54.逃亡生活
馬車の荷台の中、荷物の隙間から顔を出し、リックは油断なく辺りを見回した。が、すぐに諦めて外に出る。人が多すぎて、あいつがいるかどうかなんて分かりそうにない。さすがは王都一番の大通りだ。
(ピンポイントにここで見張られてるなんてこと、無いよね)
リックは(半分は自分に言い聞かせるために)そう判断した。エルシェードの酒場で襲われたあと、しばらく身を隠し、さらに一度徒歩で街の外に出てから、王都行きの馬車に乗ってきたのだ。普通に街で馬車を捕まえようと最初は考えたのだが、馬車乗り場で待ち伏せされるんじゃないかと危惧したのだ。
それに、あいつが最初に自分を追っていたのは、ここ王都だ。あいつから逃げるためにエルシェードに行ったのだし、また戻って来るとは思わないだろう……と思う。
(ミルテやユンに迷惑かかってないといいけど)
あと、ミルテの知り合いらしいクレアやレティシアに。それだけが気がかりだが、とは言え自分にはどうしようもない。あいつが人質を取るなんて手段に出ないことを、祈るしかない。
あの後、ミルテたちとはすぐに分かれた。自分と一緒にいたら、まとめて襲われる危険が高いと思ったからだ。ミルテは最初リックに付いてくると主張したが、どうにか説得した。別れ際の辛そうな表情を思い出して、リックは胸が痛んだ。
ユンとは結局合流できなかった。でも、その方が良かったのかもしれない。状況的に、あいつの目には留まらなかっただろう、とリックは考えていた。
リックは御者台の方に回ると、初老の男性に声をかけた。
「ありがとうございました。助かりました」
「おう」
男は軽く手をあげると、意味ありげな視線をリックに向けた。
「しっかし、わざわざ迫っ苦しい荷台に乗りたいだなんて、変なやつだな。王都行きの馬車なんて、いくらでもあるだろうに」
「あはは……」
曖昧に笑って返す。少しでもあいつの目を逸らすために、普通の乗り合い馬車は避けて個人の馬車に頼んで回ったのだ。この明らかに怪しげな申し出は結構な人数に断られてしまったが、彼がようやく了承してくれた。
「悪いことはすんなよー」
そう言って、男は馬車を回してどこかへ去っていった。リックは困ったように、ぽつりと呟いた。
「……犯罪者か何かかと思われたかなあ」
ぽりぽりと頭を掻く。それでもオッケーしてくれたのだから、本当に感謝しなければならない。
「よし」
布で隠した剣の柄に、リックは自然と手を置いていた。まずは
地底湖で無理やり魔法を使わせてしまって以来、彼女は一度も姿を現していない。魔道具に詳しい人物に見てもらうつもりが、あの赤髪の少女に襲われて、それどころでは無くなってしまった。
今は、ちょうど正午を過ぎたばかりだ。昼飯は食べていないが、お腹は全く空いていなかった。一刻も早く、ティエルを何とかしてあげたい。
リックは早足で魔術学院へと向かった。シニスがいるかどうかは分からない。偶然出掛けていたりしませんように、と、祈るしかなかった。
高級住宅街をしばらく歩くと、魔術学院の大きな建物が見えてきた。相変わらず、衛兵が立ち塞がるあの門に近づくのは勇気が要る。だが、今日はそんなことも言ってられない。
よく見ると、門のそばに立っているのは、前に話したことのある衛兵のようだった。初めて魔術学院に来た時に、中に入れてもらった人物だ。そのことに気づくと、少し気が楽になった。
「すみません」
近づきつつ声をかける。相手はすぐにリックのことが分かったようで、ほんの少し口を開けて驚いているようだった。何も言わずに通してくれるだろう、そう思ったのだが、
「ここは王都魔術学院だ。用の無い者が立ち入ることはできない」
「へ?」
最初の時の寸分違わぬ(多分、記憶によると)台詞をぶつけられ、リックはぽかんとして立ち止まった。衛兵の男は、まるでリックを初めて見たとでもいうかのように、硬い表情を向けてくる。
(……覚えてないのかな?)
