第9話 深緑の攻防
金霧の森と呼ばれる土地は、東と南で役割が異なる。
前者は、一族の者達が暮らす深い森。完全な自然の産物で、これがあるからこそ社会に存在を隠すことが出来る。中世では社が建てられるなど、地元の畏怖と尊敬を集めてきた土地だとか。
そして残るもう一つ。南の一帯は、更に高い木々で覆われている。
人狼と竜殺しが飛び込むのはそのど真ん中。隣町にまで続く、未踏の森が舞台だった。
金霧の森と繋がってはいるが、実質的には管轄外の土地に過ぎない。――にも関わらず領地だと明言されているのは、ここが境界線、衝突の現場だからだ。
南部にある森の向こうでは、人狼の超種が活動を行っている。金霧家にとっては因縁の敵。桜斗も再三、危険地帯だと教えられてきた。
木々の背は十数メートルに達し、竜人の森を見下ろしている。徘徊する生物もまた異質。野生の竜やキメラ、四、五メートルの高さに達する狼など、魔窟と呼んで差し支えない空間だ。
彼らは二人の存在に気付くものの、寸前で敵意を収めてくれる。野生種の竜に関しては、桜斗に流れる血へ反応したのだろう。基本的には皆、金霧家の買い犬だからだ。竜を犬と表するのは変な話だが。
一方で巨大な狼やキメラも、こちらを襲う暴挙には出ない。
今も、駆け抜ける足音に気付いた一匹が顔を上げる。が、直後には唸り声を顰め、恭しく身を伏せるだけだ。
「エレニアに反応してるんだよね? 彼ら」
「父の実家は森の向こうですし、恐らくは。母にとっても好都合な避難先でしょう。あちらは派閥争いなどないですし、祖父や祖母とは仲が良さそうでした」
「……ってことは、千浄さん達もそう簡単には踏み込んでこない?」
好都合な希望に過ぎないが、現実を踏まえると有り得る話ではあった。
千浄が人間であっても、金霧家の関係者。空気を読むべきなのは、重々承知している筈だが。
「難しいでしょうね。あの男の場合、揉めるだけ揉めて、責任を当主様に擦り付ける可能性があります」
「やっぱりか……」
余計に善は急げ。エレニアの疾走が、力強さを増していく。
直後。
「っ、右!」
単語だけで注意を促す。
的確に意図を汲み取った彼女は、奇襲の一撃を難なく回避。急降下してくる竜を睨む。
だが桜斗は、その視線より速く出た。
「ふ――!」
面目躍如とばかりに、斬竜皇子の一閃で翼を刎ねる。
バランスを崩した竜人は無様な着地を迎えるだけだ。――が、敵意は折れない。二本足で立ち上がり、エレニアへは目もくれず突貫する。
桜斗は内心で嘲笑するしかない。既に悪あがきの域でしかないのだから。
同族だろうと容赦なく。
氷のように冷え切った表情で、真一文字の斬撃を見舞った。
力なく倒れる同胞。獣化が解除されるのも直後で、何の変哲もない男性が意識を失っていた。
竜人の状態で受けた傷から、彼の下には赤い池。人間であれば、救急車に乗らざるを得ない量だった。
しかし桜斗は構わない。エレニアが小さな声を上げるのを知りながら、悠然とした足取りで戻っていく。
「大丈夫だよ。死ぬような怪我じゃないし、血が無くなる前に完治するから」
『ほ、放置して宜しいと?』
「敵だからね。味方だったら何かしらのフォローはするだろうけど、今は違う相手だ。……それに、時間だって押してるだから」
『……』
畏怖の籠った空白。
ちょっと言い過ぎたかな、と反省が脳裏を過った。
『で、では、進みましょう』
桜斗が跨ったことを確認して、エレニアは再び木々の間を疾走する。
