第6話 戦いの後

 左腕に包帯を巻きながら、医者は桜斗の傷を観察していた。

 呪炎の火傷は消し難い痛みを訴えている。まあ当然の消耗だし、何も恥じることはないだろう。斬竜皇子まで、備蓄はすべて使い切ってしまったが。

 にしても、今日ほど再生能力に感謝したくなった日はない。呪炎でわざわざ腕を燃やすなんて、普通の身体では出来なかった。


「これでよし」


 考えている間に、医者がようやく処置を終える。


「今日一日は傷が痛むでしょうが、明日には治っていると思います。……しかしくれぐれも、無理はなさらぬよう」


「はい、有り難うございます」


 多分、破る羽目になるだろうけど。

 恭しく礼をして、医者は部屋を去っていった。

 開いた扉の向こうには無人の廊下しか映らない。去っていく足音は徐々に小さく、もともとあった静謐感を巻き戻すようでもあった。

 家族団欒の場である居間に、桜斗は父と二人きり。

 間を取り持つ母の姿はない。事態を聞き付けて帰路についたそうだが、到着にもうしばらく時間は掛かるとか。なので、しばらくは親子の一対一だ。

 向けられる峻厳な眼差し。内心の苛立ちを代弁するかのようで、下手に直視すると胃が痛くなりそうだ。

 何に苛立っているかは、言うまでもなく校舎での出来事。

 桜斗が自身の身分を省みず、エレニアを助けたことが気に喰わないんだろう。加えて彼女は、ツェニアが襲撃する隙を晒してしまったわけで。真面目な父の悪い面が出るには、文句のない条件だった。

 無論、一歩も退く気はない。

 今だって彼女の状況が気になって仕方ないのだ。もし父がいなければ、弾丸のように家を飛び出していただろう。医者の忠告? 忘れた。


「さて桜斗、幾つか聞きたい話があるのだが」


 しかし父はいっそう視線を厳しく、詰問するように口を開く。

 桜斗は今一の反応しか返せない。――原因が分かっている桜花は、更に機嫌を偏らせていく。もはや一触触発の空気感だ。

 さすがに意識を切り替えよう。父との問答を掻い潜らない限り、エレニアについては何も分からないし動けない。力を借りることにもなるだろうし。

 姿勢を改めて、正面にいる桜花と視線を合わせる。

 彼は一度肩の力を抜くと、頑固な息子へと語り掛けた。


「エレニアの危機を救ったそうだが、どういうつもりだ?」


「……この説明三回目なんだけど、とにかく見捨てておけなかっただけだよ。相手がツェニアさんだとか人狼だとか関係ない」


「関係あるだろう。お前はもはや、後継者として正式な立場を得た。濫りに危険へ首を突っ込んでどうする? 万が一、エレニアがツェニアと通じているかもしれんのだぞ。寝首を掻かれたら――」


「彼女はそういうこと、しないと思うけど」


「何故?」


「いや、しないと思うから」


 父は絶句して固まった。

 まあ確かに、突然行方不明になった相手へ言えたものではない。が、きちんと助けに来てくれたたわけであって。暗殺めいた真似はしないように思うのだ。

 父にもその点を説明すれば手っ取り早いだろうが、桜斗は語ることをしない。さっき口にした以上の意見ではないからだ。

 とどのつまり。エレニアを庇っている理由は、自分の感情論に過ぎない。

 それが誰よりも分かっているからこそ、桜斗は口を閉ざしていた。まあもう気付かれてるんだろうけど。


「……私もお前の判断を蔑ろにしようとは考えていない。故にもう一度考えろ。本当に、エレニアを放置して大丈夫なんだな?


