時任秤は恋をしない

鏑木カヅキ

第1話恋せよ若者、僕はしない


 若者は恋愛至上主義である。

 恋愛に焦がれ、異性との目くるめく時間を過ごすことを夢想する。高揚し、一喜一憂し、思いが結ばれずとも、また懸想する。回し車を必死で漕ぐハムスターのように、同じことを繰り返すのだ。未熟な彼等には必要な経験なのだろう。

 恋を知り、愛を知る。失恋し、恋愛する。傷つき二度と恋などするものかと激昂するか、それでも恋することをやめられないと自嘲するかは自由だ。

 挨拶されただけで好きになり、身体が触れただけで好きになり、優しくされただけで好きになり、ちょっとした褒め言葉で好きになり、目があっただけで好きになり、見た目だけで好きになり、会話をしただけで好きになるかもしれない。

 肩書だけ見て好きになり、背が高いだけで好きになり、容姿が端麗なので好きになり、周りの友人が褒めるから好きになり、話が面白いから好きになり、人気があるから好きになり、ともすれば何度も告白されて好きになるかもしれない。


 一目ぼれした相手が同じクラスで、もしかしたら仲良くなれるかもと脳内で妄想し、結局なにもできずに卒業を迎えてもいい。 

 昔馴染みの異性が同じクラスになり、運命を感じて一方的に好意を持ったが、相手は気にしてもおらず、別の人と付き合うという苦い経験をしてもいい。

 恋は自由であり、恋は不自由だ。感情を優先した人間関係の最上たる娯楽。それが恋愛だ。人生において必要がないのだ。恋愛をしなくとも家族になれるし、子供も作れる。なんせ一昔前は見合い結婚、婚約が主で、恋愛結婚は今ほど多くなかった。それでもよかったし、それで社会は回っていた。問題はなかったのだ。その上で、悲恋が生まれたこともあっただろうが、それは恋愛結婚が横行している現代においても変わりない。むしろ、感情を優先しているため、三角関係さながらの泥沼恋愛が繰り広げられていることもあるだろう。

 恋愛に正しさはない。あるのは自己満足と承認欲求と一方的なシンパシーだけだ。

 恋愛は必要不可欠か? ノーだ。なくても困らない。必要だと声高に叫ぶ連中がいるのは、そういう風に仕向けられているからだ。


 そんな恋愛不適合者の考えはさておき、現在、恋愛至上主義者の決意が実を結ぶか、枯れ果てるかの瀬戸際だった。

 季節は秋。時刻は午後五時前。夕暮れ時で、日は赤みを増していた。

 私立明楼鏡しりつめいおうきょう高等学校校舎裏、閑散とした場所だが、不良のたまり場にはなっていない。品行方正な生徒が多く、学校側も拘束をきっちりと定めているのでDQN、ヤンキーの類はほとんど存在しない。せいぜいが髪を茶色程度の染めて、生活指導の教師に叱られるぐらいが関の山だ。

 話を戻そう。

 人気のない校舎裏にいたのは制服姿の男女の生徒だった。一対一。互いに向き合って、俯いている。その情景を見れば、何事か判ずるのは容易だ。

 共に特徴が乏しい。平凡で目立った欠点もない。そんな二人は頬を染め、青春よろしく、一瞥しては視線を逸らすという定番的な所作を繰り返していた。セーラー服と学生服だからか余計に甘酸っぱい雰囲気が満載だ。


「何をしているんだ、あいつは!」


 苛立ちと共に言葉を吐いた少年、時任秤ときとうはかりは双眼鏡を通し、彼等の動向を見守っている。彼がいるのは学校の屋上だ。金網を乗り越え、縁に手をかけて見下ろしている。危険極まりない行為だが、秤にとってはどうでもいいことだった。

 重要なのはこの告白を成功させること。

 今、その渦中にいる人物を睥睨した。数えきれないほどのアドバイスの一つ、二つでも遂行できていればまともな状況になっただろうが、間違いなく極度の緊張から忘れてしまっている。

