第2話 影の者

 ヴァレンタインはコートの襟を立て、荒野に敷かれた石畳の街道を歩いていた。

 小さかった雪は、今では手に触れてもすぐには解けぬほどの大きさとなって、風まかせに吹かれてはコートにべたべたと貼り付いてくる。

 荒野の低木にも貼り付き、自分ばかりか世界を白く染め上げようとしているが、度々吹く強い風に煽られてばらばらと振り落とされていた。


 ヴァレンタインは足を止め振り返った。ノースランド城はもう見えない。

 自分の育った城だ。全く未練がないと言えば嘘になるが、ヴァレンタインの気分はそれほど重くはなかった。

 貴族として生き、それなりの教育を受けてきたヴァレンタインには世の中には変えられないものがあることを知っていた。

 そして富や名声、権力は長い歴史から考えてみれば全て刹那的であり、いずれ消えるものだとも知っていた。

 だから未練はなかった。


 ヴァレンタインは過去と決別するかのように前方に目を向けた。石畳の街道が歪みなく真っ直ぐに続いている。

 不思議なことに、ここまで来る間、誰とも会わなかった。

 この街道はノースランド城に通じていることもあり、平時であれば多くの行商人や旅人が行き交うはずだが今は誰一人歩いていない。

 街道から外れた荒野の彼方に犬か狼か、四足らしき動物が見えるだけだ。

 荒涼としている。


 これはこの悪天候のせいもあるだろうが、それだけではないのだろう。

 戦争の影響だ。

 ノースランド城の大臣たちによると近年、帝国との戦争のせいで王国内の穀物の生産量が落ち、流通も滞っているという。

 また、城の兵士からの報告によれば、我が領地の端のほう、帝国との国境沿いに盗賊が出没していて商隊が襲われているという。


 ヴァレンタインは改めて荒野をぐるっと、遠くまで見渡した。

 経済が安定しなければ人心が乱れ、治安が悪化するのは道理だ。

 早く戦争が終わればいいのだが。

 ヴァレンタインは荒野に動物以外の怪しい影がないのを確認し、背に担いだバッグを地面に置いた。

 コートと頭の雪を払い、バッグの中から地図を取り出す。追放される前に侍女たちが入れてくれたものだ。


 他には着替え、数日分の食料、水や酒、方位磁石、火打石など簡単な旅の道具が入っている。

 母の形見である指輪、父から成人祝いとしてもらったダマスカス金属製の小剣は出発前に自分で入れておいた。


「これは……」


 よく見ると、バッグの底のほうに小さな麻袋が入っていた。取り出し、中身を確認する。

 指輪やイヤリング、宝石などが入っていた。以前、ヴァレンタインが城の侍女たちに贈ったものだ。

 ……ヴァレンタインは涙が零れそうになりコートの袖で目を拭った。


「幸せになってくれ」


 祈りつつ麻袋をバッグに戻した。地図を手に、そばに生えていた低木に歩み寄る。風下になるよう、しゃがみ込み地図を開いた。

 急な旅支度だったからか、地図は一昔前のものだった。まだ帝国が辺境の小国だった時代のものだ。

 この数年後、この小国は周辺の国々を占領し、帝国となる。今から二十年足らず前の話だ。


 ヴァレンタインは地図を眺めた。今いる場所から一番近い村を探した。

 ミリア村を発見する。

 訪れたことはないが、確か、この街道の先にあるはずだ。森の中にある小さな村で、かつては王国の領土だったが、現在は帝国のものとなっている。


 そのような場所に王国の元貴族が入るのは危険な行為ではあるが、これから先、まだまだ王国と帝国の戦争が続くことを考えれば、どこにいても危険なことに変わりはない。

 問題はどうやって身の安全を確保するかだ。どちらの国に身を置くのが安全か。

 王国か、帝国か。


 王国にはローズ家以外にも有力な貴族がいるが、それでもいまの帝国の勢いは止められないだろう。実際に戦ったからわかる。

 つまり戦場となるのは王国側で、比較的安全なのは帝国側ということになる。


