第2話 襲撃の夜

「それで、どうだった?」


 車を降りた先。敷地の門を潜った後の、第一声だった。

 清々しい返答が出来れば良かったんだろうが、曖昧な言葉を出すので今は精一杯。正直、相談になるかも怪しいレベルだった。


「特に変化はなかったよ。エレニアの方から直接、契りはする、って言ってくれたけどさ」


「なんだ、大収穫ではないか。憂いもなくなるというものだろう」


「まあ、少しは安心したけど……」


 肝心要、自分が彼女を好きな理由が判明していない。

 まあ極論を言えば、二人の関係に支障を来す失点ではないだろう。分からないなら分からないまま。これまで仲睦ましく過ごしてきたように、同じ日々を心掛ければいい。

 無論、妥協の結果であることは自覚すべきだ。

 そしてそれが許せるほど、桜斗は自分に優しくなかった。


「……その、誠実になりきれてない気がするんだ。だから、自分で自分に納得できない」


「ふむ。だからこそ、理由を判明させたいと?」


「そんな感じ。エレニアのことは好きだし、まあ――」


 自覚できる程に顔は赤く、この先にある感情など恥かしくて言えたもんじゃない。

 一人で勝手に首を振って、理想を心の中で唱える。


「幸福にしてやりたいわけだな」


 代弁されれば、へったくれも無かったが。

 しかし言い方のお陰か、想像していたような戸惑いはない。父親に対して首肯するだけで、視線は前を向いたままだ。

 そう、幸せにして上げたい。

 感謝を示す最大の贈り物だろうし、愛情を示す手っ取り早い手段なことだろう。若い桜斗に具体的なイメージは薄いが、確固たる意思だけは懐いていた。

 その第一歩として。

 過去の堆積に囚われない、今を重点に置いた理由が必要だと感じる。


「しかし桜斗。お前が求める理由は、今直ぐ解明しなければならないことか?」


「それは……」


「なら、無理をする必要はあるまい。現実が伴わなければ分からないこともある。私と妻も、契りを交してから険悪な雰囲気が続いたものだぞ」


「信用できない証言なんですが……」


「ならそういうことだ。お前自身の問題についても、時間に任せるしかないかもしれん」


「その間に、致命的な失敗を犯したらどうするの?」


「経験として受け入れておけ。――彼女との時間が無駄だったと思うかもしれんが、世の中に無駄など一つもない。一つの有益を知ることにすら、一つの無駄が必要なものだ」


「……」


 勿論、直ぐに受け入れることは出来ない理論だった。

 桜斗にとって、女性とエレニアはほぼイコールで結ばれている。彼女以外の伴侶など考えたことがない。

 だがそれこそ過去の体積。解決したい問題自体であり、否定すべき前提だ。

 まあ簡単に否定できるなら、今の悩みを持つ筈はないわけで。


「別々の未来など、想像も出来んか」


「あー、もう全然。だから余計、必死になって探すのかな……」


 一度距離を置いた方が、見直すチャンスにはなるかもしれない。

 しかし無理な相談だ。本来、契りの儀は十五の時に行う。桜斗は現在十七。個人的な我儘で二年も延長させているわけで、これ以上の放置は何もかも曖昧にするだけだ。

 今夜、一線は越えなければならない。

 彼女も一先ず、受けてくれるとは言っていた。口に出来る強さの意思なら、こちらも尊重するだけのこと。


「――ん?」


 少し表情が変わった桜斗の頭上。黒く、巨大な影が通過する。

 森を撫でるのは、まるで航空機が駆け抜けたような突風。しかし特有の、町中であれば騒音と認定されるエンジン音は聞こえなかった。

