妙子の事件簿
白井鴉
第1話 よくわからないものとの邂逅
「
ネオンの灯が薄くこぼれるだけの暗い路地裏で、男にそう声をかけられたとき、なんて返事をすべきだろう?
「いいえ、人違いですわ」
は、通用するまい。こういう場面でこの手のセリフを吐く輩は、なぜか人のいうことを信じてくれない。
「おっと。これは失礼、美しいお嬢さん」
なんて受けてくれるのは、麗らかな春の並木道での話である。そして少々しゃくなことに、あたしはあまりそういう処に縁がない。街の晴れやかな表舞台は、ネクタイを締めた男と、ヒールを履いた女のものだ。
じゃあ、純真そうにきょとんとして小首をかしげ、「?」てな顔でやり過ごす、というのはどうだろう。少なくとも数瞬は間を外して、相手の隙を狙うこともできるんじゃないかしらん。
この暗がりで、あたしの表情が見えていれば、だけど。
埒もない思考だなあ、と我ながら思う。まあいいや。またあとで考えよう。どうせもう間に合わないし。
なぜなら、声をかけられた瞬間、あたしの右手はすでに折りたたみナイフを握っていたからである。つい、やってしまったのだ。いわゆる条件反射ってやつ。あと十メートルも歩けば、きらびやかな夜の街へ出られるというのに。
街はいい。人の熱気があふれてる。とくに夜の繁華街は、なんにもなくとも歩いてるだけで気分が高揚してくる空間だ。このところ少し暇だったあたしは、いつものように夜の街へくりだそうとひょこひょこ歩いていた。
なのに、とつぜん世界を隔てるように立ちふさがったこの男はなんなの。
他人様の楽しい私生活を邪魔スンナ、と軽くいなしてやりたかったけれど、あいにくあたしの玉のお肌には緊張が走りまくっていた。
ただの男なら、このナイフには気づくまい。なにしろ暗いし、抜くのにあたしは一挙動も起こしてないもの。仮にまじめな観察者がいたとしても、
「ああ、瞬きするまではなかったのに! いったいどうやって? まるで魔法のようだ!」
とかいうに決まってるんだ。これはあたしだけができる手品なんだから。
でも、男はどうみても“ただ”ではなさそうである。
相手の意図や技量もわからないのに、敵対行為は取りたくなかったな。……けどまあ、しようがないか。ここはひとつ、シリアスモードで。
「あんた誰よ」
硬い声で問いながら、表通りからこぼれる光を背にしたシルエットを確認する。
ずいぶん背が高い。あたしより頭ひとつ分はとび抜けている。あたしの身長が一六三センチだから、一八五くらいだろうか。
といって、ひょろりとしているわけではなく、スーツにつつんだその身体の胸板は厚いし首も太いし、ただ立っているだけなのに威圧感たっぷりだ。その辺で群れてる坊やたちなら、五人くらい束になってかかっても一分で皆殺しにされかねない。
年齢は、声の感じからして三〇代半ばくらいだろうか。
「俺の名前に、この際あまり意味はない。……が、
あたしの警戒心が強まるのを感じとったか、男はようやく自己紹介した。どうせ偽名よね?
「……それで? サインでも欲しいの? だったら色紙でも持っておいでよ。でないとあたしは書かないよ」
「君の右手にあるのが、サインペンとは思えないが」
桧山は薄く笑ったようだった。やっぱり見抜いてたか。
「そう警戒しないでもらいたいな。俺は君の敵ではない」
「そういう男が、いちばん油断ならないのよ」
あたしはゆっくりといい放った。
とはいえ、殺る気ならとっくに何かしているだろうし、穏便に済むのならあたしとしても大歓迎だ。
というわけで、おとなしくナイフを畳み、しまいこんだ。ジャケットの内ポケットへ。本当はもっと別の所に隠してたんだけど、そこへ収めなおすとこっちの手の内が読まれてしまう。
ただ、話がこじれたときのために反撃の用意は必要だ。あたしはナイフをしまうついでに、懐へそっと指をやった。ホルスターに収めたシグサワーP220のセイフティを外しておく。
いちおう説明しておくと、シグサワーP220っていうのはスイス製の自動拳銃だ。9ミリパラベラム弾を九発装填できる。もっとも、ナイフがメインのあたしにとっては、あくまで
「どこの誰だか知らないけど、とりあえずの礼儀は心得てるみたいね。何者なの?」
「君に仕事の依頼だ」桧山は、唐突に本題へ入った。
「仕事?」
おや。あたしは眉をひそめた。
「ふうん……でも、ただ依頼にきた男ってわりには、ずいぶんといい体してるじゃない。そんなスーツ着てるより、防弾服のほうが似合ってそう。
「君の実績には目を見張るものがあるよ。だからどんな人物か、この目で確かめてみたかった」
「それはどうも」
あたしは肩をすくめて見せた。
服や銃については軽くかまをかけたつもりだったんだけど、名前以上の自己紹介には応じないってことらしい。
「ターゲットの資料は、もう君の部屋へ届けてある。前金もな。部屋のテーブルの上を見るといい」
「なっ……なんですって!?」
とつぜんの思いがけない言葉である。ていうかちょっと、あたしの部屋へ届けたってどういうことよ!
