第21話想定していた最悪の選択


 気が重かった。

 秤は通学路を歩きながら、己の心境が過去にない程に重苦しくなっていることを自覚していた。これは想像以上だった。自分の行ってきたことを告白した時の玲李の顔。忘れられそうにない。あんなに傷ついた表情は初めて見た。自分が傷つけたのだ。そう思うと、眠れなかったし、今も時折、思い出しては蹲りそうになる。

 もっと他に方法があったんじゃないか。そう考えてしまう。だけど、今までずっと考えて、手段は浮かばなかったのだ。『長い間、玲李のことを考え、行動し、情報収集をしてきたという事実は包み隠さず話さなければならない』と考えていたからだ。彼女と本当の意味で共に生きるためには必須事項だった。交際前には、この事実は彼女に伝えるつもりだった。それを受け入れて貰えるようにどんな努力でもするつもりだったし、してきた。問題はこれから、だが。

 最初の段階で躓いたけれど、想定の範囲内ではあった。今、感じているこの罪悪感も想定はしていた。けれど実際に感じると中々に辛いものがあった。だが、辛いのは玲李の方だ。自分は加害者なのだ。ならば、傷つけた方が苦しいなどという顔をするのはおこがましい。それも事前にわかっていながら、だ。

 正門を抜け、教室に入る。すでに玲李は登校済みで、席に座っていた。彼女の背中が見える。いつもと違い、刺々しく話しかけてはならない空気しかない。それは己の心情が錯覚させているのか、真実なのかは判別ができない。秤はすでに行動を決めていた。

 『今は、話しかけるつもりはなかった』

 教室ではほとんど玲李と話す機会はなかったため違和感はないだろう。

 秤は席に座ると友人達と談笑を始める。視界の端で玲李の姿を確認した。彼女は昨日までとは打って変わり、最初の時以上に冷たい空気を醸し出している。秤は、それが自分の責任であることを強く自覚した。


   ●●


 昼休み。学食に行く。

 玲李とは話さなかった。


   ●●


 数日。

 クラスメイト達も秤を心配し始める。

 そして八重樫さんや……イ、イケ……そう、イケダ君の視線を感じることが増えた。


   ●●


 一週間、そのまま互いに関わることはなかった。

 今まで、ほとんど秤の方から声をかけていた。そのため、秤から関わらなければ必然的に二人はコミュニケーションをとることはない。

 彼女も少しずつ変わってはいた。自分から秤に話しかけたりもしていたが、稀だった。変化の始動期間だったわけだ。それも、先日の出来事で瓦解してしまったのだが。

 秤はこの事態を想定している。そしてこれからどうなるか。そこには幾つも選択肢があり、その中から慎重に道を選び進まなければならない。ここが大きな転機だ。失敗すれば玲李との未来はないだろう。

 朝、通学を終え、学校の靴箱前に到着していた秤は、玲李の姿を認める。

 彼女は俯き、何かを見ている。手紙、のようだ。また、ラブレターだろうか。それはいつものこと。何度も秤は見守って来たのだ。些末なことだと思っていたが、秤は僅かな違和感に気づく。玲李の様子がいつもと違う。過去において、玲李は手紙を見ても表情を微塵も動かさず、確実に興味がないと傍から見てもわかった。だが、今は違う。

 表情を変えている。どのような心境かまではわからない。しかし、何かしらの感情の波が生まれていることは理解できた。

 不安を抱く。もしかして、遊園地での出来事を皮切りに彼女の中に何かしらの変化が起きたのは間違いないが、まさか想定外の方向に傾いたのか。彼女を長年見続けていたとはいえ、完全に理解はできない。だから絶対的に自信を持てはしない。

 不意に、玲李が顔を上げ、こちらを見た。

 眼が合い、若干の気まずさを感じつつも視線は逸らさない。そんなことをすれば、後ろめたいことがある、と勘違いされてしまうからだ。

 秤は視線を受け止め続けていたが、何も言わず、また笑顔を向けない。今の彼女にはどんな行動も嫌味に見えるだろうし、嫌悪感を与える可能性がある。ならば、堂々とする以外に方法はないのだ。