「それはもう。一生かけて信じても構わないよ」


「誰を?」


「俺を」


 身の程知らず、と指摘されても仕方ない放言だった。が、自分なりに考えた返答である。

 エレニアを信じてくれ、なんてこの状況で言い張れるほど無鉄砲にはなれない。彼女の行動に対し、不明点が多いのは自分だって同じなのだ。

 だから十割信じれるとすれば、これまで培ってきた考え方。裏切る前提など有り得ないと、自分で自分を信じるだけだ。父を理解させるにはそれしかない。

 ただ。


「……いいのか?」


 矛盾を見抜いた桜花は、同情の籠った眼差しを向けてくる。


「結論は理解できる、納得もしよう。しかしその経緯は、お前は払拭しようと考えている過去に縋ったものだ。先を見据えたいのであれば、褒められるものではないぞ?」


「……」


 まったくその通りで言葉に詰まる。

 反面、機嫌が悪くなっているのも確かだった。自覚している失点を指摘されるのは、誰だって嫌なものである。

 だから、少し気分は自棄になって。


「そんなの関係ない。理由もなしに人を殺す奴がいるもんか」


 人間賛歌もかくやというレベルで、綺麗な都合を口にした。

 父は再び動かない。限りなく無表情で、息子の宣言を飲み込もうとしている。


「――分かった」


 入れ、とただ一言。

 開きっ放しになっている扉から、恐る恐るエレニアが現れた。

 見たところ目立った外傷はない。服の袖から先にある右手も、桜斗のように包帯を巻いているわけではなかった。人狼へ獣化できるだけあって、こちらより上等な再生能力を持っているんだろう。

 一度顔を上げる彼女だが、視線がぶつかった途端に眉間へ皺を寄せる。喜んでいる桜斗とは、どうも正反対の心情だった。


「あとは二人でじっくり話せ。私はあくまでも、第三者として振る舞うことにする」


「分かったよ、父さん」


「……」


 お節介を我慢して、桜花は廊下の向こうへと歩いていく。

 居間に残されたのは一組の少年少女だけ。去り際に父が扉を閉めたこともあり、空間の密閉を強く意識させる。


「どういうおつもりですか」


 二度目になる問いが、直ぐに正面から放たれた。

 彼女の目はこれまでになく鋭い。安易な解答をすれば、縁は本当にここで切ると。らしくない敵意で、真実だけを求めている。


「どうって、見ての通りだよ。君の意思は尊重するから、自由にやってくれて構わない。お昼過ぎから何をしていたのかも聞かない」


「ちょ、ちょっと待ってください。貴方自身の権利を、溝に捨てるとでも言うのですか?」


「まさか。第一、関係ないじゃないか。それとこれとは」


 理解できない――大人だろうと怯ませる眼差しが一転、疑問一色に切り替わる。

 桜斗は何も付け足さず、ただエレニアを見据えていた。その姿は主人を待つ忠犬のようでも、愛犬を待つ主人にも見えてくる。


「……」


 彼女は何処か、自分自身を持て余している様子。厳密に言えば混乱、だろうか。十数年来の付き合いが、正確な予測を成立させる。

 だが口にはしないし、間違っても同情は寄せない。

 彼女の肯定、あるいは反論を、ひたすらに待ち続ける。


「――もし私が姉と繋がり、攻撃を行った場合、どうなさるおつもりで?」


「まあ、応戦するよ。ここは自分の家だし、学校でもそうしたし」


「要は脅しですか? 今の余裕も、そこから来ると」


「脅しが通用する状況じゃないと思うけど……エレニアがその気になれば、助けが来る前に仕留められるんじゃないか? それに俺、獣化前の君を攻撃できるほどタフじゃないし」


