第11話 信頼

 第三者が居合わせれば、脅迫の現場だと身を引いたかもしれない。舞台が深い森の中というのもある。胡散臭い雰囲気を作るのには十分だ。

 それと同等に、両者の姿勢も正反対。

 屋敷から出てきた男は堂々と。彼の元に自ら赴いた、初老の男は怯えと共に。

 彼、千浄は歩く度に、右肩を庇うような仕草を見せた。恐らく桜斗から受けた傷が痛むのだろう。その目は燃え滾る憎悪を宿し、仇がいれば噛み付かんばかりの剣呑さだ。

 どちらかが要求したのか、両者は護衛を従えず単身。最低限の信頼は向けていると見るべきか。あるいは、片方が仕掛けた単純すぎる罠と見るか。

 もっとも、桜斗は実質的に同席している。

 双方の様子が伺える幹の裏。斬竜皇子を握り、如何なる事態にも対処するために身構えていた。


「負傷したと聞いたが、元気そうで何よりだ、千浄。……今回は何の用かな?」


「ふん、言うまでもありますまい。此度の衝突が金霧家の損失となり得るからこそ、ワシはこうして馳せ参じたのです」


「可笑しなことを言う。我々にとって、今回の衝突は好機だ。不穏分子を炙り出し、領内の平定を招くには丁度いい。貴様も金霧の繁栄を願う者なら、これぐらい理解しているだろう?」