 影は次々に通過する。それこそ、金霧親子を迎えるように。


「ふむ、彼らもお祭り気分というわけか」


「なのかなあ」 


 と、適当な相槌を打つ桜斗の先。

 一対の翼を持つ巨躯が、親子の正面に着陸した。


『お帰りなさいませ、若様、殿』


 頭の中へ直に響く声。

 二人を出迎えた者達は、人の姿をしていない。前述した翼の他、長い尾、手足には鋭い爪を持っている。

 全身は甲殻で覆われ、鎧を着た蜥蜴のよう。蛇に似た眼光も、同じ系列の生物として認識を強くさせる。

 しかし、彼らは現実にいる生き物ではない。より厳密には、社会で実在扱いされている生物ではない。

 ドラゴン。

 人型であるため、竜人とでも呼ぶべきか。

 それが森に住む者。金霧家の血筋に連なる、同胞たちの姿だった。


「ああ、いま戻った。……儀式の準備と、警戒は?」


『既に整っております。後継者としての桜斗様に反対している連中の動きも、大凡は』


「そうか。まあ衝突は避けられんだろうが……無理はするなよ」


『は』


 言って、竜人の巨躯が深い霧に包まれる。

 姿形が完全に消えた頃。霧の中から現れたのは、世間一般の常識と変わらない中年男性。父の側近であり、自分にとっても昔馴染みの人物だった。

 他にも数名の護衛が現れる中、彼だけが人間の姿で二人を迎える。


超種モナド、か……」


 無意味にも呟いた一言。

 それが彼らの種族名。異能を持つ、人であって人間に在らざる者。


「桜斗? 行くぞ」


「あ、うん」


 いつの間にか離れていた父を追い、桜斗は走る。

 日はいつの間にか、黄昏の色を森に差して。

 鳥籠から放たれる瞬間を、刻一刻と近付けていた。





「電話?」


 屋敷の二階。廊下の突き当たりにある個室が、桜斗に割り当てられた部屋だった。

 帰宅した後の、普段通りな休息時間。今夜に一大イベントが控えていても、その日常は変わらない。

 部屋は十代半ばの少年として、何ら変わりないものだった。趣味の漫画、アニメや小説が棚を埋め尽くしている。完全に遊びのための空間だ。

 学業の関係物は、隅で居心地が悪そうに鎮座するだけ。忌々しいテスト期間がやってくるまではそのままだろう。


「はい、ツェニア様からです」


 受話器を握った顔馴染みの侍女は、淡白な口調で手を差し出す。

 出てきた名前はエレニアの姉だ。大方、今夜の件に関する連絡だろう。居留守を使うような仲でもないので、直ぐ受話口を耳に持っていく。


「もしもし?」


『こんばんは、桜斗』


 男心を蕩かす、甘い声。

 受話器越しでも何か期待してしまう声の主は、数時間前にも聞いたばかりのものだった。


「ツェニアさん……」


『ふふ、随分と堅い声ね。契りの儀、気になってるの?』


「いや、そういうわけじゃないですけど……」


 言って、ちょっと失礼だったか、と気を改める。

 しかし発言を訂正する暇もなく、意味有りげな微笑を聞くだけだ。


『君は気にし過ぎよ。あの子が桜斗のこと、嫌ってるなんて思う? 好きかどうか聞かれたら、千切れるような勢いで首を振る子よ?』


「……横にですか? 縦にですか?」


『もちろん縦。――まあ私としては、逆に迷惑かけないかどうか心配だけどね。大丈夫?』


「そ、それはもう」


 容姿、技術ともに、エレニア・ブリュークスは絵に書いたような女性だ。 料理を始め、家事全般もそつなくこなす。以前お邪魔した一人暮らしのマンションだって、展示用に扱われるレベルの清潔さだった。