「む……」


 第一、桜斗を殺した段階で金霧家の抹殺対象には入る。脅しなんて、今からかけるまでもない制限だ。


「ではもう一度問います。――どういうおつもりですか」


「本音で話せ、ってこと?」


「そう受け取って頂ければ幸いです。何を想い、何を願って私を自由にするのか。桜斗様の考えをお聞かせください」


「う、うーん……」


 途端、ハッキリしていた語りが濁る。

 桜斗は僅かに俯き、頭を掻いて思案していた。――だって、恥かしい。自分語りなんて凄く恥かしい。

 しかしエレニアは解放してくれそうになかった。穴でも開きそうな凝視っぷりで、少年の告白を待っている。


「……わ、笑ったりしないなら、いいけどさ」


「な、何故そこでそれを気にするのですか? 別に誰も笑いませんから、遠慮なく語ってください」


「――」


 なんて時に限って笑われるような。いや、そういうのは空想の世界か。

 短く咳払いをし、改めてエレニアに向き直る。

 真剣な彼女の眼差しは水晶のようだ。自分の姿が映し出されていると直ぐに分かって、余計に羞恥が増してくる。

 まあ好きな女性に無言で見つめられる方が、よっぽど恥かしいのだけど。


「た、単純に、君の考えは君の考え、ってだけだよ。どれだけ俺が想像力豊かでも、結局は他人だからさ。理解し尽くすことなんて出来ないから、丁度いい距離感を保とうと思って。だからさっき意思を尊重する、って言ったんだ」


「成程。でしたら……私を助けた理由は、何でしょうか? 理論上、私が死に向かうのを止める理由は無かったことになりますよ?」


「それは――」


「あ、同情したとか共感したとか、そういう低劣な返答は却下ですので」


 なお増して、桜斗は口籠ってしまった。

 エレニアの指摘に何ら反論はない。彼女はツェニアとの戦いで死を覚悟した。そこに桜斗の命が関わっていたかと聞けば――五分五分がいいところだ。そもそも逃げる時間を稼ぐために、彼女は最前線へ赴いたのだし。

