第10話 葛藤

 気付けば、実家にまで戻っていた。

 状況を把握していたらしい母は、直ぐにエレニアをベッドへ運ばせる。刻印の副作用に詳しい専門家も呼んでくれた。

 その到着からあっと言う間に、桜斗は治療の現場から弾き出される。

 扱いには反感も無念もない。分かり切っていた事実だし、関わる人々は母が直々に呼び掛けた。疑いを持ち込むことは、必死に動いてくれた彼女の努力を否定する。

 だから、胸にある感情は一つだけ。

 これで本当に良かったのかと。やはり、ツェニアから刻印を受け取るべきではなかったかと。

 自分の意思で、彼女を殺すべきだったのでは――

 自室の天井を、桜斗は一人見上げていた。

 あの行動が勢い任せだったのは否定できない。これまでの基準にメスを入れたのに、エレニアの顔と声を聞いただけで戻ってしまった。……それだけ彼女が大きい存在なのは、喜ぶべきか忌むべきか。

 ただ、自分が情けないのは分かる。半端な意思で、半端に揺らいで、一人の少女を突き落した。

 ――この部屋でエレニアと眠ったのが、遠い昔に思えてくる。まだ数時間前の出来事だと言うのに。

 確かに幸せだった時間。目蓋を閉じる直前、二人は多分、同じ光景を見つめていた。

 それを思い返す理由など、桜斗には分からない。彼女が命の危機にあるから、走馬灯のように思い出を辿っているんだろうか?

