第3話
ローテーブルの前にどっかりと腰を下ろした寺田に、俺は告げる言葉が見つからずにその場で固まった。
「し、式は?」
ようやく出てきた声も裏返ってしまう。まずい。普段から貯金などまるでしていないから、ろくにご祝儀も払えないではないか。
相場はどれくらいだったろうと、ぐるぐる回る俺の思考を断ち切るように、寺田はニコニコと俺の様子を観察しながら、解いたネクタイをソファーベッドへ投げた。
「式はしないよ」
「え、な。なんで?」
「だって、俺も彼女もろくに金がないし――と、いうよりも新生活に向けての出費に金を割いた方がいいって思ったんだよな」
「そ、そうなんだ」
「安心したろ? フリーターさんよ」
寺田は俺の表情を見て、完全に心の内を読み切っていた。全く最悪だ。もともと顔に出やすい性質ではあったが、今の場合はそういったところを絶対に見せてはいけない場面ではなかったのか。
「お……おめでとう」
「おう。ありがとうな。まぁそれはいいから座れって」
嫌味なく笑いながら座る位置をずらした寺田を見て、とことん自分が狭量であることを思い知らされる。同い年であるにも関わらず、寺田は俺なんかよりもずっと社会人らしい振る舞いや礼儀を修得していた。
社員とフリーターの差はこれほどまでに大きいものなのだろうか。俺も、あのハウスメーカーを辞めずに過ごしていたら、寺田のような余裕のある雰囲気を備えていたのだろうか。朝五時起きの深夜二時終業、勤務。給与は社保抜きで手取り十四万前後。
考えても結論の出ない答えだと思った。そもそも、俺が仕事を辞めた理由の一つに、この寺田との待遇の差も入っている。彼の仕事は残業も多いが、週休二日制の、少なくとも普通の人間がまともに長期的に勤務出来る、当たり前の権利だけはきちんと保証されていた。給与だって新卒で手取りも間違いなく自分より多かったはずだ。
何よりも寺田の会社は上司に恵まれていた。俺の会社の上司は殴る蹴るが常習の、人格否定の侮蔑と中傷をつらつらと並べ吠え立てるような最悪のクソ野郎だった。
考えれば考えるほど、比較対象にすらならない。
俺は首を振って、本題の方に頭を切り換える。
「で? いい加減教えろよ。懐かしいものをさ」
「ああ。これだ」
それは、既にローテーブルの上に置かれていたものだった。
何の変哲もない、一冊のノートである。そこまで古びているようにも思えないので、これがその懐かしいものだということに、俺は言われるまで全く思いもしなかったのだ。
「キレイだろ? 偶然なのかもしらんけど、最適な保存状態だったぽいな」
「なんだよこれ」
表紙を見ても全く思い出せない俺に、寺田は呆れた様子で声を上げる。
「おいおい! 本当に全く覚えてないのかよ。これは俺たちがビッグになるための誓いを書いたノートだろうっ」
「ビッグ?」
俺はぱらぱらとノートをめくってみた。最初の方はくだらない落書きで埋まっており、その後はよくわからない、映画のシナリオのようなものが数十ページ。そこからしばらく空白が続き、そしてノートの中間ぐらいの場所に、それはあった。
――ビッグになっているかもしれない、十年後の俺に向けて。
よう俺。元気でやっているか? 有言実行できたのかよ。それならいいんだけど。今はどんな気分だ? まだ高みを目指しているのか、それとも現状で満足しきってるのか。
もしも後者なら、がっかりだわ。誰にでも出来ないことを成し遂げてこそ本当のビッグな男なんじゃねーのか? もっと生き急ぐくらいに頂点目指せよ! 東京だけじゃない、日本だけじゃない、世界をまたにかけるスーパービッグな男を目指せ――
「……なんだこれは」
顔が無意識に紅潮してくるとともに、少しずつその頃の自分を思い出してきた。
確かに俺は高校卒業後に一回だけ寺田の実家に泊まったことがあった。
あの日は確か、夜中までやっている本屋で、二人して映画の雑誌をむさぼるように読んでいたのだった。それから本屋が閉店した後もその駐車場で、二人して考えた映画のシナリオの話をしていたら、誰から言い出すこともなくコンビニでこのノートを買ってシナリオ制作をしようと息巻いたのだった。
「思い出してきただろ?」
そう言って、寺田が次のページをめくると、そこには寺田の書いた筆跡でこう書かれていた。
――ビッグになっているはずの、十年後の俺に向けて。
