第20話時任秤『と』は恋をしない


 玲李は一人、電車に乗り、帰宅していた。

 無駄に豪奢な造りの玄関を通ると、いつも通りにメイド達が迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 歌湖を筆頭に、メイド数人が頭を垂れていた。連絡はしていない。玲李はわざわざ出迎えされることを嫌っているからだ。門前の監視カメラで確認し、急いで玄関に集まったというわけでもあるまい。なぜならいつもは多くても数人の出迎えがあるだけだからだ。今日に限っては十数人のメイド達がいた。

 それはつまり、玲李が帰って来るとわかっていたということ。あの電話の後、遊園地から電車に乗り、そこからどれくらいかの時間をかけ、そして家に到着すると見越していたということだ。『電話を受け取った玲李がどういう心境に陥り、どういう行動をとるのか、歌湖は理解していた』ということだ。

 歌湖雅からの連絡を受け、玲李は今まで感じたことのないほどの不快感を抱いていた。しかし歌湖に非はない。なぜならすべては事実だったのだから。あんな状況で電話をしてきたことには多少の苛立ちはあったが、彼女を責める道理はない。例え彼女があの状況を知っていたとしても。


「ただいま」


 玲李はいつも以上に冷めた声音をその場に落とした。瞬間、メイド達の表情が凍る。それほどに、玲李の見せた表情は他の人間に畏怖を感じさせるものだった。玲李は感情を表に出さない。だが、それは過去の話。現在、彼女は変わってしまった。変えられたのだ。しかし、時間が経てばまた元に戻るだろう。

 近づき荷物を渡すことを催促する歌湖を一瞥し、玲李はそそくさと部屋に戻った。今は、誰とも話したくない。

 玲李はがらんとした部屋に入ると、そのまま床に座り込んだ。こんなことは初めてだった。こんなはしたないことは今までしたことがない。けれどそれを止める理性は残っていなかった。

 どうして、秤はあんなことを言ったのか。どうして、秤はストーカーのような行為をしても後ろめたく感じていなかったのか。どうして彼はあんなに真っ直ぐに自分を見ていたのか。どうして……こんなことに。


「なのに……私は」


 まだ、秤を好きなままだった。むしろ、今回のことで彼への好意を自覚してしまった。彼に対して怒りはあるし、戸惑いもある。最初は気味の悪さも感じていた。だが、彼の偏愛的な行動ではないという言葉、あれだけの努力を自分のためだけにしてくれたという事実が、玲李の心を激しく揺さぶった。異常な気質だとは思う。けれどその根底には自分のため、という文言があるのだ。そのすべてを否定するのは難しかった。

 今までの行動は計画的ではあったのだろう。恋愛感情はないとも言っていた。しかし、そのすべてが演技だったとは思えなかったのだ。彼は敢えて本音をさらけ出していたと思う。そして嘘を吐いてはいないと言っていた時のあの瞳。頭に焼き付いて離れない。あんなに澄んだ瞳は生まれて初めて見たと思う。彼は無垢だ。とても真っ直ぐだと思う。様々な虚栄や虚構に苛まれ続けていた玲李には彼の真摯な姿勢は眩しかった。それほどに、彼には嘘のような歪みがなかったのだ。もしかしたら、彼は単純に心の底から思い込んでいるからこそ、憂いがなかっただけなのかもしれないとも思うが。

 信じたいという気持ちもまだ残っている。いや、かなり、ほとんどがその気持ちだ。しかし玲李は気づいている。その思いをくみ取ることはもうしない。これは岐路なのだ。ここで秤と親しくなる道を選べばどうなるかは目に見えている。

 彼が一般的な思考を持ち合わせてはいない、ということとは違う。確かにそこは大きな問題だが、元々、玲李は秤と恋仲になることは不可能だと思っていたのだ。互いの環境が違い過ぎる。それでも惹かれ、少しだけこのまま、という甘い誘惑に身を投じてしまっていた。夢のような時間だった。けれど夢は覚めるものだ。だから、今回の出来事は丁度よかったんだろう。