移動中も彼女は、頻りにこちらへ振り向こうとしていた。言いたい、けど無意味だ、と対になる考えを抱きながら。
やがて見え始めた川の畔。
一人の女性の姿も、ハッキリと視認できた。
『母さん!』
人狼が加速する。
女性の後ろには無論のこと竜人が。彼女は疲弊し切っているのか、覚束ない足取りで必死に走る。
追い付かれるまでの数秒間。
子供達が介入するには、十分な時間だった。
「っ――!」
竜人は桜斗が、エレニアは自身の母親らしい人物を救助に向かう。
斬竜皇子を見るなり敵は怯むが、臆して逃げるような心構えではないらしい。主義と人物への忠義を優先して、彼は咆哮と共に拳を振る。
比喩するなら巨大な岩。
直撃すれば肉が弾け飛ぶ一撃を前にしても、恐怖の一切は消えたままだ。視覚の訴える直感的な要素だろうと、自己の力量を測れる以上は無縁。
打ち砕く。
割れた敵の五指と、相殺される斬竜皇子。
通常なら終わる筈の攻撃手段は、直ぐに次を装填した。使い切ってから一晩休んだ後だ。数は十分に回復している。
放たれる呪炎だろうと、ものともしない。
最短最速、必殺の一撃。炎を裂いた孤影は、そのまま追跡者を粉砕する。
「母さん、大丈夫?」
丁度その頃、エレニアは母親に声を掛けたところだった。
活き活きとした力こそないが、女性は確かに肯んじる。張っていた肩の力を抜くエレニア。愁眉を開くとはまさにこれで、心配の重さを傍目にも実感させた。
しかし、近隣の騒がしい気配は消えない。女性――叔母も疲れ切っている様子だし、一旦休憩を入れる必要がありそうだ。
「急ごう。俺は走るから、お母さんを背中に」
「はい! 近くに小屋があるそうですから、そこを目指しましょう」
言うなり、エレニアは最速で獣化する。叔母は何処となく罪悪感に駆られながらも、桜斗の手を借りて娘に乗った。
木々の向こうには、未だ吼え立てる巨大な影。
追い込まれている感覚を拭えないまま、一行は川の流れを昇っていく。
瞬間。
「っ!?」
地面を砕き、丸太のように太い腕が突き出てきた。
エレニア狙いの奇襲を、彼女は間一髪で躱す。隣りにいる桜斗も巻き沿いを喰らう形だったが、難なく脱出に成功した。
磨き抜かれた爪、凹凸が束になった筋肉。甲殻はないが竜人の規格に間違いなく、戦闘の用意を整える。
「エレニア、先に行って!」
『は、はい!』
認めない、とばかりに伸びる腕。
隆起した地表を駆け、桜斗は一閃の元に腕を切り落した。――同時に、妙な手応えが走る。相棒の砕けっぷりも中途半端で、相手が本当に竜人か疑わしい。
だが、地面の持ち上がりはそこで収まった。
嵐の前に似たような静寂が辺りを占める。切断した腕は、霧状になって消えるだけ。
途端。
光の門とでも仮称すべき現象が、桜斗の正面に現れた。
それは陣の形を成していく。あるいは砲門。奥には砲弾ではなく、赤い眼光だけが映るだけ。
轟の一文字が、直後に大気を吹き飛ばした。
耳を塞ぎたくなる大音量。通常の竜よりも二倍はある頭部が、桜斗の目前に顕現する。
「っ……!」
口内に呪炎が沸き立っているのを視認した直後。彼我の乖離を一瞬にして詰めにいく。
全体像を隠した謎の竜。正体に不安を覚えながら、斬竜皇子を叩き込む。巨大のイメージには抗えないのか、敵に避ける挙動はない。
振り抜く。
血潮ではなく、金属片を撒き散らして。
「な……」
砕けたのは刃だけだ。蓄えた負担による自壊というより、性質上通用しない風の木っ端微塵。