「っ……」


 苦虫を噛み殺したように、千浄の顔付きは歪だった。本音を抑えているのが直ぐ分かる。

 とは言え、心の内を曝け出しても意味はない。彼は大きく深呼吸すると、表情の堅を抜いた。それでもまだ、媚びを売るには無理があったが。


「ワシとて、此度の事態を痛ましいとは考えております。ご子息にもいらぬ誤解を与えてしまったでしょうからな」


「……」


「若様に責を問うのは、それこそ不利益というもの。――故に、我が主よ。貴方のお言葉でどうか、争いを諫めて頂きたい」


「条件、と洒落込むつもりか?」


「そう受け取っても」


 は、と桜花は鼻で笑う。

 普段、度々口にしている和解だったが、今回ばかりは姿勢を完全に変えたらしい。及び腰の千浄へ、溜まった鬱憤を晴らさんばかりだ。

 前置き一つにさえ敵は眉根を歪ませる。正直なところ愉快な光景だが、暴走への憂慮を含ませるのも事実だった。


「飲んでも構わないが、二つ条件がある。一つは印派の解散、もう一つは貴様が所有している刻印の返還だ」 


「っ――」


「前者についてはある程度まで妥協も考えよう。ただし、刻印の方については必ず返還してもらう。あれは桜斗にあるべき物で、そちらが所有していい力ではない」


「……成程」


 思わず鳥肌が立つほど、声は殺意を押し殺していた。

 どうあっても渡せる代物ではないらしい。あるいは渡せない仕組みなのか。千浄自身の肉体に刻まれている場合、大いにあり得る障害ではある。

 だったら本来、力による衝突は避けるべきなのだろう。――こちらの意思だけで決定できないのは、非常にむず痒い現実だが。

 停滞する沈黙。一触触発の危険性も織り交ぜており、今にも息が詰まりそうだ。

 後に待つのは必然だけ。


「では死ね!」


 直情過ぎる宣告が、件の陣を呼び起こす。

 無論、戦力はそれだけに留まらない。桜斗と同じように潜んでいた者、上空に待機していた者が、先手必勝を狙って奇襲を浴びせる。

 されど、対するは長なる者。

 一瞬だった。

 赤に青、緑の甲殻が、花弁のように散っていく。

 聳えるは黒。守護者であり破壊者であり、善悪を創設する王の牙。

 頂点の一画を担う者の、力だった。


『ふむ、一瞬だったな。まだ寝ぼけているような感覚はあるが、雑兵相手には十分らしい』


「おのれ……!」


 憤怒に染まる千浄の背後、及び頭上。まだまだ増援は途切れない。

 一対数十。なおも敗北は有り得ないが、さすがに足枷だ。この場を去ろうとしている千浄を追うには、どうあっても手が足りなかった。

 ……にしても、彼の逃げる方向がおかしい。

 真っ先に踵を返すどころか、戦場を迂回している。これでは戦いの火蓋に巻き込まれるか、あるいは――


「そっちが狙いか……!」


 父の指示より速く。悪寒に急かされた桜斗は、一目散に千浄を追う。

 率直な行動。敵にとっては勘を巡らせるまでもなく、愚直にも見えたことだろう。

 捨て身を覚悟して、数頭の竜人が突撃する。

 桜斗は一切怯まない。寧ろ加速するだけだ。ここで手間取っていては――千浄を、エレニアがいる屋敷に近付けてしまう。

 即座の回避と致命の一撃。とにかく時間を削って、最速の立ち回りを演舞する。

 屋敷の輪郭が見え始めた、その頃。

 内側からの衝撃によって、屋根瓦がぶちまけられた。

 微かに聞こえる侍女たちの悲鳴。事の仔細を目で見るより先に、心臓は早鐘を生み出していく。


「っ――」


 子供の頃から通った玄関には、見るも無残な爆砕の跡。

 破壊の痕跡は真っ直ぐ奥に続いている。日頃から在中している父の側近は、獣化する前の状態で撃破されていた。

 母の安否よりも先に、脳裏を過る少女の姿。

 土足で入ることも気にせず、桜斗は仮の病室へと走った。


「動くな!」


 興奮した男の声。

 家の者たちが警戒する先に、二人分の陰影がある。

 詳細な人物像は言うまでもない。被害者である少女は苦しげに、加害者である男は飢えた眼光を崩さなかった。

 その指先には光の陣も。ナイフの代わりに少女へ突き付けられているのは、獰猛な竜の牙に他ならない。


「くく……」


 桜斗を認めるなり、千浄は一転して破顔する。エレニアを人質にした時、効果覿面な人物の一人だからだろう。


「さあ若様、交渉と参りましょうかな。ワシの意見を承諾して頂けるなら、小娘の安全は保証しましょう」


「……じゃあ、手短にお願いします」


「くく、理解が早いようで結構」


「――」


 嘲笑する彼を眺めながらも、横目には突撃しようとする同胞達が映る。が、許可は通せない。ペースを奪い返すのは、向こうが最もな隙を晒した時だ。

 外からは未だ戦闘の激震。父の優勢は想像するに容易で、敵の焦りが理解できる。


「条件は一つ、迎えを招いて頂きたい。さすれば責任を持って、ワシが小娘を保管いたしましょうぞ。新たな実験材料としてね」


「ま、待ってください! それじゃあ――」


「おや、何か間違いでも? 危害を加えないと申しましただけで、返却するとは一言も言っておりませんが?」


「っ……」


 詭弁染みた条件など飲むわけにはいかない。仮に首を振れば一生、エレニアは施設とやらの中だろう。

 勝ち誇った笑みには諧謔の色が灯る。少しずつ近付く竜の牙も、男へ愉悦を与えるにはちょうど良かった。


「さあ急げ獣ども。あまり待たせると、頭を食い千切ってしまうかもしれんぞ?」


「……」