 これで文句を言ったら、人間どころか神様から天罰が下る。……まあ、贅沢な悩みは既に抱いているわけだが。

 電波の向こうで、ツェニアは差し当たりない頷きを送っていた。納得していないのがありありと窺える、歯切れの悪い返答を。


『――ねえ、考え直す気はない? 二年延期してきたんだし、もう一年ぐらい許されるわよ。あの子と一緒に気持ちの整理、つけてから儀式に挑むべきじゃないかしら』


「……」


 痛いところを突かれた。

 しかし、この点に関してはもう決めている。例え親族から横槍を入れられても、決定を覆すつもりはない。


「いえ、儀式は今夜中に済ませます。気持ちの整理がついたところで、それが大した話じゃない可能性もありますし」


『まあそうだけど……』


「ツェニアさんは、反対なんですか?」


 雰囲気に真っ向から歯向かう、直球過ぎる質問。

 素直な疑問を口にしたつもりだったが、間に入った沈黙で過ちを知る。


「す、済みません。変なこと聞いちゃって」


『あら、別に変じゃないと思うけど。――でもまあ、そうね。私は確かに、不安を感じているんでしょうね。あの子にはまだ、新しい家族なんて早いんじゃないかって』


「エレニアがまだまだ子供、ってことですか?」


 ええ、と返ってくる相槌に、桜斗は意外なものを聞く気分だった。ツェニアが妹を批判するなんて、これまで数える程あったかどうか。

 話は収まるよりも、更に拡張の方向を辿っていく。


『なんて言うべきかしらね……君が抱いている感情とは、横に一本ずれている感じがするというか』


「? そりゃあ他人ですからね。多少のズレは、寧ろ避けられない要素では?」


『よくもまああっさり言えるわね……。でもそうじゃなくて、私が言いたいのは好意と愛情の違い。あの子は前者で、君は後者なような気がするのよ』


「成程……」


 とは言うものの、実感は伴ってこない。違いを鮮明に出来る価値感があれば、桜斗の悩みとて今頃は消えている。


『あの子が一人暮らしする前からね、どうも違和感があったのよ。義務的というか作業的というか。家のことはしっかり手伝ってくれたから、別に悪いことじゃないんだけど』


「でも、嫌なんですよね?」


『まあね。桜斗は疲れない? そういう義務的な、自分が関わってない前提を持ち出されて、関係を決められるのって』


「そうですね……」


 真っ先に過るのは両親の顔。どこにでもある家族の光景が、再生されては消えていく。

 ツェニアの意見には概ね同意したい。家族の関係――特に子供にとっては、一つの前提によって成立している。親が子を産む段階で、子供の意思はまるで関与していないからだ。

 父が父親たるに相応しいか、母が母親たるに相応しいか。

 それは二次的な要素であり、親には繁殖適齢期を迎えれば誰だってなれる。生まれた子供は子供である義務を求められ、その過程で親の軍門に下される。

 善悪を計らない結末。お互いが立場に相応しい器量に満たなければ、ツェニアの言う通り疲れるだけの関係だ。

 もっとも。


「俺は気にしませんよ、そういうの」


 桜斗は父に憧れ、母を尊敬して育ってきた。

 多分、ツェニアと同じ視点を見ることは出来ない。


『桜花さ――当主様が、人を育てるのに相応しくないと分かっても?』


「そりゃあ勿論。世話になってる事実は変わりませんからね。俺は俺なりに、両親へ感謝しながら過ごすと思います。……まあ迷惑を掛けて無茶をさせたりしたら、複雑にはなるでしょうけどね。尻拭いさせることにはなるでしょうし」


『――凄いわ、君』


「?」


 称賛の理由にまったく心当たりがなく、首を傾げるしかない。

 受話口からは嘆息に近い前置き。何処となく敗北者染みた抑揚で、ツェニアは連絡を続けていく。


『まあ始めて同士、頑張ってね。歯とか、ぶつかるかもしれないけど』


「あ、アドバイスとかあります?」


『んー、特には。それともお姉ちゃんで練習する?』


 妖しい含み笑いも聞こえて、その場しのぎな返事でお茶を濁す。

 生涯で一度きりの初体験だ。どうせなら相手は――やっぱり、初恋の女性が良い。夢見がちな考えかもしれないが。


『今から数時間後には森の中ね。――くれぐれも、注意は怠らないように』


 先の和気藹々とした雰囲気とは一変。電話越しからも、ツェニアの真剣な表情が想像できる。

 桜斗は直ぐ、二つ返事で応じた。途端に会話の空気は弛緩し、受話口への接吻を区切りに通話が途切れる。

 勝手に響く不通音。侍女を呼び出す気にはなれず、一階へ向かうべく廊下に出る。

 嗅覚が最初に感じたのは、香ばしい夕食の匂いだった。儀式の前だから豪勢にすると、母は朝から気合十分だったっけ。


「夕食、か……」


 もはや葛藤することの意味は終わりつつある。これ以上は心境の整理に過ぎず、開き直るための準備でしかない。

 なら今は、自分を信じるしかなさそうだ。





 夕食が終わり、胃袋の方も落ち着いた頃。

 玄関の前に、桜斗を見送ろうとする人々が集まっていた。

 有力者の家系らしいと言うべきか、集合したのは両親だけに留まらない。数名の侍女、家に寝泊まりしている桜花の側近。いずれも昔馴染みの人物であり、家族に近い間柄の者達である。

