第2話 いい男が嫌いな女子なんていません
H会の事務所は、瀬戸内海に面した港湾都市にある。
この地域は重工業が発達しているそうで、臨海部には日本でも有数の石油化学コンビナート群を擁している。地方都市のなかでは規模も大きく、日本の人口集積地のひとつでもある。
そこを拠点とするH会も、けっこう大きな組織だった。
大戦後の混乱に乗じて勢力を拡大し、隣接する市域を含めた州の行政経済の中心部を根こそぎ支配下におさめている。近隣組織との抗争も辞さない武闘派で、なかなかに有名らしい。
とはいえ、やりすぎれば民警が一斉摘発に乗りだしてくる。民営化されたとはいえ、反社会的組織への彼らの姿勢は戦前と変わらず厳しくて、おまけに銃火器使用規定は戦前と比べてかなり緩い。いったん主敵認定されたら、さぞや後悔させられることになるだろう。
だから、周囲の対立組織は踏みつぶしつつも、民警との衝突だけは避けようとして、バランスの取り方に苦心しているのがH会の現状、というわけね。
いまどきの暴力団は、たいていそうだけど。
☆
「いらっしゃいませ」
新しい客が、嬌声と酒の匂いに満ちた仄暗い店へ入ってきた。
ボーイがすかさず傍に寄り、客の襟元へ手をまわして丁重に上着を脱がせる。身軽になった客は、そのままボーイに案内されてボックス席のソファへと腰を沈める。
すかさず隣へ侍るのは、きらびやかな夜の女たちだ。
艶めかしいその身を包むのは、店の内装に溶け込むような光沢のあるシックなドレス。あるいは、はんわりと華やいだピンクにきらきらとしたスパンコールつき。いずれも、背中は大きく開いている。
香水は、欧州製の高級品をほんの少量、さりげなく。
濃く引いたアイラインや真っ赤なルージュは、女をひきたたせ、妖しく魅せる……照度を落とした店内だから。ここはある種の異空間なのである。明るく健康的な太陽の下で見たら、このお客たちはひきつけ起こすんじゃない?
と、それがこの都市一番の繁華街にあるキャバレー『ビアンカ』の情景。
そして、その女たちのなかに、あたしはいた。
もちろん、素顔のはずがなかった。金髪ロングのウィッグと濃いめのメイクで雰囲気を変えてある。もともと化粧の濃い女たちの職場だから、これで少しもめだたない。
服だって、普段と比べるととってもドレッシーで、油断するとちょっと気恥ずかしくなりそうだ。そろそろ慣れてはきたけれど。
今回の依頼を引き受けてから、早や十日。この店に潜りこんでからは四日が過ぎていた。グラスへ酒を注ぐ手つきも、見栄えはよくなってきたと思う。いやあ、練習の甲斐があったわ。
「ゆかりちゃん、あちらのお客さまをお願いね」
「はい、ママ」
高価そうな友禅の着物に身を包んだ店のママからそっと耳打ちされ、あたしは接待していた若手の税理士に会釈をして立ち上がった。
ちなみに、ゆかりというのはあたしの源氏名である。
「ええー、ゆかりちゃんもう行っちゃうのぉ? もっとお話しようよう、ねえ」
「ふふ、ごめんなさい。どうぞまたいらしてくださいね」
酒が入ってすっかりいい気分になっているらしく、小太りの身をイヤイヤと見苦しくよじる男へ、聖母のように微笑んで軽く手を振ってみせる。ははは、子供かお前は。
あたしは顔を見られないように後ろをむくと、やれやれとため息をついた。やっぱりろくな男がいやしない。
(まあ、こういうお店にいい男なんて、来るはずないか)
いつだって理想と現実はちがうのだ。お砂場で宝石を探していてもしかたがない。お仕事なんだから、割り切っていこう。
