しを、氷点下まで下げながら。
「……しかしですな、若様。この女の姉は誘拐事件の犯人である可能性がある。親族であれば無罪放免というわけにはいきますまい。昨夜など、我が校の生徒が被害にあったのですぞ。こやつが関わっているとしたら――」
「それは違いますよ。彼女、夜は俺と一緒にいましたし」
おお!? とまたもや外野。変な噂が立たないといいけど。
千浄は尚も引く気配を見せない。変わったのは表情ぐらい。耳を欹てれば歯ぎしりが聞こえそうな、怒りに歪んだ顔付きだ。
「第一この学校、自由な気風が売りですよね? 他人、ましてや理事長から生徒に文句を言うのは、色々と捻じれてる気もしますが」
「……成程」
嘲笑さえ混じった吐息。
彼は踵を返すと、生徒達が待つ廊下へと歩き始めた。
後は何もない。足が止まりそうになる度、大人気ない怒鳴り声を散らすだけだ。……あんな稚拙な人物が金霧家を支えているなんて、考えるだけで頭が痛い。
「申し訳ありません、桜斗様……」
無言に徹していたエレニアが、千浄の退室を見計らって口を開く。
予想し切っていた返答には月並みの返事しか出ない。それでも彼女は後ろめたそうに、胸元へ手を沿えている。
「――じゃあ、気持ちは取り合えず受け取っておくよ。それでいい?」
「は、はい。……って、何だか変な言い方ですね。まるで桜斗様が、何かの許可を求めているようで」
「そう? 単にエレニアの考えを尊重したかっただけだけど」
「思いっきり叱ってくれてもいいんですよ? もう……」
頷く彼女は、リラックスして撫で肩を作っている。
釣られて全身の力を抜く桜斗だが、唐突にチャイムが鳴り響いた。一足早く来ていた教師達は、廊下に集まり続ける生徒へ檄を飛ばす。
「それじゃあ、また後で」
「ええ。お昼、一緒に食べましょうね?」
「う、うん?」
いつものことだろうに、とびきりの笑顔で見送るエレニア。
廊下の喧騒は素直に移動を開始し、一日のスタートを告げていく。
午前の授業は、変わり映えもなく終わったと思う。
無論、集中して過ごせたかどうかは話が別だ。学校の椅子と机は、もはや拷問の道具。悪魔さえ逃げ出す寝台である。
まあターニングポイントを迎えてしまえば、後は惰眠を貪って突破するまでだ。そのための後部座席。……連休明けのテスト期間を考えると、そこまで油断は出来ないのだが。
「金霧、食堂に行こうぜ」
「ん、了解」
忙しない雰囲気の雄桐に釣られ、桜斗も即座に席を立つ。混雑を躱すための最善最速な動きだった。
しかし。
妙なぐらいに静まり返っている廊下へ、二人は一緒に眉根を寄せる。
「なんだ、またあのジジイか? もしくは――」
「後者、じゃないかな……?」
「マジかよ……」
沈黙の大元は、教室を出ようとするこちらから見て左。二組や三組の方向にある。
「桜斗様ー!」
夜が唐突に朝を迎えたような、元気一杯の声。
エレニアだった。彼女の両手には、サイズが一回り異なる弁当箱が二つ。誰と誰の分かは問うまでもない。
雄桐を含むクラスメイトの視線が一斉に突き刺さる。男子からは妬みが、女子からは応援が。
「……」
「お、どうした? 行かないなら、俺が変わりを引き受けるぞ?」
「それは全力で阻止するかな。じゃ」
「ああ、達者でな!」
どこか不吉な応援に背を押され、駆け足で廊下へと入場する。
二人への注目度は室内よりも更に高い。特に大きいのは驚くような声色だ。入学以来、彼女が二つ弁当を持ってきたのは始めてだからだろう。
「では桜斗様、一緒にお昼を頂きましょう。中庭とか良い場所だと思うのですが、如何でしょうか?」
「別に構わないけど……お弁当、朝一緒に作ってたの?」
「はい、気分が結構乗っちゃいまして。……自信はそこまでありませんが」
苦笑いを浮かべるが、彼女の手料理は何度か経験がある。失敗作を想像するなんて、それこそ自信が持てなかった。
きっと、早くから起きて用意してくれたんだろう。胸の中は感謝で一杯だ。愛情への疑念なんてどうでもいいぐらい、彼女の努力を讃えたい。
だが口を動かすより先に、エレニアが桜斗の手を取った。
登校中の理論からすれば、恥かしくて仕方のない行為。心地良い手の温もりには彼女の緊張が滲んでいる。引っ張るぐらいの力強さも、本音の一部を代弁していた。
しかしその甲斐あって、直ぐに生徒たちの視線から抜け出す。