 左右の耳にはイヤホンが装着してある。

 恋愛相談に散々乗ってやった金田かねだ君の懐には、マイクを潜ませている。勿論、彼には許可を貰っている。配慮ではない。単純に高いので捨てられたら困るからだ。

 金田側の音は右のイヤホンと繋がっている。左側は別の場所に設置しているのだ。

 純情二人組の決着にはもう少し時間がかかりそうだと思った秤は、その場から跳ねるように反対側へ移動した。金網を飛び越えて、再び身を低くし双眼鏡を覗く。傍から見れば完全に変質者である。

 校舎はT字型で、屋上も二分化されている。そのため、屋上からでも一部の教室や、校舎周辺を視野に入れられなくもない。

 秤は、伝説の樹を見つけた。それは古くから中庭に埋められており、恋愛成就のご利益があると言われている樹木だ。誰が言いだしたかは知らないが、結構成功している生徒もいるらしい。しかしそれも秤にとってはどうでもいいことだった。

 そして周囲を探した。


「いた」


 一人、男子生徒が樹の幹に体重を預けている姿が見えた。胸辺りに手を当て、何やら呟いている。


「ふん、状況に酔ってるな」


 秤は悪態をつきながらも男子の一挙手一投足に注意を払った。よくよく見ると、彼はサッカー部のエース、金田かなだ君だった。

 ちょっと名前! ほぼほぼ被ってる! と内心でツッコミ、満足した秤は平静さを取り戻した。

 彼は長身でイケメン。優しい上に家もそれなりに裕福という恵まれ過ぎて世の中の不公平さを呪いたくなるような人間だ。

 どうやらまだ、待ち合わせの時間にはなっていないようだ。今日、放課後に呼び出されたということは知っているが、具体的な時刻まではわからなかった。その程度の情報を得られなかったという事実が秤のプライドを傷つけたが、それも昔のこと。今は、眼前の一部始終を見守らなくては。


『あ、あの』


 右側から男子の声が聞こえた。金田君だ。


「ちぃっ!」


 再び金網を超えて反対側へ急いだ。

 秤は、自分でも何をしているんだと思わなくもなかったが、考えないようにした。

 見ると、金田君が勇気を振り絞り今まさに、告白に至ろうとしている様子が見えた。

 秤はぐっと拳を握り見つめる。

 が、ダメ。

 金田君はまたしても俯いてしまった。


「あの野郎! キン○マついてんのか、ああっ!?」


 焦れったさが限界突破した秤は、怒声を上げた。


『あ、や、やあ』


 今度は左側から聞こえた。


「ちぃぃぃっ!」


 再び走った。今更ながらに、もっといい方法があったんじゃないかと思うが、秤は気にしないように努める。もうどうしようもない。

 伝説の樹の傍には二つの影が立っている。

 金田君の前には一人の少女がいた。桜ヶ丘玲李さくらがおかれいりだ。

 見た目は大和撫子さながら長く伸ばした黒髪が微風に揺られている。スラッと伸びた四肢は僅かに動くだけで思わず凝視してしまうほどに美麗だ。小柄だが、異様な存在感と雅な空気を醸し出している。それは双眼鏡越しの秤にも伝わるほどだった。

 しかし彼女の魅力を阻害している要素があった。

 瞳だ。絶対零度に至るほどの冷たい瞳が、全ての魅力を台無しにしてしまっている。それでも彼女の容姿は突出しているため、盲目的に恋をしてしまう男子も後を絶たないのだが。蛇足だが胸は小さい。


『待たせてしまいましたか?』

『い、いや、時間ぴったりだよ』


 スマホを見ると、午後五時丁度だった。規律を重んじ、規則正しく生活を営んでいる彼女らしい。


『それで、どんな用事でしょうか』


 玲李は淡々と言葉を並べた。その疑問は、用事の内容がわからないから発したものではない。単純に、さっさと用件を述べろと言っているのだ。今回を含め、すでに百十一回の告白をされている彼女が、告白されるだろうということに思い当たらないはずがない。