今、これを読んで鼻で笑い飛ばしているようなら、お前はきっとホンモノの男になっているんだろう。だけどな、きっと物足りねーだろ? もっともっとデカい男になって、女どもをキャーキャー言わせるような男になる余地が残されてるはずだろ? 今の俺の気持ちを再び取り戻せ! どこまでもハングリーな男であらんことを。グッドラック。
「これはキツいな」
俺はそれ以上ノートを正視出来ずに顔を上げた。
「なんていうか……ひたすらにイタい」
「だろだろ? でもって、まだ続きがあるんだ」
「まだあるのかよ」
これ以上は勘弁とばかりに泣きを入れても、寺田はノートをめくる手を止めなかった。それから少しばかりの空白のページが続き、今度は絵コンテのようなコマ割りの絵と説明が載っている箇所が出てきた。それをさらにめくると、
――もしも、クソみたいな人生を送っているかもしれない、十年後の俺に向けて。
「もうやめてくれよ」
またしても俺の字だった。ああ、ようやくはっきりと思い出してきた。さきほどの絵コンテっぽい落書きを、二人して恥ずかしげもなくさんざ書き連ねた挙げ句に、俺たちは最後の最後にいわゆる「保険」をかけたのだ。これはもしもビッグな男になれなかった自分への檄を飛ばすコメント、要するに予防線だ。
――おい、クソみたいな顔でこれを読んでいるテメー。一体いつまでそうやってぐじぐじつまらねぇ顔してるんだカス。今すぐに大言壮語吐きまくって迷惑かけた全員に謝罪してこい。そしてすぐにでも為すべき事をやりやがれってんだ。ちっぽけな給与もらって安定を望んで、そんなつまんねー人生、反吐が出るわ。どうせお前がこれを見てる今頃は「分かった風な口をききやがって」とか思ってんだろ。見苦しい。正に敗北者の典型だね。能書き垂れてないで、限界まで人生楽しめよ!
もはや、過去の自分に絶句である。いや、確かに気持ちというか、意気込みのようなものはぐいぐいと伝わってくる。なぜかやたらと攻撃的で、非常に口が悪いのも、思春期だからこそなせる、一種の「怖いものなし」の現れであろう。
まぁそれも所詮、虚勢でしかないのだが。
ノートを返すと、既に読んだはずの寺田は声をあげて笑い出した。
「なあなあ。これ、今から音読してもいい?」
「いいわけないだろ。もううんざりだよ」
「おい、ここに『分かった風な口ききやがって』って書いてあるぞ? 今のお前、まさにそのものじゃん」
「うるせえな」
穴があったら本気で潜り込みたかった。
「しかしさあ……」
寺田はノートのページを行ったり戻ったりさせながら、にやついた顔で切り出した。
「ここに書いてあるビッグって、一体何に対してのビッグなんだろうな?」
「……わからん。ちょっと頭を冷やす。煙草吸っても良いか?」
寺田が手で「どうぞ」というジェスチャーをすると、俺はポケットから煙草を取りだして火を点けた。それと同時に寺田は立ち上がって、キッチンの方から灰皿を持って戻ってくる
。
「思ったんだが……ここに書かれていることは、一貫して具体性がないな」
煙を吐き出しながら、俺は高校時代を振り返りつつ寺田にそう言った。
「何一つだ。何にもないんだ。空っぽだ」
「そうだなあ。でもなんつーか、とにかく若々しい」
そう言いながら寺田も煙草に火を点ける。
「若さには可能性があるってことを、なんとなしに訴えかけたかったのかもしれんな。だけど、明確な目標がなかった」
「お前にはなかったのか?」
意外に思って寺田を見ると、寺田は驚きの視線をこちらに送った。
「篤志にはあったのかよ?」
「ない……こともなかった」
「なんだよそれ。言ってみ」
「言わなくても、ここにあるだろう」
俺はノートを開き、さきほどの恥ずかしいページを避けながら、映画のシナリオっぽい文章のあるページを開いた。
「これだこれ。夢中になって映画のシナリオを考えていた」
「ああ。そういやこんなのもあったな。さっきのビッグな男の部分がインパクト強すぎて、そっちばっかり気に取られてた」
それは、俺が書き上げた、ショートフィルム用のシナリオであった。
タイトルは『スイッチ』という。話のネタそのものは俺が考え、細かなシチュエーションは寺田が考えたはずだ。
それは、こんなシナリオである。
――男はとある部屋の中で目を覚ます。そこは、壁も床もぼろぼろになった廃墟ビルの一室であった。なぜ自分がここにいるのかわからない。男は、目が覚める前までの記憶を一切失っていた。
