第2話(3)
そして、とモーリスはさっそく行動に移っていた。
なにしろ、言うではないか。
『善は急げ』と。
コモンウェルスの宮中、王族の住まう一角を訪れてみればまぁ、とモーリスはあきれ顔で隣のポトツキー老へ視線を向ける。
見てくれるな、と無言でそらされる老の顔に浮かぶのは苦渋のそれ。
これはまた、傅役殿も随分と苦労されたことに違いない。
「爺。また?」
のほほーんという擬音が聞こえてきそうな声で、だらけている当人はこちらに視線すらよこそうはとしない。
これが、ヤーナ殿下の地か。
「いえ、本日はお客様がお見えです」
「客? って……」
ごほん、というポトツキー老のせき込みにようやく気付いたのだろう。自分の顔を見るなり、げっ!? とばかりに顔面を歪ませてみせる。
ああ、全く、脇が甘いことでいらっしゃるとモーリスは内心の可笑さを堪え、殊更に丁重な素振りで一礼して見せていた。
もちろん、当てつけである。
とはいえ単に趣味で当てつけを行っていた、というわけでもないのだが。自室で寛げるとは……余程後ろめたいことをしていない証左なのだろうとアタリをつけているのだ。
ちと、うらやましいというヤッカミもキチンと込めておいた。
ムスッとした反応もまた、なんとも楽しいものであるのだから。
加えて言うならば、取り繕った表面を見せられるよりも余程ヤーナ殿下とその一党のありようを見ることができて幸いだった。
「おお、うるわしい朝にございますな。殿下の親しげな笑顔をいただけるだけで、一日の活力が湧いてくる思いであります」
なればこそ、確信と共にモーリスは最大限の笑みを浮かべつつ、再び一礼を示す。
「……ああ、ありがとうね? で、用件は?」
「摂政殿下、臣はこのたびセイムより宰相を拝命しました。さてさて、殿下のお力になることが出来ればとつとめてまいりますぞ」
軽くヤーナ殿下の表情が痙攣しかけたのは、また、なんとも感情の読みやすいこと。
さすがに、摂政という地位からすれば、宰相という席を自分の手勢以外に抑えられれば面白くないぐらいはあるのだろうか?
「殿下、差しつかえなければ……一つだけおうかがいしたいことが。……なぜ貴族たちにご芳情がないのでありましょうか?」
故に、問う。
政治に対するヤーナ殿下の感性を。
「……モーリス? 芳情とはなんのこと?」
「殿下をしたう忠実な臣下たちに、殿下からのお志をいただけないことでございます。……諸卿が気に病まれておいでですぞ?」
「え?」
ぽかん、とばかりに零れ落ちるのは困惑の声?
ちらりと部屋の隅で近侍しているポトツキー老に視線を向ければ、またしても、さっとそらされる始末。
まさか、と軽い頭痛を堪えつつモーリスは言葉を重ねていた。
「……殿下、言葉遊びがお気に召さぬならば申しあげましょう。ようは、賄賂です。賄賂。即位の支持を金で買ってください」
王になる、ということはコモンウェルスにおいて『選挙に勝つ』と同義だ。
古の時代、コモンウェルスの貴族たちが高潔さと英知を誇っていた時代であれば……『なりたい』人物ではなく、『推戴したい』人物が選ばれていたのだろう。
今日では、王位継承権保持者の中から『セイムにとって都合の良い人物』が選ばれている。都合の良い人物になるのは簡単で、金貨を積み上げればだいたいは事足りる。
逆説的に言えば、積み上げられた金貨が零れ落ちる音でもない限り、即位に賛成する拍手すら買えない始末。だからこそ、セイムの貴族たちはヤーナが買収を持ち掛けてこないことに困惑しているとモーリスは語らざるを得ない。
そして、というべきか。
「……議員達にフランツの即位を認めてくださいと金を払えってこと? じょ、じょ、冗談じゃないわ! いくらなんでも、馬鹿にしすぎ!」
激発するヤーナを目の当たりにすれば、確信もできようというものだ。
「ありえないでしょ? ふざけてるの?」
「ふざけるなど、とてもとても。殿下、ご理解ください。フランツ殿下は、まだ王ではありません」
ヤーナ・ソブェスキは本心から驚き、そして怒りをあらわにしている。
なんとも、初心なことではないか。
ジョナス王の即位時すら、あの無能で偏屈なジョナス王ですら、ソブェスキ家の私財を総動員して莫大な金穀をばらまいた。当時の記録を読んだモーリスの感想としては、相場よりも随分と吹っ掛けられたらしい。
おかげでセイムに苦手意識を抱いた、というのは穿ちすぎというわけでもないだろう。
だからこそ、ソブェスキ王家はセイム対策に汲々としてきたのだ。
その一門で最も有力な第一人者となっているヤーナ摂政が即位にかかわる必要経費というものを知らないとはセイムの議員たちには想像すらできなかったに違いない。
なればこそ、モーリスですら意表を突かれていた。
政治にかかわりながら、かくまでも全うな感覚を保てることを言祝ぐべきか、不勉強をなじるべきか、全く、迷える愉悦とはこのことだろう。
「……お金ですむ問題であれば、さっさとすませるに限りませんか?」
自身が口にしたのは、宥めすかすような言葉。
「仮定として聞いておくわ。賄賂、断わった場合は?」
ほう、と考えさせられたくなる言葉であった。
反発なり、峻拒なりだろうとあてをつけていただけに、返されてきたのは予想外の言葉。