まあ、毎日たくさんの人がここを通るのだろうし、忘れていてもおかしくないかもしれない。それにしては、驚いていたように見えたのは何だったのだろう。
「ええと、僕は、前にシニスさんに会いに来た……」
「用の無い者が立ち入ることはできない」
名乗ろうとした途端に、さっきと同じ台詞で遮られた。リックは少し沈黙したあと、おずおずと口を開く。
「あの」
「何度も言わせるな」
すると今度は、睨み付けるような視線を向けられ、リックはたじろいだ。
どうも、彼を説得しようとしても無駄なようだ。取り付く島が無い。
「……すみませんでした」
小さく頭を下げ、リックはその場を去った。
「うーん……」
高級住宅街の道を戻りながら、唸り声をあげる。前回まではあっさりと入れてくれたのに、いったいどうしたんだろう。
もしかして、衛兵の方針が変わったのだろうか。例えば、学院の人と一緒じゃないと入れないとか、紹介状が無いと駄目とか。
「困ったな」
シニスと連絡を取れれば何とかなるのだろうが、魔術学院に入りたいのはそのシニスに会うためなのだ。学院の外で会う手段が無い。
「家の場所聞いとけばよかったかな」
昼間に学院の自室に行けばほぼ会えるから、聞く必要性を感じなかったのだ。まさか学院に入れないとは思わなかった。
「手紙でも書くしかないかなあ」
明日か明後日、もしかすると数日後まで返事を待つことさえ我慢すれば、それが一番確実かもしれない。目の前まで来たのに手紙を出すなんてひどく間抜けだが、仕方ない。
リックは深くため息をついた。なんだか気が抜けてしまって、急にお腹が空いてきた。高級住宅街を抜けて大通りに入ると、昼食が取れる店を探し始める
いくつかな服飾店や雑貨屋をスルーして、最初に見つけた食事処に足を向ける。適当にここにしようかと思ったのだが、店のドアを開ける直前で手を止めた。
歪みの無い高そうなガラス窓から中を覗き込むと、身なりの良い紳士淑女が、上品に食事を取っているのが目に入る。昼間にも拘らず食事は豪華で、これまた美しいガラス瓶がテーブルに並んでいる。多分、ワインか何かが入っているのだろう。
「……」
リックは伸ばした手をそろそろと引っ込めた。どうも、かなり格調高いお店のようだ。迂闊に入らなくて良かった。
くるりと来た道を振り返る。高級住宅街の近くだから、店も高いのだろうか。もう少し離れた場所で探すべきだろう。
しばらく道を進む。よく見ると、他の店も結構な高級店のようだ。さすがにここは、と思って屋外に商品を並べている雑貨屋を覗いてみたが、最低金貨一枚からだった。食事付きで宿に二泊ぐらいできそうな値段の雑貨って何なんだろう、とリックはぼんやりと考えた。
「お?」
道の先にずいぶん質素な外観の店を見つけて、思わず声をあげた。中を覗いてみると、冒険者らしき男女が店の見た目通りの食事を取っている。ここなら大丈夫だろう、とリックは中に入った。
席に着くと、店員がパンの乗った皿を無言で置いていった。他のテーブルを見てみると、どこもパンとスープ、チーズが少しという同じ料理が並んでいる。多分、メニューが一種類しか無いのだろう。こういう店が高いことはまず無い。
リックは安心してパンを齧りながら、今後のことを考え始めた。とりあえず手紙は書くとして、他にシニスに連絡を取る方法は無いだろうか。早くティエルを見てもらいたいのだ。数日の遅れが取り返しの付かない事態を引き起こしたりしたら、きっと一生後悔するだろう。
しばらくすると、スープとチーズが予想通りに運ばれてきた。とろみのついたスープは少し味気なかったが、まずいというほどでもなかった。元々そこまで味にこだわる方でもない。
(シニス以外の誰かに頼るって手もあるかなあ)
スープを飲みながらリックは考えた。
(ジャメルさんかケビンさんに聞いてみるかな)
数少ない王都の知り合いのことを思い浮かべた。知り合いとは言っても一度一緒に仕事をしただけだが、まあ紹介ぐらいはしてくれるだろう。
そうやって考え事をしていたせいで、その人物が目の前に来るまで気づかなかった。小柄な体を、だぼっとしたローブで覆っている。フードを目深に被り、顔は見えない。
(え!?)
フードから零れ落ちる赤い髪に気づいて、リックは限界まで目を見開いた。まさか、あの『追跡者』の少女が、もうここまで追ってきた!?
