第2話時任秤という人間
時任秤。
彼は中肉中背で顔立ちは多少いいが、それ以外に目立った能力はない。運動神経中の上、成績上の中、交友関係はまあまあ広い。特徴は眼鏡をかけていること。
部活に入っておらず、特筆すべき点は人に頼られやすいということくらい。その特性を活用し、人の恋路の手伝いをする、恋愛仲人なんていうものを小学校低学年から始めた。
時任秤という人間を一言で表すなら『マニュアル人間』である。
彼は突発的な行動を嫌う。事前準備のない出来事を忌避している。アドリブなんて冗談じゃない。だから、彼は常に考え、常にあらゆる事態を想定するように努力する。
彼がそんな性格になったのは幼稚園の頃。
同じ、つばき組の桜ヶ丘玲李を見た時だった。
幼いながら完璧な所作と存在感で他を圧倒し魅了していた。その見目と空気、そして彼女が織りなす全ての要素が、時任秤を変えた。
可愛いね、と持てはやす幼稚園児の中、秤だけが客観的に観察した。その日まで、普通の幼稚園児同様に感情的に自由に過ごしていた。しかしその瞬間から秤の人生は変貌したのだ。
玲李は幼いころから桜ヶ丘玲李だった。表情の欠片もなく、冷たい視線を周囲に向け、壁を造った。完璧ゆえに周囲を翻弄し、完璧ゆえに期待という先入観を与えてしまう。周囲の人間は最初だけ持てはやすが、やがて疎遠になる。その光景を秤は幾度も見ることになる。
勘違いしてはいけない。秤は玲李に対して好意を持ってはいなかった。彼が持っていたのは一つの思い。
結婚するのならこの子しかいないという思いだけ。
好意はなかった。直感もなかった。運命的な感覚があったわけでもない。
その日まで幼い秤が漠然と抱いていたのは大人になった自分のこと。詳細はわからないが、歳を取れば女の子と結婚して家庭を作るということは知っていた。そして結婚によって、伴侶の持っているものを得られるということも知っていた。当然、与えなければならないことも理解していた。秤はどうすれば子供を作れるのかということよりも、結婚すればどんなメリットがあるのかを知りたがった。
幼いながら彼は既に打算という能力を培っていたのだ。それは情報化社会と両親の無遠慮な会話によるものだった。しかし、常識的に考えて彼ほどに記憶力や論理性に長けた幼子がいるとは思いつかないため、両親を責めるのも酷なのかもしれない。
そして、秤は玲李を構成するすべての要素を知る。
最初の印象通り、容姿だけでなく、育ちも良く、家も裕福、本人も才能に長けており、彼女と結婚すれば間違いなく、人生において成功すると確約が取れる。だがそれさえも秤には大したことではなかった。彼は玲李を構成するすべてに魅力を感じていただけだ。
漫画や映画、様々な媒体から情報を収集して、幼馴染という存在になると恋人関係になることが難しくなる場合もあると知り、秤はわざと玲李に近づかなかった。何より、秤は状況に身を任せるという不安定な道筋を嫌った。一緒に時間を多く共有するということは不確定要素が無数に生まれるということでもあったからだ。
その後、園を卒業する前に玲李が私立の小学校に入ると知った。
両親に無理を言って、同学校を受験をした。幸い、かなり早熟だった秤は比較的容易に受験を合格した。しかし、同じ学校に通うことになろうとも同じクラスになろうとも秤は玲李に話しかけたり接することは極力しなかった。
基本的に記憶には、最初の印象が強く根付く。だから影が薄いままでいようと思った。彼は玲李を遠くから眺め、観察することに終始したのだ。
そしてなんやかんやで十三年間が経過した。
走馬灯のように過去の自分が思い浮かぶ。
感慨だ。それも仕方のないこと。今日に至るまでの努力の全ては桜ヶ丘玲李と結婚するためだけにあったのだ。ちなみに彼女とは同じクラスだ。
秤は金田君と別れた後、一人帰路に就いていた。
閑寂な住宅街だった。夜の帳ももうすぐ降りるだろう。
人気のない路地を進む中、秤はふと気づく。
視線の先には五歳程度の女の子がいた。不安そうにきょろきょろとして歩いては止まり、また引き返して元の場所へ戻るということを繰り返している。
迷子ということは一目瞭然だった。