 先頭に立つのは四十代半ばを迎えた一組の男女。詳細については、語るまでもないだろう。


「いいか、くれぐれも無茶はするな。連中から逃げ帰ったところで、誰もお前を責めはせん」


「でも、父さんの立場は悪くなるでしょ? ……一応、やれる限りはやるよ。殺さないのを前提にね」


「済まんな」


 それでも笑って、親子は力強く手を握る。

 次に出てきたのは母の方だった。桜斗さん、と彼女は前置きし、深い青色の瞳で見つめてくる。

 そして。


「――旦那様、やはり一人か二人、護衛を付けるべきではありませんか? 桜斗さんは金霧家の大切な一人息子。儀式には一人で向かうのが伝統ですが……」


「それは出来ん。これからお出迎えしてくれるであろう連中のボスが、何かと言ってくるからな」


「し、しかし、彼の命に替えられるものでは――」


「本人は願っていないようだぞ?」


 静かに振り向いた母の先。映っているのは恐らく、苦笑いしている息子の顔。

 不満げな表情を直さない彼女だったが、溜め息を零すといつもの雰囲気にリセットされた。一方的な親愛を押し退け、尊重の意思が新たに宿る。


「でしたら、私から言うことは何もありませんわ。旦那様との約束を、必ず果たして下さい。そして無事に帰ってきてください。貴方の隣りを歩む女性と共に」


「分かってるよ、母さん」


「……」


 やっぱり生来の心配性が収まらないらしく、母は訝しむような目で覗いてくる。

 無言のプレッシャーから解放されたのは、それから三十秒は経った頃。嘆息混じりに下がっていく両足が、背中を押してくれるようでもあった。

 両親の後ろに並んだ者達は、直に挨拶するわけでもない。各々、心配や励ましの眼差しを送ってくる。

 これだけの味方がいる安心感。彼らに、そんな心配をさせている自分の不出来。


「行ってきます」


 二つの感情を呑み込んで、桜斗は屋敷に背を向けた。

周囲は深い木々で覆われる未開の地。今宵が満月だといっても、枝葉に遮られた月光は照明として心許ない。

 それでも少年は確かな足取りで、人が歩くには不便な道筋を辿っていく。

 少し進むだけで、営みはまったく関知できないものとなった。林の向こうにある文明の明りでさえ、原初の土地には届かない。

 不意の郷愁に駆られて、来た道を振り返る。

 希望は泡と散り、現在地を示す印さえ見当らなかった。……真っ直ぐ進めば祭儀場に辿り着くとしても、下手な道を選ぶと遭難しそうだ。

 オマケにこの、静寂に満ちた空気。虫一匹の気配さえ感じず、刺々しい緊張感も混じっている。爪先ほどの油断も許されない。

 近くにいるのだ、敵が。

 こうなったからには、足早に獣道を歩いていく。進んで敵の相手をする必要はない。自分は一族の中で、純粋な戦闘能力が高いわけではないのだ。

 早足はいつか駆け足へ。木々の間に蠢く巨影が、少年の警戒を狩り立てる。

 直後。

 繊維の断裂音と共に、数本の木々が爆砕された。


「っ……!!」


 轟音を従えて現れる巨体。木が吹き飛ばされた所為で、影のベールが剥がされる。

 四、五メートルの全身を赤い甲殻で覆う、竜人だった。

 圧倒的な体格差。誰がどう見ても勝負は歴然であり、歯向かう道理など存在しない。

 生きる気力を奪う、殺意に染まった双眸。

 勇敢な戦士だろうと怯ませる眼光が、真っ直ぐ桜斗に向けられた。

 口端から溢れる炎。火災すら厭わない、最大級の一撃を敵は構えている。普通の人間が、跡形もなく焼き尽くされる一撃を。


「――!」


 竜が吼える。

 音は衝撃さえ伴って辺りを揺らした。木々も怪物の存在に慄き、葉と葉を擦って騒ぎ立てる。

 しかし、肝心の桜斗は怯まない。

 右手一本。竜の姿に化けることなく、いつの間にか手にした長剣で立ち向かう。