あたしは気持ちを切り替えると、七分がた席が埋まってやや騒がしい店内をしなしなと横切り、新たなテーブルについた。羽振りのよさそうな三人連れの熟年リーマンたちへにっこり笑って、ご機嫌を取り始める。
あたしが何でこんな処でこんな真似をしているのか。べつだん、趣味でやってるわけではない。こんな酔狂なことを誰が趣味でやるものか。
あたしは、ひたすら待っているのだ。
お仕事には、それなりの手順というものがある。まず始めにやらなきゃいけないのは、H会を監視下において、天童の行動パターンをくわしく調べ上げること。仕掛けるのにふさわしい場所を選ぶためだ。まさか組事務所へ直接乗りこむわけにもいかないし。
そんなわけで、この街に入ったあたしは、さっそく組事務所ビルの監視を始めた。
けれども奇妙なことに、あたしが組事務所を見張っている間、天童はちっとも姿を見せなかったのだ。
これにはあたしも戸惑った。いったいどこへ行ったんだろう。まさかヤクザがリフレッシュ休暇をとった、なんてことはないよね。
いずれにせよ、居所をつかまないことにはお話にならない。それで、あたしは張りつくのをやめて、つぎの策にうつった。組員から天童の居場所を直接聞きだすのだ。
それには組員――それも幹部――の身柄をひとり、押さえる必要がある。
あたしは組事務所ビルに隣接したワンルームマンションのなかから、スーツの襟にバッヂを付けた男たちの顔写真を撮りまくり、夜になると尾行の日々を送ることになった。彼らがよく利用する店の目星をつけるために。
店はいくつかあったけれど、いちばん規模の大きなところが、この『ビアンカ』だった。
で、あとは『ビアンカ』に新人ホステスとして就職希望をした、というわけ。
ここまでするのにかかるのは、時間と根気、あとお金。この十日間で、あたしはすでに二百万円以上の経費をかけていた。もらった札束がふたつ消えた勘定だ。毎度のことだけど、この次からはもっと安くあげたいな、と思う。
なぜなら、報酬以外のお金をクライアントはけっして支払ってはくれないから。つまり、仕事にかかる経費の一切は自腹なのである。
だからしてあたしら賞金稼ぎは、経費をかけすぎて赤字にならないように、また仕事に失敗して前金を返さなくともすむように、ほどほどかつ確実にがんばらんといかんのだ。
ゆえに、あまり無駄づかいはしたくないんだけど……しようがない。元を取ることを考えよう。
そのためには、ちょうどいま店に入ってきた客だ。
あたしは、ネクタイを頭に巻いてすっかりでき上がっているリーマンたちへ別れを告げると、目当ての男にそつなく歩み寄った。
「いらっしゃいませ! こちらのお席へどうぞ、素敵なおじさま!」
我ながら寒気のするセリフである。ボーイに、この人はあたしが引き受けるよ、とめくばせした。ボーイは納得して戻っていった。
「おう、ねえちゃん、初めてみる顔じゃねえか。歳はいくつだ?」
素敵なおじさまであるところのH会の幹部の中年男が、あたしにきいた。……この固太りのひひ親父! 脂ぎった面して、女に歳をきくなっての!
「えへ、一八歳です。先週入ったばかりなんです。よろしくお願いしまーす」
あたしは軽くおじきをすると、相手の気を引くために、とっておきの天使の笑顔を浮かべてみせた。舌先を小さくぺろっと出す合わせ技で、甘えた雰囲気をつくる。媚び媚びである。
それから男につづいて、体を密着させるようにソファへと腰をおろした。
じつは心のなかでも舌を出していた。ふん、四捨五入すれば……しても二〇歳か……いいじゃない、少しくらいサバ読んでも!
「そうかそうか、一八歳か。さすがに初々しいねえ」
えっ。
一瞬、絶句した。
……このあたしが……
初々しい……
……って、いったの?