しかし助ける必要はない。なぜなら秤は完全利己主義だからだ。益がなければ行動しない。助けないし、親切にしない。恋愛仲人だって、恋愛におけるデータを収集するために始めたにすぎないのだ。
つまり、秤に迷子を助けるという選択肢は――女の子と目があった――たまにはあるかもしれない。確かに連想できる利益はないが、回りに回って益をもたらすこともありえなくもないのだ。つまりペイフォワードである。利己主義には反するが、まあ自分に返ってくることもあるかもしれない。非常に低い確率ではあるが。
庇護欲をそそられる視線を向けられ、秤は思わず立ち止まった。挙動不審ながら、周辺を見回し、誰もいないことを認めると、嘆息してその場で屈んだ。
「君、迷子?」
女の子はビクッと震えた。声をかけられるとは思わなかったのだろうか。それとも大人が怖いだけか。どちらにしても面倒だと思った。秤は子供が好きなわけではない。
女の子は綺麗めな恰好をしている。最近の子供はお洒落だからおかしなことではない。
「僕は時任秤って名前なんだ。君はなんて名前?」
「ま、まとばゆいです」
口調は思ったよりしっかりしている。教育が行き届いているらしい。
「ゆいちゃんか。道がわからないのかな?」
「はい……」
「じゃあ、お母さんかお父さんに、迷った時に見るように言われてる紙とかない?」
「あ、ありません」
ということは頻繁に迷子になるような子じゃないのかもしれない。
交番に連れていくのが一番だが、ここからだと多少距離がある。途中でゆいちゃんの親か知り合いに会ったら勘違いされて面倒なことになりそうだし、どうするか。
事前に交番に連絡して、迷子を捜している親がいるかどうかを聞けば、免罪符にはなる。その手で行けば安全ではある。だが、運が悪ければかなり手間取る方法だ。
いや、待てよ。
「携帯電話とか持ってる?」
「え、えと」
ゆいは返答する前に慌ててポシェットの中を漁った。そして、小さな手に握られたのはスマホだった。しかも最新機種。
こんな子供に与えるなんてどういう親だ。それともこれが普通なのか?
秤は内心呆れつつも、スマホを受け取った。
「ちょっと中見るね」
「ど、どうぞ」
こんな小さい子にもう少し警戒しろと言っても無理があるだろうが、今後が心配になるくらい素直だ。
操作していくと、自宅や母親と父親の連絡先が登録されていた。
母親と父親に連絡してみたが、通話に出なかったので自宅にかけるとすぐに出た。
『お嬢様。いかがなさいましたか?』
しゃがれた男性の声が聞こえる。
秤は、お嬢様? と疑問を抱きつつも話を続けた。
「あ、もしもし。私、時任秤と申します。そちらの御嬢さんだと思うんですが、まとばゆいちゃんって子が迷子になってまして」
『な、なんと!? い、いいいいいいいいいいいいい、い、いいいい、今、ど、どこに!?』
――じじい落ち着け。
そして秤が住所を告げた瞬間、通話は途切れた。
「なんだったんだ……はい」
「あ、ありがとうございます」
秤がスマホを返すと、ゆいはぺこりとお辞儀をした。礼儀正しい子だと、秤は内心で感心した。
路地端に移動し、民家の塀に体重を預ける。
「そんなに時間かからないと思うけど、一応、僕も待つよ。一人じゃ心細いだろうしね」
「ありがとうございます」
「いいさ、ここまで来たら見届けないと心配だしね」
ぽつぽつと会話をして過ごし、数分後に迎えが到着した。
リムジンだった。住宅街で胴長の車種が通れるはずもなく、半ば強引に走ったのだろう、至る所に傷跡があった。この運転手、間違いなく馬鹿である。
運転席から降りて来たのは白髪の老人だった。しかし背中はまっすぐ伸びて姿勢正しい。慇懃ながら、焦燥感が溢れ出してしまい、反復横跳びのような動きをした。完全にコミカルの領域に達していたが本人は本気だ。
「お、おおおおおおおお、おお、お嬢様ぁぁぁぁっ!」
危ない人に見えなくもないが、どうやら知り合いのようで、ゆいも笑顔を咲かせた。呼び方からしてお手伝いさん、執事のような役職の人らしい。
つまり、お金持ち。別段珍しくもなくもないかもしれない。
「すみませぬ、ありがとうございます、もうしわけありません、是非ともお礼を」
「いえ、いらないです。そういうの貰わない主義なんで」
秤はきっぱりと断ると、腰を落としてゆいに笑いかけた。