 敵にはない武器だった。純粋な肉体機能だけで戦う竜人には、縁もゆかりもない人間の道具。

 だが瞳には怖れがある。

 得物の名は斬竜皇子。またの名をバルムンク。

 竜殺しに許される、たった一つの武器だった。


「っ……!」


 視界が燃える。

 放たれた業火が、一瞬で自然の営みを喰い尽す。

 それを。

 黒い孤影は、真っ正面から切り裂いた。

 斬竜皇子は竜の因子に対し、決定的な命令件を持っている。破壊を命じれば、刀身へ触れた途端に木っ端微塵だ。吐かれる炎から使用者である桜斗本人まで、対象の範囲は広い。


「ふ……!」


 人間では届かない筈の大跳躍も、その一つ。

 竜人と頭の位置を揃えて、流れに沿った一閃を叩き込む。

 手応えと悲鳴。黒の軌跡を、赤い線が追っていく。

 桜斗の着地と同時に、轟音は地面へと沈んだ。片目から夥しい量の血を流し、痛みに悶えて動けずに。


「――」


 そんな負傷者を気遣うことなく、一気に森の奥 へと駆けていく。

 竜は再生能力が極めて高い。片目を切った程度では、一分もしないうちに再生しきるだろう。決定的な一撃を見舞わない限り、根本的な数を減らすことは出来ない。

 が、足止めにはなっている。斬竜皇子は竜だけを想定した兵器であり、再生能力の阻害も得意分野だ。

 それもこれも命令の込め方次第。父との約束を貫徹するため、今は加減を入れることに特化させている。

 最初で最後の一体になることを祈りながら、桜斗は疾走の速度を上げた。

 と、気付けば斬竜皇子の刀身が砕けている。竜人を裂いた代償だ。通常の武器、兵器では傷付けられないのだから、これぐらいはご愛嬌と考えるしかない。

 もっとも、補充は直ぐに済む。無尽蔵に出せるわけではないが、現状を凌ぐには十分だ。

 なので。

 敵にとっては、一気呵成の攻めが重要になる。


「二体……!」


 先と同じ体格、同じ目的意思が、眼前に立ち塞がった。

 いずれも怯むには物足りない敵であり、数値の上でも苦戦はない。

 爪も牙も、鎧のような甲殻も。ただ、砕き散らすのみ。


「おお――!」


 命で強化した四肢が、超人的な躍動を可能にする。

 一体目との決着は一瞬だった。が、もう片方との距離が開いている。どれだけ全力で走ろうとも、瞬時には埋まらない距離が。

 放たれる火の息吹。

 通常とは異なる漆黒の炎が、彼らの敵意を現していた。

 桜斗は躱さない。もっと単純な方法を対処にする。

 斬竜皇子を、地面に突き刺したのだ。

 瞬間。


『っ!?』


 起立した大地の壁が、黒炎を難なく散らしていく。

 途切れた瞬間を見計らい、桜斗は前へ。次の一撃が来るよりも速く、十分な目算を持って駆け抜ける。

 跳躍を混ぜた袈裟切り。弾丸宛らの一閃は、竜の目で以てしても見切れない。

 それが決着となった。打ち込まれた竜人は動き出すことも出来ず、仲間と同じように大地へ伏す。

 分からない、と言わんばかりの目で竜は桜斗を睨んでいた。さっきの炎には余程の自信があったんだろう。

 説明する暇はないし、濫りに話せる仕組みではない。単に森が竜の因子に浸っているからこそであり、外ではまったく使えない芸当だ。防衛戦専用の能力と言ってもいい。


「よし」


 築き上げた再起不能に一瞥すら送らず、暗闇の向こうへと快走する。

 エレニアは無事だろうか――有り余る余裕が、他人への同情を巡らせた。

 目的地までは残り僅か。増援が来る気配はなく、一気に道を踏破する。

 ようやく見えたのは、自己主張の少ない小さな社。

 もう、周囲に敵の気配はない。諦めたのか、場所を考慮して控えているのか――どちらだろうと、桜斗が考える以上は推測だ。今は中の様子を確認することから始めよう。

 軋む、木製の引き戸を開ける。

 中にはエレニアどころか、人っ子一人いなかった。申し訳なさそうに、一つの魔方陣が光を放っている以外は。