『王位を買う』という選択肢のほかを模索するために『払わない』という選択肢が真剣な考慮の俎上に上ること自体が珍しい。
「……失礼、少々考えさせていただいても?」
「ええ、あなたの意見を聞かせて頂戴」
「御意。では……」
セイムの議員たちにしてみれば、王の即位時に『臨時収入』を得ることができるのはもはや伝統も同然なのだ。
即位を認める引き換えの賄賂は、結構な額の収入だ。
手に入らないとなれば、あてが外れたと騒ぐどころでは済まないだろう。即位時に、票を売るのは自分の権利だと信じて疑わないセイムの愚物どもから、利権を取り上げるも同然だ。猛反発は必須、と読まざるを得ない。
その一方で、コモンウェルスが置かれている政治的な環境を考慮すれば……正統な王位継承者であるフランツ殿下の正統性に揺らぎはない。
何時もであれば、『対立候補』が名乗りを上げうるだろうが……対立候補足りえるヤーナ殿下にその意思はない。したがって、票を買うために双方が賄賂をばらまき、賄賂費用が高騰するという本末転倒な事態は避けられるだろう。
王位に興味津々の間抜けも居ないではないものの、継承法を完全に無視するわけにもいかない手前、セイムが彼を呼び出すことも難しい。
故に、とモーリスは苦笑交じりに自身の推測を口にする。
「そうですね、王位そのものは、かろうじて認められるでしょう。ですが、諸卿の反発は留まるところを知らぬかと」
王位が長らく空位であることを良しとするわけにもいかないのだ。
拒めるだけの理由がなければ、さしものセイムとて不承不承、フランツ殿下の登極は可決することだろう。
とはいえ、理屈だけで納得できる人間のことを『できた人間』と呼ぶのは、往々にして納得できない愚者が多すぎるから。
セイムの貴族らが、不本意な賛成票を投じさせられたと騒ぎ出せば……先にあるのは混沌だ。モーリスの読みでは、十に九は確実だろう。
なにしろ、とモーリスは胸中で嗤う。
「さすがに、殿下ほどの知性をおもちなればお分かりかと。ここで、揉めることになれば大惨事ではございませんか?」
さすがに、現状でフランツ・ヤーナ陣営に挑みかかるという蛮勇を抱く愚者はいないにしても。フランツ王が、自分たちにとって都合が悪いとなれば『代わり』を模索し始める程度にセイムというのは愚かでもある。
……そして、コモンウェルスには『フランツ/ヤーナ』といったジョナス王直系以外にも、『代用品』足りえる程度にソブェスキ家と縁の深い連中もいないではないのだ。
先ほどから気になっているジョナス王の婿殿とて、無理をすれば既成事実を積み上げて王位に挑みかかるぐらいはできるかもしれないのだから。
「……ど、どこまでも人の足元をみる連中ということね!? ……私が、セイムの貴族たちに屈するか、屈しないか。つまるところ、貴方はそれが知りたいと?」
「御意。貴族たちをどこまでも尊重するかどうかでございます」
御意と頷きつつ、モーリスはちらり、とヤーナの表情に浮かんだ嫌悪の色を読み取っていた。ああ、と小さく口元を緩めながらモーリスは確信する。
随分と、面白そうじゃないか。素敵な予感があるとは、このことだ。
「さて、殿下のご存念やいかに? 貴族の意をくむのか、それとも敵対する覚悟があるのか。コモンウェルスの国王は市民によって推戴されるものです。その正統性はただ血統にのみ限るのではありませんぞ」
無限の王権は、市民の同意によってはじめて成立する。
王位継承者とは、まだ王ではない。王となっていないのであれば、制約付きの無限の王権ですら、王位を継承するまでは発動しえない。
故に、策謀の余地が残されている。
策謀の余地が残されているということは、モーリスにとって遊び場が残されているということでもある。
だからこそ、モーリスは知りたいと願うのだ。
ヤーナ・ソブェスキ。
この歪な才覚者がなにを思い、言葉を発するのだろうか、と。
「難しい問題ね。とはいえ、決断も必要か」
改めて、モーリスはヤーナの答えを待つ。
「一度しか言わないわ。良く聞きなさい……『クソ喰らえ』よ」
「殿下? よろしいのですか?」
思わず、と。
本当に、自然に。
モーリスはぽかんとした表情で訊ねてしまっていた。
「モーリス。私はね、セイムに期待していたの」
それは、分かる。
彼女は、ヤーナ殿下はセイムの実情を知らなかったのだろう。
モーリス自身も推測をつけているのだ。
なればこそ、セイムへ失望した、と語る声色の背後にある怒りも失望もある程度までならば理解はできる。
「セイムの大人たちがフランツを助けてくれるだろう、と。……お礼だって、そのためならばいくらでもしたわ。でも、それは順序が逆」
ヤーナの目を見つめれば、揺るぎはなし。
「フランツを助けもせず、危機にあっては傍観し、そして金の無心?」
瞳に映っているのは怒りと侮蔑の色。
「セイムという議会はクソの塊よ。期待するだけ、無駄と理解したの」
だが、とそこでモーリスは困惑する。政治的生き物として、せざるを得ない。
今迄羅列された言葉は、随分と率直にして直截な本音だろう。
結構なことだ。
それこそが、知りたかったことでもあるのだから……自分に不都合はない。けれども何故、彼女は『股肱の臣下』でもない自分へこのようなことを口にするのだ?
