第3話 意地と矜持と爆発と
……目が覚めたのは、暖かい自分のベッドのなかで、だった。
乙女の繊細な体を包んでくれる心地よいぬくもりのなかで、あたしは蕩けるようにしばしまどろむ。
(んっ……)
少しずつ、目を開いていく。
窓辺に朝の光が差しこんでいる。
ときおり、カーテンがふわりと揺れるのが目にうつる。そのたびに、爽やかな空気がおだやかに頬をなでていく。
素敵なこれを感じたくて、夕べは窓を少し開けて眠ったんだっけ。
ゆっくりと深呼吸をして、清冽な空気を胸いっぱいに感じながら、耳を澄ませる。小鳥たちの愛らしいさえずりが、祝福するように聞こえてくる。
「あ……ふ」
口許を手の甲で隠しながら、小さなあくびをひとつ。
あたしは気怠げな声で、今朝もまた生まれ変わった新しい世界におはようをいうと、優雅にひとつ、うんと伸びをした。
ふと、ネグリジェの胸もとが寝乱れているのに気がついて、頬が少し熱くなる。
フリルのついた襟ぐりを掻き合わせながらしどけなく起きあがり、あたしはベッド脇のテーブルへ目をやった。
当たり前のように置かれたティーカップから、注がれたミルクティーの温かそうな湯気が立ち昇っている。
有能な執事が、いつもどおりに用意してくれたものだ。
はだけた胸もとを見られはしなかったろうかと思うと、少し羞かしい。
それでも、毎朝示してくれる忠節に感謝しつつ、カップにそっと指をからめた。
純金で縁取られたマイセンに口づけて、蜂蜜たっぷりの美味しいお茶を少しずつ干していくと、おなかの奥からやさしい温かみがじんわりと広がって――
なんてね。
世の中、そんなに都合よくは動いてくれない。人生の大半は理不尽でできている。奇跡が読みたいなら、聖書でも開けばいいわ。あたしは自分の力しか信じない。しょせんサンタクロースなんてこの世にいないのだ。
にしても、まったくもう、どうしてこんなに頭が痛むのよ。
そうだった……。あの固太りと楽しい商談を進めている最中に、誰かが後ろからあたしの頭をぶん殴ったんだ。ちきしょう! よくもやってくれたわね! 誰だか知らないけど、倍にして返してや……は、はっ……
「……くしゅん!」
ぶるっ、と体が震えた。
ここはなんだか寒いわあ。あたしの暖かいベッドはどこだろう?
「目ぇ覚めたかい、ねえさん」
しわがれた声が、指先でたぐっていた暖かいベッドを消し去った。
代わりに、冷たい現実の気配がどろどろと押し寄せてくる。
あたしはずきずき痛む頭に、顔をしかめながら目蓋を開いた。
「……あら」
つい、そんな声を上げてしまった。
シャンデリアで明るい部屋のなかである。最初に目にとまったのは、H会の代紋だった。大きな木の板に墨書したそれが、あたしの正面の壁に掲げられていた。
壁ぎわには、ガラの悪そうなお兄さんたちがずらりと並んでいる。一目でその筋と知れる凶悪な面構えが、嘆かわしいのを通り越してもはや微笑ましい。
精一杯あたしを怯えさせようなんてがんばらなくていいから、そのへんのコンビニでお弁当でも買ってきてちょうだい。お小遣いあげるからさ。あ、サラダ付けてね。
代紋の下にはマホガニーの執務机があり、その向こうには頭の禿げあがったおっさんがひとり座っていた。歳は五〇がらみだろうか。
どうやら、さっきの声はこの禿げ頭のものらしい。
いうまでもなく、あたしはうんざりした。たおやめを目覚めさせるのは、素敵な王子様と相場が決まっているんじゃなかったの? こいつのどこを押せば王子様がでてくるのよ。まさか、着ぐるみだなんていうんじゃないでしょうね。
ただこのおっさん、絶滅し果てた毛根とは対照的に、眼光が異様に鋭い。蛇のような目つきである。ヤクザ人生がよほど長いんだろう。
どうやら、こいつがここのボスとみて間違いなさそうだ。
翻ってあたしはといえば、部屋の真ん中のソファに座らされていた。
ウィッグはどこかへ失せてしまい、手荒く運びこまれたのか、せっかくの高価なドレスが鉤裂きになっている。でも脱がされてはいなかったので、操のほうは無事らしい……まだ。
あたしは、なおも痛みの残る後ろ頭をさすりながら、あらためて正面へ向きなおった。
執務机の上には、『ビアンカ』のロッカーへ入れておいたあたしの一張羅、それにシグサワーがあった。飛び出せばつかみ取れそうだけど、ここでがっつくのは淑女さまの名が廃るので遠慮しておいた。
きっと手をのばしたとたん、鉛弾をいやってほどご馳走されるだろう。あたしはダイエットしているのだ。
「女の持ち歩くモンやないな」
おっさんはシグサワーを手に取った。
「なかなか、ええ
……鉄砲玉?
