第19話告白


 夕方。散々アトラクションを楽しみ、そこかしこでリッキーを見かけるごとに玲李は写真を撮った。最初のアニキとは違うアニキに困惑した玲李を見るのは楽しかった。アニキは一人、でもリッキーは何人も……おい、やめろ、何をする!

 二人は歩き回り遊びつくしてベンチに座りドリンクを飲んでいた。秤はオレンジジュース、玲李はファンブルジュースだ。聞き覚えない? だって中身は誰も知らないんだもの。その日によって材料が変わる、闇鍋ならぬ、闇ドリンクなのだ。

 相変わらずの食事の選択センスだったが、秤は気にしなくなっていた。玲李は、おいしいから飲んで、と無理矢理勧めてきたりしないからだ。彼女は自分の考えや感情を他人と共有しない。それは今まで一人で生き続けてきた彼女だからかもしれない。良し悪しはわからないが、少しだけ寂しいとは思った。

 時間はある。これから距離を詰めて、互いを知っていけばいいのだ。少なくとも玲李は秤を嫌ってはいないし、好いているはずだ。恋人関係になれるという確信が秤の中にも芽吹いていた。このまま問題なくいけば。


「今日はとても楽しかったです」

「うん、僕も楽しかったよ」


 秤は素直に気持ちを口にした。しかし玲李の反応は芳しくない。


「本当ですか……?」


 怪訝そうに言っている。本心から言っているのか不安に思っているのか。そう思った秤は玲李を安心させるために重ねて言った。


「本当だよ。心から楽しかった。また桜ヶ丘さんとどこか行きたいと思ってる。社交辞令じゃないよ。本当に思っているんだ」

「そう、ですか」


 表情はそのままだが、瞳は揺れていた。動揺している。秤のまっすぐな気持ちを自分の中で消化しきれないようだ。秤はそんな玲李を見て、可愛いなと改めて思った。

 玲李は行き交う客達を見ている。友人達、家族達、カップル達。彼等を見て、どこか羨望のような色を瞳に浮かべていた。


「私は……昔から、こんな感じで、友達もいませんでした。両親はほとんど家にいませんし、家にいるのはお手伝いさんばかり。恋人もできません。告白されたことは何度もありますが、どうしても受け入れられなかったんです。彼等は私を見ていない、そう思ったから。私に近づく人は色眼鏡で私を見ます。段々それがイヤになって、人を寄せ付けないようになりました」


 秤は相槌も打たない。なぜなら玲李は秤を見ずに話していたからだ。思い出すように、言葉を繋げて、自分の中で整理しつつ話している。それは自分に言い聞かせているように見えた。独り言に近い。けれど秤に聞いて欲しい。そんな彼女の感情が見えた。だから秤は黙して玲李の話を聞いた。決して目を逸らさない。だけど言葉は発しない。それが誠実な姿勢だと思ったのだ。


「昔から、私を褒めたり認めたりする人はいました。けれどそれだけで、私と仲良くなろうとする人は下心がありました。そんな繋がりはイヤだった。結局、この年齢まで友達ができたことはありません。恋人も。それでいいと思っていたんです。これからもそうやって一人で生きて行こうって。そのために努力もしたし、今までも生きて来れた。でも」


 玲李はその先を話すか否か迷っている様子だった。秤は何も言わない。けれど、玲李が秤に視線を移した瞬間、小さく笑った。大丈夫、僕は受け入れる、そう言っているように。

 玲李は再び正面に視線を戻し、ゆっくりと口を開いた。


「でも時任君に出会ってしまった。最初は、ゆいちゃんに変なことを吹き込んだ人だと勘違いして……でも話していく内に他の人と違うんだって思いました。努力家で真面目で優しくて、私にないものを沢山持っている人だって。少しずつ話して、知って。まだそんなに時間は経っていないけれど、それでももっと知りたいって思えて……多分、私は戸惑っているんです。こんな気持ちになったのは初めてだから。けれど……私は」


 彼女が何を悩んでいるのか秤にはわかった。彼女の立場からして一般人の秤と交際するのは両親が許さないだろう。そして彼女もそれを理解している。だが、秤に惹かれているのも事実。だから迷っている。このまま親しくなっていいのか。このまま好きになっていいのか。秤は自身のことながら客観的に玲李の心理を読んでいる。それが少しだけ心を苛んだ。自身が選んだ道でも、本気で考えてくれている玲李を見て、自分はどうなのかと考えてしまう。そうすることを選び、十三年間を過ごしてきたのだ。今、情を認識してはいけない。忘れるのだ。見て見ぬふりをするのだ。心を揺さぶられては、冷静さを欠いてはいけない。感情は風化するのだ。思い出は忘れられるのだ。理性的に認知することが肝要なのだ。

