第11話 信頼
第三者が居合わせれば、脅迫の現場だと身を引いたかもしれない。舞台が深い森の中というのもある。胡散臭い雰囲気を作るのには十分だ。
それと同等に、両者の姿勢も正反対。
屋敷から出てきた男は堂々と。彼の元に自ら赴いた、初老の男は怯えと共に。
彼、千浄は歩く度に、右肩を庇うような仕草を見せた。恐らく桜斗から受けた傷が痛むのだろう。その目は燃え滾る憎悪を宿し、仇がいれば噛み付かんばかりの剣呑さだ。
どちらかが要求したのか、両者は護衛を従えず単身。最低限の信頼は向けていると見るべきか。あるいは、片方が仕掛けた単純すぎる罠と見るか。
もっとも、桜斗は実質的に同席している。
双方の様子が伺える幹の裏。斬竜皇子を握り、如何なる事態にも対処するために身構えていた。
「負傷したと聞いたが、元気そうで何よりだ、千浄。……今回は何の用かな?」
「ふん、言うまでもありますまい。此度の衝突が金霧家の損失となり得るからこそ、ワシはこうして馳せ参じたのです」
「可笑しなことを言う。我々にとって、今回の衝突は好機だ。不穏分子を炙り出し、領内の平定を招くには丁度いい。貴様も金霧の繁栄を願う者なら、これぐらい理解しているだろう?」
「っ……」
苦虫を噛み殺したように、千浄の顔付きは歪だった。本音を抑えているのが直ぐ分かる。
とは言え、心の内を曝け出しても意味はない。彼は大きく深呼吸すると、表情の堅を抜いた。それでもまだ、媚びを売るには無理があったが。
「ワシとて、此度の事態を痛ましいとは考えております。ご子息にもいらぬ誤解を与えてしまったでしょうからな」
「……」
「若様に責を問うのは、それこそ不利益というもの。――故に、我が主よ。貴方のお言葉でどうか、争いを諫めて頂きたい」
「条件、と洒落込むつもりか?」
「そう受け取っても」
は、と桜花は鼻で笑う。
普段、度々口にしている和解だったが、今回ばかりは姿勢を完全に変えたらしい。及び腰の千浄へ、溜まった鬱憤を晴らさんばかりだ。
前置き一つにさえ敵は眉根を歪ませる。正直なところ愉快な光景だが、暴走への憂慮を含ませるのも事実だった。
「飲んでも構わないが、二つ条件がある。一つは印派の解散、もう一つは貴様が所有している刻印の返還だ」
「っ――」
「前者についてはある程度まで妥協も考えよう。ただし、刻印の方については必ず返還してもらう。あれは桜斗にあるべき物で、そちらが所有していい力ではない」
「……成程」
思わず鳥肌が立つほど、声は殺意を押し殺していた。
どうあっても渡せる代物ではないらしい。あるいは渡せない仕組みなのか。千浄自身の肉体に刻まれている場合、大いにあり得る障害ではある。
だったら本来、力による衝突は避けるべきなのだろう。――こちらの意思だけで決定できないのは、非常にむず痒い現実だが。
停滞する沈黙。一触触発の危険性も織り交ぜており、今にも息が詰まりそうだ。
後に待つのは必然だけ。
「では死ね!」
直情過ぎる宣告が、件の陣を呼び起こす。
無論、戦力はそれだけに留まらない。桜斗と同じように潜んでいた者、上空に待機していた者が、先手必勝を狙って奇襲を浴びせる。
されど、対するは長なる者。
一瞬だった。
赤に青、緑の甲殻が、花弁のように散っていく。
聳えるは黒。守護者であり破壊者であり、善悪を創設する王の牙。
頂点の一画を担う者の、力だった。
『ふむ、一瞬だったな。まだ寝ぼけているような感覚はあるが、雑兵相手には十分らしい』
「おのれ……!」
憤怒に染まる千浄の背後、及び頭上。まだまだ増援は途切れない。
一対数十。なおも敗北は有り得ないが、さすがに足枷だ。この場を去ろうとしている千浄を追うには、どうあっても手が足りなかった。
……にしても、彼の逃げる方向がおかしい。
真っ先に踵を返すどころか、戦場を迂回している。これでは戦いの火蓋に巻き込まれるか、あるいは――
「そっちが狙いか……!」
父の指示より速く。悪寒に急かされた桜斗は、一目散に千浄を追う。