 誰一人動く者はいない。桜斗でさえ、軍門に下ることを拒んでいる。

 もはや一か八かの力尽くしかなかった。エレニアが人質でいる限り、千浄の望みを一方的に叶える羽目になる。交渉どころか原始的な脅迫だ。

 左右で構える突撃班への一瞥。

 呼吸を合致させ、姿勢を前に傾けた――直後。

 集まっていた者達の間を、銀色の閃光が駆け抜ける。


「ぐっ!?」


 瞬く間の奇襲と一撃。

 人質が意味を成すこともなく、千浄は奥の壁にぶち込まれた。


「下らない約束をするなんて、随分と大人げないのね」


 人間に戻る一匹の人狼。

 憤怒の面貌を向け合うのは、数時間前には敵だった女性。


「ツェ、ツェニア、貴様……!」


「負け惜しみは後で聞くわ。だから早く、桜斗の刻印を返しなさい。せっかく持ち出すまで待ってたんだから」


「……ふん、何の話だ? ワシは刻印なんぞ持っておらん。そこの小僧どもが、勝手に妄想を語っておるだけだ」


「あらそう。――じゃ、手足の一本か二本は問題ないわね?」


 一呼吸する間もあったかどうか。

 刹那の時間で竜に化したツェニアは、爪を刃物のように走らせる。

 無論、ただでやられる千浄ではなかった。巨竜の頭で噛み付き、強引にその勢いを殺そうとする。

 しかし、それすら無駄の二文字。

 食い込んだ牙を物ともせず、巨竜の頭部を粉砕する。

 爆ぜるような剛力は千浄本人にも襲い掛かった。肉片と共に壁が撃ち抜かれ、緑で満たされた中庭へと投げ出される。


「く……き、貴様、母親を保護してやった恩を忘れたか!?」


『ええ、忘れたわ。だって貴方は実験のため、母を捕えていたに過ぎないもの。私への脅しに使うなら尚更、恩義云々には至らないでしょう?』


「ぐ……」


 横転から立ち上がろうとする、彼の足元。

 見覚えのある文様が刻まれた、掌大の石があった。

 桜斗の刻印だ。

 間髪入れず飛び掛かるツェニア。桜斗と他の数名も、風を切らんばかりに突貫する。

 誰一人望まない悲劇。根本ですべてを俯瞰していた女性も、この瞬間には目的を共有していた。

 無論。


「お、おのれえええぇぇぇえええ!!」


 たった一人、覗くべき人物がいて。

 手には中庭に置かれているコンクリートのブロック。

 全員の表情が強張った直後には、砕け散る桜斗の刻印。

 笑っているのは、一人だけだ。


「は、はは、はははは!! どうだ、どうした!? これで小娘は救えまい! さあ頭を下げろ! その女を預けるしか、他に道は――」


 ない、と言葉は続かない。

 足元の土ごと、砕け散った刻印ごと、彼は銀色の竜に飲まれた。

 残ったのは骨を噛み砕く異音だけ。男がいた場所には、一滴の血痕すら残らない。


『……癖があるわね、人肉って』


 脳裏に響く声はツェニアのソレだ。人を殺した後だというのに、彼女は異常なまでの冷静さで語り続ける。


『こんな終わり方だけど、どうするの? 桜斗。私に預けるか、意地を通すか。千浄が死んでも例の施設は印派の物だから、好都合なエンディングは有り得ないわよ?』


「……」


 桜斗は反射的に、彼女から距離を開けた。向こうが何をしてくるか、この現状では聞くまでもない。

 同調した者たちもツェニアの前に立ち塞がる。皆、獣化の用意を整えて。


『――まあ、仕方ないわね。私の救いと貴方の救いが、重なることなんて無いのだから……!』


「っ!」


 衝撃すら伴う咆哮。

 あまりの力強さに戦意は後ろを向いていた。どうすればいい。完膚無きにまで潰された最善を、どうやって作り直せばいい?

 危機感を煽る音は、別方向からも響いてくる。

 屋敷の正面、つまり桜斗達の背後。木々の砕ける音が、情け容赦なく聞こえてきた。

 桜花を掻い潜った少数の敵だろう。父の敗北へ杞憂はないが、自分達が挟撃され始めている事実は無視できない。

 周りの者達もこちらの意思を窺っている。どちらへ背を向け、どちらへ対処に出るべきかと。

 背後にいるエレニアを抱き上げる。

 悩むまでもない、即断だった。


「後ろはお願いします!」


「若様!?」


 呼び止める声にも構わない。

 逃げる桜斗に対し、ツェニアは必然から矛先を向けた。屋敷の危機には一瞥もくれない。最低限の保険として竜の姿を保ったまま、走る弟分と妹を追撃する。

 直ぐに視界は森の中。そろそろ彼女も、人狼に姿を切り替える頃だろう。

 エレニアを抱き抱えたまま、全力で道を踏む。直線上の勝負になったら負けだ。とにかく奥、入り組んだ木々を利用するしかない。

 だが、もって数秒。

 瞬きする間に、正面へと回り込まれた。


「く……!」


 互いに譲れない一場面。無力化を覚悟の上で、斬竜皇子を出現させる。

 敵は狼の拳を。エレニアを抱えていたところで、手加減する気はないようだ。――あるいは桜斗なら、妹を上手く守ると買っているのか。

 弾け飛んだ銀狼を、竜殺しの双眸が捉える。

 直後。

 地面が爆砕され、ツェニアの神速を遮った。


『桜斗、下がれ!』


 黒く巨大な影。

 父親の背中が、盾になる。


『彼女は私が抑える! お前は町の方まで逃げろ! 後ろから連中がやってくるぞ!』


「連中――」


 振り向くまでもない。重複した羽ばたきと鳴き声は、印派の竜人達だ。

 やはり数が多い。固体の性能では敵わないと見て、完全な物量作戦に移行したか。


「父さん、無事で!」


 祈りはそれだけ。

 謝罪はなく、彼の意思を讃えて走る。

 