「なんか勘違いしてない、あんた?」
「なんじゃあ! 若頭にたいして、その口のきき方ぁ!」
壁の花ならぬ岩がひとり、のしのしと出てきて、あたしの二の腕をぐいとつかんだ。
「痛ッ! ちょっと、あんた女に何す――」
「何さらすんじゃい、われっ」
――意外にも、その岩みたいな男を制したのは、若頭と呼ばれた目の前のおっさんだった。
低く太くドスの効いた、ぞっとするほど冷えた声だ。
「わしは、このねえさんと話しとんじゃ。われはすっこんどけや、ガキゃ」
そういわれて、とたんにその岩男はあたしの腕を放した。
おっさんにぺこぺこと頭を下げながら、あわてて列に戻る。
(へえ、これは)
あたしは感心した。あんな図体をした男を、よくもこれほど怖がらせるものだ。それだけ、このおっさんには統率力があるということか。
構成員への指導は行き届いているし、しつけもきっちりしているらしい。武闘派の組織だもの、上に立つ者はそれくらいの力量がないとね。
でも……と、あたしは思った。それなら、なおさらここで白旗を揚げるわけにはいかない。
思いがけず虎口へ飛び込むことになったけれど、まだチャンスは残っている。どのみち、天童を引き渡せといったって素直に応じてくれるはずもないだろう。
それなら代わりに、このおっさんからどれだけの情報、あるいは妥協を、引き出せるかが鍵だ。
あたしは、ふん、と鼻を鳴らしてから、
「あたしが“戦争”のきっかけでも作りにきたと思ってるの?」
「ちがうんかい、ねえさん」
若頭――このおっさんのどこらへんが「若」いのか、あたしにはよくわからなかったけれど――の視線は、人間もこれほどの目つきをすることができるんだな、としみじみ思うほどに鋭かった。
さすがに、壁の雑魚どもとは年季がちがう。ベテランの重みというものか。
やるじゃない、禿げのくせに。
「あたしは、ヤクザは嫌いでね」
脚を組み替え、ソファにかけなおす。
「そのお先棒担ぎなんて、誰がするもんか。あんたんとこの組員のひとりに、用があるだけよ」
「……天童、やと?」
若頭は壁を一瞥した。
つられて、あたしもそちらのほうを見た。
あら?
「あんた、化粧室であたしがしばいた固太りじゃない!」
痛々しくも頭に包帯を巻いたH会幹部のひひ親父は、若頭へ返事をしてから、あたしに燃えるような瞳を向けた。よもやそれを愛の視線だと勘違いする馬鹿はいるまい。脂ぎった汚い顔が、怒りでどす黒い赤に――つまり、ますます汚く――なっている。
「天童になんの用や、ねえさん」と若頭。
一瞬考えたが、ここは正面から切り出すことにした。
「ちょっとした契約の執行さ」
「契約やと?」
「フランドル銀行が、返してほしい、ていってるのよ」
噛んで含めるように告げる。
「天童がだまし盗ってくれた、二十億円をね」
壁がざわついた。二十億円、という言葉が効いたらしい。
互いにめくばせしたり、小声でなにやら囁きあっている。
「ふふん。意外とちんまりしてるのねぇ、この組は」
たっぷりと皮肉を混ぜて言ってやった。
若頭があたしをねめつけた。怒ったというより、こちらの真意を推し量っているふうだった。あたしも、負けじとにらみ返す。
緊張が高まるのを察したのか、壁のざわめきが消え失せる。あたしは一歩も退かなかった。
これまで仕事の成り行きで、何度かヤクザとぶつかったことがある。その経験から、学んだことがひとつ。
それは、この手の人種には絶対に弱気を見せちゃいけない、てことだ。
間違っても、哀れみを乞おうなんて考えちゃだめだよ。どれだけ意地を張れるかで、生死が別れることもあるんだから。
そして今のあたしは、そのどちらにでも転がり落ちる、際にいた。それだけは確かだった。こいつらのなかで、この若頭だけがあたしの生殺与奪権を握っている。
だから、こいつとは正面切って闘わなきゃいけないのよ。
ずいぶん長い時間が過ぎたような気がしたけれど、実際には二十秒足らずだったろう。
「……天童は、ここにゃおらん」
若頭は、ようやく重い口を開いた。
「もう十日ちかく、連絡がとれん。身をくらませてもうて、行方がつかめんのや……わしらも、奴を捜しとる」
☆
こいつ、今なんていったの?