率直な行動。敵にとっては勘を巡らせるまでもなく、愚直にも見えたことだろう。
捨て身を覚悟して、数頭の竜人が突撃する。
桜斗は一切怯まない。寧ろ加速するだけだ。ここで手間取っていては――千浄を、エレニアがいる屋敷に近付けてしまう。
即座の回避と致命の一撃。とにかく時間を削って、最速の立ち回りを演舞する。
屋敷の輪郭が見え始めた、その頃。
内側からの衝撃によって、屋根瓦がぶちまけられた。
微かに聞こえる侍女たちの悲鳴。事の仔細を目で見るより先に、心臓は早鐘を生み出していく。
「っ――」
子供の頃から通った玄関には、見るも無残な爆砕の跡。
破壊の痕跡は真っ直ぐ奥に続いている。日頃から在中している父の側近は、獣化する前の状態で撃破されていた。
母の安否よりも先に、脳裏を過る少女の姿。
土足で入ることも気にせず、桜斗は仮の病室へと走った。
「動くな!」
興奮した男の声。
家の者たちが警戒する先に、二人分の陰影がある。
詳細な人物像は言うまでもない。被害者である少女は苦しげに、加害者である男は飢えた眼光を崩さなかった。
その指先には光の陣も。ナイフの代わりに少女へ突き付けられているのは、獰猛な竜の牙に他ならない。
「くく……」
桜斗を認めるなり、千浄は一転して破顔する。エレニアを人質にした時、効果覿面な人物の一人だからだろう。
「さあ若様、交渉と参りましょうかな。ワシの意見を承諾して頂けるなら、小娘の安全は保証しましょう」
「……じゃあ、手短にお願いします」
「くく、理解が早いようで結構」
「――」
嘲笑する彼を眺めながらも、横目には突撃しようとする同胞達が映る。が、許可は通せない。ペースを奪い返すのは、向こうが最もな隙を晒した時だ。
外からは未だ戦闘の激震。父の優勢は想像するに容易で、敵の焦りが理解できる。
「条件は一つ、迎えを招いて頂きたい。さすれば責任を持って、ワシが小娘を保管いたしましょうぞ。新たな実験材料としてね」
「ま、待ってください! それじゃあ――」
「おや、何か間違いでも? 危害を加えないと申しましただけで、返却するとは一言も言っておりませんが?」
「っ……」
詭弁染みた条件など飲むわけにはいかない。仮に首を振れば一生、エレニアは施設とやらの中だろう。
勝ち誇った笑みには諧謔の色が灯る。少しずつ近付く竜の牙も、男へ愉悦を与えるにはちょうど良かった。
「さあ急げ獣ども。あまり待たせると、頭を食い千切ってしまうかもしれんぞ?」
「……」
誰一人動く者はいない。桜斗でさえ、軍門に下ることを拒んでいる。
もはや一か八かの力尽くしかなかった。エレニアが人質でいる限り、千浄の望みを一方的に叶える羽目になる。交渉どころか原始的な脅迫だ。
左右で構える突撃班への一瞥。
呼吸を合致させ、姿勢を前に傾けた――直後。
集まっていた者達の間を、銀色の閃光が駆け抜ける。
「ぐっ!?」
瞬く間の奇襲と一撃。
人質が意味を成すこともなく、千浄は奥の壁にぶち込まれた。
「下らない約束をするなんて、随分と大人げないのね」
人間に戻る一匹の人狼。
憤怒の面貌を向け合うのは、数時間前には敵だった女性。
「ツェ、ツェニア、貴様……!」
「負け惜しみは後で聞くわ。だから早く、桜斗の刻印を返しなさい。せっかく持ち出すまで待ってたんだから」
「……ふん、何の話だ? ワシは刻印なんぞ持っておらん。そこの小僧どもが、勝手に妄想を語っておるだけだ」
「あらそう。――じゃ、手足の一本か二本は問題ないわね?」
一呼吸する間もあったかどうか。
刹那の時間で竜に化したツェニアは、爪を刃物のように走らせる。
無論、ただでやられる千浄ではなかった。巨竜の頭で噛み付き、強引にその勢いを殺そうとする。
しかし、それすら無駄の二文字。
食い込んだ牙を物ともせず、巨竜の頭部を粉砕する。
爆ぜるような剛力は千浄本人にも襲い掛かった。肉片と共に壁が撃ち抜かれ、緑で満たされた中庭へと投げ出される。