とにかく、この場所から離れようと、身体を起き上がらせると、男はまず最初に真っ暗な部屋に電気を点そうと考えた。そのまま壁伝いに歩くと、ちょうど部屋の入り口の壁面に、どこにでもあるタイプのスイッチを見つける。これだ、と男が思ってそのスイッチを押したその瞬間、明確な殺意の意思を秘めた罠が発動し、間一髪のところで男はその罠を回避するのであった――
「そんな話だったか?」
寺田が首を傾げる。まぁ話の進行自体に、こいつはほとんど関わっていないから、覚えていなくても無理はない。むしろ俺自身、ここまではっきり覚えていることにびっくりしていた。
「罠とか廃ビルとか、そういう細かいシチュエーションを考えてたのがお前なんだよ。具体的なお話の流れは俺が考えていた」
「それで、結局オチはなんなんだ?」
「オチか」
一瞬言い淀んでから、俺はほとんど残っていない吸い殻を、灰皿に押しつけて言った。
「オチは主人公の男が廃ビルから無事に逃げ出す」
「それだけか?」
「それだけだ。ただ、ビルを抜け出した瞬間、映像はホワイトで塗りつぶされて、最後にカートリッジのゲームソフトが映されて、スタッフロールだ。俺とお前の、たった二人のスタッフロールな」
「……なんだそれ? さっぱりわからん。ゲームソフトってなんなんだよ」
「ゲームの世界だったってオチだよ。ここまで言わないとわからないか?」
少しだけいらいらしながら俺は身体を後ろにあずけた。
「男はゲームの主人公で、ビルを抜け出した瞬間、そのゲームはエンディングなんだよ。ラストのゲームソフトが映るシーンに、そこら辺を歩いている小学生をスカウトして、『このゲームつまんねぇ』って言わせようとか、そういうとこまで考えてた」
「くっだらねぇなぁ。お前のシナリオの才能ってそんなものなのかよ」
「じゃあお前が作ればよかったじゃねぇか」
顔だけあげて、俺は寺田に抗議の視線を投げた。
「言っておくけどな、あの時のお前は普通に絶賛してたんだぜ? だからこそ、実際に撮るかどうかって話にまでなった。結局は撮らなかったけど、それはそもそもロケ地で予定していたはずの廃ビルの管理者に断られたからだろう」
そこまで説明すると、ようやく合点がいったように寺田がぽんと手を打った。
「ああーっ! そうだそうだ。そうなんだよな。二人で電話ボックスから電話したんだよな。断られたっていうよりも、厳密には、来月取り壊してしまうから、協力は出来ないって話だった気がする」
懐かしいなぁと呟きながら、そこで寺田は急にトーンダウンして、ガラでもなく窮屈そうに足を組みながら天井を見上げる。
「……まぁなんというかさ。このノートを見つけたとき、俺、無性にお前と会いたくなったんだ。あの頃の俺たちってこういうしょうもない初期衝動に突き動かされて、なんでも無茶できそうな気がしてた。今じゃ、そういう気力すら起こそうと思わねえもん」
「まぁ実際、こんなシナリオどこにでもあるようなありふれたオチだしな」
「そういうことじゃねぇよ」
寺田が笑う。
「ただ、昔と違って失いたくないもんってのが増えた。守りに入っちまってんだよ。日々の生活に。だから、お前と会って、久しぶりになんかこう……わくわくするようなこと思いつかねえかなって。もちろん、それで実際に行動に起こすかどうかは別にしてよ? そういうことは抜きにして、当時のようにあれこれ無茶を言い合って、つかの間の夢を見たかったっつーか」
俺は黙って寺田の言葉に耳を傾けていた。確かに、今の俺にはもうそういうことをしようという気などさらさらなかった。
でも、なぜだろうか。
寺田はわかる。しっかりと定職に就いて、その上、婚約予定だ。だが、その一方で俺はどうだ? いまだに職歴にもなりゃしないアルバイトを転々として、世間様からみれば甲斐性無しのプー太郎と同義じゃないか。
あれこれ、何かをやってみようとする時間はたくさんある。でも、そういう行動に至るまでの気力といったものが、絶望的に欠けてしまっていた。それはなぜだ。いつの間に、そういうことをしようとする意欲みたいなものが、すり減ってしまったのだろうか。
色々考えあぐねた挙げ句、何かのせいにすることでしか自分自身に言い訳出来ないことに気付いた俺は、それ以上そのことを考えるのをやめて、別の話を寺田に向かって切り出した。
「そういえばさ」
「ん?」
俺は、昼にネットカフェで見かけた、あの単語を思い出しながら言った。
「お前、スタービーチって覚えてる?」
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