 いや、有り得ない。そもそもこの精神は、人の死に悲しむような性質をしていない。生みの母が亡くなった時だって、冷徹なまでに現実を見ていたのだ。

 理由はどこにあるのか。自分の外道に探りを入れても、明確な解答は得られない。

 壁に掛けた時計を見る。既に時刻は正午近く。エレニアをここに運び込んでから、三時間近い時間が消費されようとしていた。


「――桜斗さん」


 感情の針が動かないまま。

 義母がゆっくりと、部屋の扉を開けていた。


「あ、母さん。どうかした?」


「エレニアさんですが、どうにか一命は取り留めましたわ。疑似的な刻印を結んだそうで、消えるまではこれまで通り過ごせると」


「……どれぐらいで消えるんですか?」


「半日で消えるそうです。再度結ぶのは、技術的に不可能だそうで」


 あと十二時間。

 結果を飲み込むまでの猶予は、日を跨ぐ頃に持ち越された。


「エレニアと話は?」


「まだ眠っています。しばらくしたら目を覚ますでしょうが、その前に旦那様へ会いに行きなさい。桜斗さんのことを呼んでいましたから」


「父さんが?」


 何の用だろう。桜花は桜花で、印派への対応に忙しい筈だが。

 母から父の居場所を聞くなり、急ぎ足で階段を駆け降りる。途中、擦れ違った人々は慌しい様子だった。エレニアが運び込まれた以外に、何か異変が起こったのかもしれない。

 桜花の姿はいつも通り居間に。沈鬱な面持ちで、息子の到着を待っていたようだ。


「……取り合えず、腰を降ろすといい。慌ててする話でもないのでな」


「時間はいいの? 父さん」


「無理であれば、直接会ったりはせんさ」


 状況が示す理論に頷きながら、桜斗も定位置へ腰を降ろす。

 僅かな沈黙の後、桜花は口よりも身体を動かした。


「済まん。お前達が危機に瀕している時に、手を差し伸べることが出来なかった」


「い、いいって、別に。父さんには父さんの状況があったんだから、俺達の方ばっかりに振り回される必要はないよ」


「しかしだな――」


 言い掛けて、父は言葉を飲み込んだ。桜斗と同じように、謝罪合戦を予感したのかもしれない。


「では本題に移ろう。……先ほど、印派が攻撃を仕掛けてきた。私の妹、椛を取り返すためだそうだ」


「それは、叔母さんが――」


「うむ。もともと、刻印を持っていたからだ」


「……」


 告白する桜花の表情は明るくない。兄妹にどんな経緯があったか知らないが、父にとっては一生の後悔にも等しいのだろう。

 会話は完全に途切れてしまった。らしくない嘆息が、尊敬する男から零れている。

 一方的に重さを増す静寂。これ以上は後味が悪くなりそうで、即席の疑問が口を突いた。


「叔母さんは、今どこに?」


「エレニアの傍にいる。明るく振る舞ってはいるが、相当堪えているようでな……まあ、その辺りは私と妻で解決しよう。お前が向き合うべき問題は別にある」


「別?」


「エレニアのことだ」


 桜斗の顔付きが一変する。

 そんな息子の反応に、父は微かな不安を見せた。

 無論、感情の根本的な部分など桜斗には分からない。ただ、彼にそんな表情をさせていることが情けなくて、情報に対する気構えはより強くなっていく。

 甘えを拒む頑固な姿勢。

 一人善がりにしか思えないのは、やはり自分が弱いからだ。


「彼女を救うには、他人の刻印を移植するのが最も適切だ。が、それではイタチごっこにもなる。救ってくれた者に対し、彼女はまた逆に救おうとするだろう」


「じゃあ……」


「残された手段は一つだ。――お前から摘出された刻印を探し出し、彼女に与える。そうすれば、誰から刻印が消えることもない。椛や今のエレニアのような副作用は出ない」


 確かに、唯一にして最善の策だ。

 しかし肝心の刻印がどこにあるか、少なくとも桜斗は知らない。父の話からして、既に奪取している、という好都合もないだろう。


「誰が持ってるか、手掛かりは?」


「間者の情報によると、千浄が所有しているとの噂だ。身体の一部に刻んでいるのか、何か道具に宿しているのかは不明だが」


「……前者だった場合、同意とか必要になるよね?」


「なる。お前も経験しているだろう?」


 最悪、千浄を説得する必要が出てしまった。

 まあそれについては、いま考えたところで仕方ない。そもそも彼が所有している確定的な証拠は無いのだ。

 しかし道が見えたのは暁光と言える。後は、彼をどうやって引き摺り出すか――


「細かな心配は無用だぞ、桜斗」


 こちらの心情を先読みして、父は厳かな眼差しで答える。


「今回の戦闘は奴にとっても想定外だったらしくてな。上手く運べば、交渉を行うことが可能かもしれん」


「部下の暴走だった、ってこと?」


「すべてにおいてそうとは言えんが、多分に含んでいるのが事実だ。詳細はこれからだが、何か動きがあり次第伝えよう」


 ではな、と用件の終了を桜花は告げた。相手の意見に拘らない、サッパリし過ぎるぐらいの幕引きである。

 普段なら一言で見送る桜斗だが、今回は少し事情が違っていた。本当に些細な、直面している問題とは無関係な事柄だが、解決させたい一心で腰を上げる。


「父さん、ちょっと聞きたいんだけど」


「ぬ? どうした」


「……父さんは、俺の考えてることが分かるの?」


 要領を掴まない、謎かけ染みた問い。

 何の勘繰りもなく、父は自信ありげな笑みを向けた。


「ある程度は分かるとも、父親を始めて十七年になるからな。たが――」


「だが?」


「時折、加減が分からなくなることがある。甘え、とでも言うべきか。お前に対して取るべき距離感、私自身が見せるべき姿と、分からなくなってしまうのさ」