「く……き、貴様、母親を保護してやった恩を忘れたか!?」
『ええ、忘れたわ。だって貴方は実験のため、母を捕えていたに過ぎないもの。私への脅しに使うなら尚更、恩義云々には至らないでしょう?』
「ぐ……」
横転から立ち上がろうとする、彼の足元。
見覚えのある文様が刻まれた、掌大の石があった。
桜斗の刻印だ。
間髪入れず飛び掛かるツェニア。桜斗と他の数名も、風を切らんばかりに突貫する。
誰一人望まない悲劇。根本ですべてを俯瞰していた女性も、この瞬間には目的を共有していた。
無論。
「お、おのれえええぇぇぇえええ!!」
たった一人、覗くべき人物がいて。
手には中庭に置かれているコンクリートのブロック。
全員の表情が強張った直後には、砕け散る桜斗の刻印。
笑っているのは、一人だけだ。
「は、はは、はははは!! どうだ、どうした!? これで小娘は救えまい! さあ頭を下げろ! その女を預けるしか、他に道は――」
ない、と言葉は続かない。
足元の土ごと、砕け散った刻印ごと、彼は銀色の竜に飲まれた。
残ったのは骨を噛み砕く異音だけ。男がいた場所には、一滴の血痕すら残らない。
『……癖があるわね、人肉って』
脳裏に響く声はツェニアのソレだ。人を殺した後だというのに、彼女は異常なまでの冷静さで語り続ける。
『こんな終わり方だけど、どうするの? 桜斗。私に預けるか、意地を通すか。千浄が死んでも例の施設は印派の物だから、好都合なエンディングは有り得ないわよ?』
「……」
桜斗は反射的に、彼女から距離を開けた。向こうが何をしてくるか、この現状では聞くまでもない。
同調した者たちもツェニアの前に立ち塞がる。皆、獣化の用意を整えて。
『――まあ、仕方ないわね。私の救いと貴方の救いが、重なることなんて無いのだから……!』
「っ!」
衝撃すら伴う咆哮。
あまりの力強さに戦意は後ろを向いていた。どうすればいい。完膚無きにまで潰された最善を、どうやって作り直せばいい?
危機感を煽る音は、別方向からも響いてくる。
屋敷の正面、つまり桜斗達の背後。木々の砕ける音が、情け容赦なく聞こえてきた。
桜花を掻い潜った少数の敵だろう。父の敗北へ杞憂はないが、自分達が挟撃され始めている事実は無視できない。
周りの者達もこちらの意思を窺っている。どちらへ背を向け、どちらへ対処に出るべきかと。
背後にいるエレニアを抱き上げる。
悩むまでもない、即断だった。
「後ろはお願いします!」
「若様!?」
呼び止める声にも構わない。
逃げる桜斗に対し、ツェニアは必然から矛先を向けた。屋敷の危機には一瞥もくれない。最低限の保険として竜の姿を保ったまま、走る弟分と妹を追撃する。
直ぐに視界は森の中。そろそろ彼女も、人狼に姿を切り替える頃だろう。
エレニアを抱き抱えたまま、全力で道を踏む。直線上の勝負になったら負けだ。とにかく奥、入り組んだ木々を利用するしかない。
だが、もって数秒。
瞬きする間に、正面へと回り込まれた。
「く……!」
互いに譲れない一場面。無力化を覚悟の上で、斬竜皇子を出現させる。
敵は狼の拳を。エレニアを抱えていたところで、手加減する気はないようだ。――あるいは桜斗なら、妹を上手く守ると買っているのか。
弾け飛んだ銀狼を、竜殺しの双眸が捉える。
直後。
地面が爆砕され、ツェニアの神速を遮った。
『桜斗、下がれ!』
黒く巨大な影。
父親の背中が、盾になる。
『彼女は私が抑える! お前は町の方まで逃げろ! 後ろから連中がやってくるぞ!』
「連中――」
振り向くまでもない。重複した羽ばたきと鳴き声は、印派の竜人達だ。
やはり数が多い。固体の性能では敵わないと見て、完全な物量作戦に移行したか。
「父さん、無事で!」
祈りはそれだけ。
謝罪はなく、彼の意思を讃えて走る。
町に出た桜斗の問題は、どこに逃げるべきかだった。
エレニアのマンションはさすがに露骨過ぎる。とはいえ学校も選び難い。金霧家が運営に噛んでいる以上、印派の手が回っている可能性もある。