 秤は何も言えない。わからないからという風を装い、その実、知っているのに何も言わない。なぜなら深く踏み込めば関係が終わる危険性があるからだ。だから、今は、玲李の悩みに立ち入らない。

 静寂の中、数分が経過したところで、秤は言った。


「あのさ。玲李って呼んでいいかな?」

「え?」

「いや、桜ヶ丘さんってなんだか距離があるし、イヤかな?」

「……構いません」

「ありがとう」


 今はこれくらいの距離の詰め方でいい。焦る必要はない。けれど悠長にしてもいられない。常に考え、常に最悪を想定し、常に進み続ける。それしか彼女と添い遂げる未来は得られない。

 さん付けの方がいいかもと思ったが、段階を徐々に踏むのは逆効果の場合もある。一度、呼び名を変えられる機会があるのなら、できるだけ踏み込むべきだ。


「私も、秤、で?」

「うん、いいよ。玲李」

「……は、はい。秤」


 再びの沈黙。気まずさはない。けれど全身がむずむずするような、胸が締め付けられるような落ち着かない状況だった。脈拍が上がっているが、表面上は冷静を装う。顔には出さないが、服の下は汗が滲んでいる。落ち着け、落ち着けと思っても効果はない。自分で距離を縮めようとして、その先は考えていなかった。名前で呼んでいいかと言われれば、必然的に秤が玲李をどう思っているのか伝わるはずだ。もっと親しくなりたいと秤は思っている、そう玲李が気づけば、おのずと互いに緊張が生まれる。


「秤、は……パ、パーティーで、わ、私のことを、その」


 玲李は顔を真っ赤にしている。眉を寄せ、怒っているようにも見えたが、どもっているために何を考えているかは手にとるようにわかった。彼女は、先ほどから一転、秤に近づこうとしている。心境の変化か、それとも好奇心か。どちらにしても状況は変貌してしまう。

 まさか。

 いや、そんな。

 彼女は今、この場で自分の気持ちを聞くつもりか。

 秤は生唾を飲み込んだ。さっきまでジュースを飲んでいたのに喉が乾いている。だけど、今は身動ぎができない。動くことさえ憚られてしまったのだ。

 玲李の唇に視線が奪われる。柔らかそうで色香の溢れる部位だった。秤は緊張のままに、次の言葉を待った。そして玲李は小振りな唇を僅かに開ける。

 ピリリリリリ。

 電子音が響き、空気が弛緩した。デフォルトの着信音なのが玲李らしい。彼女は慌てながら鞄からスマホを取り出した。そして画面を見てから、秤に窺うような視線を送る。


「出ていいよ」

「ご、ごめんなさい」


 玲李はスマホを耳に当てて通話を始めた。


「もしもし、ええ……何か用? え? いるけど、ええ……どうして? ……それは必要?

 ……わかったわ。秤、ちょっとごめんなさい」

「うん、大丈夫」


 玲李はベンチから立ち上がり、少し離れた場所で通話をしていた。

 相手は誰だ? 家族か? 時間は夕方だしまだ大丈夫だと思うけど、もしかして門限があったんだろうか。だったら早く帰らないといけない。しまった。先に聞いておくべきだったな、と秤は考えていた。

 気になって玲李の様子を見ていると、何やら口論しているようだった。見た目は冷静だが、明らかに不快そうに顔を歪めている。両親とも上手くいっていないと言っていたし、その反応はおかしくないのかもしれない。

 しばらくして玲李は通話を終え戻ってきた。


「おかえり、大丈夫だった?」


 秤は玲李を気遣うように優しく声をかけた。玲李の表情は芳しくない。何かあったらしい。これならさっきの流れはなくなるだろう。安堵すると共に少し残念にも思う。今は時期じゃない。まずは両親に認めさせることを並行しなくてはと秤は考えている。そのためにパーティーに出席し、多少なりとも一般人とは違う部分を見せつけたのだから。

 玲李は無言のままだった。彼女らしくない。押し黙っている様子は、何か剣呑な空気を感じさせた。一体、何があった?