「あたしの居所知ってるっていうの? あんたなんて、住所教えた覚えも招いた覚えもないんだけど!」
「期限は二週間、それがクライアントの条件だ」
あたしの問いはきれいに無視された。こいつっ。
「それ以内に対処できなければ、この案件は別の者にまわす。連絡先は資料にある。詳しいことは目を通してくれ」
それだけいうと、もう用件は終わったとばかりに、桧山はあっさりとあたしに背を向けて歩きだす。
だが、ふいに足を止めて振り返った。
「そうそう、もうひとつ。……今回の対象は『特異者』だ。気をつけたまえ」
最後に鋭い目つきであたしを値踏みするように見ると、桧山は今度こそ路地裏を出ていった。
つい、と角の向こうへ消える。
「『特異者』?……ちょ、ちょっと待ってよ! あんた、まさか勝手に他人の部屋に……!」
あたしはあわてて跡を追い、角を曲がった。
でもそこには、表通り特有の人混みと、街の喧騒があるばかりだったのだ……。
☆
あたしの名前は、
髪はショートボブ、普段着はタンクトップの上に着古したジャケット、それにスラックスというラフなスタイル。活動的なあたしには、このカッコがいちばん肌に合う。
スリーサイズは、上から九二、六〇、八六……とこういうと、男どもはたいてい一番上の数字に色めき立つ。街を歩くと、男はかならず振り返る。ときどき、女も振り返る。うらやましげな、あるいは敵意のこもった目をして。そんな視線を向けられるたびに、あたしは、
「しようのない連中よね。もう少しお行儀よくしたらどう?」
と、内心肩をすくめるのだ。
……んー、まあたしかに、我ながらよくぞここまで育ったもんだ、と思わなくもない。なにしろ胸のサイズでわびしい思いをしたことなんて、我が身を女と意識して以来一度もないもの。雨にも負けず風にも負けず、健気に発育してきたわが胸が愛しく思える今日この頃である。
こんなこと言うから、妬ましげな目で見られるんだろうけど。
でもさ、大きいのは大きいなりに、いろいろ悩みもあるんだよ! サイズにあうブラは高いし、デザインは悪いし、肩は凝るし、手入れは大変だし、馬鹿そうに見られるし、電車に乗れば痴漢はでるわ服を買えば胸もとはきついわ、走るには邪魔になるわでもう――あたしはねぇ! 別に好きこのんで――本当は八五くらいで止まってくれりゃ――
閑話休題。
出身は東海州だけど、幼い頃からあちこちを転々とする生活だったので、これといって思い入れはない。思い出も、ほとんどないし。けっこうあちこち流れながれて、落ち着いたのがこの街、というわけ。
と、ここまでならよくある話だけれど、じつはあたしのお仕事は、少し特殊なのである。
『賞金稼ぎ』――というのがそれだ。
まだこの国が平和だった頃、犯罪者と闘うのは警察の仕事だった。
でも今はちがう。二一世紀に入って初めて経験した大戦が、この国のありようをすっかり変えてしまったのだ。
弾道ミサイルとテロにより、大都市や官民の基幹施設をかたっぱしから狙い撃ちにされて十数年がすぎた。だけど、この国はまだ完全に立ち直っていない。戦争被害による経済力の低下と復興資金調達のために、元から大赤字だった政府財政は完全にパンク、統治機構の大規模なリストラに入らざるを得なくなった。
じつは、治安維持の仕組みさえも、例外じゃなかった。
自衛隊は戦力を増強して国境に張りついていなきゃならないし、警察は既存の特殊部隊を、工作員に対処するための対テロ部隊に再編成。装備と練度の向上に乗りだした。
もちろん、ひとりひとりの育成には大変な手間とお金がかかる。でも、それらはどうしても必要なものだ。
といって、政府の財政には限りがある。予算は、どうしても必要なことに重点配分しなきゃいけない。
だから、「どうしても必要」以外の治安維持機能を、政府は民間に払い下げたんだ。
その結果、生まれたものがふたつある。
ひとつは民警。民間の警備会社や保険会社が合弁し、地方自治体や政府が大株主に名をつらねる国策会社だ。