中庭は食堂の反対側にあるため、昼間はひっそりと静まり返った場所だ。弁当組からは陰の人気スポットとして注目を集めている。
「さて」
しかし今のところ、利用者は桜斗とエレニアの二人だけ。
窓から覗き見る観衆もいない。年期の入ったベンチだけが、無言の歓迎を示している。
最初に桜斗が腰を降ろし、続くエレニアは二の足を踏んでから隣りへ。緊張のあまり現状を忘れたのか、弁当箱を開けようとすらしなかった。
ベンチは、二人がどうにか座れるスペース。必然的に密着となるのが、緊張の最たる原因だった。
「……エレニア、食べよう」
「は、はいっ!?」
冷静すぎる少年の一言に、少女の肩が驚きで跳ねる。
生唾を飲み込み、更には深呼吸までして、エレニアは弁当箱を手渡した。やはり桜斗の方が少しばかり大きい。以前、男の子なんだから沢山食べなさい、と彼女や母が注意してきたことを思い出す。
作る以上は、同じ気遣いがあるんだろう。自分も細い身体には不安を覚えるので、胃袋を少しは大きくしたい。
前述通りの期待を胸に、弁当の封を解放する。
「……うん?」
香ばしい匂いの直後。――斜め上の予想を突かれ、桜斗は疑問を漏らしてしまった。
別に変なモノは入っていない。食欲をそそる品々が並び、間違いなく上出来を認められる。店に出したって恥かしくないんじゃなかろうか。
ただ、偏っている。
肉、肉、肉。ハンバーグに唐揚げ、炒めた物から味噌漬けまで、とにかく肉尽くし。米のスペースは最低限確保されているが、野菜類に居住権は与えられていなかった。見ているだけで口の中が脂っこくなる。
「桜斗様も男性ですから、お肉を食べないといけません。野菜の分も削って突っ込みました」
一色で染められた光景を、エレニアは誇らしげに紹介する。
桜斗はハッキリしない返事を寄越すだけ。食べられないわけじゃないし、肉は一応好物だが――印象だけでメニューを決めるのはどうだろう? 毎日この組み合わせが出てきたらさすがに飽きる。
それはいくら何でも、と脳裏で否定しながら、桜斗は短い前置きを作った。
「今後は弁当、毎日こんな感じ?」
「まあそのつもりです。育ち盛りとしては問題ないでしょう?」
「……」
本当なら気を使って誤魔化すべきだろうが、つい沈黙を作ってしまう。
なので本音は、暴露されたも同然だった。
「す、済みません。もう少し、少なめの方が良かったですか?」
「というかその……少し野菜が欲しいかな。さすがにこの偏りを毎日は。身体を作る前に病気になっちゃうよ」
「なら一先ず、今日は問題ないと?」
箸を手にしつつ、今度ばかりは明快に肯んじる。
感想が行き交ったお陰か、二人の空気は一歩下がって弛緩していた。雑談も応じて、自然な流れから抽出される。
「ちょっと過信でしたかね。印象だけで作るのは危険なようです」
「い、印象? 俺、結構細身じゃないか」
「でも列記とした男性でしょう? お肉を沢山食べるのが当たり前かな、と」
「まあ……」
否定はしないが、偏見なのもまた事実。
朝食が普通だった分、余計にエレニアが分からない。弁当自体を作るのは始めてだったようだし、それが微妙な失敗に繋がったんだろうか? 学習能力に望みを託す他あるまい。
口の中を満たす塩分と油。米が無かったら飽きそうだ、と最終防衛ライスに感謝する。
「……エレニアの方は、バランスが取れてるね」
「そりゃあ勿論。将来のことも考えて、きちんと栄養は取っておきたいですし」
「将来?」
「はい。ほら、桜斗様の子供を産む時とか」
「!?」
気軽に投げ込まれた爆弾だった。
しかし肝心の当人は、顔を赤らめることもなく食事に励んでいる。逆に桜斗は絶句して凍結状態。会話すらままならない状態だった。
なるほどエレニアの持論は、容易に可視化されるものだったらしい。
「? どうしました? もうお腹一杯ですか?」
「いや、まだ全然余裕だけど……」
「――わ、分かりました。こうして欲しいんですね?」
野菜が足りない、との指摘を思い出したのか。エレニアはサラダを箸で挟み、桜斗の方へ。
いや、口元へ。
「は、はい、あーん」
やっぱり、赤面満載の浪漫へ走った。
沸騰するような恥かしさがあり、桜斗は依然として静止する。これはさすがに勇気が必要だ。自宅であっても出来たかどうか。