定義を覆され、一瞬の忘我に落ちる。
気付いた時には、呪炎の用意が整っていた。斬竜皇子を再出現させるよりも速く、逃げられる範囲より更に広く。
しかし、炎は空白と緑を焼くだけ。
一瞬の間に、別の竜人が桜斗を救出している。
「叔母さ――」
『黙って椛さんと呼びなさい。舌、噛みたくないっしょ?』
エレニアと似て明朗な、一回り以上に明るい声。
鈍い羽音と共に、二人は敵前を離脱した。追ってくる気配もない。……助ける側の癖に情けない限りだが、どうやら命を拾えたようだ。
もっとも、それは桜斗に限った話。
叔母は突然軌道を乱し、急な落下軌道を描いていく。
先に降りようとするものの、着地した時には手遅れだった。人間の姿に戻りながら、余った加速が彼女を引き摺る。
『母さん!』
獣化を解いた親の前に、人狼のままエレニアが戻ってきた。
叔母は呼吸が荒く、顔色も優れていない。悪夢でうなされているように、苦悶の声を意思疎通の代わりとしている。
桜斗は直ぐ、彼女を抱えてエレニアの背へ。
分からないことだらけで頭が痛くなるが、動かなければ何も変わらない。
「エレニア、小屋はどっち?」
『ここから真っ直ぐ北だそうです。急ぎましょう!』
駆ける人狼と、疾走する竜殺し。
だが敵の気配は消えない。それどころか、別種のモノが幾つか紛れ込んでいる。
竜殺しの直感は警笛を鳴らしていた。避けられない相手が、自分達に近付いていると。
視界の奥。
「エレニア、前!」
未来予知に等しい鋭さで、危機の到来を告知する。
彼女は疑うことなく従い、三人の命を繋ぎ止めた。直後に弾ける爆破音。何者かの一撃による痕跡は、消えることがない炎の呪いを撒き散らしている。
竜人の気配はなかった。しかし轟々と燃える呪炎が、その直感を否定する。
だから。
刹那で現れた人狼の正体には、勘を巡らせる必要もない。
『母さんを渡しなさい』
「っ――」
最も親しい、敵の声。
エレニアは反対の戦意を示し、桜斗も彼女の横へと並ぶ。
庇う相手がいるとはいえ二対一。前回と同じように、呪炎も撒き散らされている。趨勢は明らかに二人へ傾いていた。
応援の存在を、考慮しなければの話だが。
「サプライズはお気に召しましたかな? 若様」
嫌味たっぷりで、挑発をも含める台詞が響く。
長身痩躯の男は、巨大な咆哮と共に現れた。その背後には先ほど、桜斗が敗北を喫しかけた竜の頭。蛇のような眼光を向け、少年少女を威嚇している。
だが応援はそれだけに留まらない。配下の者と思わしき竜人が、千浄を囲うように次々と飛来する。
幸運は実にあっさり、二人の元から奪われた。
「さあ若様。ツェニア・ブリュークスの求めに応じ、その女を我らに預けて頂きたい。貴方では手に余る存在ですぞ?」
「……」
断るか、呑むべきか――常識的に考えれば、白旗を上げるのが吉だろう。
勿論、本音の部分ではやりたくない。何より膝を屈するのが嫌だ。武力を盾にされて、自分の判断にメスを入れられるなど。
全員蹴散らせば、問題の無い話ではある。が、相性の悪いツェニアと、何故か斬竜皇子が通用しなかった竜。同時に相手取るのは、いくら何でも無謀に過ぎる。
なら限界まで時間稼ぎに徹するのが、唯一の妥協案だろう。
身構える桜斗。対し、敵勢力の余裕は変わらない。躾の機会だとばかりに、ジリジリと間合いを詰めてくる。
『桜斗様……』
意図するところを理解したのか、エレニアは悲痛を訴えていた。
