第3話 曖昧な距離

 走り続けること数分。どうにか町の方へ到着し、追撃の手も撒けたらしい。人為的な騒々しさは消え、夜の冷たい静寂が帰ってくる。

 周辺に建つのは近代建築。マンションと一軒家が入り乱れ、人々は明日の活動に控えて睡眠中だ。深夜帰りのサラリーマンすら見当らない。

 とはいえ。その中を闊歩する人狼の姿は、実に非日常的だった。

 早く人間の姿に戻ればいいだろうに、彼女は頑なに首を振らない。敵が襲ってきたらどうする、とのことだった。

 確かに道理は通る。が、ファンタジーな存在が町中を闊歩するのは如何なものか。

 人狼は竜人と同様、超種の一系統に属している。本来は隣町に活動拠点を持つ種族であり、金霧家と繋がりは薄いのだが――


『よし、到着です』


 相変らずの対話方法で、一軒のマンションを示される。

 彼女はそのまま自働ドアを潜って中へ。

 分厚く美しい毛に覆われたまま、一階のオートロックにパスワードを入力、解除する。……彼らの姿に新鮮味は感じないが、絵にすると笑いがこみ上げてくる光景でもあった。


『歩けますか?』


「あ、ああ。もう大丈夫だから、歩くよ」


 言葉通り、無残に噛み付かれた右腕は大部分が治っている。これも斬竜皇子バルムンク、もとい竜殺しにある能力のお陰だ。敵を問わず発動するため何度も助けられている。


「部屋は何階?」


『五階です。私は階段を使って行きますから、桜斗様はエレベーターでも何でも、好きな方を使ってください』


「好きな方って――」


 言い終える前に、エレニアは階段の方へと去っていく。

 元の姿になってから登るのか――と思いきや。彼女は変化を介さずに昇り始めた。巨体が礼儀良く階段を踏んでいく様は、やはり違和感しかない。どうコメントしたものか。


「……」


 指摘したい気持ちを抑えて、桜斗はエレベーターを呼び付ける。

 入って五階を指定した後は、ただ茫然と頭上のランプが点滅するのを待つだけだ。右腕の異音を聞きながら。

 湿り気のある、生々しい音。まるで血肉が吸われているようで、気分はまったく宜しくない。まあ再生するだけ、他人よりも数十倍は得しているのだろうけど。

 もっともこの再生は、そこまで高価な能力ではない。何より時間が掛かる。実戦中に使っていけるかと問われれば、否定するしかない代物だ。

 本来の竜人なら、瞬きする間に治るのだが。


「――って、止めだ止め」


 一族の者達と自分を比較しても仕方ない。異質な存在なのだから、違っていて当然だ。

 エレベーター独特の、重力に逆らう感覚が止まる。

 共通の廊下に出る桜斗だったが、右へ進むべきなのか、左へ進むべきか分からない。目印になる人影もなく、混乱して左右を見渡すだけだ。

 と、廊下の左に銀色の尾が映る。実に分かりやすい案内だった。

 小走りで追い掛け、更に角を曲がった奥。不自然に扉の開いた部屋が、誰かの来訪を待っていた。一礼してから境界を跨ぐ。

 玄関から続くのは一本の廊下。途中に洗面所があるだけで、他は殺風景な一直線だ。

 居間の明りへ導かれるように、桜斗は扉を閉めてから靴を脱ぐ。

 人の気配はきちんと一人分。姿こそ現さないが、来客の登場を待機していた。


「お邪魔しま――」


 控え目に、居間へ片足が入った瞬間。

 柔らかい感触が、桜斗の唇を塞いでいた。

 驚く暇もない不意打ち。思考回路が殆ど停止し、息苦しいとだけ感想を抱く。


「――!?」


 冷静さを取り戻すまでは、一秒も掛からない。

 ん、と切なげに息を零し、密着していた誰かが後ろに引く。何処となく赤い頬。少女らしい愛らしさと恥かしさを同居させる、男殺しの表情だった。

 未だに残った感触は、彼女が何をしたか雄弁に語っている。


「キス、しちゃいました、ね」


「あ、あの、エレニアさん……?」


 質問に適した姿勢も分からず、依然として控え目な態度。

 少女――エレニアの赤面は治らず、俯き気味にこちらを見ている。恥じらっている部分もあって、可愛いとしか認識できない。

 上目遣いの視線はどこまでも蠱惑的だった。未熟な少女を、完成した大人に見せてしまうほど。彼女もそれを理解し、威力の増した頬笑みを送ってくる。


「――」


 しかし、どう反応したものか。

 何処となく弛緩した眼差し。口付けの熱は冷めておらず、いつも以上の無防備さを匂わせる。