 どうかしたのか、と聞こうとした秤だったが、直前で玲李が話し出した。


「『時任君』。あなたは的場ゆいちゃんに頼んで、桜ヶ丘家に出入りしている庭師に弟子入りした。それは私に近づくためだったのですか?」


 秤は心臓が止まるかと思った。

 まさか、このタイミングでこんなことを言われるなんて思わなかった。

 思考が一瞬だけ止まる。そして無数に生まれる疑問。答えはなく、ただ時間が過ぎた。

 玲李は縋るような視線を秤に送った。その言動、その仕草から、玲李が誰かに、秤の行動を教えられたことは間違いなかった。ゆいや銀二は違う。ならば、単純に身辺調査を行ったのかもしれない。秤が的場家に出入りしているのは、何もゆいと銀二だけが見ているわけではない。他の使用人、近所の人達も見ているはずだ。そこまでは気を付けていなかった。いや、気を付けられなかった。基本的に堂々としている方が安全だからだ。

 秤は無言を通す。まだ玲李は何かを言いたそうだったからだ。


「幼稚園から小学校、現在に至るまであなたは私と同じ学校に通っていた。私の行動を監視していた。そのデータは家にある。同校の生徒達の恋愛仲人をしていたのは、私に近づいた際に活用するため。あなたは昔から私を知っていて、ずっと見ていた。つまり……」


 玲李は一気にそこまで言うと、言葉を止めた。迷っている。勢いでそこまで話したけど、自信がなくなったのだろうか。いや、半信半疑なのだ。秤の潔白を信じつつも、偶然の積み重ねで出会った事実が彼女に疑問を残している。もしかしたら、いやでも。そういう思いが、彼女を突き動かしている。


「つまり……あなたは、私のストーカー……というのは本当ですか?」


 玲李は秤を見つめる。今まで見たことがないほどに複雑そうな表情をしている。秤は大きく息を吸い込んだ。頭は冷えている。さっきまで感じていた甘酸っぱい感情は霧散し、現実を見せつけられている。わかっている。いつかこうなるかもしれないとは思っていた。だから、秤は『すでに用意していた返答』をした。


「その通り、一般的には、僕は君のストーカーだと言われるだろうね」


 秤の返事を聞き、玲李からは一気に何かが剥がれ落ちていった。その瞬間を秤は垣間見て、心を強く抉られる。想定はしていた。だが、これほどに気落ちするとは思わなかった。

 玲李は脱力し、光のない瞳で秤を見据える。強い落胆がそこにはあった。


「すべて事実、と?」

「ああ、全部事実だよ。幼稚園から君のことは知っていたし、君が私立の小学校に行った時も親に無理を言って同じ学校に通うようにした。今までもそうだよ」

「私を監視していたというのは」

「君の行動をカメラで監視していた。ああ、屋内までは見てないよ。プライベートは守られていると思っていい。データは、どうやら見たらしいから確認してもいいよ」


 桜ヶ丘家ほどの財力があれば情報収集など簡単だろう。犯罪まがいのことをしても揉み消せるくらいの権力はある。相手は一般市民なのだから。


「じゃ、じゃあ」

「全部事実だよ。恋愛仲人していたのも君と恋人関係になって、結婚するためのデータ収集が目的だった。ゆいちゃんに頼んだのも事実だ。けどあの子はただ純粋に、俺が君を好きで、近づきたい一心で頼んだと思ってる。ゆいちゃんは無関係だよ」

「……ど、どうしてそんな」

「どうしてって、君と結婚したいから」


 秤は素直に口にした。逆の立場ならばどう思うかわかっていても、秤は言い訳をしなかった。今何を言っても玲李は冷静に受け入れてはくれないだろう。例え、彼女ほど聡明でも分別がついても、冷静でも、恋は盲目なのだから。玲李は秤に恋をしかけていた、あるいはしていたかもしれない。それが実は虚像だと言われて、冷静に相手の言葉を聞ける人間はいない。そう、恋愛感情を持たない秤以外に、この状況で冷静になれる人間はいないのだ。秤は知っていた。どんな人間でも、桜ヶ丘玲李というほどの人間でも恋をすれば人が変わってしまう。まだ玲李の人間性を全て見たわけじゃない。恐らく、その一端だけだろう。それでもわかってしまっていた。

 事実、玲李は目の前で身体を震わせていた。彼女の内を駆け巡っている感情は怒りだ。


「ふざけないで! じゃあ、全部あなたが仕組んだことだって言うの!?」


 玲李が叫んだ。人生で初めてのことではないだろうか。秤は初めて、玲李の感情的な姿を見て、少しだけ嬉しく思った。けれど心に滲んだ感情の大半は強い後悔だった。わかっていたのに、後悔は抑えられない。


「そういうことだね」

「な、何を、そんな当たり前みたいに。あなたは何が目的で私と結婚しようとしたんですか!?」

「君と結婚したいと思ったから。ああ、勘違いしないで欲しい。僕はね、君に恋愛感情はないよ。それに君の家柄も興味はない。前にパーティーで言った言葉は僕の本心だし、僕は一度として君に嘘は吐いていない」