 ヴァレンタインは自分の髪をさわった。長い黒髪、腰の辺りまで伸びている。

 これからは帝国で生きていこう。そのためにも、まずはミリア村で旅をするための装備を整える必要がある。

 このコートの下に着ている貴族特有の、見栄えのよいだけで何の機能性もない、ひらひらした服は旅に不向きだ。


 とくに、このロングスカートは平民の間では婦女子の着るものだ。男子で着ているのは王国の貴族だけだ。

 ヴァレンタインは方位磁石を使い、方向を見出して、再び歩き出した。


 雪と風が激しさを増すなか、荒野の先に森の影らしきものが見えた。荒野の低木も別の種類、高さのある樹木へと変わりつつある。

 地図によればミリア村までもう少しかかる。

 ヴァレンタインは冷えた体を休めるため、まだ雪の積もっていない木陰に入った。

 頭や肩の雪を払い落とし、手をこすり合わせて摩擦熱を起こした。息を吹きかけ、さらに温める。バッグから酒を取り出し、一口飲んだ。辺りを見回し言った。


「……ジェイド、いるか?」


 返事はなかった。雪を煽る風の音だけが聞こえる。

 ヴァレンタインは木の根に腰かけ、さらに一口、酒を飲んだ。


「若様、お呼びでしょうか?」


 どこからともなく若い男の声が聞こえた。ヴァレンタインは辺りを見回した。


「……ジェイド、ついてきたのか?」

「はい。もちろんです」


 素直な返事だった。

 ヴァレンタインは嬉しくて、照れ隠しに俯いた。


「……お前も知っての通り、俺はもう貴族ではなくなった。だから、お前が俺に仕える必要もなくなったわけだ」


 ジェイドは黙っている。


「今からお前の役目を解く、里に戻るなり、好きにしていい」

「……若様はこれからどうなさるのですか?」

「贅沢は飽いた、これからは苦労をしようと思う」

「苦労、ですか?」

「そうだ。俺は今まで貴族として多分な暮らしをさせてもらった。王都に留学させてもらったし、ノースランド城に帰ってきてからは働きもせず毎日ふらふらと過ごしてきた。だから、これからは苦労をしようと思う。苦労を求めて帝国で生きていこうと思う」

「……ですが若様、ローズ家はどうなさるのですか? 王国が建国されて以来ずっと続いてきた名門ローズ家はノースランド城と共にありました。この今の状態はヴィンセント様も悲しんでおられるでしょう」

「いや、死んだ父には申し訳ないが、もう俺にはどうすることもできない」

「では領民はどうなさるのですか? 彼らはきっと若様の帰還を待ち望んでいるはずです」


 ヴァレンタインは首を振った。


「統治する者が王国だろうが帝国だろうが、そう違いはないだろう。身分制度がない分、帝国のほうがいいかもしれない。だから領民のことを考えるなら俺は戻るべきではない。これ以上、争いの種を持ち込み、苦労をかけるのは俺の誇りが許さない。それに、そもそも俺にはローズ家を再興する資格はない。それが可能なのは父の実弟、正統なる血筋、ジェンシャン侯だけだ」

「それは……」

「ローズ家のことはもういい。それよりも、お前はどうする? 里に戻るのか?」

「……いいえ。私めも、その、若様の苦労を一緒に分かち合いたいです」

「ジェイド……それは嬉しいが、今まで払っていたような給金はとても払えないぞ」

「大丈夫です。旅先で自分で調達します」


 ヴァレンタインは静かに笑った。空を見上げ言った。


「よし、わかった。ジェイド、俺についてこい。一緒に帝国を見て回ろう」


 ヴァレンタインの背後、積もった雪の一部が盛り上がる。ジェイドが雪の下から出てきた。

 黒装束に黒頭巾、鼻まで隠した覆面姿で白い大きな衣、彼らの言葉で『被衣かつぎ』と呼ばれるものを頭から被っていた。

 足跡を残さずヴァレンタインにすっと近づき、跪いた。


「どこまでも、いつ如何なるときも若様のお側に」

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