 つり上がった形の目も、普段のような第一印象を抱かせない。まるで夢うつつになっているお姫様。迎え入れた理想に、次の一歩すら求めている。

 何もかもが赦される瞬間。知らず、少年は生唾を飲んでいた。洗脳されたように、彼女だけを見続けて。

 と。


「ふふ、どうしました……? そんなにじっと見て」


「え、ああ、何でも……」


 見惚れてた、と素直に褒める勇気もなく、桜斗はエレニアと間を作る。

 色々な行動を問うべきなのだが、強い緊張が邪魔をして言い出せない。しかし彼女の方は振り切れた様子で、狼狽えるこちらを面白そうに眺めていた。

 放っておけば一生続けそうな、初々しい二人。時間だけが動いている。


「取り合えず座ってください。話はそれからで」


 相手を選ばない敬語口調で、さあ、と彼女は椅子を引く。

 桜斗がその反対側に座ろうとすると、慌ててエレニアもそちらに向かう。どうやら椅子を引いたのは、ここに座れ、という意思表示だったらしい。

 飛び込んできた側なのに――脳裏に謝意を過らせながら、彼女の厚意へ甘えるとする。

 お互いが腰を降ろしたところで、エレニアは小さく咳払い。赤いままの頬とは逆に、真剣な眼差しを向けてきた。


「ではまず、現状を簡単に説明しましょう。つい先ほど、私と桜斗様は契り――つまり婚約を交しました。ええ、以上です」


「ず、随分とあっさりしてるな……。でも契りの儀って、あの社じゃないと駄目な筈じゃ?」


「ええ、正式な手順では。しかし口付けさえ済ませてしまえば、仮であっても成立します。桜花様から説明されませんでした?」


「あー、言ってたような、言われなかったような……」


 儀式の話をする時はエレニアのことばかり考えていたから、聞き逃したのかもしれない。

 特に嫌味を言うでもなく、少女は首を縦に振った。桜斗が性格上、妥協案といったものに否定的だと知っているからだろう。

 正しい相手を選び、正しく儀式を成し遂げることが、今回に関しては目的だったわけで。


「……ともあれそういうことで、今日から私は貴方の妻、桜斗様は後継者の権利を手に入れました。これでようやく、胸を張ってご両親と肩を並べられますね」


「うん、そうだね――って、幾つか聞きたいんだけど」


「?」


 直前の初心な光景も何のその。すっかり赤みの引いた表情で、エレニアは首を傾げていた。


「今日の昼に限った話じゃないけど……どうして、相談を避けるような真似をしたの?」


「……桜斗様の相談に乗れば、気持ちを疑ってしまうような気がしてしまって。本当、済みませんでした」


「え、いや、こっちこそ。情けなくて申し訳ない」


 息を揃えて、二人が二人に謝罪する。

 しかしどちらも譲ろうとせず、合戦のように言葉を浴びせあう時間が始まった。お互いを尊重するからこその、微笑ましい譲り合いに発展していく。

 傍から見れば、さぞ馬鹿馬鹿しい光景に違いない。――自覚があっても止められない辺り、余計に可笑しなやり取りだった。


「でしたら!」


 頑固さでは負けたくないのか、エレニアが大きな声で流れを区切る。


「私がどれぐらい反省しているか、体感して頂きましょう。具体的には……そうですね、取り返しの付かないような蜜月を過ごす方向で」


「は、話が飛び過ぎてませんかね!?」


 何なら良いんですか、とエレニアは改めて不満顔。一方で桜斗も、謝罪以外に何を欲しがっているのか、頭の中が整理できていない。狼狽の元が多過ぎる。

 ただ、他に聞きたいことなら幾つかあった。無関係な話題でもないし、そちらでお茶を濁すとしよう。


「そ、それよりも、ツェニアさん! あの人、どうして俺を攻撃して来たんだよ? しかもいきなりさ」


「……私からは推測しか語れませんが、宜しいですか?」


「是非」


 しかし、直後にあったのは沈黙だった。

 桜斗はひたすら待つしかない。エレニアの迷うような横顔も、今は無視を装っておく。


「――ふむ」


 身動ぎしない少年へ、白旗を上げるように嘆息する少女。姿勢を改め、凛とした雰囲気を際立たせる。


「事の始まりは先月のことです。姉は何があっても桜斗様との契りを認めないと、電話で連絡してきました」


「電話を?」


「ええ、大切な話なのに。……で、私は真っ向から反対しました、桜斗様の意思はどうなるの、って。しかし姉は、私達を自由にするためだ、の一点張りでして。説得なんて聞きもしませんでした」