「じゃあ、元気でね」
「はい、あ、ありがとうございました」
長居すると色々言われそうなので、秤はさっさとその場を後にする。
「ちょ、待ってくだされ!」
後方から制止する声が響いたが走り去った。
完璧だ。完璧な去り際だ。ともすれば、ゆいの記憶には迷子で困った時に助けてくれた優しいお兄ちゃんという思い出が刻まれ、秤が将来的に困窮した時に助けてくれるかもしれない。家は裕福層だし、顔立ちも整っていて、美人の未来が待っているだろう。
可能性は非常に低い。しかし行動したという過去がなければ、偶然も起こり得ないのだ。いわば投資である。
秤は肩で風を切り小走りで住宅街を抜け、商店街に到着する。今時、寂れた商店街を利用する客は少ない。大型デパートやコンビニがあるから、わざわざ古臭い個人店を訪れる理由がないのだろう。
「おう、ハーちゃん、お帰り」
「お疲れ様です」
八百屋のおっちゃん、八尾さんが豪快に笑いかけてきた。秤は完璧な笑顔で返事をする。
近所の人達はほぼ全員が顔見知りだ。外面がいい秤は常に挨拶を怠らないため、皆々様に可愛がられている。
「ハーちゃん、残り物あるから、いつでも来なさいねぇ」
「ははは、ありがとうございます」
「がっはっは、この間の日本酒美味かったぞ! また、依頼するからな!」
「毎度ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」
「あんらまぁ、おじーーーさん。今日もいっけめんだわぁ。超いけてるわよぉ」
「おじいちゃんじゃないですよ。時任貞夫(ときとうさだお)の息子です」
「あなたの後ろに髪の長い女の人が見えます。祓いたいならば、この壺を購入してくだ」
「去ね」
次から次に声をかけられ、秤はイヤな顔一つせず対応した。
爽やかな表情のまま手を振り、そのまま商店街ではひときわ目立っている外観の店に入って行った。入口上部には『酒屋ときとう』という看板がでかでかと掲げられており、内部が見やすいように壁にはガラスがはめ込まれている。ショーケースは別段珍しくはないが、酒屋という分野では多くはない。ショーケースは高級感を演出できる上に、内観を外部から可視化している。酒は光と温度に弱いので、中身はただの水だ。
品揃えは豊富だ。ビール、カクテル、清酒、焼酎、リキュール、ワイン等々。定番的なものは常に店の地下にある暗所の保存庫に置いている。当然ながら劣化しないように細心の注意を払っている。ただし日本酒は保存性に富んでいないので基本的には安価な種類しか置いていない。種類毎に適正な保存方法が違うので、高級品は熟成が可能なワインが主だ。
内部は比較的すっきりとしたデザインだ。中央に低めの棚とテーブルがあり、各種の酒が試飲できるようになっている。店内壁回り部分には低価格の酒を種類毎にずらっと並べている。順列は価格順だ。
酒屋にわざわざ足を運ぶ人間は、近所の人間か、何か珍しい物はないか探す酒好きの人間、あるいは何かの催しもので大量に酒が必要になった場合に利用する人間が多い。目的の品がある場合は、基本的に注文になる。そして、近所の人間や一見さんはビールや安価のワインなどを買う傾向がある。催し物で大量に必要になる場合も予約注文が主だ。つまり店で突発的に購入される品は基本的に安物、一般的な商品に偏る。
売れ筋は低価格帯のビール、ワイン、カクテル辺り。意外に高級酒の注文もそれなりにあるし、記念などで多少奮発するという家庭も少なくない。そのため、売れ残りは必然的に中価格帯が多くなる。店舗に置くとどうしても足が早いという理由から、極力高価な酒は置いていない。
最近ではネット通販が主な収入源になっているため、販売店よりは卸売業者に近い側面もある。客の母数が少ないため仕方がないことだった。
「おかえり」
「ただいま、父さん」
人のよさそうな初老の男性、時任貞夫がカウンター奥に座っている。長身痩躯で切れ長の眼と細めの眼鏡をかけている。秤と親子であると一目でわかるほどに容姿が酷似してる。
ただし中身は真逆だ。
温和そうな笑顔で貞夫は秤を迎え、立ち上がろうとした。
「いいよ、座ってて」
「おお、そうか。そうだ、秤に聞きたいことがあったんだ。ホームページの注文がちょっとおかしくてな。見てくれるか?」