「……」


「そういえば、椛がお前に会いたがっていた。済まないが、顔を見せてやってくれ」


「あ、うん」


 改めて背を向ける父に、桜斗は手を振って見送った。

 頭の中では彼の言葉が繰り返されている。甘え、取るべき距離感と見せる姿。――対象は異なるが、桜斗にとって無視できるものではない。

 エレニアに対して、自分が何をするべきか。してやるべきか。

 彼女との関係において、どういう存在で在りたいのか。

 過ぎてしまった決断へ、小さな波が押し寄せる。





「やや、桜斗君」


 芝居がかった出迎えと共に、桜斗は目的地へ到着した。

 椛はちょうど外に出てきた頃。と言っても、二人のためだけに退出した様子ではない。たまたま偶然、通行人と顔を合わせただけらしい。

 開いている扉から、桜斗は中の光景を覗く。

 隅の方に置かれたベッドの上で、少女は定期的な呼吸を繰り返していた。苦しみは一切感じない。寧ろ幸福な夢に浸っているような、羨ましいぐらいに安心し切っている。

 だが、結局は嵐の前の静けさだ。

 桜斗は中に踏み入ることなく、そっと部屋の入り口を閉める。


「ありゃ、近くで顔とか見なくていいの?」


「もう十分見ましたから。……それよりも、あの」


「分かってる、兄さんに言われて来たんでしょ? あの人も心配性だなあ、ホント」


 呆れて肩を竦める椛。そこに嫌悪の類はなく、逆に安心しているようでもある。

 ただ、どことなく表情は堅い。改めるまでもなく、父の推測は的中していたのだ。

 何か上手い励ましでも言ってやりたいが、自分はそこまで喋り上手じゃない。性格の面でもそう。相手が隠したい、嫌だと思うなら、すんなりと諦めが付いてしまう。

 しかし、このまま去るのも薄情だ。何か丁度いい話題で、話だけはしてやりたい。

 と。


「ツェニアについて、聞きたいこととかあるんじゃない?」


「それは――」


 忸怩たる思いをぶり返すような話題なのに、椛は至って明るいまま。

 断りきることも出来ず、桜斗は一拍置いてから頷いた。彼女が話したいと考えるなら、それも一興だろう、と自分を励まして。


「……立ち話も何ですし、座る場所でも探しません?」


「ああ、だったらこっち」


 足を浮かせるような気軽さで、椛は廊下の奥へと進む。

 桜斗が普段、あまり立ち寄らない方向だ。制限されているわけではなく、単に用件がないお陰で。

 記憶にある予想もどこかぼんやりしている。確か庭に面していた筈だが、そちらに落ち着ける場所でもあっただろうか? 先住者が言うのだから、間違ってはいないと思うけど。

 予想通り、現在では母が管理している庭が見えた。接している廊下の外側は、全面的なガラス張り。眩しいばかりの陽光が降り注いでいる。

 廊下の横幅は随分と広い。屋敷の外れに位置する場所のため、通行量のためではないだろうが――

 と、鎮座する家具に目が止まる。木製の、日差しを受けて艶やかに光るテーブルだった。

 椅子とのセットで二組ほど。複数の家族が使うことを想定した、こぢんまりとした空間。誰一人いないのに、陽気な声が聞こえそうなほど温かみを感じる。


「これって……」


「兄さんと旦那が買ったやつでね。ちょっと安物だけど、皆で寛げるようにって。庭へ置くのは義姉さんの提案らしいけど」


「……」


 どちらの母か問おうとした時には、椛が既に腰を降ろしていた。

 テーブルに頬杖をつきながら、姉妹によく似た視線が座れと催促してくる。逆らう気は毛ほどもなく、遠慮からお辞儀を挟んで彼女の前へ。

 周りに人がいない所為か、何処となく殺風景だ。屋敷の哲導救人たちが忙しく動く音も、他人事にしか聞こえない。


「で、ツェニアの何が知りたいの?」


 娘の話がしたくてたまらなのか、彼女は少しだけ声が上擦っている。

 桜斗はそんな叔母に、咳払いをしてから問い始めた。


「彼女の動機について、なんですけど。……どうして、命懸けで叔母さんを助けようとしたんでしょうか? エレニアに対しても、直ぐに自分の刻印を渡すって決めましたし」


「数年前に誘拐された身分の推測だけど、いい?」


「はい」


 逡巡するまでもなく首肯する。

 普段の自分なら、踏み止まりはした筈だった。これから耳にするのは理解できない心理、他人の領域。レンズの向こうにあるモノを、更にレンズで覗く行為だ。椛の断りが一層その意味を増している。

 しかし心は傾いてしまった後。

 頭の中に悔いがあるから、誰かの決断を聞きたいと。


「多分、恨みね」


「お、叔母さんやエレニアに対する、ですか?」


「違う違う、金霧家とかブリュークス家――隣りの人狼家系ね。その辺りに関して、良い感情は持ってないのよ。まあ兄さんから世話になってるみたいだから、金霧に対しては複雑なんでしょうけど」


 まったく、と椛は、娘の無茶に溜め息をつける。


「アタシの旦那はね、もともとブリュークス家の跡取り息子でさ。刻印を親族に移植して、駆け落ちする形で結婚したの。で、その末路は今のエレニアと同じ。あの子が物心ついた頃に、亡くなっちゃったけどね」


「……」


 昨夜、ベッドの中で交した話を思い出す。

 印について桜斗が説明した時、彼女は想いへ耽るように天井を見上げていた。あれは多分、遠い昔に失った父親の姿を想っていたんだろう。

 どこか悲しげな顔付きだったのは記憶に新しい。事情を知った後では、回想の内容もより深さを増してくる。

 一方で、羨望があった。

 生みの母が世を去った時。自分はあんな、気持ちが籠った顔をしていただろうか?