 これ見よがしの存在感。契りを行う場所なのは言うまでもない。


「……さて」


 迎えに行くか、待機すべきか。

 途絶えた外の喧騒は、夜のしじまを徐々に深めていく。……あと数分経っても来ないようなら、さすがに様子を見に行こう。最悪、エレニアの身を不幸が襲った後かもしれない。

 もっとも。


「来ていたのね」


 抱いていた不安は、新しい音によって掻き消された。

 反対側の引き戸を開けた先に、一人の女性が立っている。――が、その陰影は予想していたものと違っていた。

 誰何を問おうとするが、先に影の色が露わになる。

 月夜に映る、女性の平均よりも高い身長。仕事用のスーツ姿が凛々しさを膨らませ、力強い印象を彼女に与える。

 化粧をしているのか、唇は艶やかな光を描いていた。成熟した女性特有の色気で、なおかつ押し付けがましい部分がない。彼女に丁度いい妖艶さだ。

 ツェニア・ブリュークス。エレニアの姉、その人。

 普段の顔を知っている分、反動は余計に大きくなる。これから控えている出来事も忘れ、心臓の鼓動すら早くなった。

 しかし、一方。

 彼女の緊張感は、何か厚みを含んでいて。


「……?」


 ふと、眉根を顰める。

 瞬間。


「がっ!?」


 脈略の無い衝撃が、無防備な身体を吹き飛ばした。

 半開きの引き戸を破り、力は思うがまま弧を描く。斬竜皇子による防御すら間に合わない、神速の一撃だった。

 必然的な反動に背を打たれる。だが桜斗とて竜の血を継ぐ者。痛みへの耐性は、人並み以上に強固なものだ。

 即座に得物を構え、奇襲した敵の正体を凝視する。

 ――しかし。社から現れるのは、竜の姿などでは断じてない。

 狼。

 満月の夜には相応しい、人狼の姿だった。


「んな……!?」


 文句の一つでも言いたくなる。ツェニアは人の姿をしているが、列記とした竜人型超種の筈。人狼に変化できる筈がない。

 いや、しかし一番の問題は他にある。

 斬竜皇子だ。

 竜殺しに特化したこの能力は、他の生物に効力を発揮しない――


「っ!」


 目視すら許さない速度。

 眼前に開かれた牙が、桜斗の頭を砕きにかかる。

 咄嗟に動いたのは、両足よりも右腕だった。斬竜皇子を展開した利き腕が、即席の盾を果たそうとする。

 無論、通ずる筈はなく。

 血と肉が、目の前で弾け飛んだ。


「ぐ……!」


 意識が吹き飛ぶような激痛。種としての本能だけが、辛うじてその場に踏み止まった。

 しかし状況は変わらない。有効打も一切ない。

 もやは絶対絶命。抵抗する手段が欲しければ、まずは腕が食い潰されるのを見るだけで――


「止めてっ!」


 怒号に近い少女の声。

 横目を向けようとした時には、突き刺さった牙ごとツェニアが吹き飛んでいた。

 解放される桜斗の身体。何が起こったのかと、視界の外へ流れた戦場を追おうとする。


「うお!?」


 しかし、全身の自由が奪われた。

 経緯を俯瞰する頃には、自分が銀色の体毛へ横たわっていると理解する。


『間に合ったみたいですね。腕の方は、大丈夫ですか?』


 喉を振るわせず、頭へ直に響く杞憂。

 血塗れの利き手から鳴る異音を確認して、桜斗は短く頷いた。

 人狼は足を止めない。後方から続く追手を振り切るため、全力で森の中を駆けていく。


「――え、えっと、エレニア?」


 心当たりがある名前を呼び、応答を待つ。

 しかし、いつまで経っても答えはなかった。逃走に集中するためなのか、人狼は息を呑んで前を向く。

 竜の羽ばたきはもう遠く。

 ツェニアが攻撃してきた理由を、桜斗は安全な環境で考え始めていた。

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