第2話
春の陽気な日射しが、ただでさえ憂鬱な気分をさらにひどいものにさせる。嫌な気分が募っていく中、俺は先ほどの「ライ麦畑でつかまえて」の内容をふと思い出した。
主人公のホールデンが、妹に向かって「自分は、ライ麦畑の中で遊ぶ子どもたちが、崖から落ちそうになるときに、手を差し伸べてあげるような、そんな人間になりたい」というシーンがあり、俺はなんとなくその意味を考えながら、酒臭い息を吐き続けながら電車へと乗り込んだ。
学生時代、俺は優等生でもなければ落第生だったわけでもなかった。同時に大きな失敗もなければ、何かを成し遂げるようなデカい行事に積極的な参加をしたこともない。
だから、当時はホールデンの言っている言葉の意味をあまりよく考えもせず、どこか他人事のように思っていた。言ってしまえば俺の子供時代、ひいては学生時代にはこれといった明確な挫折をしたことがなかったから、ホールデンのいう手を差し伸べられるような救いを必要としない人間側だったわけだ。
大人になってもライ麦畑で遊んでいる俺を、一体誰が救ってくれるのだろう。いや、そもそも俺はまだライ麦畑にいるのだろうか。大体、この年にもなって誰かに救いを求めるだなんてどうなのだ。
電車を降りてホームから改札口へ。そのままネットカフェの入っているビルに着いた俺は、エレベーターのボタンを押しながらもまだそんなことをぼんやりと考え続けていた。
目的の階で開いたドアのすぐ目の前に受付があり、六時間パックというのを指して、伝票を受け取った俺はそのまま示された番号の個室スペースのドアを無造作に開いた。
個室の中のパソコンが、前に使用していた人間のページで固定されたまま、点けっぱなしになっていた。ろくに清掃もしてないのかよと腹立たしく思いながら、俺は個室のドアを閉めてリクライニングシートに腰を掛ける。こういういい加減な仕事をしていても給料がもらえるんだなと思うと、余計苛立ちが募ってくる。
よくよくみると、ドリンクのコップは片付けられているが、濡れたカップの後は残りっぱなしだった。清掃が中途半端すぎる。
そこで俺は顔をあげて、前の利用者がみていたページに目が止まった。
それは、出会い系の掲示板らしき、非常に怪しげなページであった。前の人間の年齢層と脳みその程度がうかがい知れるなと思いながら、他にも開いていたウィンドウがあるのに気付いて俺はそこではっとした。
一つだけ、非常に懐かしい単語のページがあった。
そのページの名には「思い出のスタービーチについて」と書かれている。
ライ麦畑、日韓ワールドカップ――二〇〇二年には他にもこんなものがあったじゃないか。俺は口元に手を置きながら、最小化されているそのウィンドウを最大化させた。
***
退室時間十分前に目が覚めると、まさに二日酔いのお手本ともいっても良いほどの頭痛と吐き気が襲ってきて、就寝前が懐かしく思えるほどだった。ドリンクバーからコーラを注ぎ、それを口にしながら煙草を吸い終わったところで、俺はネットカフェを出る。
時刻は夜の九時。そろそろ、寺田との約束の時間だった。
寺田は大学進学で共に東京へ出てきた、唯一の同郷からの友人である。昨夜俺がバイトの休憩中に煙草を吸っていると、突然寺田の奴から、「明日の夜十時くらいに会えないだろうか」という旨のメールが届いたのだった。
あまりにも急で、それでいて実に久しぶりの連絡だったので、それとなく用件を尋ねてみると、懐かしいものを見つけたと言い出した。具体的な内容に関しては会ってから話したいというので、それ以上のことは聞かずに、俺はそこでメールのやりとりを終了させ、バイトに戻ったのだった。
俺は駅まで歩き、券売機で切符を買って新宿行の電車に飛び乗った。寺田の住む場所は秋葉原。別にオタクでもなんでもないくせに、彼はなぜか秋葉原のマンションに一人で住んでいる。