エレニアは断行する構えらしく、丸い瞳をじっと桜斗に注ぎ続ける。必然の流れで十二分に緊張は膨らみ、混乱の底は深まるばかり。
「は、恥かしいなら無理しなくても……」
本音では嬉しい癖に、その場しのぎな提案が喉を通る。
無論、彼女はまるで退こうとしなかった。逆に箸を近付けて、有無を言わせない迫力すら従えている。
「こ、こういうの、お決まりのシチュエーションでしょう? ……それに、恥じらいが混じってるのも、ですね。可愛いらしいじゃないですか」
「む」
確かにその通りで、直ぐには次の反論へ移れなかった。
なら喜ばしく、彼女の行為は受け入れるべきなのかもしれない。まさに青春の一歩。
だが二階からは、少数の生徒たちが顔を出している。
「あ、あのさ、エレニア……」
「もうこれは、最高の機会だと開き直りましょう。見せつける意味で!」
一転して笑みを浮かべる彼女に、もはや雰囲気は皆無。
桜斗は降参して覚悟を決める。二人っきりの食事自体は見られているのだ。これから更に踏み込んだ行動へ発展しても、観衆は当然の一環として受け取るだろう。そうであってください。
受験結果を見る時のような緊迫感で、静かに箸へと近付いていく。
途端。
「あ、御免なさい」
エレニアの携帯電話が震動する。
拍子抜けする勢いで箸を下げ、彼女は個人の世界へと戻っていった。頭上からは落胆の声。こっちの気分については、項垂れもすれば安堵もする複雑なものだった。
連絡の手段はメールだったんだろう。しばらくの間、彼女はディスプレイに視線を落として動かない。
「――ちょっと急用が出来ました。申し訳ありませんが、後はお一人で」
「へ?」
言うが早いか、エレニアは弁当を片付けて退場する。
理解が追い付かず、小さくなる背中を桜斗はじっと眺めていた。それは大勢の保護者達も同様で、根も葉もない推測を巡らせている。
「どうしたんだ……?」
追い掛ける選択もあったが、重い腰は座ったまま。
昼の眠気を覚悟して、感謝と共に食事を進める。
中庭が見えなくなった場所で、エレニアは再度メールの内容を確かめた。
記された要求は短く、いい加減にしなさい、というもの。他には一枚の動画ファイルが貼付されている。
母が、巨大なフラスコの中で揺らめいている姿が。
目蓋を降ろした顔は、生命というものをまるで感じさせない。一目見るだけで中身が消えていることを理解させる。――しかし口元を僅かに動かしており、必死に生きていることを示していた。
「……」
直ぐにでも檻の中から出したいが、今は歯を食い縛るぐらいしか出来ない。
メールの送り主は姉のツェニアだ。全体的に見て脅迫的な内容のメールだが、彼女の意図としては文面通り。戒めの方が強く出ている。
だが、従うつもりは毛頭ない。姉の考えは大半が読めないが、母の一件からこちらを追放しようとしているのは分かる。これもまた、彼女が言う自由のためだろう。
家族を見捨てろと、ツェニアは声高らかに謳っている。
有り得ない話だ。子が親を見捨てるなんて。他人の審判を仰ぐまでもない、列記とした悪徳ではないか。
「母さん……」
穏やかな日々。家族で過ごした、幸せな光景が自然と浮ぶ。
ここで姉の要求を飲むことは出来ない。残るは言葉での説得だが、通用する望みは僅かだろう。
方や、他に具体策が無いのも事実だった。
エレニアは携帯電話を開き、メールを送信。相手は言うまでもなくツェニアだ。姉妹で一対一、本音の交渉へ望むしかない。
残るは桜斗への連絡。彼をこの事件に巻き込むべきか否か。
しばし画面を見つめた後――エレニアはメールを閉じる。この件に彼を関わらせるわけにはいかない。動機は今一だが、姉が狙っている人物でもあるわけだし。
不安があるにはあった。自分一人で、ツェニアを説き伏せることが出来るだろうかと。
それでも助力を求めようとは結論しない。可能不可能ではなく、こうあるべきなのだから。本当に弱音を吐くとすれば、自分が不出来だと証明された時。
とにかく早めに済ませよう。少し彼の護衛を開けることになるが、ツェニアを学校の外に呼び出せば少しは危険も軽減される。桜斗が言ったように、日中から事を起こせる環境ではないのだし。
軋む想いを引き摺って、エレニアは臨時担任の元へと走り出した。
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