誰も巻き込まない、なんて綺麗事は言うまい。桜斗一人では、自分の足に頼ることが精々だ。彼女を延々と連れ回すのにも不安がある。
とどのつまり、最も信頼できる人物を頼るしかなく。
「いやはや、災難だったなあ。金霧」
親友と呼べる雄桐に、連絡を取った次第だった。
実代教会。雄桐の両親が管理者を務める、町一番の立派な教会だ。表の礼拝堂には途切れ途切れに信者がやってきており、彼の父親である神父が対応に当たっている。
いずれも一般人。親子が超者と関係しているとは言え、来訪者に偏りはなさそうだ。
桜斗とエレニアは現在、親子の生活空間に足を踏み入れている。礼拝堂の様子を確認できるのは、奥の扉からこっそり覗いているからだ。……印派の手が回ってくる予兆は、今のところ感じない。
神父は息子と同じく乱雑な口調だが、忌避されている様子はまったくなかった。単に信頼の問題だろうな、と桜斗は胸の中で一人ごちる。
「……」
これ以上見続けても、得るものはない。
司祭室に通じる廊下の扉を、桜斗はそっと手前に引いた。
「ごめんね、迷惑かけちゃってさ」
「気にすんなって、成績以外の優等生。そもそも教会、元は金霧家の所有だぜ? 建てる時に使った素材も、全部向こうから持ってきたんだぞ」
「じゃあもしかしかして、その頃から協力者に?」
短い相槌へ、桜斗も似たように肯んじる。
しかしだからと言って、甘え尽してしまうわけにはいかない。エレニアが目覚め次第、移動も含めて相談する必要がある。
今の問題は、この状況がどれだけ続くか。大衆の目を省みず、ツェニアが事を起こすかどうかの二点だった。
「そういえば金霧、誘拐事件の顛末は聞いたかよ?」
「いや、全然。ニュースなんて確認する暇もなかったし。……どうなったの?」
「どうも、理事長の野郎が主導で行っていたようだな。領主殿は無関係だし、ツェニアさんが彼の命令で動いた証拠もなし。ただ、千浄相手には――」
「ツェニアさんが、自発的に従ってたって?」
渋々、が似合う堅さで、雄桐は頷いた。
やはりと言うべきか、桜斗には首を傾げるしか出来ない。彼女が人間を誘拐する条件など、手元にはまったく残っていないからだ。
そもそも。
「脅されてとかじゃないの? 彼女、母親を人質に取られてたようだけど」
「親父が関係者から聞いた噂によると、その母親を救う手段として必要だったそうだ。摘出した刻印を複製するとか何とかでよ。まあ突拍子がない話なのは、さすが噂ってところかね」
「……」
笑って過ごす雄桐だが、桜斗はそういうわけにもいかない。
寧ろ深刻な表情、心持ちになってくる。……彼女は用意周到だった。妹が姉の犠牲を拒むことも、桜斗の刻印が取り戻せないことも踏まえていた。
だから二重の策を用意し、千浄を利用したのだろう。桜十達の敵になるのも、同じ観点から迷わなかった。
溜め息が出る。これじゃあ結局、ツェニアの足を引っ張っただけじゃないか。
「金霧?」
「え、ああ、いや」
取り繕うにも限度があるが、出来るだけ普段通りの抑揚で応じた。
無論、雄桐には通用する筈もない。神妙な面持ちで、焦り気味の桜斗を睨む。
「――まあ、お前のことだ。あれこれ口を突っ込むのは止めとくわ」
「……えっと、お礼を言うべきかな? それは」
「お節介が嫌いなら、じゃんじゃん感謝してくれよ。俺の立場上、迷える子羊には手を差し伸べるべきなんだろうけどな。該当者が竜人じゃ、逆にこっち手が大火傷だ」
「成程、火傷か」
間違っても呪炎なんて吐けないのだが。
しかし、信頼への後ろめたさがある。自分一人で抱え切れる問題じゃないと、分かっているだけに喋りたい。
短い前口上で、去ろうとする背中を呼び止める。
「個人的、なんだけどさ。ツェニアさんにはまた、金霧家に戻ってきて欲しい」
「……難しい話だろうな、そりゃ。今回の事件は、超種の基本である現代社会への干渉を真っ向から破った。無理に戻せば、内部衝突の火種になるかもしれん」