成功の可能性が低いことは、自分でもしっかり把握している。が、問題は彼女たちの方。自分が失敗するばかりか二人まで捕えられたら、どんな結末が待っているか。
「――」
意気と共に剣を構える。狙いは千浄ただ一人。彼に深手を負わせれば、少しは混乱が生じる筈だ。
緊張で満ちていく少年と、余裕綽々な敵陣。
宣告は短く。
「やれ」
冷徹に、その本懐が解き放たれた。
逃げるエレニアの横を桜斗は擦れ違う。敵の大半は親子が狙いだ。――無論、一番厄介な人物だけは、こちらに必殺の凝視を向ける。
幕開けは一瞬。
轢殺狙いの一撃が、その一歩だけで大地を削る。
「っ!」
反射的な跳躍が、閃光を前に窮地を脱した。
応じて、千浄に至るまでの障害が途絶える。ツェニアは一瞬の間に戻ってくるだろうが、桜斗の到達する方が先だろう。
恐怖が一転したのか、悠然と立ち尽くす元凶。
それでも竜は勝手に、呪炎の用意を整える。出来れば避けるべきだが、正面衝突も望むところだ。
一瞬の間に、漆黒で埋め尽くされる桜斗の視界。
反射的に斬竜皇子を叩き付ける。――竜に纏わるものなら、問答無用で制する刃。例え呪炎だろうと、刀身部分に触れれば跡形もない。
敵を限定された無双の力は、しかし。
「な……!?」
濁流へ飛び込んだかのように、勢いを減じていた。
押し切れない。使用者ともども踏み止まっているが、それだけだ。一気呵成に攻めてくる炎を前に成す術がない。
「くっ!」
最後の最後で押し返しつつ、炎の圏内から離脱する。
呪炎は辺りの木々すら巻き込み、火柱を作っていた。燃え方自体は通例通りで、呪いのように定位置を占めている。木が燃え尽きれば共に消滅するだろう。
故に危機の拡散を留意する必要はなく、正面の異変へ集中できる。
未だに存在し続ける竜の頭。
支えはなく、完全に浮いている。強いて言うなら光の穴が支点だろうか。何となく、住処ごと浮遊するウツボを連想する。
「如何ですかな、ワシの傑作は」
千浄は竜の隣りに行き、慈しむように甲殻を撫でるだけ。
「野生種を土台にしておりますが、反応速度は中々のものでしてな。呪炎の威力も現状、最高の仕上がりになった。高い金を使った意味があったというもの」
「暴露してくれるんですか、わざわざ」
「弱点にはなりませんからなあ。何せこやつには、様々な超種、野生の能力を持たせている。形は竜ですが、キメラというわけですな。かの斬竜皇子も格が落ちる」
だから、呪炎に対しても効果が薄かった。
しかし薄いだけで、完全に無意味というわけではない。諦めるのは早計だ。
一方で、桜斗の算段は確実に狂っている。背後からツェニアが攻撃を仕掛けてくる気配もない。……見事に足止めを喰らったのは、自分の方だったようだ。
背中を向けて去るべきかと思案するが、竜の出現範囲が分からない。今も浮かぶ光の陣から出るようだが、果たしてどこまで飛ばせるのか。
こちらの思考を読むように、千浄は口端を釣り上げた。
「理解が早いようで結構。儂に背を向けるならば、こやつは直ぐに小娘どもへと向かいますぞ?」
やはりの展開に舌打ちする。
撃破するしか策はない。眦を決し、一瞬の間で決着させると向かい合う。
「くく、若さゆえの勇ましさですかな。――一銭の価値もない」
「っ――!」
土塊を蹴り上げる、馬鹿正直な再戦。
光の陣は、竜頭とでも称すべきモノは動かない。もともと不可能なのか、必要性を感じていないのか。
繰り返される光景。
扇状に広がる一撃は、回避という選択肢を断念させる。
ならば、迎え撃つしか策はない……!