 結論を先に言うなら、やはり理想への共感だろう。注文された通り、軽々しく口に出来るものではないが。


「……」


 差し当たりのない解答を述べたいが、質問者を見る限り不可能に思える。

 だから嫌だったんだ、と。少し前の予感に頷くしかない。


「エレニアに怪我して欲しくなかったんだよ」


「は?」


「いやだから、君を危ない目に合わせたくなかったの。望みに反したとしてもね」


「……我儘でしかありませんが、宜しいですか?」


 結構です。

 ふむ、とエレニアは落ち着いて腕を組む。町を歩けば十人中十人が振り返る容を、可愛らしい微笑に変えて。

 だがそれも一瞬のこと。正反対の表情に切り替えて、正論のために息を吸う。


「私は、お昼に来たメールの内容をお話することが出来ません。その根底にある理由も」


「……うん、分かった。気にしないで大丈夫だよ?」


「いえ、気にします。なので私を罰して下さい。貴方の護衛をおろそかにしたのは事実。……この命は貴方に救われました。何をされようと文句は言いませんので、どうか――」


「分かった、何をされても、文句は言わないんだね?」


「? は、はい」


 よし、言質は取れた。問題ない。


「じゃあ一生、俺の世話をするということで」


「――は?」


 怒りも驚きも、全部ごちゃ混ぜにして。

 心底呆れ果て、見損なったと。一転して笑えるぐらい、エレニアは固まって動かない。


「ちょ――ちょっと待ってください! 罰になってません! それで周囲に示しがつくと!?」


「どうして? エレニアは俺を護衛を一時的にも放棄したんだから、前みたいに世話する必要がある、とは思ってないだろ?」


「いえ、それは……」


「だったら拘束してることになるし、罰としては十分じゃないか」


 自分でも詭弁だと思うが、それで全然構わない。

 エレニアは尚も、反論のために意見を纏めようとしている。が、同程度の言い訳は思い付かないのか、溜め息をして留まった。


「まったく、恥かしくないんですか? 自分の女になってくれ、と言っているのと同じですよ」


「ご、ごめん、あんまり意識させないで欲しい。勢いだけで喋っちゃったというか」


「もう……」


 どこか嬉しそうに、彼女は口元を緩めている。

 表情から緊張感が抜けたのを察知し、桜斗は胸を撫で下ろした。

 盲目的であることは言わずもがな。父の言う通り、安全性が確保されたわけじゃない。一つの謎を、彼女は話せないと言ったのだ。

 だが、それでもいい。

 惚れた女に殺されるなら――ま、それも一興だろうから。


「分かりました。今回は桜斗様の我儘、聞き入れましょう。正真正銘、貴方のための女性になれば宜しいのですね?」


「あ、はい。そんな感じでお願いします」


「何で自信なさげなんですか……?」


「いや、まあ、あはは」


 必死に笑顔を作る桜斗だが、顔が赤いのは隠しきれていない。

 言葉なら平気、と公言していた少女は平静そのものだ。比較対象には申し分なくて、お陰で余計に照れくさい。

 艶然と微笑むエレニアが近付いて来たのは、直後の出来事。

 こちらの手を握ると、彼女は恭しく膝を突く。


「困った方ですね。私のような女を勝手に信じるなんて」


「い、いや、別に重荷を背負わせようとは――」


「心地良い重荷ですよ? これ。……話せる範囲で訳は話しますから、今は帰りましょう」


「……エレニア、その」


 頷き終えるより先に、彼女はゆっくりと腰を上げる。

 解かれる温もりの切なさは昔と一緒だ。当時懐いた感情も、この瞬間と重なっている。果たされる一点を願う、初心で純情な願いだった。

 しかし今でも、自分がエレニアに相応しいかどうかの不安は消えない。寧ろ大きくなる一方だ。幸せな家族像を夢見るなら、自分にだって相応しい能力は求めれるわけだし。

 でも彼女が告げたように、荷物を心地良いと思ってくれるなら――

 それだけの価値が、あると信じても良いのだろうか。


「じゃ、じゃあ、表まで送るよ。……っていうか、一緒に帰ってもいい?」


「さすがにそれは、ご両親が反対――って、愚問でしたね。なら桜斗様の好きに――」


「ええ、好きになさって構いませんのよ?」


 高貴さを窺わせるお嬢様口調。

 したり顔の母が、それはそれは楽しそうに立っている。・





 彼との問答が半ば詰問になったことを、エレニアは反省していた。

 自分の心情を考えれば、致し方ない流れではあったかもしれない。ほんの一瞬にせよ、彼が分からなくなってしまったからだ。

 実際、学校での危機は、エレニアがまんまとツェニアに誘き寄せられたものに近い。敵に本来不要な信用を向け、彼の守りをおろそかにしたのだ。密通の真偽に関わらず、裏切りと指摘されれば裏切りだろう。

