スタービーチでつかまえて

黒井日花

第1話

 二〇一五年、四月三日。時刻は午後二時。

 俺はパソコンの前に座っていた。


 ディスプレイに映っている文字は、どれもひどくぼやけて滲んで見える。その理由は簡単で、今現在ひどく酩酊しているせいだった。平日の真っ昼間から、ディスカウントストアで購入した第三のビールと、四リットルもある安物のウィスキーをちびちびやっていたらこうなった。

 本当に、ただそれだけのことだった。

 これが今年で三十歳になったばかりの、男のすることだろうか。


 五分間も自問自答することなく、そんな暗いことをこれ以上考え続けると酒がまずくなると結論づけた俺は、パソコンの中に入っている音楽フォルダから一曲、お気に入りの曲を再生させた。

 ブルーハーツの「月の爆撃機」。軽快なギターサウンドから始まるイントロで頭を振りはじめ、甲本ヒロトに失礼なほどの音痴な声で歌い始めると、ふとパソコンデスクの下に転がっている一冊の蔵書、「ライ麦畑でつかまえて」が目に入った。

 音楽から意識を逸らして俺は「ライ麦畑でつかまえて」を拾い上げる。村上春樹ではく野崎孝版の白水社のそれを、はて、一体いつ頃購入したんだっけな、と思いながら巻末をみると、二〇〇二年と書いてあった。

 二〇〇二年か、とぼんやり考える。十三年前のことを今更振りかえるのは酔った頭にはなかなかに厳しいものがあった。その頃の俺はまだ高校二年生になったばかりで、この本も確か髪の毛を切りに行く時に、偶然本屋で購入したものだったような。

 それから、日韓ワールドカップのことを思い出した。トルシエジャパンの試合を家族で一喜一憂しながら、あの頃の俺はテレビの前で実に熱狂的に観戦していた。海外からやってくるフーリガンを警戒する報道の一方で、海外選手を受け入れた先の市の温かいエピソードもあった。

 思えば、なにもかもが懐かしかった。あの頃から俺は海外サッカーとJリーグに興味を持ったんだっけな。「ライ麦畑でつかまえて」をぱらぱらとめくりながら、他にも当時のことを色々思い出そうとしていると、玄関のドアが開いた気がして、俺は本をパソコンデスクの上に投げ出して玄関の方へ顔を向けた。


「ただいまー」

「おかえり」


 そう声をあげて立ち上がると、少しだけ足下がふらついた。かれこれ四時間ほど一人で飲み続けていたせいか、頭がずきずき痛み始めている。こめかみの辺りを押さえながら、扉一枚だけで隔てられた玄関の方へと向かうと、俺よりも体調の優れなさそうな表情で、桜が立っていた。


「……音楽の音がうるさいんだけど」


 うんざりした顔で睨む桜に、一瞬だけ気後れしてから俺はパソコンデスクまで戻って音楽を切った。再び玄関に戻ると、桜は靴を脱ぎながら俺に視線も合わせずに告げる。


「また飲んでたの? こんな昼間から」

「昼夜逆転生活だから、俺の中では夜だ」

「あっそ」


 桜は俺の横を通り過ぎると、そのままパソコンデスクの部屋を通り過ぎて、着の身着のまま奥の間のセミダブルベッドへと倒れ込んだ。


「仕事終わるの早くない? 早退?」

「うん。熱がある」


 救急箱から体温計を取り出して桜に渡そうとすると、


「いい。帰ってくる前に計った。三八度五分だって」


 予想していたよりずっと高熱であった。熱下げシートを用意しようとしていたが、

氷枕の方がいいかもしれないと思い、俺はキッチンへと向かう。


「ねぇ篤志」

「なに」


 六畳二間のこのアパートだと、キッチンとベッドまでの間にはそれなりの距離がある。奥の部屋のベッドの上からだと、音楽を流してなくても桜の声が少し聞き取りにくい。


「就職、いつになったらするの」


 がらがらとゴム製の氷枕の中に氷を入れながら、桜の質問に答えることなく銀の留め具を探す。


「昼間からこんな風にお酒飲んで、昼夜逆転でバイトしてるから、夜あたしが寝てる間にのそのそと起き出すでしょ。今日もそんな感じで夜に起き出すの?」

「今日の夜は予定がある。だからゆっくり休んでていいよ」

「なにも今日の話だけのことじゃないでしょう」


 言い方は穏やかだったが、その口調には静かな怒りがこめられていた。水道水を流し込んで銀の留め具をつけると、俺は氷枕をタオルでくるんでセミダブルのベッドがある部屋に顔を出した。