「ふん、無駄なことを」
嘲笑を耳にしても、桜斗に戸惑いはなかった。
足を突き立て、全力でもって腕を振るう。
力と力の衝突。どちらに天秤が傾くわけでもない時間が過ぎていく。
果たして。
押し返したのは、竜殺しだった。
途切れた合間を縫って、更に地面を蹴り飛ばす。竜頭は次のために呼吸を始めているが遅い。目と鼻の先にまで、両者の間合いは詰められている。
だが。
「甘いわ!」
出現する二つ目の陣、射出される巨竜の拳。
それが右手だと、最初に一撃を見舞った部位だと判断した直後。
「甘いのは――」
訳もなく両断する。
「くく……」
浮かぶ不敵な笑み。
追加された陣から、二つ目の頭部が現れた。
「っ!?」
呪炎は蓄えられた後。回避も防御も許さない最適の距離で、おぞましい口が開かれる。
救助はない、対策もない。不意の一撃を前に、桜斗の思考が停止する。
「消えろ小僧!!」
「……!」
稚拙な侮辱が、闘志を再び燃やすまでは。
放たれる寸前、左右に展開した斬竜皇子を投擲する。阻止には至らずとも、軌道を反らすことは可能な筈だ。
ギリギリのタイミングで、二頭の口内に突き刺さる刃。
鼓膜を破りかねない絶叫を上げながら、それでも竜は呪いをばら撒く。乱れた狙いは回避の手助けになってくれた。
「小癪な真似を!」
直後、隙を埋めるために死角から振り下ろされる尾。
直線的な攻撃であれば対処は難しくない。正確に見切った上で、反撃を叩き込んでいく。
機会を逃すまいと前進を試みるが、竜は激しい抵抗を開始した。陣が次々に飛び交い、尾だけではなく拳も無数に飛来する。
「反射速度は優れている、と申しませんでしたかなあ? こやつらが勝手に動く以上、ワシ自身に戦闘能力がなかろうと些細なこと」
「……!」
どうする、どうするどうする。逃げ回るのだって望み薄だ。こちらの攻撃も、一部の部位には通用しな――
待て。
さっき、口の中には刺さった。そして皮膚を露出させていた腕も切れた。切れなかったのは、甲殻を纏っていた頭部だけ。
肉に近い部位は、攻撃が通用することになる。
とはいえ同じように口内を狙うのは危険だ。傷を受けながらも呪炎を撒き散らした以上、次は意地でも直撃を狙うかもしれない。そもそも竜は、痛覚さえ制御できるのだ。先ほどの例は奇跡的で、参考にしない方がいいだろう。
なら一か八か。
痛み以外で、実害の出る個所を狙う。
「む――」
狩られる側が再び反撃に出たことを、千浄は訝しむ目で見つけていた。
陣から出現する腕と尾によって、太鼓同然に連打される大地。冷静な判断力と経験論、直感が着実な回避を結んでいく。
まるで踊るように。物騒過ぎる演奏団を従わせ、千浄の痩躯を睨みつける。
出迎えるのは二つの竜頭。どちらにも攻撃の意思が零れていた。
桜斗を守る盾はない。秒読みになった呪炎へ、真っ向から仕掛けにいく。
打たせれば終わり。故の一点狙い。
両手の武具を飛び道具に、二頭の内側にある目を抉る。
「ぬ!?」
爆ぜるような叫び。隻眼となった彼らは、死角を重ねていることだろう。
竜の原型は蛇であり、爬虫類だ。同じように、目は正面でなく左右に付いている。体制を即座に戻そうと、彼らは自分達の間を走る桜斗を認識できない。
しかし逆説から、こちらの位置は割り出される。
ああ、居場所ぐらいは教えてやろう。
視覚さえ断てば、動きの詳細を掴むことは出来ないのだから。
「がっ!?」
飛来する三本目の刃。
二頭の自立的な防御もなく、千浄の肩に機刃が刺さる。
「ぐっ、あああぁぁぁあああ!?」
戦闘者ではないが故の悲鳴。痛覚を制御している桜斗も、他人のことは言えないが。