 町に出た桜斗の問題は、どこに逃げるべきかだった。

 エレニアのマンションはさすがに露骨過ぎる。とはいえ学校も選び難い。金霧家が運営に噛んでいる以上、印派の手が回っている可能性もある。

 誰も巻き込まない、なんて綺麗事は言うまい。桜斗一人では、自分の足に頼ることが精々だ。彼女を延々と連れ回すのにも不安がある。

 とどのつまり、最も信頼できる人物を頼るしかなく。


「いやはや、災難だったなあ。金霧」


 親友と呼べる雄桐に、連絡を取った次第だった。

 実代教会。雄桐の両親が管理者を務める、町一番の立派な教会だ。表の礼拝堂には途切れ途切れに信者がやってきており、彼の父親である神父が対応に当たっている。

 いずれも一般人。親子が超者と関係しているとは言え、来訪者に偏りはなさそうだ。

 桜斗とエレニアは現在、親子の生活空間に足を踏み入れている。礼拝堂の様子を確認できるのは、奥の扉からこっそり覗いているからだ。……印派の手が回ってくる予兆は、今のところ感じない。

 神父は息子と同じく乱雑な口調だが、忌避されている様子はまったくなかった。単に信頼の問題だろうな、と桜斗は胸の中で一人ごちる。


「……」


 これ以上見続けても、得るものはない。

 司祭室に通じる廊下の扉を、桜斗はそっと手前に引いた。


「ごめんね、迷惑かけちゃってさ」


「気にすんなって、成績以外の優等生。そもそも教会、元は金霧家の所有だぜ? 建てる時に使った素材も、全部向こうから持ってきたんだぞ」


「じゃあもしかしかして、その頃から協力者に?」


 短い相槌へ、桜斗も似たように肯んじる。

 しかしだからと言って、甘え尽してしまうわけにはいかない。エレニアが目覚め次第、移動も含めて相談する必要がある。

 今の問題は、この状況がどれだけ続くか。大衆の目を省みず、ツェニアが事を起こすかどうかの二点だった。


「そういえば金霧、誘拐事件の顛末は聞いたかよ?」


「いや、全然。ニュースなんて確認する暇もなかったし。……どうなったの?」


「どうも、理事長の野郎が主導で行っていたようだな。領主殿は無関係だし、ツェニアさんが彼の命令で動いた証拠もなし。ただ、千浄相手には――」


「ツェニアさんが、自発的に従ってたって?」


 渋々、が似合う堅さで、雄桐は頷いた。

 やはりと言うべきか、桜斗には首を傾げるしか出来ない。彼女が人間を誘拐する条件など、手元にはまったく残っていないからだ。

 そもそも。


「脅されてとかじゃないの? 彼女、母親を人質に取られてたようだけど」


「親父が関係者から聞いた噂によると、その母親を救う手段として必要だったそうだ。摘出した刻印を複製するとか何とかでよ。まあ突拍子がない話なのは、さすが噂ってところかね」