秋葉原に着くと、俺は寺田に電話をかけた。数コールほどですぐに繋がると、
「もしもし」
『今どこにいる?』
「秋葉原駅。電気街口の方に出てる」
俺は駅の案内表示を見ながら、そう答えた。
『あー。そっちは家とは逆だな。わかった。すぐ向かう』
そう言って通話が切れた。しばらくぼんやりしながら柱にもたれかかっていると、遠くの方からスーツ姿の寺田がこちらに向かってくるのが見えた。
「お待たせ」
「おう、久しぶり」
寺田と会うのは実に四年ぶりだった。前に住んでいた神奈川の時は何度か遊びに行ったことはあったが、この秋葉原の家は初めてだ。寺田に案内されるまま、俺は彼の後ろ姿を追いかける。
中央改札側へと回り込んで、昭和通りに入ったところで、
「今日仕事は終わったのか?」
遠慮がちな俺の言葉と態度を、寺田は豪快に笑い飛ばした。
「当たり前だろ。じゃなきゃ今こんなとこにいねぇだろ」
寺田は広告代理店で働いていた。俺なんかよりもずっと金も持っているし、おそらく将来も比較にならないほど順風満帆だろう。卑屈になっているわけではなく、もっと純粋な気持ちで、俺は寺田のことをいつも尊敬していた。
「で、なんだよ。懐かしいものって」
和泉橋を越えて岩本町に入っても、寺田は黙って俺の顔をニヤニヤしながら見ていた。
「そうだ。酒でも飲むか? 奢るけど」
コンビニを親指で示す寺田に向かって、俺は苦笑しながら手を振った。いまだに胸のあたりがすごくむかむかする。そんなに酒の弱い方ではないのだが、最近は特に量がひどいと自覚していた。今日は確か、五〇〇ミリの第三ビールを三本に、安物のウイスキーをハイボールにしてがぶがぶ飲んだ。ハイボールといっても、炭酸とウイスキーをほぼ一対一で割るから始末に負えない。
ふとそこで、俺は桜のことが心配になって携帯を取りだした。一応、今日家を出る前に約束があるという話はしておいたはずだが、寺田と会うといった具体的な内容までは話していない気がした。
もしかしたら寝ているかもしれない。起こすと悪いなと思った俺は、メールで『あれから具合はどう?』とだけ送って、そのままポケットの中に携帯を突っ込んだ。
「ここだよ」
携帯を押し込んで顔をあげると、なるほどそれなりに寺田の家は良いマンションであった。今の自分の家と比較するまでもない。暗証番号式のエントランスの扉が開いて、二人でエレベーターに乗りこんだ。
「昔の話だけど」
そう唐突に寺田が切り出した。
「高校卒業して大学に入学するまでの間の休み中、お前、一回だけ俺の実家に泊まったことあったろ?」
エレベーターが開いて、先に出た寺田に向かって俺が口を開く。
「そんなことあったか?」
「いや、あったんだよ。日付がちゃんとつけられてる」
懐かしいもの、とやらにそんな日付が書かれているとは意外だ。
「まぁ口であれこれ言うより、実際に見た方が早いわな」
六〇五号室と書かれたドアの前に立って鍵を回すと、寺田は俺を中へと促した。
「先に奥にいてくれ。俺はトイレ行ってくる」
言われるがままに、俺は寺田の部屋に入った。
なんとも殺風景な部屋だ、というのが第一印象だった。五十インチはあるかと思われるほどの大きなテレビと、ガラス製のローテーブルに、ソファーベッドが一つ。窓際に観葉植物があって、あとは小ぶりのクローゼットがあるだけだった。小ざっぱりとしすぎていて、なんだかあまり生活観が感じられない。
「なんにもないな」
俺が端的な感想をトイレに向かって放りなげると、
「来月引っ越すんだ」
と、びっくりさせる答えが返ってきた。
「おいおい。確かここって、引っ越したばかりだろう?」
「そうだ。その話もしなきゃな」
水の流れる音がして、間もなく寺田がネクタイを緩めながらやってきた。
「俺、来月結婚するんだわ」
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