巨竜の出現には集中力が必要だったらしく、攻撃の直前にあった竜達は消滅。背後から追ってきた各部位も同じだった。……苦痛に悶える主を気遣うなど、自働兵器には無理らしい。
「き、貴様、貴様……っ!」
「じゃあどうぞ、助けを呼んでください。殺人の趣味はありませんし、貴方だって死にたくないでしょう?」
「こ、このワシに牙を向けておいて、ただで済むとでも――」
「……」
唾棄するような一瞥を向けて、老いたの権力者を一人にする。
無人であり、喧騒を隠す森の中へと桜斗は戻った。先陣に追い付くのはさすがに簡単な話じゃない。人狼の全速力は、桜斗の超人的な身体能力を上回る。
『若様、お止まり下さい!』
矛盾した歓迎してくれるのは、千浄の手駒ばかり。
「ふ――!」
問答無用の撃破は、まさに水を得た魚だった。指先一本すら触れられる者はいない。
続く突破はもはや、必然的な流れのうち。
しかし桜斗に油断は無かった。この先にはツェニアが待ち構えている。そこから来る緊張感が、目的意思が、無謬の武錬を披露した。
「――いた!」
打撃戦を繰り広げる二匹の人狼。
前回の反省からか、姉妹は同条件の戦いを挑んでいた。肉体的なスペックが同様のためか、勝負は互角で行われている。
しかし、以前エレニアは言っていた。戦闘経験などでは、人狼の戦いも優劣が出ると。
彼女達の現状はそれが当て嵌まる。徐々にではあるが、妹の方が追い込まれていたのだ。
椛の姿はない。別の場所に置いてきたのか、あるいは既に奪われたのか。
『桜斗様……っ!』
打撃に見舞われた直後でも、エレニアは芯の通った声を送る。
『姉さんは私が足止めしますから、先へ! 母さんをお願いします!』
「……わ、分かった!」
現状、自分がいても足手纏いだ。下手をすれば人質にだってなりかねない。
非力を痛感しながら、戦場に背を向ける。
力強い雄叫びと、自覚できる最善への齟齬が――ただ、辛い。
戦いの音色から離れたところに、古めかしい木造の小屋があった。
長い間、風雨に晒され続けたのだろう。そこは住居としての体裁を成していない。近くに戦闘の手が広がれば、指先一つで沈みかねなかった。
ここを避難先にするなんて、エレニアもなかなか無茶をする。まあ、他に選択肢も無かったようだが。
叔母・椛を探して、数少ない部屋を巡っていく。――二人の戦いはそう長く続くまい。最悪の場合エレニアは敗北、次善でも撤退には追い込まれる筈だ。
今直ぐにでも、小屋を離れる必要がある。少なくとも居座れる場所ではないのだ。
と。
「桜斗君……?」
消え入りそうなほど小さい声が、廊下の先で響いていた。
そこに顔面蒼白の椛がいる。既に自力で立つのも難しいのか、壁に手を沿えて荒い呼吸を繰り返していた。
「え、エレニアは?」
「娘さんなら、外でお姉さんと戦ってます。直ぐに戻ってくるでしょうから、移動しましょう」
「……そう、二人が、ね」
「叔母――も、椛さん?」
呟きの意味は、恐らく当人だけが知る。
追求はせずに、桜斗は彼女の前で背を向けた。腰も降ろし、急いで乗るよう身振りで示す。
――直後に、椛の姿勢は崩れていた。
うつ伏せになった彼女を、桜斗は直ぐさま抱え起こす。呼び掛けるが返事はない。額は変わらず汗で濡れており、目蓋が開こうとする前兆もなかった。
素人目にも分かる剣呑さ。専門知識を持たない自分に歯ぎしりしながら、両腕で椛を抱き上げる。一秒でも早く医者の元にいかなければ。
「これは……」
走ろうとした直前だった。
椛の首元に、薄っすらと残る痣の痕跡を見つけたのは。
「桜斗様!」
疑念に時間を奪われ掛けた途端、少女の一喝で現実に戻される。