「うん、構わないよ」
秤はノートパソコンのディスプレイを除き、HTMLのソースコードに目を通した。
まだ秤が小学校高学園の頃、この酒屋は赤字続きだった。利便性が追及されている昨今では、どうしても商店街は客数が減少しつつある。打開策を講じるにも、地域の人口自体は増やせないし、どうしても大規模なチェーン店に人は集まる。
「悪いな、いつも」
「いいんだよ、父さん」
父の貞夫は見た目通り、人が良い。その性格からか、お客様の望む商品を続々と入荷させるという、商売人にあるまじき方法で運営をしていたのだ。当然、売れ残りが増え、純利益より仕入れ費がかさむ。保存が利く商品ばかりではないため廃棄か格安で販売するしかないが、それも難しい。劣化しかけた酒は売れないからだ。
そこで、秤が先導し、まずは人情商売を止めさせた。父は渋ったが、利益を上げることを優先しなければ生きてはいけないと悟り、なんとか聞き入れてくれた。
次に元々伝手だけは潤沢だったことを利用して、ネット販売を中心にし、できるだけ商品の売れ残りを失くす方向に経営指針を移行した。最初は流通関係のトラブルが相次ぎ大変だったが、今は安定して黒字を記録している。
「終わったよ。カウンターがおかしくなっていただけだった」
「助かった、ありがとな」
「じゃあ、僕は部屋に戻るから」
秤は店内奥にある扉を潜った。
横には裏口兼玄関がある。
革靴を脱ぎ廊下を進んで二階へ。左右に伸びている廊下を左に進み、突き当たりの部屋の前に立つと、鍵を開けて入った。中学に上がった時、自分で取りつけたのだ。その理由は思春期の男子が経験する『部屋に勝手に入らないでよ、母さん!』か『ノックしてよ、母さん!』というトラウマによるものではない。父子家庭だからだ。母は小学校低学年の頃に亡くなっている。
七畳程度の広さの自室だ。かなり真新しい。
数代受け継いだ酒屋のため、以前は老朽化していた。しかし家業が軌道に乗り、ある程度の蓄えができたということでリフォームしたのだ。
見た目は普通の部屋だ。机、本棚には漫画や小説、参考書がある。厚みに対して奥行きが薄いため、少しだけ違和感がある。
クローゼットには普通の衣服、ベッド、部屋の中央には小さなテーブル。若干ながら目立つのはPCのディスプレイが六つあり、マルチモニターだということくらいだ。PCを使って作業をするか、ゲームをする人間ならさほど珍しくはない。少し数が多いかもしれない、という程度だ。
秤は鞄を下ろして、私服に着替えると本棚の縁を掴み力を込めた。すると、本棚がグルッと回り反対側が露わになった。四つの本棚全てを回転させると現れたのは隙間なく詰まった日記帳とDVDだった。ラベルには日付が書いてあり、十年ほど前から続いている。
PCは常に立ち上げている。スタンバイモードから立ち上げると、ディスプレイには幾つもの動画が映し出された。
学校。豪邸の正門。裏門。外観。通学路。合計十か所。そこかしこにカメラを仕掛けている。勘違いしてはいけない。それらはプライベートを暴くために設置したわけではない。家屋内や入浴などの生活の恥部を露呈させるつもりは毛頭ないのだ。
「さて、お嬢様はどうしてるかな」
知りたいのは桜ヶ丘の行動である。偏愛気質であればストーカーだが、秤に愛情はない。むしろ冷静だ。淡々と情報を集めているにすぎない。しかしストーカー並に彼女の情報を所持している。一日の行動、移動場所や言動、趣味や特技、テストの点数などなど。自宅外の玲李の動向はほぼ網羅している。
ただ、さすがに自宅を盗撮するのは難しかったし、プライベート空間を覗き見るのは抵抗があったので、やめておいた。秤の中では『屋外、自宅以外の場所、公共の場所の行動を知ること自体は問題ない』としている。秤が見なくとも誰かが見るであろう場所であれば、自宅や自室のような閉鎖的なプライベート空間ではないのだから問題ない、と断じているのだ。
バレなきゃいいのである。ハラスメントの根底にあるのは、相手に不快な思いを抱かせること、という文言があるのだ。性的な欲求もない。むしろ健全だ。ただ風景を映しているだけにすぎないのだから。でもやっちゃいけません。
「ふむ、今日も同じ流れか」