 居間に入った時から、妙だとは思っていた、普通、もっと怒っているべきじゃないかと。

 桜花についてはその通りだったが、桜斗は温厚そのものだった。オマケにあんな下らない罰則まで。真面目にやれ、と叱りつけたくなる。

 それでも桜斗の本音を聞けたのは、エレニアにとって収穫だろう。

 というのもこれまで、彼の本心を聞く機会は殆ど無かったからだ。部分的に知っていても、直に聞くのとでは訳が違う。

 しかしあれだけで晴天になるほど、自分の心は素直じゃないらしい。

 考えれば考えるだけ、色々なことが気掛かりになる。人間関係の落とし穴にスッポリ嵌まったような感覚だ。頭の中にある不安、矛盾が、ここぞとばかりに封を解いている。

 ――本当は、何もかも話さなければならない。

 エレニアは桜斗を利用している。契りを交した理由の中に、母の命が関わっている。

 勿論、彼に話した理由は嘘じゃない。だがそこに不純物が混じっているのも、同じように嘘じゃない。

 告白したい気持ちは強くなる一方だ。が、話せば止められる事態なのは疑えない。学校だって、彼はこちらの決断に介入した。

 罰がもっと別の、洗いざらい事情を白状させるものなら良かったのに。

 しかしこればかりはエレニアも譲れない。どんな罵詈雑言を受けても、方針を変える気持ちは湧かない。

 口にしたいと思うのは、単に弱音。

 彼ならきっと励ましてくれると、そう考えている自分がいる。

だが出来ない。矛盾を承知しても、一抹の恐怖がエレニアを押し留めている。まさに優柔不断。自覚できるだけ傷は深い。

 決定的な強制力さえあれば。彼が威圧し、命令し、強引に引き出そうとしてくれたら。こんなにも悩む必要はなかったろうに。


「どうして……」


 改めて問い直したいが、返答に変わりはあるまい。

 だとしたら、この葛藤は一度仕舞っておくべきだ。いずれ判断する時は来る。桜斗は必ず、学校と同じような行動を求められる。

 よし、と。

 見慣れたようで不慣れな台所で、鍋の番をしながら頷いた。

 隣にいるのは桜斗の母親。二人は揃ってエプロンを装着し、夕食に向けて準備を行っている。


「……」


 願ったり叶ったりではあった。結婚する上で、相手方の両親と親密になるのは重要だし。最大級のチャンスだと気合十分な所存である。

 もっとも、突き刺さる疑惑の目だけは拭いきれない。

 桜花だ。やはり彼には彼の考えがあるらしく、将来の娘を許容する気配がない。……普通、こういうのは逆に母親の役回りにも思えるけど。


「ふふ、御免なさい。あの人ったら、少し頑固な部分がありますもので。明日まで何もなければ、きっと綺麗に諦めますわ」


「そ、そうですか……?」


 危機感皆無な桜斗母を横目に、再び居間の方を覗き込む。

 点いたテレビは恒例のニュース番組を流していた。桜斗はそちらに付きっきりで、ときおり頷いたり首を傾げたりしている。桜花も一緒だ。

 しかし後者に限っては、背中に目を付けているような警戒ぶり。

 思い描く穏やかな空気は程遠かった。桜花は仕事を控えているため夕食に同席しないのが、最後の救いだと言える。


「ところで、あの子とは上手くやっていけそうですの?」


 手の動きを止めないまま、桜斗の母が問い掛けた。

 好ましい二つ返事は送れないし、自信もない。ただ沈黙するだけで、かといって否定する勇気もなかった。

 敢えて口にするなら、そう。


「少し、怖くはあります」


「怖い?」


「はい。……先ほど、桜斗様に言われました。自由にしてくれて構わない、君の意思は尊重する、と。嬉しいことではありますが、同時に――」


 見通せない。

 彼の宣言は、対等に振る舞うことを考えれば望ましいものだ。自分が自分として有り続けられるなら、パートナーとしてこれ以上なく最適だろう。

 しかし逆説的に、桜斗は他人への干渉を好んでいない。

 例外がエレニアではあるようだが、信用の是非を置き難いのも事実だ。

 感情的な理由で特別扱いするなら、すべては彼の気紛れで決定される。もし離別を求め、良しとされたなら、二人の縁は呆気なく裂かれるだろう。

 そうなりかねない条件を、エレニアは未だ所有している。

 勿論、すべて自分の精神的な問題だ。彼を頑固に信用すれば、甘えればいいだけで、現状でも不可能な行為ではない。

 それを迷わせているのは一つだけ。

 意思を尊重する――逆に彼は、こちらへ興味を持っていないのではないか?