曲がり角から現れたエレニアは、母親の容態を見るなり眉を曇らせた。想定を上回る勢いで悪化していると、苦悩の面持ちが示している。
彼女は一度外の様子を伺い、即座にこちらへ戻ってきた。
「桜斗様、母の容態で何か気になったこと、あるいは思い出したことはありませんか? 私の推測が正しければ、これは――」
「もしかして、刻印が関わってるって?」
「はい」
「で、でも……」
馬鹿げている。金霧家の現当主は父・桜花だ。彼が刻印を持っているのは桜斗も確認している。妹である椛が所有者だなんて、それこそ荒唐無稽な妄想だ。
しかしエレニアの目は真剣で、有無を言わさぬ説得力すら宿している。
「桜斗様、昨晩私に説明してくれたじゃないですか。大人になってから刻印を失うと、どういう影響があるかを」
「――」
確かに、言った。
例えるなら椛は、臓器の一つを失ったような状態。加えてさっき、桜斗を助けるために無理な獣化を行った。
彼女の身体は悲鳴を上げている。消化する機能を持たないのに、禁断の果実を口にして。
治す方法があるとすれば、やはり刻印の移植だろう。が、桜斗にはそれが出来ない。今から父や母を呼ぼうにも、それまで椛が耐えるかどうか。
例外はただ一つ。
「私の刻印を移植します」
「な――」
絶句する桜斗だが、エレニアはシャツのボタンを外して首筋を露わに。
純白の肌に、明確な異分子が刻まれていた。
「い、移植って、方法は!?」
「今朝、桜斗様の母上から確認しています。――集中の邪魔になるので、貴方は外で警戒を」
「でも……!」
反論は虚しく、エレニアは準備を開始する。細腕からは想像も出来ない気軽さで母親を持ち上げ、奥の部屋へと移動したのだ。
遠ざかる背中に指先すら伸ばせない。唯一の解決策として、彼女の存在は自覚したばかりだ。ここで椛を見殺しにしようものなら――間違いなく、エレニアは自分自身を責めるだろう。
故に桜斗は動けない。
彼女の行動が示す様に、親を見捨てる子供、は信念が許さないものだ。命を賭けてでも救命を断行する。
楽観的な考えは出来なかった。刻印が馴染んでいない時期なら副作用が出難かろうと、あくまでも確率論。最悪の場合、母の病状が娘へ転移する可能性がある。
「くそ――!」
エレニアの根本を否定する覚悟で、鉛のように重い足が動いた。
外からの咆哮が、割り込んでくるまでは。
タイミングが悪いにも程がある。桜斗はツェニアを怨みながら、一気に外へと駆け出した。
出た途端に映る、呪炎の塊。
斬竜皇子が、背後の親子を脅威から救う。
『退きなさい』
人狼へと姿を切り替えたツェニア。最悪の相性だが、それでも退くわけにはいかなかった。
仕掛けてくる――意識を敵に集中させ、その一挙手一投足を見逃すまいと凝視する。
しかし、なかなか彼女は動き出そうとしなかった。逆に焦っているようにも見える。戦闘において有利なのは、間違いなく向こうなのに。
ついには人間の姿へ戻り、彼女は嘘偽りない誠実さで語り始めた。
「お願い桜斗、そこを退いて。中で何が起こってるのかは分かってる。……あの子が苦しまないで済むように、母を千浄が管理している施設へ移動させましょう」
「施設って、それは」
「手短に説明すると、あの男は人工的に刻印を作ろうとしててね。その実験材料として母は捕えられ、今日まで副作用からも生き延びてきた。……自然な状態だったら、もっと早くに亡くなっていたわ」
最後の一言は、視線を反らしながらの独白。
過去の痛みと向き合うような、傷だらけの告白だった。
「――憎まれ役は私が引き受けるから、お願い。貴方だって、エレニアに死んで欲しくはないでしょう?」
「……」
