第3章(2)
それは、アホことカール・ソブェスキ閣下の叛乱が見事に粉砕され、南方情勢の緊張がオルハン神権帝国との間で高まっているある日のことだった。
珍しくヴァヴェルの宮中に足をヤーナ摂政一行が運んできた、と知らされた際に嫌な予感はしていたのだ。
形式にせよ、ヤーナ摂政は『きちんと、セイムに報告だけは行う』のだから、何がしか報告すべき事態が起きているのだろうとモーリスも察しは付けている。
例えば、というべきだろう。
『自由都市同盟』からの『援軍要請』だ。
同じくシュヴァーベン革命軍を敵としているとはいえ、自由都市同盟は『貿易相手』であって、同盟相手とまでセイムの議員らは認識したがらない。
対等な同盟、などと口に出すことも憚られる始末なのだ。
「率直に申し上げます。摂政殿下、グダンスク港への派兵は思いとどまっていただけますでしょうか?」
「モーリス、説明」
「グダンスク港は、元々コモンウェルスを離反した都市です。その際に、セイムにおいて有力な閥の利害と正面から衝突しており……」
宜しいですか、と面子や利害の説明に持ち込みかけていたモーリスを遮るヤーナは怪訝そうな表情だった。
「ストップ。何十年前の話をしているの?」
「たかだか、何十年でございますが」
分かった、という言葉と共にヤーナは話題をそらすように問い返してくる。表情からすれば、理解はしていないのだろうけれども、論点を変えることにされたらしい。
「……聞きたいのだけど、グダンスク港が何故離反したのか知っていて?」
「卑劣な自由都市同盟の銅臭にやられました者どもが~」
「ストップ。建前はいいから、真相を説明しなさい」
困りましたな、と嘯きつつもモーリスは随分と前に調べていた事実を口にする。
「統治していた家系が断絶したことをいいことに、接収しようといくつかの閥が動き出したのはよいのですが。どうやら、グダンスク辺境伯家の断絶は『毒殺』だったようで」
「下手人は?」
「さっぱりです。しかし、『高度な魔法毒』であり『呪殺』を併用したものであった、と」
病気に見せかけるようにして、だんだんと食欲を削ぎつつ体を衰弱させしめる魔法毒と呪いの類。
更に付け加えるならば、お家断絶前のグダンスク辺境伯家に仕えたお抱え侍医のうち、天寿を全うしたといいえる医師は一人も見つかっていない。
まぁ、典型的な陰謀があったのだろう。
「断絶する前は、辺境伯を務めたほどの名家よね? そんなところの魔法防御を抜ける下手人が特定できない、と」
「不思議なこともございましたものでございます」
嘯きつつも、内心ではつくづく同感だった。
「私に言わせてもらえば、当時のグダンスク辺境伯家の家臣らが『市民蜂起』という建前で自由都市同盟に離反したのも道理よ。だから、こちらから殆ど攻め込んでいる記録がないのね?」
「はい、摂政殿下。その通りかと」
「で、当時、あほなことをやらかした連中はどうしたのかしら。ひょっとしてだけど……未だにセイムで大きな影響力を保っていたりする?」
良いところを抑えた質問であった。
知性はさておき、辺境伯家を脅かせるほどの権勢がある閥。たかだか数十年で没落すると断言することは、とてもできやしない。
それどころか、というべきだろう。
現在に至っても、真相不明と公式に言わしめる程度には影響力も強いのだ。
「恐れながら、臣といたしましては……御身を忠心より案じまする、卑小な私めの不安をお汲み取りいただけますれば、幸甚でございます」
「戯言はほどほどにしなさい。兵は出す。出さざるを得ない」
「……摂政殿下の御意に従いまする」
故に、不承不承という表情でモーリスは頷く。
軍事的にも財政的にも、自由都市同盟との協調路線を放棄すれば、それこそシュヴァーベン革命軍とやらに蚕食されかねない。
従って、出兵は既定事項なのだろう。
なればこそ、逆説的ながらモーリスとしては楽しい祭典の仕込みもやりようがあるのであるが……とはいえ、一言だけ付け加えておく程度には誠実な陰謀家でもある。