 気持ちの整理もできるかもしれない。このまま、彼への不快感を受け入れれば、きっと少しずつ彼を嫌いになれる。どれくらいかかるかはわからないが、それでもいつかは忘れることもできるかもしれない。


「……本当に、そうなの?」


 自信がない。彼はそれほどまでに自分の中に入り込んでいた。目を瞑れば、時任秤の顔や仕草、そのすべてが想起されてしまう。たった一ヶ月程度。そんな期間で、これまで十七年間を覆すほどに、彼は自分を魅了した。それは計画的な恋愛だった。そう、計画だったのだ。本来なら激昂し、好意を裏返して憎悪に変えてもおかしくないし、嫌悪する方が正常な気もする。けれど、その気持ちが自身の中にはほとんどないことを自覚していた。彼女はこう思ってしまう。『十数年も自分のことだけを考え、努力し、労力をかけてくれたのだ』と。

 執着心とも思えるが、玲李はその執拗な程の行動を嬉しく思ってしまったのだ。彼女は気づいていないが、それは彼女の気質や嗜好に酷く近しい、歪んだ偏向的な愛情表現そのものだったからだ。偶然にも、玲李の望む状況に陥りかけているということでもある。それは二人共が知らないことであった。

 悩んでいた。苦しんでいた。いつもはもっとすぐに答えは出せるのに。いや、もしかしたら今までの悩みなんて大したことではなかったのかもしれない。そうならないように自制し予習をしていたことばかりだったからだ。恋には予習はない、ということなのだろう。秤の計画もまた、たまたま上手くいっただけのような気がする。人相手の出来事に絶対はないだろうし、何が起こるかわからないのだから。

 ――そう、そういうことだったのね。


「だから、十数年もかかったんだわ」


 それだけの時間を計画の下地作りに費やした。それだけ一人の人間と恋をするということは難しいことなのだろう。途方もない。そんな時間を誰か一人のためだけに使うなんて。

 わからない。どうすればいいのか。彼や自分の気持ち、行動、それらが複雑に混ざり合っている。色んなことが頭をグルグルと廻るだけだった。けれど決めなくては。こんな中途半端な気持ちのままでは何もできない。彼にどう接すればいいのかもわからない。

 無視、はしない。人として最低の行為だと思っているからだ。どんなに嫌いでもどんなに受け付けない相手でも無視することは認められない。相手が誰であれ、最低でもなんでも、自分が最低な行為をしていい言い訳にはできない。もしも許容すれば、いずれ堕落してしまうことは目に見えている。人には理性が必要で、自制こそが美徳なのだ。

 けれど今までのような対応もできないだろう。ならばどうすればいいのだろうか。彼は恐らく自分に関わるだろう。

 いや、と玲李は首を横に振った。

 もしかしたら自分の反応次第では関わらないかもしれない。なぜか玲李は『自分が望めば秤はそういうことをしそうだ』と思っていた。彼の人生の大半は自身のために費やされた。彼の人生は自分と共にあったのだ。そして彼は彼自身の感情を優先するようなことはほとんどなかった。すべては玲李のため。それはつまり、彼女が本気で望めば『二度と近づかないで欲しい程度のことならば平気で受け入れてしまいそうな雰囲気があった』気がする。危うい。非常識だ。けれど同時に彼の意思の強さも感じとってしまう。

 玲李は必死で考えた。真面目な彼女には、その辛い決断から逃げるという考えが浮かばなかったのだ。

 そして、膝を抱えたまま一時間以上が経過した時、玲李は曖昧なまま答えを出した。


「……うん……決めた」


 玲李にしては珍しく、自信のなさそうな声音だった。

 玲李は強引に自分の気持ちを一方へ固めた。彼には今まで通りに接することはできない。あまり気は進まないが、突き放す態度をとることになるだろう。

 玲李は改めて自分に言い聞かせる

 時任秤『と』は恋をしない。そう何度も胸中で繰り返した。

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