ええと、天童はここにはいなくて、自分たちも行方を捜している、と。
で、あたしは十日間(と思うけれど、どれくらい気絶してたんだろう?)張り込んで写真撮って尾行してお酌して、「あなた筋がいいわ」とか店のママに誉められて、その苦労はすべて天童の身内であるこいつらから奴の居場所を聞き出すためだった。
ということは、つまり……
……なんだってぇ!?
「ちょ、ちょっと! それってどういう――」
「若頭!」
あたしの驚声は、壁の悲鳴にかき消された。
「お前らは口をはさむな、あほんだら!」
若頭が鋭く一喝する。
それから、あたしへ視線を戻した。
「あのボケ、うちの戦争道具持ち出して、そのまま姿くらましよったわ……いったい何を考えとんじゃ、あのクソガキゃあ……」
苦々しげにつぶやく。いや、くらましよったわ、じゃないでしょうが。
「……拳銃かなにか持って、この組からトンズラしたっての?」
あたしは呆然と若頭の顔を見返した。この若頭は嘘をいっていない、と直感したからだ。
天童はH会の若頭補佐、つまりこの若頭の直接の舎弟にあたる。それが突然失踪し、兄貴分の自分にも行方がつかめない、それどころか消えた理由さえわからないなんてみっともないことを、おいそれと外部の人間にいうはずがない。彼らは、なによりもまず面子を重んじるのだから。
逆をいえば、それをあえてあたしに告げたということは、それが事実に他ならないということを意味する。見つけられないでいることも、事実なのだろう。
あたしはショックのあまり、体じゅうの力がへなへなと抜けてしまいそうになった。
まさか、天童が組から失踪していたなんて。それに気づかずにいたなんて。
じゃあ、じゃあ、あたしの、この十日間の努力は……
尾行だって、睡眠時間も削ってあんなにがんばって……
一流ホステスらしく魅せるための練習だってしたし……
あのひひ親父に胸まで触られて……ドレスの上からだったけど。
第一、クライアントの示した期限まで、あと四日しかないのよ? 捕まえられなかったら、誰が責任取るっていうの!
……やっぱり、あたしだろうなあ。やだなあ。使っちゃった経費の二百万円、どうしよう。ううっ。
「そないなケチなモンやあらへん」
と若頭は忌々しそうにいった。一瞬、あたしの努力と金銭感覚にけち付けんのかオッサン、と思った。
「前に、ロシアから仕入れた上物や。買付や密輸になんぼかかったか。それをごっそり持っていきよって。……ようできる奴やと特別に目ぇかけてやりゃあこの始末や。若い奴ぁあかんのぅ。仁義を知らんわ……わしから見たら、まるで別の生きもんやで……」
若頭はそこで黙り込んだ。
なるほど。なんでこんな所に気絶したままのんびり座っていられたのか、やっとわかった。組の戦争道具とやらを持ち逃げした天童を捜している武装した女がいる、てことで、この若頭の興味をいたく引いたらしい。
あるいは、天童を見つけだすための糸口にもなりうる、と踏んだんだろう。
もしかして、組長相手に詰め腹切らされる立場なんじゃないの、こいつ。
「……ところで、わしは以前聞いたことがある」
若頭が、うっそりとつぶやく。それまでとは雰囲気ががらりと変わっていた。
あたしは本能的に身構えた。ぞくり、と背すじを冷たい嫌なものが走った。
なんだかヤバイ! と勘が叫んだのだ。
「最近のシロウト企業は、妙な連中に仕事頼むことがあるそうやな。わしらみたいな極道とは違う奴らや。しかもそいつらのなかには、民警とつるんどる奴もおるそうやないか。
……われかて、なんで拳銃なんぞ持っとるんじゃ。さっきわれ、“戦争”に来たんやない、言うたな。……二十億はたしかにデカい金や、われの言うたのがホンマの話やったらな。
……せやけど、言うたらただの取り立て、シノギのたぐいや。なんでシノギで、拳銃持って極道もん襲わなならんのじゃ。
われ、いったい――」
と、そのとき。
シュン――そんな音が、窓外から聞こえた。
爆発音! 床から突き上げるような激震が、部屋に襲いかかった! 窓ガラスがバシンと音をたてて割れ飛ぶ!