お、おう……いや、たしかにできるだけ可愛らしく振る舞ってはみせたわよ、みせましたよ。天使の笑顔だって鏡の前で何度も練習しましたよ、うん。
でも、それがこんなに効果的なんて。こうも素直に認めてもらえるなんて。
これまでの人生でけっこう削れてしまった乙女心が、ふわりとやさしく揺さぶられた。
なんだか、無くしていた大切な宝物をようやく見つけてもらった気がする。こいつ、もしかして善人なの? ちょっとくらいなら、ほんとにサービスしてあげようかしらん。
男はソファに浅くかけていた腰を奥へずらし、ぐぐっと股を広げた。
ふたたび口を開く。
「よし、気に入った。こっちきな、ねえちゃん。特等席用意したぞ」
ぐしゃ。
宝物を目の前で握りつぶされた音だ。おい!……このドあほぅ……まさか、そこへ座れっての!? 何が善人なもんか、この助平じじい!
だがしかし、これも赤字を出さないためである。あたしははげしく――コンマ三秒ほど――葛藤したが、結局、
「えへへ、ごめんなさい、ありがとうございます、失礼しまーす」
と、甘え声で(ああ気色悪い!)男の股間へと腰をおろした。
あたしの名誉のためにいわせてほしい。別にあたしは、お金に目がくらんだわけではないの。あたしは、プロなの。プロフェッショナル。ユーアンダスタン?
この程度のことであたしの崇高な魂は小揺るぎもしないし、これで相手の懐に入れるのなら、安いのを通り越して全品売り尽くしのバーゲンセールである。なにより、これ以上必要経費を増やしたくない。
ただし、あとでたっぷりとお礼をして差し上げるつもりだが。それとこれとは話が別だ。あたしはそこまで優しい女ではない。
それにしても、お礼をしなきゃいけない男が増えるばかりなのは何の因果か。
「名前はなんていうんだ、ねえちゃん」
すっかりいい気になったこのひひ親父は、いやらしい笑みを満面にへばりつかせながら訊いてきた。ごつごつした掌が、あたしの自慢の(コンプレックスもある)胸をまさぐる。
とたんにぞわぞわぞわっと鳥肌がたった。あたしの健気に育ったわがままバストに何さらす。死にたいのかオッサン!
もうひとつ、断っておこう。じつはこれがあたしの本性で、ってそんなわけあるか。
これはいうなれば、女の本性なのだ。愛する男には心から甘えよう。なんでも許そう。情熱的に身をまかそう。だがこういう男は簀巻にして、そのへんの一級河川に蹴り落としたくなる。
とはいえ、崇高な魂の持ち主であるあたしは必死に念じた。
(お金、お金、二億円)
豊かな経済力は人を心安らかにする。あたしは妄想から立ち直っていた。
「ふふ、ゆかりですぅ。よろしくお願いします、おじさま」
はい、天使の笑顔、いま追加入りましたー。
「そうかい、ゆかりちゃんか。可愛いねえ。よっしゃ、おじさんが社会勉強させたるで。こういう事する男には気ぃつけた方がええぞぉ、ほれ!」
「きゃっ、おじさまってば、おイタ――」
☆
「――してンじゃないわよ、このエロ爺ェ!」
あたしは、ハンドバッグに隠し持っていたシグサワーの銃尻で、男のこめかみをこれでもかと殴りつけた。
男は、「ぎゃっ!」とかなんとかいって頭から血を吹き出しながら、便座の上に倒れた。
なぜに便座なのか? それは、ここが男性用化粧室の個室だからである。なんとこの固太り野郎、他に誰もいないのをいいことに、こんなところであたしをコマそうとしやがったのだ。
たしかに、こーゆー場所でイタす奴らもいるだろう。なかには、こーゆー場所の方がいい、なんてバカもいるかもしれない。けどあたしはちがう。
そりゃ、あたしから誘った分も、あるにはあった。
「ねえ、おじさま。店がひけたら、少しつきあって下さいません?」
そっと耳打ち。あーもう、耳掃除くらいしなさいよこいつ。
「私、おじさまみたいな人、タイプなんです。とってもタフそう……さっきから、なんだか身体が熱くて……」
そんなおぞましいセリフを口にしたのが、十分ほど前である。
でも、それはあたしをホテルにでも連れていくだろう、と踏んでのことだった。いい気になってシャワーを浴び、劣情とよくわからないしわかりたくもない期待感ですっかり無防備になった男へシグサワーを突きつけ、見たくもないモノからは極力目をそらしながら、大胆かつスマートに用件を済ますつもりだったのだ。
それを、このひひ親父はっ! あたしはこれでもムード派なんだ!