真偽を測れず、知己の関係を考慮しない桜斗にしても、ツェニアの呼び掛けは必死だった。
同情を求める声。それはもはや、一種の残忍性を帯びている。
優先するのは命か、精神か。片方を生かせば片方が死ぬ。彼女の意思を尊重すると言った桜斗には、少なくともそうとしか映らない。
この後に及んで頑固な自分が恨めしかった。道徳からすれば、救うべきは明らかなのに。正反対の結論を導くことへ、言い訳もなく臆病になっている。
変わることが怖くて、いつもと違う判断基準に自信がなくて。
――しかし結局は責任逃れだ。背負うのが怖いから、安易な道を選ぼうとしているに過ぎない。
やるなら自分の手で、阻止させるのが道理だろう。
「桜斗!?」
返した踵は、エレニアへ抱く尊重から逃げるように。脱兎の如く、親子がいるであろう部屋へ駆け込む。
閉まった扉を、破壊も辞さない勢いで開けた直後。
肝心の事柄は、すべて終わった後だった。
ほぼ骨組みだけのベッドでは、椛が安らかな呼吸を繰り返している。首筋には移植された刻印らしき痣。少女の願いは、崖っぷちで果たされたらしい。
無論、代償は避けれずに。
「エレニア……!」
小刻みな呼吸。酸素を取り込むだけで限界の少女が、桜斗の足元に転がっている。
色の白かった肌は、もはや生気の一切を蓄えていない。時間がないと一目で分かる。椛の病状が事実上、エレニアへと移ったのだ。
遅れて到着したツェニアは、悲鳴を混ぜながら妹に語り掛ける。
当然、返事はない。
時間制限は刻一刻と迫っていく。しかし桜斗に対策はなく、また――
「ちょっと下がってて頂戴」
大胆に、速やかにツェニアは首から鎖骨の辺りまで露出させる。
あったのは。
金霧のそれと異なる模様の、後継者たる証だった。
「お隣の人狼家系だけど、穴埋めには問題ないわ。さ、廊下で待ってて」
「ツェ、ツェニアさんは!?」
「私はこの子の代わりになるだけよ。……一つの予定ではあったんだし、別に問題じゃないわ。気にしないで」
「予定って、あの――!?」
真相を問おうとした直後、細い影がツェニアを押し飛ばす。
一番驚いたのは誰だったか。誰一人動かないまま、当事者は歯を食い縛って起き上がる。
「止めて、姉さん」
今にも倒れそうな膝で、消せない死相を浮かべながら。
眼差しだけが強靭な意思を宿し、エレニア・ブリュークスは目を覚ました。
余程ショックだったのか、姉は文句の一つも垂らそうとしない。睨むような妹の視線に怯えてさえいる。
冷静なのは、たぶん桜斗一人限り。緊迫した空気を前にして、彼女を知ろうと見つめている。
「姉さんが何かする必要はないでしょう? 母さんを助けたのも、私がこうなったのも、全部私一人の責任。口出しはしないで」
「――え、エレニア! 貴女、自分が何をやってるか分かってるの!? 桜斗との契りまで利用して!」
「分かってる。――だから桜斗様、お願い、します」
息も絶え絶えに。懇願というより呪詛を呟くように、エレニアの信念が喉を通る。
「私を、ここから連れ――」
言い終える体力もなく。
物々しい音を立て、彼女は床に崩れ落ちた。
一瞬の沈黙。振り向かずとも、ツェニアがこちらの様子を窺っているのが分かる。
果たして、迷いはあったのかどうか。
「桜斗!?」
彼女の願いに従い、自分でも驚く手際良さで外へ。
止めようとするツェニアが叫ぶが、走り出した桜斗は止まらない。とにかく人狼に追い付かれないよう、全速力で森を駆ける。
「ありがとう、ございます……」
遺言のような感謝。
命と精神を測りに掛けたまま、宛てもなく走り続ける。
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