「だから攻撃されたって? 自由にするんじゃないのかな?」


「ひょっとしたら、それも自由の一つかもしれませんよ」


 清々しい宣告に絶句する。

 死して自由になるなど、桜斗にはどだい信じられない。別に宗教者でもないのだ。死後の正解に対して、特定の価値感は持っていない。

 そもそも。夕方の話で、ツェニアは応援する立場だった。姉妹の衝突が先月の話なら、変えたという線も有り得るが……。


「――本当に?」


 幾つかの疑念が重なり、再度の確認を求めていく。


「会話の概要は本当です。しかし、姉さんの目論みについては推測でしかない。まあ若様を自由にすると言って攻撃したんですから、危険な相手なのは確実ですが」


「……」


 数時間前のツェニアは、何だったのか。

 当時の表情でも伺えれば、少しは現実味のある推測も出せただろう。しかし伝えられたのは台詞、抑揚だけ。それらを基準にするなら、彼女はいつもと変わらない、ちょっと過保護なだけのお姉さんだったと思う。

 反面、筋が通っている理論ではあった。狂気的なのはともかく、桜斗を縛っている現状は死でも挟まなければ解決できない。

 最たる例が、竜人家系・金霧家の一人息子。


「俺に父さんの跡を継ぐなって、言いたいのかな?」


「……そればかりは、直接姉に尋ねましょう。これまで後継者問題に触れなかった彼女が、突然言い出すのも妙な話ですが」


「機会を窺ってたのかもしれないよ? 俺ってほら、竜殺しだし」


「斬竜皇子、ですか……」


 再生途中の右腕へ目を落とす。

 その能力だけで計るなら、桜斗は邪魔な存在だ。本来であれば、生まれることすら許されない。

 竜人は最強の超種と呼ばれる。故に一族はそれだけの自意識、誇りがあり、上位の種族を認めない。

 しかし何の因果か、十七年前に竜殺しの跡継ぎが生れてしまった。

 当時のいざこざについて記憶はないが、金霧家は荒れに荒れたと聞いている。……待ちに待った子供、それも男子が裏切りの力を有していたのだ。期待が高まっていた分、絶望は二倍三倍にも膨れ上がる。


「さっきだって襲われたんでしょう? 反対する方々に」


「まあ竜化してから、誰かまでは判別できなかったけどね。……トドメは刺さなかったから大丈夫だと思うけど、父さん達には迷惑だろうな……」


「お気になさらず。あの御仁ならその程度、笑って過ごすに決ってます。家族とは元来、助け合う生き物なのですから」


「……」


 それで罪悪感が消えるなら、どれだけ楽か。

 寧ろ、血の繋がりを持ち出されると傷を抉られる。義務的な関係だけで尻拭いをさせるなんて、愛情ではなく束縛だ。

 こればかりは許容できない。自分がする側ならともかく、両親に無茶をさせるなんて。

 しかし向こうも、同じように考えはするだろう。お陰で施しは、時に苦痛を与えるものだ。特に自分が、相応のものを返せないと自覚する場合は。


「あ、私は心配ご無用ですよ? 若様の剣として盾として、この身体を奉げると決めています。明日からきっちり、お守り致しますね」


「い、いや、自分の身ぐらい――」


「馬鹿を言わないでください。斬竜皇子は竜人にしか効果を発揮しない。人狼を始め、他の超種たちが攻撃してきたらなす術はありません」


「う」


 ぐうの音も返せない正論である。

 上手く誤魔化せないまま、桜斗はエレニアの提案を受け入れることになった。本当なら自分が彼女を守るぐらいの余裕は欲しいが、竜人相手に取っておくとしよう。それなら遅れを取ることはない。