「ですが、ヤーナ摂政殿下。留守を預かりまする宰相として言上つかまつることをご容赦くださいませ」
「続けなさい。なに?」
「臣の影響力をもってしても、セイムの殿下に対する敵愾心を抑え込むことは不可能になりつつあります。グダンスク港へ出兵なされますると、遅かれ早かれ、『セイムにとって都合の良い人物』が求められることになるかと」
「……私も、あなたも、フランツも、挿げ替えられる、と?」
「あくまでも、可能性にございまするが」
恐ろしいことに、可能性がございますとだけ伝えておけば最低限の警戒はしてくれることだろう。
「ふん、あなたがその首魁じゃないことを祈るばかりね。ちがって、モーリス?」
「なんとも、震え上がるばかりにございます。臣には、夢にも思いつかない暴挙にございますれば」
「笑って言うな。さて、もういいかしら? 援兵を連れて行かなければ」
「はっ、ご武運を」
それから少しばかり、時がたったある日のことだ。
「セイムの連中、グダンスク港の戦勝でついに我慢できなくなりましたか。まぁ、連中にしてはよく我慢したほうと褒めてあげるべきですかね?」
モーリス・オトラント宰相は来るべきものが来たなぁ、と嗤っていた。
グダンスク港での勝報と、自由都市同盟との関係深化。まことにもって、目出度い限り……と本来であればコモンウェルスの国益上の配慮からセイムとて言祝ぐべきなのだろう。
けれども、セイムの議員を突き動かしているのは理屈ではない。
利益配分機構としてのセイムに対し、正面から泥を塗るも同然の行為をヤーナ・ソブェスキ摂政殿下はなされてしまっている。
そもそも、フランツ王の即位に際しても貴族らの特権、慣習的権利に対する尊重を神輿に語らせていない時点で、ヤーナ摂政の人気は極めて低い。
アッシュ・イグナス・オトラントの三辺境伯がこぞって王政府を支持しているがゆえに、表立ってこその反発は出ていないものの、逆を変えれば兵権を握る有力な面々の武威によって無理やりに静謐さを保っている危うい均衡でもある。
致命的なのは、モーリス自身が当主を務めるオトラント辺境伯以外の辺境伯家はさほど閥を意識して根回しを得意とするタイプではない、ということだ。
良くも悪くも、辺境防衛のために自己完結してしまっている。おかげで、というべきだろうか。ヤーナとその指揮下の面々は、セイムに漂う雰囲気に対する鋭敏さが欠落と形容してもはばかりがないほどに払底している。
悪意についてだけは、ヤーナ殿下は実に平凡だとモーリスは笑い出したいほどであった。あの方は、能力と意欲が反比例している。それだけならば珍しくないだろうが……いい意味で反比例しているともなれば実に珍しい。
「それでいて、性格そのものは……しごく平凡だ。感性は凡人のそれというほかにない」
口に出してみれば、いやはや。
これ以上に適切な形容もできないのではないだろうか、とモーリスは苦笑してしまう。
観察する限りにおいて、ヤーナ・ソブェスキ第三王女というコモンウェルスの摂政は不思議と矛盾に満ちている存在だ。
彼女の望むものは、自分の小さな幸せ。可愛いものを愛で、まったりと趣味に浸り、お茶できる程度の生活だろうか?
庶人ならば、好ましい隣人だろう。
しかして、彼女はコモンウェルスにおける最大の権力者だ。
その気になりさえすれば、彼女はフランツ王から簒奪すらなしうるに違いない。その後の統治がどのようなものになるかはさておくとしても、だ。王位には手が届く。
普通ならば、モーリスとて遊びがてら誘惑の囁きでも行っていただろう。自重したのは、ひとえに彼女の性格を見極めるにたる距離に立っていたからだ。
彼女は、フランツを弟として大切にしている。そして、弟の手にしているものを奪おうという発想には嫌悪すら抱くだろう。
エゴを極限まで肥大化させるのが常識ですらある立場にありながら、依然としてそのような人格?