大量にリストラされた一般警察官たちをそっくり引き継いで発展したもので、今では防犯活動や一般刑事事件の捜査のほとんどは、ここが行っている。
そしてもうひとつが、フリーランスである賞金稼ぎ。
つまり、あたしらである。
クライアントはいろいろだね。たとえば、犯罪被害に遭ったけれど、民警の犯罪保険に未加入だったばかりに捜査してもらえない被害者やその家族とか。ただ、これは数としてはとても少ない。賞金稼ぎに支払う金額よりも、民警に支払う保険料のほうがずっと安上がりだから。
企業からの依頼もある。こっちはかなりやっかいといえる。まともな企業なら民警の保険に加入していないわけがないし、それでも賞金稼ぎに依頼するということは、まともな企業でないか、民警には知られたくない案件ということだから。
ただ、稀に、その民警から依頼が来ることがある。
とるに足りない下請け仕事もあるけれど、たいていは彼らの手に余るやっかいな事件を押しつけられることになる。
たとえば、民警の警察官には対処させたくない、と民警上層部の誰かが判断した事案を。
『特異者』が相手と判断できる事案を。
……ともかく、そういった諸々の依頼を受けて、対象を追跡し、捕まえるのがあたしたちの仕事ってわけ。
追跡対象を始末することを選択する賞金稼ぎもいるらしい。自身が犯罪者とたいして変わらないような連中だ。あたしはもちろん生かしたまま捕らえるのを信条にしている。殺すと寝覚めが悪いもの。
いずれにせよ、きれいな商売とはお世辞にもいいがたい。うら若く濡れたように美しい乙女(あたしだ!)に似つかわしい仕事でもない。でも、いつしかそれが身についた仕事になっていた。
汚物は、上から下へ流れるもの。ならばこの仕事はさしずめ、下水溝のどぶ攫い、といったところか。
これでも、いつかは私だけを愛してくれる素敵な殿方を見つけて、素敵な甘い結婚生活を築きたいと思ってるのよ?
……なんてね。
☆
「舐められたもんよね」
あたしは忌々しげにため息をついて、リビングのソファへ身を投げだした。
傍らのガラステーブルに、資料とやらを無造作に放りだす。紙束がばさりと音を立てて、テーブルと床の上へ散らばった。
桧山と邂逅した後、あたしは大急ぎで自分の事務所へ戻ってきた。古い商業用ビルに借りた小さな一室だ。もちろん、部屋へ入る際には細心の注意を払わなきゃいけなかった。万一、待ち伏せでもされていたら事だもの。この業界では、その手のことは少しも珍しくない。
幸いにも人影はなかった。その代わりに、桧山のいったとおり、書類ケースに入ったそれが部屋のガラステーブルの上へ置いてあった、てわけ。
部屋を荒らされた様子はなかった。あたしは窓の
だからって、感謝してやる理由はない。ドアには鍵を三重に付けてあるのだ。それをすべて解除して侵入したということは、要するに、あたしの情報はすっかり調べがついている、て言いたかったんだろう。
どこが礼儀を知ってる相手よ。食えないったら!
「クライアント、ていったっけ。じゃあ、あの男は仲介人か……ううん、特異者がらみなら、やっぱり民警の関係者?……まったく、ああいう手合いのもったいぶった秘密主義もいい加減にしてよね」
賞金稼ぎに、
路地裏で見た、桧山のシルエット。逆光のなかでも、顔の右側に大きな傷跡があるのだけは、はっきり見えた。
あの男の正体が何であれ、街で出会えばすぐあいつとわかるに違いない。
「ぜひまた会いたいもんよね」
ひとりつぶやいて、ちょっと下品ににやりと笑う。
もちろん、お礼をしてやるためよ。淑女さまのプライベートルームへ侵入するような阿呆は許しちゃおけない。つけあがらせると癖になる。
「ったく、近ごろろくな男がいやしないな……」
この部屋も引き払うべきだろうか? しばらくセーフハウスにでも身を隠していようか。
いや、抜け目なさそうなあの男のことだもの、そちらもすでに調べられている可能性も……
(……ええい、もう!)