 あるいは、逡巡せず男らしく思いを告げれば得点は高いだろう。なぜなら、今までの男子のほとんどが彼女の前で委縮してしまっていたからだ。中には自信満々の男子もいたが、それはそれでマイナスなので除外する。好きでしょうがなく、勇気を振り絞り告白をするという過程が重要なのだ。

 しかし金田君は鼻柱を指先で掻くと、空を見上げた。


『え、えーとだね』


 こいつもダメな奴だ。

 そりゃ告白となれば戸惑うだろうし、二の足を踏むだろうが、それでもここまで来たのだから、さっさと好きでも、愛してるでも言えばいいのに。


『好きです!』


 そうそう、こんな風にね。


「ん? い、今のは」

『付き合ってください!』


 金田君だった。


「極端すぎるだろ!?」


 秤は急ぎ、反対側へ走った。


『す、好きです!』


 今度は金田君だった。


「こっちもか!?」


 一体、どっちの金田君を見ればいいんだっ!?

 金田君かそれとも金田君か。ルビがないとわからない。しかし、一度振ってしまった手前、もう一度振る気にはならない。

 金田君は良い奴だ。せっかくなら成功して欲しい。しかし金田君も良い奴だ。噂でしか知らないが、心もイケメンなのだ。

 だが不幸にもこの学校には十二人の金田君がいる。普通の金田君。イケメンの金田君。ちょっとヤンキーの金田君。細身でイチゴが好きな金田君。最近、肉は飲み物とかわけのわからないことを言い始めて太った金田君。オタクの金田君。教職三十年目の金田純一郎太かねだじゅんいちろうた。ハーフでワキガの金田君。成績優秀だが、相当なブサイクの金田君。ちょっとした金田要素しかない金田君、天から金田君、そう今日から君も金田君。

 秤の中でゲシュタルト金田と呼び声が高かった。そこにどんな因果律があるのか。きっとない。読みはカネダかカナダかキンタかコンダかコガネダかもしれない。深い。とても深いのだ。

 それはそれとして、秤は独りで右往左往していた。完全に予定外だった。まさか同時に好きだと告白するとは思いもよらず、アドリブに弱い秤は酷く狼狽した。

 しかし、どうせ音声は届いているのだから、焦る必要はないと気づき、大きく嘆息した。

 とりあえず、イケメン金田君の方を観察しようと再び視線を向ける。

 双方共に硬直している。片方は冷ややかな視線を真っ直ぐに向け、片方は気まずそうにしながらも勇気を振り絞りちらちらと相手を見ている。

 数秒の合間を経て、玲李が口を開いた。


『ごめんなさい』

『よろしくおねがいします』


 左右同時に聞こえた。


「どっちだよ、今のどっちだよ!?」


 何もかもタイミングが被り過ぎだ。

 見ると、金田君は乾いた笑いを浮かべていた。そして項垂れ、とぼとぼと歩いて去ってしまった。その後ろ姿は同情を誘い、話したことさえない秤でさえ励ましたくなる程だった。あ、イケメンの方ね。