 玲李は蔑みの視線を秤に送った。だが、それも僅かな時間で、踵を返し、教室へ行ってしまう。

 どうやら彼女は『秤と元の関係に戻ることを望んでいない』らしい。あるいは、そういう方向で行動すると決めたのだろう。やはり、彼女の性格上、そして環境上、どうしてもそういう選択をするしかなかったらしい。恐らくは、真面目で真摯な彼女のことだ。自分に対し、強い忌避感はないはず。

 思い込みが激しく、自分勝手な人間は過去を忘れ、表面上だけしか見ない。ゆえに、最近あった出来事を優先的に受け入れ、その上で相手を評価する。しかし賢人は過去を考慮する。信頼を積み重ねるのは難しいが、壊れるのは一瞬という言葉は、裏を返せば、その信頼を抱いた人間の人としての程度が知れるということでもある。過去があり、現在がある。その過去を見ず、現在だけしか見えない人間は愚かだが、それが多くの人間でもある。大概の人は、残念ながら過去の恩や情を忘れてしまうものだ。

 しかし玲李はそれを受け入れない。慧眼の持ち主であるがゆえに、見て見ぬ振りができないのだ。だから、彼女は間違いなく、秤に対して、ただのストーカーなどとは思っていないはずだ。それを秤はわかっていたから、先日のような言動をしたのだ。つまり、自分の行動の理由、何を成し、何を思っていたのかを正直に話したのだ。そして彼女は、それを理解してしまったに違いない。

 だが、それでも玲李は秤を受け入れなかった。それも当然だ、と秤は知っていた。ところが、先ほどの行動は不可解だった。玲李が誰かと結婚する、交際するとなるのであれば『両親が選んだ相手とだろう』と想定していたからだ。

 あれでは、まるで手紙を出した相手の想いを受け取るか悩んでいるかのようじゃないか。

 何があっても彼女を諦めるつもりはない。だが、玲李という少女の心情を慮ることができない自分に苛立ちを感じ始めていた。少しずつ違和が広がる。玲李は一体、これからどうしようというのか。様々な事態を想定している秤でも『その中のどのような行動を彼女が選ぶのか』まではわからない。

 できれば、最悪の選択だけはしないで欲しい、そう願うばかりだった。


   ●●

 

 放課後、玲李以外に教室に残っている生徒はいなくなった。秤は教室外から彼女の様子を見守っている。盗聴器はない。望遠鏡もない。カメラの類もない。今まで使用していたストーカー御用達グッズはすべて処分している。すでに必要ないし、玲李と関わると決めた瞬間から、それらは邪魔でしかない。過去にそういうことをしていたというのと、今もそれを継続しているというのでは印象が段違いだからだ。おざなりにではなく、本当にそういう行為はもうしていない。

 なので普通に尾行している。それがよろしくない行為であることはわかっているが、このまま放置していると危険だ、と秤は直感していた。マニュアル人間であり理性的な人間の秤は、本能的な行動に身を任せることは不安でしょうがなかったが、抗うほどの余裕はなかった。玲李から聞こうにも決して彼女は口を開こうとしないだろう。ならばそっと観察するしかない。ストーカー気質ゆえである。

 伝説の樹と呼ばれる学校の縁結びの場所には……イケメンの、えーと……誰だったか。確かイケダ君、だったと思う。彼が立っていた。彼は以前、玲李に告白して断られた経験がある。二度目の告白、ということらしい。中々に根性がある。玲李に二度告白した人間は過去に一人もいない。彼女はそれほどに誰かに好意を持つという期待感を持たせない。誰しもが心を折られてしまうのだ。

 察するに、この一週間、秤と玲李が話さなくなっているのを見て、好機だと思ったのだろう。そこで告白とは思い切りがいいが、彼の執着心を見ればそれくらいはしそうだ。秤も執着心で言えば負けていない、というか余裕で勝っているが。

 来た。玲李だ。

 いつも通りの鉄面皮だった。相手に対して特別な感情を抱いているようには見えないが、やはり何かが違う。告白を断るような強い拒絶感が薄いのだ。一体、何をしようとしているのか。秤は言いようのない不安に駆られつつも、息を殺して二人の動向を見守る。