「な、なんじゃ!?」
壁のひとりが、あわてて窓へ駆け寄った。ブラインドの隙間から外をうかがう。
シュン――ふたたび空を切る音。背すじを逆撫でする音、危険な何かが突っこんでくる音! あたしは絶叫した。
「伏せてえ!」
ソファの背に隠れるのと、音源が突っこんでくるのとが同時だった。
ドグァッ!!
天井が爆発した! シャンデリアが一瞬で砕け散り、壁の男たちが薙ぎ倒された。ソファがズタズタに裂ける。
「ぐうっ!」
あたしの体は爆圧に嬲られ、床へ叩きつけられた。
胸がぺしゃんこになるかと思った。
でも、爆発そのものは一瞬で終わる。衝撃がおさまったのを確認して、あたしはすぐにあたりを見回した。
部屋の灯りはすべて消え失せ、赤い炎が室内をゆらゆらと彩っていた。窓のブラインドはきれいに吹き飛び、外の景色が見て取れる。夜のビル街だ。
部屋のくわしい惨状については、自分で想像するように。なぜなら、室内を赤く染めているのは、炎だけではなかったからだ。あたしはヤクザだけでなくグロいのも嫌いである。ましてやグロくなったヤクザなんて見たくもない。
そのとき、またあの音が聞こえた。とっさに頭をかばい、床へ伏せる。
ドン!
床から、突き上げるような衝撃! 体がふわりと宙に浮いたほどだ。すぐ下の階が攻撃されたに違いない。
それにしてもこれは? ミサイルでも飛んできたの?
床へ落ちると同時に、窓へ駆け寄った。
「どこよ!?」
外をのぞくと、風が耳元でゴッと唸る。あたしは地上四階から街を見下ろしていた。
ビルの前を走っていた車が玉突き衝突を起こして、ドライバーたちがふらふらと車外へ出てくる。対岸の歩道は、このビルの傍から逃げ散る人たちと、離れた所から何事かと集まってくる野次馬たちがぶつかりあって大混乱だ。
視界の右端で光がきらめく。はっと目を転じた刹那、火線が下階へ飛びこんできた!
「あそこかっ」
下階の爆発でビルが揺らぐ。振り飛ばされないように必死で踏ん張ると、足の裏にぬるっとした生温かい感触があった。
……ああ、思わず見ちゃった。あのひひ親父だ。ひひ親父だったものだ。
成仏しなさいよ。ちょっとだけ祈ってあげるから。
それにしても、これはいったい何事なんだろう? と、あたしは死体から意識をひっぺがして考えようとした。H会が攻撃される理由がわからない。どこかの対立組織による、新たな抗争劇の幕開けなのかどうかも。
はっきりしているのは、これが逃げるのに絶好のチャンスってこと。
あたしは即座にとって返し、床へ散らばった一張羅をひっつかんで部屋を飛び出した。
いや、飛び出そうとした。
あたしの動きを押し止めたもの。――それは、刀の切っ先のように鋭い殺気だったのである。
肌があわだつような感覚を覚えながら、ゆっくりと気配の突き刺さってくるほうを見やる。
「おっさん……!」
若頭が、こちらへ銃口を向けていた。あたしのシグサワーを!
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