「だろうね。――それは覚悟一つで、乗り越えられる障害かな?」
「……」
肯定を待つのか否定を待つのか、どちらとも言えない疑問。
ツェニアを追い詰めたくない――偽りない桜斗の本音だ。まあ厳密には、エレニアを気遣って。彼女に痛みを背負わせたくないから、ハッピーエンドが欲しかった。
一方、冷徹な自分は不可能だと悟っている。
指針を変えるかどうか以前の問題だ。理想論に走るのなら、現実はこれ以上なく目に焼き付く。最善の選択肢は、既に失われたということを。
せめて、敵だったら。
ツェニアが赤の他人で、憎悪を吸い尽す敵であれば。悩みもせず、戦うことが出来ただろうに。
「んだなあ……」
真摯な態度を崩さず、雄桐は思案に耽る。
どんな解答が出ようとも、桜斗は別に構わなかった。どちらにすべきかなんて質問は、後押しが欲しいだけの簡素なものでしかない。
「不可能だと、俺は思う」
「どうして?」
「お前んちが、それを許容するように出来てねえからだよ。ましてや金霧は領主殿の一人息子。十分な覚悟が備わっていたとしても、誰かが必ず間引きにくる」
だから、止めておけ。
――そこまでの断定はしなかったが、目には同じ気持ちが宿っていた。桜斗も自然と頷いてしまう。
やはり足りていない。
ツェニアを贄として奉げ、責任を負う決意が足りない。
「……しかし、最終的に決定するのは金霧自身だ。時間もそう残されてない。相談には幾らでも乗るが、そのことだけは忘れんなよ」
「ああ、分かってる」
一礼と共に司祭室へ向かう友人を、桜斗はその場で見送った。
一息ついたところで、二階にある客室へ足を向ける。到着した時は穏やかな寝顔だったが、気になるものは気になるものだ。
階段を上った窓の先には高い日差し。影を濃くするように、強く強く燃えている。
「さて」
右にある取っ手を静かに回し、桜斗は目当ての部屋へ踏み込んだ。
――胸に訪れたのは、暗闇を晴らす程の安心感。
ベッドの上。半身を起こし、伸び伸びと準備運動をしていた少女がいる。
いつも通りの白い肌。僅かな赤みも差し、病的な要素は一切感じない。向けられる微笑も、根本的な問題を忘れさせるほど魅力的だ。
「こ、こんにちは、桜斗様」
「あ、ああ、うん。こんにちは」
数年ぶりに挨拶を交しているようで、何だか気恥かしい。
そうやって棒立ちする桜斗へ、エレニアは近くに来るよう身振りで示す。手ごろな椅子も置かれており、落ち着いて話をする環境は整っていた。
拒む気持ちはなく、目覚めたばかりの彼女と視線を合わせる。
「……まずは、謝らないといけませんね」
「な、何を?」
「契りのことと、母のことです。――私は貴方を利用していました。母を助けるために刻印が必要だったから、契りの儀を使って入手しようと考えたんです。ですから――」
「いいって。昨日と同じことを言うけど、エレニアにとっては必要だったんだろ? 後悔する必要はないよ。……実際、椛さんは助けられたんだし」
「……」
彼女が眠っていた時にも増して、空気の静謐感は広がっていった。
桜斗の抑揚には、批判めいたものが混じっている。エレニアへ向けたものではなく、自分への攻撃として。
きっと、頼りなかった。彼女の都合を背負える程、この肩は広くなかった。
桜花のように力があれば、隠し事をさせる必要はなかったかもしれない。もっと早くに別の方法を、刻印を入手する手段を導けたかもしれない。
エレニアにも責任はあるのだろうが、自分の性格上それは考えられなかった。彼女は様々なことから肯定すべき人物であり、何が何でも守ってやりたい。……枷になった未熟さがあれば、自責の念が沸くだけだ。
「……エレニア、その――」
「ああ、わざわざ説明して頂かなくても結構ですよ。屋敷での出来事はボンヤリと耳に入ってましたし、自分の身体に何が起こったかも、大体は」
「なら、いいけど……」
どんな風に、肝心の話を切り出すべきか。