「アタシもまあ、兄さんに刻印を譲ったお陰で先は短かったからさ。ツェニアは多分、それが許せなかったのよ。一族の宿命で、家族の絆が裂かれちゃうことが」


「……ですけど今度は、彼女が消えようとしてますよ」


「そこは妥協でしょうね。――誰かを救うには誰かが死ななきゃならない。その時に消えるのは自分だって、あの子は決めたんじゃないかしら? せめて貴方達には、自由で幸せになって欲しいって」


「自由――」


 以前に聞いた話では、ツェニアはエレニアと桜斗を自由にするとか。

 親子の問題から言えば、こちらは完全な部外者に過ぎない。にも関わらず彼女の動機に含まれているのは、森で聞いた台詞から明らかになる。

 エレニアは、桜斗を利用していた。

 全部が全部ではないだろうけど、契りを飲んだ理由の中には椛が存在したのだろう。ツェニアはそれが認められなかった。第三者が動機に含まれていたお陰で、拘束的な参加だと判断した。

 自分にすれば、喧嘩両成敗の内容ではある。過去の動機しか見出していないのはお互い様だ。エレニアらしいと思うし、デメリットを知らなければ進んで協力していただろう。

 呼び起こされた感情は、子供染みた怒りに近かった。

 馬鹿にされているし、余計なお世話だ。それぐらいで愛情が嘘になるなんてとんでもない。その程度だったら逆に、エレニアへは何の執着も抱けなかった。

 やはりツェニアの蛮行は止めるしかない。決意でも何でもなく、ただヒステリーになっているだけだ。自由という看板も、彼女自身の不安を補うための拘束。猜疑心から出た過保護なだけのお節介だ。

 椛の推測に過ぎないことを忘れ、頭の中に火が昇る。――あるいは、保護者だからこその説得力でも感じたのか。


「お、やる気になってきたわね。その調子で、あの子にガツンと言ってやんなさい。幸い、他の解決策は出そうなんでしょ?」


「予断を許さないものではありますけどね。まあ、上手く行く可能性はあります」


「そっかそっか」


 本当に嬉しそうな椛の顔。太陽を思わせる満面の笑みが、この会話における報酬だった。


「いやあ、桜斗君が冷静でほんっと助かるわ。話してて少し落ち着いた」


「そ、そうですか?」


「うん、ホントホント。兄さんと話したんじゃ、こっちも変に遠慮しちゃうしね。さすが二人の息子だよ。感情に揺るがないのって、やっぱり君の強さだと思う」


「――そう、ですかね」


 話はそれきり。

 頭を殴られたように茫然とする甥へ気付かず、叔母は来た道を戻っていく。


「冷静、かあ」


 自己評価するなら、それは見込み違いだ。

 現に今だって、心で渦巻く不安は大きくなっている。万が一、思い描いた展開が不可能になったら? ツェニアを犠牲にしなければならなくなったら? と。自嘲すべきなのは分かっていても、坂を転がり出したボールは惰性で流れるしかない。

 それを表に出さないのは、環境が求めていないからだ。狼狽することで正解が導けるなら、幾らでも泣き叫んでいただろう。

 ならひょっとすると、自分は冷静でいたくないのかもしれない。

 本音ではどうしたいのか――自問自答するが、答えは詰まったまま出て来なかった。第一、この状況で先走るわけにはいかない。足並みを揃えなければ十全の対応は出来なくなる。

 ふと頭に浮かぶのは、またもや仮定。

 金霧の総意として、ツェニアの予定を受け入れたら?

 他の選択肢が潰えていたら、それは十分考慮すべきで――


「……って、何考えてるんだ」


 弱気にも程がある。今は最善を尽くすだけだ。例外を考え続けたら、エレニアを救う意思さえ停止してしまう。

 恐怖は頭の隅に置け。

 心で唱えながら、桜斗は軋んだ身体を動かす。もっと考える時間が欲しいなんて、それは後回しだと決めたばかりなのだから。


「若様、旦那様がお呼びです。何でも――」


 廊下を曲がった向こうで現れる、一人の侍女。


「千浄様が、自らこちらへ赴いたと」

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