「貴族って、どこまでも自分本位なのよね? 私の大切なフランツのことを、どれぐらい真剣に考えてくれるかしら」
「殿下、青い理想論でございますか? われわれとて、コモンウェルスのことを思っておりますぞ」
咄嗟に舌を動かし、空疎な建前でヤーナの言葉を遮らざるをえないほど、モーリスは困惑していた。
ヤーナより、信を置かれるいわれが自分にないことは、モーリスとて理解している。
これまでの経緯からすれば、むしろ警戒されているほうが自然だろう。それが順当というものだ。許されるならば、声を大にして問いたいほどである。
何故、それを私が聞かされるのですか、と。
「建前はいいの。本音で話すわ。それとも、あなたは『議会の知性とやらを信じている』の?」
「……フランツ殿下に、不本意な思いなどさせたくないというヤーナ殿下のお気持ち。臣はよくよく理解いたしました。ですが……よろしいのですかな? セイムを信頼しないのであれば、行き着くところは非常に限られますが」
なればこそ、モーリスは困惑をぬぐえぬままに言葉を重ねる。
自分がヤーナ殿下の信を得ようと美辞麗句を連ね、懐に入り込んでいるのであればほくそ笑むこともできようが……直截な会話を交わすべき前提もない状況で親しくされれば戸惑いは恐怖にすら転化しうる。
「王権の強化。貴族のわがままを許さないだけの権限を強化、あとはそうね、弱体な中央政府を強化するのだから……嫌われるんじゃないかしら?」
……そこまで理解しているならば、という一言を飲み込むのも簡単ではない。
辛うじて自制したモーリスは、さらなる言葉が続けられるまで固唾を飲んで待つしかないのだ。
「叛乱も時間の問題かしらね。でも、モーリス。一つだけメリットがあるわ」
メリット、とつぶやく彼女は明日のランチを語るかのような気軽さだった。
「主導するのは、私。フランツじゃないの。フランツはすごくいい子だし、頭も悪くない。だけど、誰が見ても9歳児に決定権なんてないわ」
だからこそ、異常だ。
モーリスをして、咄嗟には理解しえない理論。
いや、気高い自己犠牲の精神とでも説明すればある程度までは理屈を付けられなくもない。ヤーナ摂政殿下がどのようにお思いであれど、世間一般では確かにフランツ王子をヤーナ殿下の傀儡とみなすことだろう。
それは、道理だ。
「君側の奸を除き王室の難を靖んずると名分がある。負けるつもりはない、でも、私が負けてもフランツは助かる見こみがある。なら、私は姉としてあの子の障害物を壊しておくの。理解できた?」
理解できるし、非常に納得もできる理屈ですらある。だが、とモーリスとしては心中で壮絶に混乱せざるを得ない。
やはりたった一つだけ、どうしても確認しておきたかった。
「……殿下、なぜ、それを私に?」
「はっ、面倒な男! 口に出さないと分からない? あなたのことだから、どうせ察しがついているでしょ?」
困ったことに、とモーリスは心中で苦笑して見せる。
実は、『わからない』のだ。
「さてさて、なんとも。ですが……戦乱をのぞまれるのですね? 下手をせずとも、内乱ですが」
「あなたは、のぞまないの?」
「無論のこと、のぞんでおりませんぞ。臣は、平和を愛するものですので。ですが、臣は王意にまつろうもの。御意を奉じるまでであります」
作りものの笑顔を張り付け、無意味な言葉を重ねつつモーリスは懸命に思考する。
なぜ、と問う疑念。
けれども欲の薄い人間の目的を読むのは、いつだって難しい。
「口元のにやつきさえなければ、信じそうになる言葉ね。結構、では、戦争の準備を始めましょう」
ぼつり、とそこで重ねられるのは決意だろうか。
「……面倒ごとというのは、一瞬で片づけてしまうに限る」
「それもずいぶんと率直なご意見です。……臣を信用なさるので?」
「いえ、まったく。だけど、あなたは勝ち目がない私にえんえんと助言を垂れるほど善良?」
「……おみそれいたしました。では、楽しむことといたしますか」
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