「わけがわかりません! 結婚したい? でも好きじゃない? お金目当てでもない? じゃあ何が目的なんですか!」

「だから、君と結婚したいんだ。そして人生を共にしたい。それだけだよ」


 秤は素直に言った。恥じることはない。それは秤が今まで生きて来た理由、これからも生きる原動力になる理由なのだ。彼は異常だ。変わっているというレベルではない。けれど、一途で意固地なのだ。真面目で真っ直ぐだから揺らがない。常識とはかけ離れてはいるが、彼なりに誠意を見せている。それに相手を貶めたり傷つけるつもりはない。幸せにするために最大限の努力をしようとさえしている。ただ、そこには恋愛感情がないというだけだ。

 玲李は理解できないとばかりに首を横に振り、秤から距離をとった。しかし秤はベンチから立ち上がらない。そんなことをすれば玲李に恐怖を与えてしまうからだ。彼が座っているから玲李は少しばかり冷静を保てているのだから。ストーカーと認識した相手を警戒しないはずがない。


「あ、あなたはおかしいです」

「理解しているよ」


 今は受け入れなくていい。彼女は正しいのだから。現段階では彼女にわかってほしいのは、『秤は玲李に対して恋愛感情はなく、玲李と結婚したいと思っており、一般的なストーカーとは違う』ということだけだ。すぐに受け入れられるはずもないがその事実を知っているということが大切だ。

 玲李はキッと秤を睨んでいる。しかしまだ震えていた。これは怒りというよりは虚勢のように見えた。無感情で鉄面皮という玲李の印象とはかけ離れている。単純に玲李は感情的になれる場面に遭遇しなかっただけだ。実際、当事者になれば無感情ではいられない。それが人間なのだから。これで、彼女もまた変わるだろう。

 問題ない。少し早かったが『計画通りに事は進んでいる』のだ。


「……もう私に関わらないでください」

「どうして?」

「どうしてですって!? あなたが何をしたかわかっているんですか?」

「僕は君に付きまとっていないし、今の今まで君は不快感を抱かなかった。つまりストーカーとは言えないでしょ?」

「けれど今は違います!」


 こういう話がある。ある夫婦の話だ。二人は仲睦まじく暮らしていたが、妻はある時、夫の私物を見てしまう。そこには無数の妻の昔の写真、それと夫の日記があった。日記には過去の日付と共に、妻の行動が事細かに書かれ、偏愛的な内容がつづられていた。最初の日付は妻と出会うかなり前のものだった。

 それを見た妻がどう思うか、誰にでもわかることだ。夫はストーカーで、出会いは偶然で、計画的に恋愛をしていたのだ、と。その事実に耐えられはしないだろう。

 だが、もしもその日記や写真がなく、一途に思い、周りにお願いして、或いは計画を立て、想い人と仲良くなろうとし、最終的に結婚した場合はどうだ。純愛と持てはやすのではないか。違いは何だろうか。あくまで偏愛的な面を見せるか否かの違いでしかない。一途と偏愛は似て非なるものなのだ。強い想いを持ち続けるのは異常性と二律背反であると秤は考えている。

 そしてその偏愛性を秤は持っていない。それでも忌避する考えはあるだろう。


「うん。けどね、僕は君に恋愛感情を抱いていないんだ。君と結婚はしたいけどね」

「な、なにを……言ってることがわかりません!」

「うーん、そうだな。言葉だと言い表しにくいけど、君しかいないと思っているみたいな感じに近いね。嫉妬もしないし感情に溺れたりしない。じゃないとこの十三年間接せずにいられないだろ? 僕は、君と結婚するためにあらゆる努力をしてきたんだ。勉強も運動も色んな技術や知識も得た。家業も建てなおして経営者としてもある程度の成功もした。人脈も構築した。有名企業の社長や地位の高い人達とも懇意になった。君とは大きな格差があるからそれを埋めようと必死で努力したんだ。僕は君と違って素質も才能もないからね。努力でどうにかするしかなかった」


 例えば、好きな人がいるとしよう。その相手のため、あるいは相手に近づくために、努力したり行動したりできる人間はとても少ない。大抵の人間は『自分のことを優先する』のだ。断られて傷つくのが怖いから告白はしないし、相手が自分に気がないと思い込んで行動しない。苦労するのがイヤだから相手に気に入られる努力もしない。そんなことを言い訳に仕方がないと納得しようとする。その上、相手のせいにし始めたら最悪だ。一方的に懸想しているのに、恋している相手に責任を転嫁することほど最低な所業はない。好きな人を貶めているのだから。