世の中には、自分にすら予想が付かない出来事もまだまだあるのだ、とモーリスをして驚嘆させられたものである。
「……まったく、奇跡のような人格だ」
彼女は、ヤーナ・ソブェスキは『まとも』すぎる。権力に付きまとう欲望と悪意を理解できない。いや、正確に言うならば『想像できない』のだ。
本人の資質からして、決して策謀や陰謀ということを理解できない頭ではない。知性はあるのだが、発想として沸いてこない類。
有能な怠け者にして、権勢よりも自身の時間を大切にするタイプには、人を押しのけて地位を狙おうという発想がそもそも欠けているということだろう。
単純に言えば、向き不向きの問題だろうか。
「悪意とは、権力の闇とは……彼女の真逆にあるものなのだから。さて、どうなることやら……」
……だからこそ、少しばかり楽しみでもあるのだ。一体、ヤーナ殿下は悪意にさらされたとき、どう反応するのだろうか?
「だが、フランツ陛下が鍵だろうなぁ。……まるで、母熊だ。おお、くわばらくわばら」
そして、彼は、来るべき日に備えてささやかな準備を入念に行っていく。
もちろん、というべきだろう。
『善良なる臣下』として、極めて、『誠実』に、だ。
よい臣下の務めとは、主人の不得手な分野を補佐することも含まれる。コモンウェルス第一の臣下である宰相たるモーリスにしてみれば、摂政殿下の補佐もまた職分。
主君の意を汲むのは当然の心構えである。
故に、というべきか。職制上の業務に対し、モーリスは主観的にも客観的にも瑕疵なく忠実かつ清廉であるように心がけていた。
本来の気質とは全く真逆であり、小さな悪戯や陰謀の衝動に襲われることがなかったといえばウソだ。
だが、モーリスは欲望を制御する術を知っている。
短慮な猿でもあるまいし、と良いワインを寝かすように時間をかけることの楽しみも知っているだけに、辛抱に辛抱を重ね、敢えて意図的な清廉潔白さを演出したのだ。
それでいて、『改心した』などと囁かれてはたまらないだけに、風見鶏として誰にでもよい顔をしつつ、法は最後の一線を守って見せるというきわどい綱渡りもこなして見せた。
誠実に職務に励み、誰とでも親しく交わる一方で、『えこひいき』はしない。
ヤーナ摂政殿下や、その指揮下の人間はそれを奇怪に思わないのだろうが、コモンウェルスの政治文化においては異端なのだ。
コモンウェルスにおいて、友達に特別待遇を用意しないということは、誰かの友達ではなくなった、と同義とされている。
銅臭香しいコモンウェルス政界のパラダイムに従えば、友情とは即ち権力と権益を分かち合う同盟の麗しい言い換えだ。『誰にも特別サービスを提供できない政治家』というのは、その時点で無条件に落ち目とみなされる。
なればこそ、宰相位にとどまっていたモーリス・オトラント辺境伯の権勢は表には見えずとも急速に低下し始める。
凋落、と人はささやきあうものだ。
『あの宰相閣下は、小さな利権一つ用意できないのだ』と。
かくして、オトラント辺境伯家の前に門前市をなすほどの来訪者も徐々に数を減らしていく。頼むに、値しないお方、という風聞はそれほどの影響力を持つのだ。
もっとも、誰もが先を見通せぬというわけでもない。
唯々諾々とその現状に甘んじるモーリス宰相の姿を目の当たりにし、知性ある貴族たちは即座に帰郷を決意していた。
戻るか、残るか迷っている面々にとって運命の分かれ道となったのはセイムへ『宰相』を通さずに提出された一つの提案であった。
・急速な諸外国との関係悪化。
・軍事的脅威の増大。
・極め付けが、宰相の指導力不足。
これらを検討するべく、ヤーナ摂政殿下、フランツ陛下のご臨席をたまわりたいとし、臨時セイム公会の開催を求める声は、モーリス・オトラント宰相の反対を押し切り、賛成多数で可決されてしまう。
その瞬間、力なく統治すべき所領で裁可すべき案件が山積しているがゆえに、一時的に帰郷をと力ない表情で願い出たモーリス・オトラント辺境伯は領地への帰還がその場で許可されたのだ。
はっきりといえば、都落ち。
政治的に、孤立し、権勢を保てなくなった宰相が寂しく田舎に引っ込む。権勢に興味のある人間ならば、喜んで追い出しこそすれども、引き留めなぞしないだろう。
ただ、というべきだろうか。
モーリスにしてみれば、それはちょっとしたサービスだった。目先が利く人間であれば、その瞬間に『宰相殿が帰られるのであれば、我らも』と名乗り出ることができるのだから。
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