あたしはくさくさした気分のまま、しばらくぼーっと天井を見つめていた。
とはいえ、ずっとこうしているわけにもいかない。人生の時間は無限ではないのだ。
「はあ……さってと、お仕事の時間となるかどうかしらね」
諦観の吐息をもらすと、あたしはテーブルにいやいや手をのばして、散らばった紙の一枚を取り上げた。
依頼といわれても、はいそうですか、とはいかない。受けるかどうかは、このあたしの決めることなんだから。まずはターゲットを確認しなきゃ。
――天童昭彦、三二才。広域指定暴力団○○組系H会、若頭補佐、前科一犯。
「ヤクザ?」
思わず片眉を上げた。
なにしろあたしの仕事がこうだから、こういう連中ともある程度の面識はある。ときには縄張りを犯すことも。けれどターゲットにするのは初めてだ。
別の紙に、隠し撮りしたらしい写真がクリップで留めてあるのに気がついた。拾いあげて、目の前にかざしてみる。
車から降りるところを撮ったらしい。斜め上方、たぶん建物の屋上から、望遠で。
「ふうん、なかなかいい男じゃない」
穏やかな眼差しをして、周りの部下たちへにっこりと微笑みかける人畜無害な公務員……といったところだろうか。凶猛な世界に生きているようには、とうてい見えない。
うーん。ヤクザどころか、たぶんこいつは温厚が服着て歩いてるような印象の男だぞ。前科があることをのぞけば。
もっとも、プロファイルはあんまり重要じゃあない。
あたしは、じいっと写真を見つめた。これまでの経験で学んだ特徴をリストアップし、当てはめていく。皮膚のきめ、瞳の色……そして最後に、あたしの勘。
なるほど……と、あたしは納得した。――こいつは、いかにも特異者臭い。
「実物を拝んでみないと、なんともいえないけどね……」
頭をがりがり掻いて、書類をぺらぺらとめくる。
「クライアント、フランドル銀行G支店。被害状況、詐欺……へえぇ、こんな外資の一流企業からだまし取ったの。なかなか剛毅なことで。それで、被害額は……二〇億円!?」
あたしは、記載された数字に(ほんとはイケナイことなのだけど)つい喜びの声を上げてしまった。
通常『賞金稼ぎ』への報酬は、被害相当額の一割と相場が決まっている。だから被害額が二〇億円ということは、つまり報酬は二億円! 丸ごと非課税なのはいうまでもない。
「こりゃ、すごいわ!」
あたしは驚喜した。こんなにまとまった額の依頼がくるのは久しぶりだったからだ。
ああ、なんてことだろうね。二億円なんて! ここんとこ数百万円そこそこのしけた仕事しか入ってこなかったのに!
思わず書類をきゅっと抱き締めると、心なしか懐がほわんとあったかくなるようだった。相変わらずの不況で銀行が金を貸し渋る昨今、こういう大口依頼はめったにこないのだ。
逆をいえば、そんな状況でこれほどの金をだまし取った天童昭彦という男、かなり頭の回る相手ということになるけども。
「それにしても、こんな大口クライアントを紹介できるなんて、あいつ何者なの?」
桧山のことをふと考えた……けど、詮索は後まわしにしておこう。引き払う? なんのことよ。桧山さんとは、こんなにも長いおつきあいがしたいのに! 今度会ったら、たっぷりお礼をしないとね。こんな上客を紹介できる仲介人、むざと逃がしてなるものか。
まあ冗談はさておいて。
「……あれ?」
あたしはふと気がついて、資料といっしょに置いてあった前金をひっくり返してみた。
百万円の束が、ひいふうみい……全部で十束。
「前金が二〇分の一? ちょっと、どういうことよこれ!」
この業界、前金とくれば普通は半額よ? つまり一億円はなくちゃいけない。
あたしは憤然と腕を組んだ。なんてしみったれてんのよ、天下のフランドル銀行のくせに! もう少し人の仕事ぶりを信用したらどうなわけ?
あたしはしばらくうんうんうなっていたが、やがて気を取り直した。
このさい贅沢はいうまい。一千万円でも、ちょっとした額だ。裏で仕入れる9ミリ弾も、これでまたストックできる。気晴らしにちょいと豪華なバカンスも楽しめるだろう。
なにより、いまの日本は雰囲気が暗すぎる。あたしには解放的で明るい南の島が必要なんだ。
「この仕事、のったわ!」
あたしは立ち上がった。
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