 直後には会話が途切れ、キス直後に似た雰囲気が再演される。

 しかし、それは桜斗に限った話だったらしい。

 エレニアは嫣然と微笑み、直ぐ横に回り込んでくる。


「今日は、一緒に寝ましょうか」


 とびきり甘えるような、優しくも鳥肌が立つような誘惑。

 桜斗はしばらく、放心状態で動けなかった。

 しかし、数時間後。

 現実味のある行動とは裏腹に、二人は別々の部屋で夜を明かす。





 何事もなく迎えた朝。

 寝間着については、普段通りの物をエレニアが用意していた。とはいえベッドは例外。このために買い揃えた新品だとかで、慣れるには少しばかり時間を要したと思う。

 しかし気分は反面、熟睡した後の感覚だった。

 ハッとして時計を探すと、壁に掛けられた物が一つ。ちょうど七時を示しており、通学まである程度の余裕がある。


「……」


 他、部屋には持ち込まれた物が数点。桜斗が学校で使っているバックもある。そういえば昨日、いつの間にかエレニアが運び込んでいたっけか。わざわざ実家に戻る必要はない、かもしれない。


「――何してんの?」


 様々な感想と同時に得たのは、筋が通らないことへの疑問だった。

 布団の上、マウントポジションを取ったエレニアがいる。体重も必然的に掛かってくるが、予想したような重さは感じなかった。

 驚きを隠せない桜斗とは反対に、彼女は自慢げな顔付き。よくぞ聞いてくれました、と言い出しそうな雰囲気だ。


「何って、桜斗様を起こしに来ただけです。少しは目が覚めましたか?」


「ああ、効果覿面だよ。……昨日の展開からして、こんなことをするとは思わなかったし」


「あ、ああ、あれは……っ」


 こちらも効果覿面らしく、エレニアは茹でタコ宛らに赤くなる。

 不機嫌、と言い切る程ではないが、機嫌は斜めに傾いていた。だってあんな誘われ方をしたのだ。大なり小なり期待するのが、健全な男子高校生の義務じゃないか。

 しかし昨夜、彼女はなあなあで誤魔化してくれた。羞恥に染まったエレニアも目の保養ではあったが、失望感を補填し切れるものではないと思う。

 まあそれを理由に、いつまでも臍を曲げるのも大人げないが。


「えっと、とりあえず退いてくれるかな? 起きれない」


「は、はい、そうですね。……目的の寝顔は堪能できましたし、良しとしましょう」


「――」


 それが出来るなら、添い寝だってしてくれても……。

 内心で文句を言いながら、エレニアに続いて起きる桜斗。既に解放されている扉は、朝食の香ばしい匂いを運んでくる。

 ある程度の準備は終わっており、目玉焼きと味噌汁、白米のメニューが確認できた。

 可もなく不可もない組み合わせ。母の元ではいつもこんな調子なので、個人的には有り難い。


「朝は消化の時間と聞きますが、取るべき栄養はきちんと取って頂きます。もちろん、お昼もですよ?」


「分かった分かった。ところで使っていい歯ブラシってある?」


「はい、桜斗様専用にと思ってるのが一つ。コップは適当に棚から出してください」


 台所を片付け始める少女を横に、桜斗は準備を済ませて洗面所へ。

 未開封のブラシは片隅に置かれていた。やはり新品なのに驚きつつ、毎朝恒例の作業を済ませていく。


「……何だか、はなっから予定してた感じだな……」


 まあ、契りの儀は予定日を決めて行ったのだ。その後の展開を読んだ上でなら、必要な物を準備しておくのは可能だろう。

 冷水で頭をさっぱりさせ、足早に居間へと帰還する。食事が冷めるのは勿体ない。

 昨日と同じように彼女が椅子を引き、桜斗は招かれた通りに腰を降ろした。


「……じゃあ、頂きます」


「頂きます」


 復唱した後は、やはり無言。

 黙々と進む朝食に焦りはない。エレニアの住むマンションから、通っている高校までは徒歩で十分と少し。このペースなら余裕に余裕を持って通学できる。

 だからか。


「一つ、聞きたいんだけど」


 口の中を空にして、桜斗は箸の動きを止める。


「俺は今後、どうすればいいわけ? 何時までもここでお世話になるのは申し訳ないんだけど」


「どうも何も、しばらくは私と一緒に暮らしてもらいます。契りを交した以上は当然ですし、いつ姉や、他の方々が襲ってくるか分かりません。昨日も言ったじゃないですか」


「……本気?」


「もちろん」


 寄越される快諾に、一抹の疑問が過る。

 彼女の指摘はすべて事実であり、それを批判するつもりはない。本音を言ってしまうなら、本当に嬉しい展開だ。一つ屋根の下で暮らすなんていつ以来だろう。

 しかし理性の方は、別の路線で待ったを掛けている。

 いくら幼馴染とは言え年頃の男女。契り云々の前に、弁えるべき節度があると。


「いくら何でも唐突過ぎる。後日、改めて決めるべきじゃないかな?」


「私との添い寝を期待していた殿方が何を言うんです? ちなみに昨夜、桜花様から許可は取っています。寧ろ推奨されたぐらいで」


「そんな馬鹿な……」


 父よ、仕事をしろ。

 唖然とする桜斗と、顔色一つ変えず食事を再会するエレニア。慰めてくれるのは、テレビに映る今朝のニュースだけだった。

 こうなったら腹を括るしかない――のだろうか? 確かに彼女の助力は頼もしい。ツェニアが人狼に変化するのであれば尚のこと。桜斗は戦力にならないのだ。


「――答えたくなかったら、スルーしてくれて構わないんだけど」


「はい?」


「エレニアとツェニアさんって、竜人だよね? 金霧の家には、部外者を通さない決まりがあるし」


「ああ、それですか」


 彼女は尚も箸を止めない。余りに些細で、どうでもいい質問へ応じるように。


「私たちはですね、人狼と竜人のハーフなんです。だから金霧家に出入りし、人狼に変化することも出来る。もっとも、私は竜になれませんが」


「ハーフって……」


 初耳だ。加えて今更ながら、聞くべきではなかったと後悔する。

 金霧に限らず、超種の家系は血統を守ろうとする傾向が強い。そもそも超種の目的自体が、自分達の保護である。他種族との交流に肯定的な思考はない。例外は文明社会とのパイプ役に儲ける、協力者の人間ぐらいだ。我が家で言えば雄桐の家系が相当する。