「や、やあ、こんにちは」

「こんにちは」


 イケダ君は軽い調子で手を上げたが、指先が震えていた。大して玲李は冷たく挨拶するだけだった。その後は無言。気まずそうにイケダ君は愛想笑いを浮かべていたが、やがて真剣な表情を浮かべる。さすがイケメン。相手を待たせることもしないということか。


「……突然だけど、好きだ。僕と付き合って欲しい」

「以前、お断りしたはずですが」


 おや、言動的にやはり断るつもりなのだろうか。では、靴箱前で見たあの表情は一体。勘違いだったのか? と秤は自身の思い違いを疑ったが、さらに否定した。そんなはずはない。なぜなら玲李に関しては、微妙な変化も見逃したことがないからだ。それだけの自信がある。それが揺らげば、今まで積み重ねたものがすべて瓦解してしまう。

 秤は改めて玲李を見た。やはり変化はない、ように見えたが、違和感があった。彼女には冷淡な空気以外にも相手を試すような雰囲気があった。

 イケダ君を試してどうするつもりだ?

 イケダ君は玲李に冷たく言い放たれても、ぐっと堪えて返答した。


「……そ、それはそうだけど、僕は君が好きだ。諦められない。せめて一度デートしてからでも決めてくれないか?」


 最初の告白を鑑みると、イケダ君は成長しているようだ。想いを告げ終わらず、条件を加え妥協させるということか。なるほど、交渉術としては美味い手段だが、玲李には効果がないだろう。彼女は聡明だ。

 そう思っていた。


「わかりました」


 …………え?

 秤は自分の耳を疑う。今のは間違いなく玲李の言葉だった。彼女の声。聞き間違いはない。了承の意だったのも間違いない。秤は思考を停止させた。何が何だかわからない。


「ほ、ほんとかい!?」

「ええ、デートをしましょう」


 まさか、冗談じゃない。こんな、これは『想定していた最悪の選択』だった。そう、秤の計画の中で、玲李がどういう行動をとるのか、あらゆる状況を想定していた。その中で最も確率が低く、最も最悪な事態。それが『学校の生徒と交際する』というもの。まだ入口に過ぎないが、その可能性が色濃くなっている。

 仮に両親の勧めの相手であれば勝つために様々な対策を練っている。以前、行ったパーティーの対応もその一つだ。わかりやすいのだ。彼らが何を目的にし、どういう人物なのか、理解できれば対策もしやすい。そして大概、彼等には人間力が乏しい。己の力で何かを成した人物は少ないのだ。玲李の相手となると、多くは成功者の息子であるからだ。もちろんそれなりの年齢の相手もいるだろうが、恐らくは両親が認めない。父母はそういう『容姿や年齢』も考慮しているからだ。

 しかしその両親の手を離れ、玲李自身の見識を以って誰かを選んだ場合。そしてその相手が同校の生徒だった場合、それは両親とは違う観点から相手を評価しているということ。つまり両親とは真逆の評価方法、人間的な部分に惹かれたということだ。そうなれば、厄介なことに、恋をしているということになる。盲目的になった人間を冷静に戻すのは難しいし、自分に振り向かせるのもまた困難だ。

 秤は多少ばかり自信があった。自分に玲李の気持ちが向いているという自信が。だがそれは脆くも崩れつつあった。それは恋愛において、心が弱っている時に改めて別の人物の魅力に気づいてしまう、という定番的な状況に他ならない。玲李がそんな安易な行動に出るとは思えなかったが、事実起こっている可能性はある。ならば認めるしかない。

 玲李は、秤との一件で多少自暴自棄になっているのではないか? 心が揺れ、その最中の告白にいつもとは違う答えを出してしまったのだ。失態だ。甘く見ていた。信じすぎていた。相手を信頼するということはすべてを肯定するということではないのに。

 秤は、はらはらしつつ二人の動向を見守り続ける。デートの約束をしているようだ。秤は二人の会話を盗み聞きしたが、日付以外は聞き取れなかった。動揺しすぎて、頭が働いていなかった。こんなことは初めてだった。それもショックだった。

 我に返った秤は失態を恥じると共に、強い後悔の念を抱く。だがもう遅かった。すでに二人は立ち去ってしまっていたのだ。

 結局、彼女達がどこに行くのか、どんな内容のデートなのかわからずもやもやしたままその日は過ごすこととなった。

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