「女はね、もっと段取りを大切にすんのよ! いきなりトイレでこまそうってぇ? あんた、女と男の間をなんだと思ってんの!」
「な、なら、段取りを踏めば抱かせるのか?」
この期に及んでこの思考。あたしは爆発した。
「あんたみたいなエテ公に誰が好きこのんでカラダ許すもんか、この唐変木! つまらん冗談こねてるとその足りない頭ふきとばすよ! それとも生まれ変わって出直してくる!?」
あたしは男の頭を床に押しつけ、こめかみに
「質問に答えなさい! 天童昭彦はいまどこにいる?」
「て、てめえホステスじゃねえなっ……どこの組のもんだ……!」
いかにもヤクザが吐きそうな台詞である。しかし、ようやくそこに思いが至ったのか、おまえは。
「あいにくね、どこのもんでもないわ。天童に用があるだけよ。奴はどこなの!」
「へっ、女がおもちゃ振りまわしやが――」
銃口をずらし、男の眼前の床へ一発撃ちこんでやった。
ボゴッ、と小さな穴が空く。
「……げぇっ」男が目を剥いた。
「さあ、これが最後のチャンスよ」
あたしは一転して無感動にささやいた。
「唄うか死ぬか、いますぐ選びなさい!」
――あたしを怖い女と思った人へ。いやいやいや、これはあくまで演技よ、演技。あたしはそんな血も涙もない女じゃない。自分でいうのもなんだけど、あたしは優しい女なんだ。信じなさい。
いいから信じなさい。信じるのよ。疑問とか感じなくていいから。
でも、やられるほうは確かに怖くてたまらないだろう。返答次第じゃ、いつ頭が吹き飛ぶか知れたものじゃないんだから。
そう思うと、なんだか悲しくなってきた。
いくらヤクザとはいえ、人がこんな恐ろしい目にあっていいものだろうか? だって、この男はただ少しばかり楽しみたくて、今夜『ビアンカ』へ足を向けただけなのに。
いわばこれは偶然に近い、ささいな運命の行き違いなのだ。別にこの男でなくてもよかったのである。この男だって、まさか今夜自分がこんな目に遭わされるなんて、想像もしていなかったにちがいない。
まったく、そう考えるとなんて哀れな男だろう。世の中って、どれだけ悲しくできているのかしらね。あんたに同情するよ、心から!
あたしは同情のあまりつい、ぐりぐりぐり、と銃口を押しつけた。
しかし、このまま撃たせてくれると、社会のダニが一匹減ってみんなハッピーになれるのでは?……一瞬、ハクジョウシテモウッテシマオウカ、という蕩けるような蜜のような、蠱惑的とさえいえる甘い官能が心と体を熱く切なく焦がした。
うふ。ふっふ。この指、この指にもうほんのちょっと力を込めれば。
だから冗談だってば。
「天童はどこにいるの? お・じ・さ・ん」
なぜか浮かびそうになる、むやみに楽しげな笑みを必死に押し殺しつつ、いよいよ銃口に重みを加えていく。
すると、
「俺が教えてやるよ」
その言葉は、意外にも扉のほうから――つまり、まったくの背後から――聞こえた。
「!?」
あたしはあわてて振り向いた。
でも、間に合わなかった。後頭部へ痛烈な一撃! 目の前に火花が散り、ついで真っ暗になった。
あたしは、そのまま意識を失ってしまったのだ……。
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