 確かに救ってくれたし、戦ってくれた。惚れた相手が命の恩人だなんて、ロマンチックで宜しいとも思う。

 反面、自信がなかった。

 尊重と無関心が紙一重なら、彼はこちらを視ていない。数時間前の出来事だって、危機に陥っているのが別の女性でも――彼は、行動を起こしたかもしれない。


「どうなんでしょう……」


 すべて単なる妄想。心の脆さが作り出した、際限のないパラレルだ。

 代わりは、いるんじゃないか。

 愚かにも程がある不安に、心が少しずつ犯される。

 濁流じみた力強さは彼の我儘をものともしない。だってあれは詭弁だ。彼が罰を与えたくないだけで、その本心までは分からない。


「……私も同じですわ。あの子に対して」


「そ、そうなんですか?」


 意外や意外。

 目を丸くするエレニアに、桜斗の母はクスクスと笑う。まるで、少女の葛藤が可愛らしくて仕方ない風に。


「随分前に言いましたっけ? 私、実の母親じゃないってこと」


「……再婚ですか?」


「ええ、そうです。あの子が貴方と出会う少し前にね、旦那様と結ばれましたの。……桜斗さんは始めて会って直ぐ、私を母親として認めてくれました。それこそ、昨日まで一緒だった実母のように」


「それは――」


 悲しみから逃れるための策か、子供らしさが生む純粋か。

 ありがちな結論を出すより先に、彼の母は言葉を続ける。


「旦那様は感心して、桜斗さんを褒めるつもりで言ったそうですの。新しい母親と上手くやっていけそうで良かった、って。――ああ、その頃、彼は六歳でしたわ」


「なんて答えたんですか? 桜斗様は」


「母さんは母さんになったんだから、それ以外の何でもないでしょ、って答えたそうです」


 子供らしい、無垢な肯定の意思。

 だが根本に僅かなりと触れた後では、素直な捉え方など不可能だった。


「――エレニアさん、貴方にとって過去とは何ですの?」


「宝物です。今の私を作る、かけがえのないものです」


 大好きな出来事も、忘れたい出来事も。

 すべて含めたモノが自分の立っている土台だ。蔑ろにするなんて許されない。報いるために義務を課して、ずっと守っていくべき観念だ。

 桜斗もその一人。彼を愛し、愛される者として振る舞うと決めた。……まあ、幼さ故の勢いも混じっているけれど。


「でしたら、それをあの子は高く評価してくれることでしょう。例え今回のような衝突が繰り返されても、貴方を大切にする思いは変わりません」


「例え、別離に繋がるとしても?」


「ええ、きっと。それがお互いのためになるなら、ですけれど」


「……」


 今日がそう。一つでも選択が違えば、エレニアは命を落としていた。

 なら、彼が防ごうと思うぐらいには――

 二人の関係に、価値を信じてもいいのだろうか?


「――なによりも私個人、貴女には娘になって頂きたいわ」


「え……」


「いい塩梅だと思うんです、エレニアさんと桜斗さん。あの子、うちでも前に言ってましたのよ? 過去に縛られないで、貴女を好きでいる理由が欲しい、って」


「……」


「先の失態については、事情があったのでしょう? ならお相子ですわ。罪を意識するのも大切ですが、背負うと言っている意思も尊重して上げませんと」


「しかし――」


 それが出来れば苦労はしない。

 言おうとする直前、彼女はこちらの口に人差し指を立てる。笑顔で。他には一言も発せず、夕食の用意へ戻るだけだ。

 考え過ぎている――桜斗の母が取ったジェスチャーには、そんな慰めが込められているような。目の前にある鍋も、同調するように蓋を揺らしていた。


「あまり気負わないでくださいな。過去への関心に距離を置いている以上に、成長した貴方へ興味を持っているのも事実です。もしかしたら此度の件も、面白がって見ているかもしれませんわね」


「ま、まさか。いくら桜斗様でも、そんな妙なこと……」


「ふふ、意外と分かりませんわよ? だってあの子にとって、エレニアさんは例外、特別な存在ですもの。愛していることを前提に理由を探そうとするのが、何よりの証明ですわ。もっと自分に自信を持つべきです」


「叔母様……」


「さてさて、そろそろ時間ですわね。旦那さまを見送ってきますから、仕上げをお願いできます?」


「はい」


 控え目に、しかし潔い返事。

 嫁姑の問題が起こらない程度に、彼女とは仲良くなれそうだ。

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