「あたしばかり働いて、お金も全然ないし。どうするの? もう三十でしょう。いつになったらまともなところで働くの」

「今働いてるカラオケ屋がまともじゃないとでも言うつもり?」

「そういうこと言ってるんじゃないでしょう。その言い方はずるいよ」


 俺は桜に氷枕を寄こすと、救急箱の方から風邪薬を探そうとした。


「風邪薬ならいい。病院でもらってきたから」


 そういえばこいつは看護師なんだから、それくらいは当然もらってくるだろう。俺は救急箱の蓋を閉めると、パソコンデスクの前にどっかり腰を下ろして桜の方へ椅子を回した。


「もう失敗したくないんだよ」


 数年前、俺は新卒で入ったハウスメーカーの営業職を辞めた。理由はとんでもないブラック企業だったからなのだが、それ以来俺は就職を探すにもひどく慎重になりすぎてしまっている。自分自身でもそれはよくわかっているつもりだったが、一度失敗した経験はとても重く自分の心の中に澱み続けており、なかなか踏ん切りがつかないのだ。


 桜は、大学時代にサークル連中との間で開かれた合コンで知り合った女だった。近くにあった看護学校を先に卒業した彼女は、俺の卒業と同時に今のこのアパートへと引っ越し、同棲生活も既に八年が経とうとしている。同棲四年目でブラック企業を早々に辞めた俺を、桜も最初の方こそ慰めてはくれたが、今ではご覧の有様である。

 彼女の鬱積もまぁ当然のことだろうと思う。俺はガンガンと痛む頭を押さえながら顔をあげた。


「明後日、また就職面接行くから」


 これで一体何度目の面接だろう。バイトはこれまでに何度もころころ変わり続け、そのたびに大体は一発採用なのだが、どうも正社員の雇用となると全く話が別らしい。探し方が悪いのか、履歴書が悪いのか。どこに行っても、早期退職した先のハウスメーカーの件を突っ込まれ、その度に体の良い言葉でお茶を濁すのだが、返ってくるのは「これからの貴方の就職活動の成功をお祈り申し上げます」という一文のみだ。何回祈られたかわからない。そもそも大して祈ってもいないくせに余計な返事を寄こさないで欲しい。

 選んでいるところが高望みしすぎなのかもしれない、と思ったりもする。でもそれならいっそ書類の時点でばっさり切ってもらいたいわけで。仮にもスキルがあるのならば、きちんと履歴書にそのことをアピールしているはずだし、履歴書以外のことで自分をみてもらうとするならば、残る材料は人柄ということになるわけだが、そもそも相手の人柄など二、三話したところでわかるはずもないだろう。


 現に自分だって、面接官の人柄なぞこれっぽっちもわからないのだから、相手だって似たようなものじゃないのだろうか。それとも何か、人事の人間は自分よりも多くの人間をみてきたから、極々短い時間でも相手の良さを見抜いてしまうというのだろうか。どんなエスパーだそれは。驕りにも限度があるぞ。


 こういう自分自身の言い訳めいた考えと認識の甘さを見抜かれているとするならば、それまでなのかもしれないが、それと仕事の出来はまた別の話であって、そもそもハウスメーカーを辞めてからは営業職での就職を一切探していない俺に、そのような聖人君子を求めるのも間違っている気がする。

 大体、世に働いているサラリーマンで、聖人君子が一体どれくらいいるというのだ。どいつもこいつも本当は内にある負の部分を押し隠して面接に励み、そして働いているのではないのか。ともすると俺の負の部分とやらは周囲に滲みだしてしまうくらいにひどいというのか。


 わからなかった。無職期間が四年にもなれば焦りも出るどころの話じゃない。このところはそんな感じで、手当たり次第面接を受けまくっているのだが、どれもこれもお祈りされてさようならだった。今日もそうだった。だから酒を飲んで嫌な気分を忘れ、明後日の面接に頭を切り換えようと思っていた。

 そう思っていた矢先に、桜のこれである。俺自身も、もうストレスでいっぱいだった。


「この前の会社は駄目だったの?」


 布団から半分ほど顔を出して桜が尋ねる。


「駄目だったよ。だから酒を飲んでいた」

「駄目じゃなくても酒ばかり飲んでるじゃない。この前お父さんに電話したんだよ。そしたら篤志のこと、アル中だって言ってた」

「アル中じゃないから」


 今度は俺がむすっとする番だった。でも、この体たらくでそれを力強く否定出来る権利などどこにもなかった。それはよくわかっている。


「どうしていいかなんて、もう自分でもよくわからないんだよ」

「あたしだってどうしていいかなんて、わからないよ」


 その湿った声に気付いて、俺は桜を見た。風邪で精神的にも参っているせいか、彼女は布団の中でめそめそと涙を流しているらしい。

 もうやりきれなかった。俺はパソコンデスクを立ち上がると、


「ネットカフェ行ってくる」


 と言い残して外へと飛び出した。

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