「……」


 笑って過ごす雄桐だが、桜斗はそういうわけにもいかない。

 寧ろ深刻な表情、心持ちになってくる。……彼女は用意周到だった。妹が姉の犠牲を拒むことも、桜斗の刻印が取り戻せないことも踏まえていた。

 だから二重の策を用意し、千浄を利用したのだろう。桜十達の敵になるのも、同じ観点から迷わなかった。

 溜め息が出る。これじゃあ結局、ツェニアの足を引っ張っただけじゃないか。


「金霧?」


「え、ああ、いや」


 取り繕うにも限度があるが、出来るだけ普段通りの抑揚で応じた。

 無論、雄桐には通用する筈もない。神妙な面持ちで、焦り気味の桜斗を睨む。


「――まあ、お前のことだ。あれこれ口を突っ込むのは止めとくわ」


「……えっと、お礼を言うべきかな? それは」


「お節介が嫌いなら、じゃんじゃん感謝してくれよ。俺の立場上、迷える子羊には手を差し伸べるべきなんだろうけどな。該当者が竜人じゃ、逆にこっち手が大火傷だ」


「成程、火傷か」


 間違っても呪炎なんて吐けないのだが。

 しかし、信頼への後ろめたさがある。自分一人で抱え切れる問題じゃないと、分かっているだけに喋りたい。

 短い前口上で、去ろうとする背中を呼び止める。


「個人的、なんだけどさ。ツェニアさんにはまた、金霧家に戻ってきて欲しい」


「……難しい話だろうな、そりゃ。今回の事件は、超種の基本である現代社会への干渉を真っ向から破った。無理に戻せば、内部衝突の火種になるかもしれん」


「だろうね。――それは覚悟一つで、乗り越えられる障害かな?」


「……」


 肯定を待つのか否定を待つのか、どちらとも言えない疑問。

 ツェニアを追い詰めたくない――偽りない桜斗の本音だ。まあ厳密には、エレニアを気遣って。彼女に痛みを背負わせたくないから、ハッピーエンドが欲しかった。

 一方、冷徹な自分は不可能だと悟っている。

 指針を変えるかどうか以前の問題だ。理想論に走るのなら、現実はこれ以上なく目に焼き付く。最善の選択肢は、既に失われたということを。

 せめて、敵だったら。

 ツェニアが赤の他人で、憎悪を吸い尽す敵であれば。悩みもせず、戦うことが出来ただろうに。


「んだなあ……」


 真摯な態度を崩さず、雄桐は思案に耽る。

 どんな解答が出ようとも、桜斗は別に構わなかった。どちらにすべきかなんて質問は、後押しが欲しいだけの簡素なものでしかない。


「不可能だと、俺は思う」


「どうして?」


「お前んちが、それを許容するように出来てねえからだよ。ましてや金霧は領主殿の一人息子。十分な覚悟が備わっていたとしても、誰かが必ず間引きにくる」


 だから、止めておけ。

 ――そこまでの断定はしなかったが、目には同じ気持ちが宿っていた。桜斗も自然と頷いてしまう。

 やはり足りていない。

 ツェニアを贄として奉げ、責任を負う決意が足りない。


「……しかし、最終的に決定するのは金霧自身だ。時間もそう残されてない。相談には幾らでも乗るが、そのことだけは忘れんなよ」


「ああ、分かってる」


 一礼と共に司祭室へ向かう友人を、桜斗はその場で見送った。

 一息ついたところで、二階にある客室へ足を向ける。到着した時は穏やかな寝顔だったが、気になるものは気になるものだ。

 階段を上った窓の先には高い日差し。影を濃くするように、強く強く燃えている。


「さて」


 右にある取っ手を静かに回し、桜斗は目当ての部屋へ踏み込んだ。

 ――胸に訪れたのは、暗闇を晴らす程の安心感。

 ベッドの上。半身を起こし、伸び伸びと準備運動をしていた少女がいる。

 いつも通りの白い肌。僅かな赤みも差し、病的な要素は一切感じない。向けられる微笑も、根本的な問題を忘れさせるほど魅力的だ。


「こ、こんにちは、桜斗様」


「あ、ああ、うん。こんにちは」


 数年ぶりに挨拶を交しているようで、何だか気恥かしい。

 そうやって棒立ちする桜斗へ、エレニアは近くに来るよう身振りで示す。手ごろな椅子も置かれており、落ち着いて話をする環境は整っていた。

 拒む気持ちはなく、目覚めたばかりの彼女と視線を合わせる。


「……まずは、謝らないといけませんね」


「な、何を?」


「契りのことと、母のことです。――私は貴方を利用していました。母を助けるために刻印が必要だったから、契りの儀を使って入手しようと考えたんです。ですから――」


「いいって。昨日と同じことを言うけど、エレニアにとっては必要だったんだろ? 後悔する必要はないよ。……実際、椛さんは助けられたんだし」


「……」


 彼女が眠っていた時にも増して、空気の静謐感は広がっていった。

 桜斗の抑揚には、批判めいたものが混じっている。エレニアへ向けたものではなく、自分への攻撃として。

 きっと、頼りなかった。彼女の都合を背負える程、この肩は広くなかった。

 桜花のように力があれば、隠し事をさせる必要はなかったかもしれない。もっと早くに別の方法を、刻印を入手する手段を導けたかもしれない。

 エレニアにも責任はあるのだろうが、自分の性格上それは考えられなかった。彼女は様々なことから肯定すべき人物であり、何が何でも守ってやりたい。……枷になった未熟さがあれば、自責の念が沸くだけだ。