 にも関わらず混血が生れれば、どうなるか。

 彼女たちの苦痛は想像に難くない。桜斗自身、竜殺しとして妬まれた過去があるだけに。


「こらこら、暗い顔をしないでください。金霧の人達は、私達に随分と良くしてくれました。当主様もその一人。何も悪く思う必要はありません」


「……そっか。それならいいんだ」


 胸には心からの安堵。今この瞬間に良かったと言えるなら、過去の苦しみなど些細なことだと。

 口に出さない個人の観点から、桜斗は彼女を祝福した。


「さあ、ボーっとしているとご飯が冷めますよ。直ぐに終わらせて、直ぐに学校へ向かいましょう」


「え? でも、時間的に余裕はあるじゃないか」


「油断大敵です、桜斗様。この時間帯なら、まだ通学中の生徒は少ない。チャンスではありませんか」


「何の?」


「……二人で一緒に登校するチャンスです。せ、折角だから腕でも組みますか? 私と貴方はもう、将来を誓い合った仲ですし――」


「無理はしなくて大丈夫だよ?」


「む、無理など……!」


 耳まで真っ赤になっている癖に、説得力がない。

 ――に、しても妙な話だ。昨夜の誘惑だってそう。恋人らしい行動を行う時、エレニアは恥かしがる時とそうじゃない時があるらしい。

 その境界線は、一体何なのか。

 少し慌て始めた彼女を、生暖かい目で観察する。





 通学路までストレートに赴いた二人だったが、歩道は多数の生徒を歩かせていた。

 目立つ行動を行えば、必然的に興味は注がれる。となると、桜斗もエレニアの提案には頷き難い。個人的な空間でならまだしも、人目がある場所ではやはり抵抗感がある。

 しかし、彼女の方は諦めたわけでもないようで。


「く、くう……」


 腕を組もうとしては止める――優柔不断な一人遊びを、桜斗の隣りで続けていた。

 既に注目は避けられない。加えて、学校でエレニアは人気の美少女。彼女が妙な振る舞いを見せれば、そういう結果は必然的だった。


「え、エレニア? もう少し普通にしてても……」


「? これが普通でしょう? 実行できてきない、中途半端なものですが」


「……普通って、どうして?」


「婚約者だからです」


 端的過ぎる宣言へ、視線が沸き出るように集まった。

 こうなると、狼狽えるのは桜斗の番。先ほどの優柔不断を覆す勢いに、穴でも掘って隠れたくなる。


「……言動が噛み合ってないね、エレニアは」


「おかしなことですか? それは。言葉にするのが簡単でも、行為へ移すのは難しいもの。まあ、逆も然りですが」


「ああ、成程」


 お陰でようやく合点いった。

 昨夜の添い寝も、今挑戦している腕組も、彼女にとっては理想論に過ぎないらしい。実行できるかどうかは、また別の問題だそうだ。

 なら、背中押してやるべきなんだろうか? 桜斗としても、エレニアのべき論に従うのはやぶさかではない。

 ――でも、自分から行うのは気が引けた。やっぱり恥かしいので。


「ほら、エレニア」


「ふえ?」


 彼女がどっちつかずを繰り返す中、ようやく校門が見えてくる。脇のプレートには短く、実代高校、と刻まれていた。金霧家も運営に関わる私立校である。

 変わらぬ日常が映す、校門を潜る無数の生徒たち。

 通りかかった女子生徒の何名かは、エレニアと挨拶を交していく。その時ばかりは彼女も普通だ。日頃から憧れた、太陽のように眩しい笑みがある。