 相手と仲良くなる行動も、相手に認めて貰う努力もしない。結局、恋をしている自分に酔っているだけで、何もしない。それで上手くいかなければこういうものだ、と自分を納得させる。それは恋じゃない。そんなのはただの怠惰だ。ただの自己愛だ。そんな結果は、秤には認められなかっただけのことだった。秤は恋愛仲介の経験で、そんな人間をごまんと見て来た。自分では何もせず、何のリスクも背負わず、他人に縋る。努力も苦労もしない。傷つくことを恐れ、いざという時のため、自分を守ろうと必死だ。結局は『相手と相思相愛になることより、自分が傷つかないようにすることを優先している』ということに気づいていない。当事者であるのに、安全圏に逃避し、そこから動かず、相手から近寄って貰い、想いを遂げて貰おうと仕向ける人間もいる。恋をしているのは自分であるはずなのに。

 初恋が上手くいかないのは、自分のことを優先してしまう幼稚さが邪魔をするという理由があるから、であると秤は考えている。それを単純に初恋そのものが上手くいかないものだと勘違いしている人間が多すぎる。それは違う。初恋をし、失敗した人物が上手くいかなかっただけの結果論だ。努力が足りず、思いやりが足りず、自分を優先して、わがままに生きただけのことだ。何もかもが足りないのに、初恋という言葉に責任を転嫁しているだけにすぎない。それを秤は許容できない。だから計画を立て、努力し、行動した。

 しかし、秤が過剰な程の努力を、玲李のためにしたという事実。それを好意的に受け取ることは玲李にはできないだろう。むしろ執着心と考え、気味の悪ささえ抱くに違いない。それでも事実は先に伝えておかなければならない。今ではなく、後のために。


「相手のことは好きじゃない。それにお金や権力もいらない。なのに私と結婚したい……?」

「うん、そうだね」

「そんなのおかしいです!」

「おかしいだろうね。普通じゃない。だけど実際、僕はそう思っているんだから仕方がない。偶然を装ったのは悪いと思っているけど。僕は一般的な自己愛しかないストーカーとは違うし、君の容姿に惑わされて勝手に好きになるような奴らとも違うよ。君のすべてを受け入れるし肯定している。僕はね、ただ、君という人間と共に生きたいというだけなんだ」


 玲李は秤に蔑みの視線を送った。彼女は純粋な恋愛を望んでいたのだろう。それは秤にも理解出来ていた。だけどこうも思う。『彼女に普通の恋愛は無理だろう』と。

 それを玲李は気づいていない。いや心の底では気づいているのに、気づかない振りをしているのだ。秤とは違う。敢えて見て見ぬふりをしている秤とは圧倒的に差異がある。

 玲李は秤から後退り、そして耐えられないとばかりに走って去って行った。その後ろ姿を、秤はただただ見守った。

 第一段階の出会い、第二段階の恋愛、そして第三段階の本音。現在は第三段階。秤の本音を打ち明けその上で受け入れて貰う段階だ。思ったより早かったが、想定の範囲内ではある。思った以上に、玲李を翻弄している感じがして気分は悪い。だがそれでも『恋愛感情なく互いに理解し、受け入れ、結婚する』という目的を達成するには必要な行程だ。

 恋は人を狂わせる。そして好きという感情は風化する。情を愛と勘違いさせ、無理やり添い遂げる夫婦がいかに多いか、秤は情報収集で理解している。一生、恋はできない。子を鎹として無理矢理に夫婦関係を続けたり、愛も恋もないのに長年添い遂げたからまあいいかと死ぬまで共に過ごすような関係はお断りだ。

 秤は玲李と、互いに大事な存在だと思いながら生きたい。けれど恋はしない。恋愛感情は持たない。そんな曖昧な繋がりを主柱にすればいつかは壊れてしまう。だから理性的に互いを必要な存在だと認識したい。新たな関係性。恋人でも友人でもない。異性としても人としても互いを必要不可欠な存在だと思える関係性、家族をも超えたそんな間柄を求めている。そんなことは無謀で荒唐無稽だとは思う。けれど、秤には玲李しかいないのだ。彼女が仮に誰かと恋をしても、結婚しても、秤は玲李以外の相手は考えられない。

 そして彼女が振り向くいつかを待つだろう。死ぬまで。何があろうと。

 秤は、これからどうなるか不安に思う。彼女を傷つけたくはないし、怖がらせたくもない。どうしても受け入れられないとなれば、近づかないようにしようと思う。そうならないように今まで行動して来たし、これからもそうする。

 大丈夫、きっと上手くいく。そう秤は自分に言い聞かせ、ようやくベンチを立った。

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