「って、ことは」


 反対側の金田君は喜色満面で女子と笑い合っていた。あり得ないことだが、周囲にはファンシー且つラブリーな模様が浮かびキラキラと瞬いているように見えた。


『これからよ、よろしくおねがいします』

『こちらこそ、よ、よろしくね』


 初々しい二人を見て、秤は小さく笑い、そして拍手を捧げた。

 これで俺の役目は終わったな、と秤は達成感に浸った。

 百回。百回にも及ぶ告白計画を見事に完遂したのだ。しかもすべて成功を収めた。


「くくく、ふっふっふ、ふわーはっはっはっはははぁん、はああ、はっは、げほっ、がっ、んぶっふっ、き、器官に入った、んぶふぅっ、げほっ、ふ、ふぅ」


 とりあえずひとしきり笑い終えて、また笑うということを繰り返した。高揚している。それもそうだ。なんせ十三年に及ぶ計画の最終段階に入ったのだから。

 長かった。長かったが充実していた。それも、もう終わり、いや本番に入るのだ。正否に関わらず、十三年間に幕を引く。時は来たのだ。

 秤は感慨に浸った。まだその時期ではないとわかっていても、ここに至るまでの道程を思い返さずにはいられなかったのだ。

 しばらく抒情的な心境になりながら、街並みを見下ろしていたが、突如として屋上の扉が開かれた。


「時任君! やったよ! 僕、やったんだよ!」


 金田君だった。


「おめでとう!」

「ありがとう! 本当にありがとう! あ、あとこれ!」


 金田君は顔をしわくちゃにしながら涙を流した。そしてマイクを渡してくれた。借りパクしようとしたらどうしてくれようかと思ったが、彼は善人だったらしい。

 ――ふふ、バカめ! 実験台になっていたとも知らずに喜ぶとは。愚かな奴だ。だが、愚民にしてはよくやった。おめでとう!

 金田君は秤の肩を掴み、感謝のあまりに顔を近づけた。


「ありがとう、ありがとう!」

「わ、わかった、わかったから離れてくれないかな」

「あ、ご、ごめん。嬉しさのあまりちょっと時任君にキスしそうになった」

「君、喜びの表現の仕方、考え直した方がいいよ?」

「はは、そ、そうだね。時任君にキスなんかしちゃったら、彼女に誤解されるもんね。嫉妬させたら可哀想だし」

「うん、うん? なんか色々間違っているような……ま、まあ気を付けてくれればいいよ」


 多分、興奮しすぎて頭がおかしくなっているのだ。理性が飛んでるのだから正論は通じない。それが恋というものだ。恋は人を狂わせるのだ。それにこんな時くらい、水を差すのは控えよう。せっかくここまで喜んでいるんだし。

 そう思い、秤は苦笑を浮かべて、次から次に投げかけられる言葉を受け流した。


「そ、そうだ! お礼をしないといけないね。何がいいかな? 時任君は、好きな人いたりしない? 手伝うよ?」

「いや、大丈夫だよ」


 むしろ手伝って貰うと困る。金田君に助力を頼んでしまえば、成功するものも成功しないだろう。好きな人はいないけれど。


「そう? じゃあ」

「いいんだ。僕はしたくてしたんだからね。それに、仲人は今日で店じまいするし」

「ああ、そういえば、そう言っていたね。残念だなぁ。きっと他にも悩んでる人もいると思うし」

「そういう人には悪いけどね。始めないといけないことがあるんだ」

「始めないといけないこと? それって一体」


 秤は眼鏡を外して、レンズを拭くとまた掛けた。

 金田君の問いに秤は答えなかった。ただ空を見上げ、未来を思う。十七年間の人生の転機が訪れるだろう。待ち望んでいた。楽しみでもあった。そして同時に不安も多少はあった。成功するかどうか、今までの努力が水泡に帰すのか結実するのか。杞憂と期待との境で秤は柔和な笑みを浮かべて、金田君を見た。

 そして思う。

 カネダだっけ、カナダだっけ?

 度忘れしてしまった秤は、一瞬だけ思考を停止して死んだ魚のような目をした後、我に返った。


「あ、ごめん僕、そろそろ行くね。彼女待ってるんだ」

「うん、また明日」

「ありがとう。明日!」


 金田君は手をぶんぶん振るとけたたましく足音を鳴らしながら校内に入って行った。

 若者は恋愛至上主義である。

 恋に恋い焦がれ、告白をし、思いを通わせる。その場面を想像し、悩み苦しみ、喜び笑う。滑稽で美しい。無様で勇ましい。ある意味、人生を謳歌する要因なのかもしれない。

 だが時任秤には誰かを好きになるという気持ちがわからない。一度も誰かを好きになったことがない。自分は特別だと思いたくてそう思い込んでいるのではない。単純に、そういう経験がないだけだ。そして恋をしたいとも思わない。それは揺るぎない事実だった。

 しかし、彼には結婚したいと思う相手が存在している。

 秤は双眼鏡で伝説の樹を眺めた。

 そこにはまだ桜ヶ丘玲李の姿があった。

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