「……エレニア、その――」


「ああ、わざわざ説明して頂かなくても結構ですよ。屋敷での出来事はボンヤリと耳に入ってましたし、自分の身体に何が起こったかも、大体は」


「なら、いいけど……」


 どんな風に、肝心の話を切り出すべきか。

 エレニアは桜斗の心境も知らず、小動物のように首を傾げている。迫っている時間制限も、その無垢な顔立ちからは感じ取れない。

 少年の傷口にとっては、消毒薬にも近いモノ。

 彼女を見ているだけで、自分の至らなさが肯定されたように思えてしまう。これから待ち受ける悲劇さえ、致し方ない結末だと。

 しかし払われた犠牲は戻らない。傷は時間を得たところで消えないし、痛みだけは持ち続けることになる。

 それでも。

 どこかで、決断しなければならないのだ。

 思いつめた顔付きで、改めてエレニアと向き合う。

 未来を省みない、少女の姿。まるで散り際の桜のようだ。彼女は最後まで自分らしく、美しいままでいるのだろう。

 だから、散って欲しくない。

 世界に一人しかいない。花だからこそ。 


「――ツェニアさんから、刻印を貰おう」


「……」


「色々なことか手詰まりだ。こうなった以上、彼女の意思を尊重するしかない。……勿論、エレニアが良ければ、だけどさ」


 訥々と語る桜斗。少女はそれを、切り替えた表情で聞いている。

 彼女からどんな罵詈雑言が飛んでこようと、心は受け入れる覚悟だった。他に術はないのだから。ここで時間が過ぎるのを待って、何一つ成さないよりはずっと良い、と。

 傷は自分が引き受ける。そうすれば治る。

 彼女も分かりやすい敵がいれば、憎むだけで済む話だ。


「桜斗様は?」


「え……」


 条件反射のような問い掛け。

 銀色の桜は真っ直ぐ、こちらの瞳を射抜いている。


「桜斗様は、それでいいんですか?」


「そ、それは……」


「嫌なら嫌で構いませんよ? 私は、桜斗様が自分を傷付けるような真似をするのが、一番苦しいです。貴方が貴方らしく、その意思で行動してくれることが、逆に一番嬉しいです」


「……例え俺が、自己犠牲を推奨するような人物でも?」


「まさか」


 エレニアは笑った。

 この重苦しい空気の中、場違いなぐらいの悪戯心を込めて。


「私は、そんな男性を好きになった記憶がありません」


「――」


「私、頼みましたよね? 強くいさせて欲しい、と。……だから、私の願いはそれだけです。貴方が傲慢にも欲するものがあるなら、私もそれが欲しい」


「……こ、困ったな、それは」


 色々な意味で従順というか、純粋というか。

 しかし絆されてしまった。彼女の目は桜斗だけを見ていて、周りの調度品すら眼中にない。輝くような期待が、その根底には感じられる。

 ――かつて、同じ目を見せた、大切な女性がいた。

 彼女は息子と二人きりの部屋で、期待に満ちた言葉を告げたと思う。ある種の呪いのようで、自分には背負い切れない言葉を。

 でも多分、向けられた感情には間違いも、錯覚もなかったのだろう。

 彼女はただ、超えると信じていた。貴方は私と彼の子なのだから、きっとやり通せると。何もかも壊して、新しい道を打ち建てられると。確信めいて言ったのだ。


「――分かった」


 彼女はいつも自慢げだった。子供が馬鹿をしようとも、溢れる生命として祝福してくれた。

 同じ座席に座る少女も同じ。

 屈するのではなく、抗うことを。自分であろうとする我儘を、彼女たちは知っている。


「ツェニアさんの考えは、到底承服し切れない。でも、エレニアを放ってもおけない」


「はい」


「だからまずは彼女を止める。その後で、君を絶対に助ける。どれだけ時間がかかっても」


「はい……!」


 否はない。全幅の信頼を向けて、彼女は清々しく頷いた。

 後に聞こえるのは、教会の正門が開け放たれた音。威圧的な気配に、竜の血が来訪したと意を決する。


「桜斗様、一つ忘れないでくださいね」


「? 何を」


「私に一生、お世話して欲しいんでしょう? なら私と喧嘩するようなこと、考えちゃいけません。……さっきの顔、丸分かりでしたよ?」


「か、敵わないなあ、エレニアには」


「ええ、どんなもんです」


 台詞の通り、自慢げに胸を逸らす少女。

 自分の迷いに苦笑してから、桜斗は力強く頷いた。

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