 桜斗は無意識に肩の力を抜いた。思えばここ最近、学校で彼女の笑顔を見ていない。件の葛藤で、傍観者に徹していたためだろう。

 それが戻ってきた。学校へ通学していることより、そちらの存在が日常を実感させる。

 勿論。


「あれ?」


 変化が一切起こらない、なんて好都合ばかりではないらしい。

 教員は有志の者に限って、毎朝校門で生徒たちと挨拶を交している。今日も通例には則っており、数名の教師が明るい声を飛ばしていた。

 しかし、恒例のメンバーが一人いない。

 ツェニアだ。

 当然と言えば当然、気付くのが遅かっただけの変化。殺そうとした相手の前に、無防備な姿を晒す真似はしないらしい。


「ふん……」


 見えない敵を威嚇するように、エレニアの眼光が鋭くなる。

 第三者からすれば、無差別に敵意を振り撒く睥睨だった。彼女に声を掛けようとした教師も、最初の一言を発する手前で硬直する。生来の厳しい眼差しが、最悪のタイミングで効果を出してしまった


「隠れるとは、なかなかずる賢い姉です」


「出てくる方が意外に思えるけど……白昼堂々と騒ぎを起こすわけにはいかないでしょ」


「でしょうけど、今に限っては断定など不可能です。昨夜とて、裏切りに近い形で襲われたんですから」


「まあ……」


「それに姉も、こちらの動きは掴んでいる筈。本当なら桜斗様を遠くに逃がすべきでしょうが――」


 一息。正面を向いていたエレニアは、肩越しに金霧家の方へと振り返る。


「家の事情もあります。逃がそうにも、引き受けてくれる人物がいるかどうか」


「まあ難しいよね。町の外へ出ても逆効果かもしれないし。……俺に反対してる人達だって、父さんへどう迫るか」


「排除できれば一番ですが、大きな勢力ですからね。……必ず私がお守り致します、桜斗様」


「……うん、有り難う」


 感謝の一方、謝罪したい気持ちは誤魔化せなかった。

 問題の根本は桜斗の生まれにあって、エレニアは完全な部外者だ。幼馴染、婚約者だからと、巻き込んでいい道理はない。

 しかし彼女は、その二つを理由に関わろうとするだろう。


「――あのさ」


「はい?」


 推測を推測で終えたくないのか、一縷の希望に縋っているのか。


「エレニアはどうして、俺と契りを交してくれたの?」


 直接、肝心な部分を確かめたかった。

 彼女は迷いも逡巡もしない。ああ、と自然な抑揚で語り出す。


「それは、貴方が好きだからです。私達はお互いを理解し、尊重し、信頼を寄せている。だから悩んでいる時も、信じて待つことにしたんです。――それが私である理由、私の誇らしい義務ですよ」


「そっか……」


 満足して頷く桜斗だが、声には張りが欠けている。

確かにエレニアの解答は素直なもので、期待を裏切ったりはしなかった。――が、肝心の部分では漠然としていて、掴み取れるものが一つもない。義務の理由が、根本が、桜斗と同じように見当らない。

 もしかして。

 エレニアは桜斗に対し、あくまでも好意を持っているに過ぎないのではないか?

 他の在り方を、彼女は知らないだけではないか――?

 一抹の疑問が脳裏を過るが、絶望や怒りを感じることはなかった。ただ、余計に肩が重い。彼女は生まれながらの義務的な感情で、こちらに接しているのではないかと。

 なら、昨日交したあの接吻は。

 何処までも甘い代わりに、黒く、呪いのようでもあったんだろうか。

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