玲李の姿を商店街の画材屋で見つけた秤は、ヘッドホンを装着した。玲李の鞄に盗聴器を縫い込んである。見つかったら大事である。
玲李は色々な画材を見回っていた。筆の辺りを行ったり来たりしている。やがて決めたのか、数本の筆を持ち会計を終えると、家路に就いた。
桜ヶ丘玲李は絵をこよなく愛している。しかし、彼女が絵画に執心していることに、学校の人間は知らない。美術部にも入っていない。恐らく、家で描いているのだろう。
画面をスイッチさせ、玲李が家に到着した姿が見えた。彼女は車での送り迎えを嫌っている。小学校高学年までは車で登下校していたが、以降は徒歩になっている。
正門は車が二台通れるくらいの幅で車輪がついているタイプだ。
広大な庭の外周を高壁が囲っている。樹木、草花がそこかしこに植えられており、住宅街であるのに、豪邸の周辺だけ別世界のようだった。土地代や建築代など、総合すると数十億ではすまなさそうだ。
玲李は門から玄関までの長い通路を進んでいった。やがて画面から姿を消す。
「今日はもう外出しそうにないな」
玲李は私用では休日にほとんど外に出ない。買い物がある時は、学校帰りに店に寄る。それ以外で出かけるのは親の都合がほとんどだ。金持ちには金持ちの会合があるらしく、彼女も半ば強制的に参加させられている。なぜ強制的、と断言できるかというと、秤は以前に一度だけ、ホールスタッフのバイトで潜入したことがあるのだ。本来、裕福な層のパーティーに外部の人間を採用することはないが、酒屋の伝手で、貿易商社の社長との付き合いがあるので、こそっと頼んでみたのだ。幸い、信頼関係を築けていたことと、人手が足りないことが重なり駆り出された。
秤からすれば、家業関係においての玲李の立ち位置を知らなかったので、稀有な機会を得られたと喜び勇んだ。
しかし、玲李は学校における態度よりも更に冷えた空気を生み出していた。周囲を寄せ付けない、近づくなという雰囲気が存分に滲み出て、どんなに鈍感な人間も敬遠するだろうと思えるほどだった。中には勇敢に声をかける人間もいたが、彼女は冷淡に相槌を打つだけで会話は続かない。
そうして、いつも通り一人になるのだ。
てきぱきと仕事をこなしつつ、ドタキャンした人間が数人出た中、的確な指示を飛ばし、少人数で上手く回し、最終的にはウチで働かないかとスカウトされていた秤だったが、玲李を頻繁に観察し、よほど会合に出席することを嫌っているのだなという感想を抱いた。
玲李のドレス姿は欠点など皆無で完全無欠だったが、見るものを圧倒していた。美しすぎたのだ。長所も過ぎると欠点になり得る、という新たな一面を秤は垣間見た。
「さてと」
秤は長らく続いた習慣、監視映像をDVDに焼き、本棚へと整列させる。
そろそろいいだろう。十分揃った。
十三年間に及ぶ、桜ヶ丘玲李に関する情報収集と分析、そして桜ヶ丘玲李と結婚する計画はここに完成した。
長かった。しかし、ここまで一人の人間のために労力を注ぎ、時間を費やし、ある意味で一途にいた人間はいないのではないだろうか。
これは恋ではない。愛でもない。焦がれも、憧憬もない。
しかし秤は玲李と結婚することを目標としている。
心がないと蔑むか、恋を馬鹿にするなと憤慨するか、ストーカーだと詰るか、はたまた結婚を軽く見るなと叱責するか。恐らくはこの中の反応に多くの人間は当てはまるだろう。
彼の行動は著しく普通や常識から逸脱している。しかし、目的に向かいこれほどに真っ直ぐ進む人間がいるだろうか。他の異性には目もくれず、幼稚園の時分から現在に至るまで思いを貫いた。打算であり、下心がある。しかし愛だ恋だと執心している人間の中に、一途で一人の人間を思い続け、興味を持ち続け、一生を共にする覚悟があり、相手のすべてを受け入れる覚悟を持っている人間がいるだろうか。
感情に任せている人間こそ無責任だと秤は考える。
彼の信念は揺るぎない。彼の思いは陰らない。
好意はない。好きではないのだ。一般的な恋愛ではない。だがそれはある意味恋愛だ。
そんな恋愛不適合者である時任秤の恋愛物語がこれから始まる。
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