エレニアは桜斗の心境も知らず、小動物のように首を傾げている。迫っている時間制限も、その無垢な顔立ちからは感じ取れない。
少年の傷口にとっては、消毒薬にも近いモノ。
彼女を見ているだけで、自分の至らなさが肯定されたように思えてしまう。これから待ち受ける悲劇さえ、致し方ない結末だと。
しかし払われた犠牲は戻らない。傷は時間を得たところで消えないし、痛みだけは持ち続けることになる。
それでも。
どこかで、決断しなければならないのだ。
思いつめた顔付きで、改めてエレニアと向き合う。
未来を省みない、少女の姿。まるで散り際の桜のようだ。彼女は最後まで自分らしく、美しいままでいるのだろう。
だから、散って欲しくない。
世界に一人しかいない。花だからこそ。
「――ツェニアさんから、刻印を貰おう」
「……」
「色々なことか手詰まりだ。こうなった以上、彼女の意思を尊重するしかない。……勿論、エレニアが良ければ、だけどさ」
訥々と語る桜斗。少女はそれを、切り替えた表情で聞いている。
彼女からどんな罵詈雑言が飛んでこようと、心は受け入れる覚悟だった。他に術はないのだから。ここで時間が過ぎるのを待って、何一つ成さないよりはずっと良い、と。
傷は自分が引き受ける。そうすれば治る。
彼女も分かりやすい敵がいれば、憎むだけで済む話だ。
「桜斗様は?」
「え……」
条件反射のような問い掛け。
銀色の桜は真っ直ぐ、こちらの瞳を射抜いている。
「桜斗様は、それでいいんですか?」
「そ、それは……」
「嫌なら嫌で構いませんよ? 私は、桜斗様が自分を傷付けるような真似をするのが、一番苦しいです。貴方が貴方らしく、その意思で行動してくれることが、逆に一番嬉しいです」
「……例え俺が、自己犠牲を推奨するような人物でも?」
「まさか」
エレニアは笑った。
この重苦しい空気の中、場違いなぐらいの悪戯心を込めて。
「私は、そんな男性を好きになった記憶がありません」
「――」
「私、頼みましたよね? 強くいさせて欲しい、と。……だから、私の願いはそれだけです。貴方が傲慢にも欲するものがあるなら、私もそれが欲しい」
「……こ、困ったな、それは」
色々な意味で従順というか、純粋というか。
しかし絆されてしまった。彼女の目は桜斗だけを見ていて、周りの調度品すら眼中にない。輝くような期待が、その根底には感じられる。
――かつて、同じ目を見せた、大切な女性がいた。
彼女は息子と二人きりの部屋で、期待に満ちた言葉を告げたと思う。ある種の呪いのようで、自分には背負い切れない言葉を。
でも多分、向けられた感情には間違いも、錯覚もなかったのだろう。
彼女はただ、超えると信じていた。貴方は私と彼の子なのだから、きっとやり通せると。何もかも壊して、新しい道を打ち建てられると。確信めいて言ったのだ。
「――分かった」
彼女はいつも自慢げだった。子供が馬鹿をしようとも、溢れる生命として祝福してくれた。
同じ座席に座る少女も同じ。
屈するのではなく、抗うことを。自分であろうとする我儘を、彼女たちは知っている。
「ツェニアさんの考えは、到底承服し切れない。でも、エレニアを放ってもおけない」
「はい」
「だからまずは彼女を止める。その後で、君を絶対に助ける。どれだけ時間がかかっても」
「はい……!」
否はない。全幅の信頼を向けて、彼女は清々しく頷いた。
後に聞こえるのは、教会の正門が開け放たれた音。威圧的な気配に、竜の血が来訪したと意を決する。
「桜斗様、一つ忘れないでくださいね」
「? 何を」
「私に一生、お世話して欲しいんでしょう? なら私と喧嘩するようなこと、考えちゃいけません。……さっきの顔、丸分かりでしたよ?」
「か、敵わないなあ、エレニアには」
「ええ、どんなもんです」
台詞の通り、自慢げに胸を逸らす少女。
自分の迷いに苦笑してから、桜斗は力強く頷いた。
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