だが思わず立ち上がったリックは、相手が顔を上げるのを見てさらに驚いた。何故なら、
「シ、シニ……」
「しーっ!」
と、燃えるような赤い髪を胸元に垂らしたその女性、つまりはシニスは、リックの唇に指を当てて静かにするよう促した。周囲の冒険者たちが、何事かとこちらを見ている。慌てて席に着こうとすると、腕を掴まれ引き上げられた。
「すぐに代金を払って店を出るんだ。ここじゃあまずい」
「う、うん。うん?」
何が何だか分からなかったが、リックは素直に従うことにした。シニスに引きずられるようにして外に出る。
「ええと……よく僕がここにいるって分かったね」
聞きたいことはたくさんあったのだが、口から出たのはそんな言葉だった。リックの腕を引いて少し前を歩くシニスは、ちらりと振り返って笑みを見せた。
「君の行動パターンぐらいお見通しだ。最初は手前の店に入ろうとして、高そうだからってやめただろう」
「う、当たってる」
リックは決まり悪そうに笑った。シニスの観察眼と推理力がずば抜けているのか、それともリックのことを隅から隅まで知っているのか。多分、両方だろう。
「魔術学院に入れてもらえなかったんだけど、なんか変わった?」
「その話は後だ」
シニスは鋭く言った。声に緊迫感がにじんでいる。不穏な空気を感じ取って、リックは口を
彼女は王都の外れへとずんずん歩いていった。廃屋が目立つようになり、道端に寝転ぶ人がぽつぽつと視界に入り、捨てられたゴミは増え、壊れた石畳は放置されている。治安が少しずつ悪くなっていくのが見て取れる。
「どこに向かってるの?」
リックが聞くと、シニスはちらりと振り返って言った。
「私の家だ」
「家? こんなとこにあるんだ」
少し驚く。学院の部屋とは別に持っているとは聞いていたが、場所までは知らなかった。てっきり学院のすぐ近くかと思っていたのだが。
「場所が必要でね。半分物置みたいなものさ」
「へえ」
などとお喋りをしているうちに、目的の家に辿り着いた。場所が必要というシニスの言葉通り、周囲の建物と比べてかなり大きい。
シニスについて中に入る。女性の一人暮らしの家に入るということで少し緊張していたのだが、足を踏み入れたとたんにそんな考えは吹っ飛んだ。部屋だけでなく廊下まで物でいっぱいで、なるほど確かに物置だった。
(何なんだろ、これ)
拳大から天井に付くほどまでの様々なサイズの鉄球やら、木の棒を縦横無尽に組み合わせた謎のオブジェやら、とにかくよく分からないものだらけだ。前衛的な芸術作品だと言われたら、信じてしまいそうだった。多分、魔道具関連の何かなのだろう。
床はほとんど見えなくなっていて、踏まずに歩くのは困難を極めた。瓦礫で埋まった遺跡か、もしくは深い森の中でも探索しているような気分だ。シニスは何故かすいすいと進んでいる。
「片付いてなくて悪いね」
「いや、べつにいいけど」
「整理しているのは寝室ぐらいなんだ。ほら、あそこだ」
と、廊下の奥に見える扉を指さす。「そっか」とリックは適当に答えたのだが、気になる単語が聞こえたことに後から気づく。
(……寝室?)
それは恐らく、というか間違いなく、シニスの寝室のことなのだろう。そんな場所に自分が入っていいのだろうか。以前、「女性の寝室に入ってくるなんて感心しない」などと言っていたのは、シニスだったような気がするのだが……。
悩んでいるうちに、奥の扉が押し開かれていく。どんな部屋なんだろうと、リックはわずかな時間で予測を付けた。学院の部屋のように物でいっぱいなのか、それとも逆に何も無かったりするのか。
結論から言うと、どちらも大きく外れていた。部屋の奥には、観葉植物が飾られた出窓とベッド。机と椅子、丸みを帯びたデザインの本棚とクローゼット。飾り棚には可愛らしい小物が並んでいる。
まさに女の子の部屋という感じで、リックは少しどきりとしてしまった。照れ隠しに、こんなことを口走る。
「い、意外と普通なんだね」
「どういう意味かな、それは」
シニスがむっとしたように言った。リックはぽりぽりと頭を掻く。
「馬鹿なことを言うのは後にしよう。状況を説明させてくれ」
「うん」
真面目な表情になるシニスに、リックも釣られて神妙に頷く。
「まず、気味が学院に入れなかったのは、私が入れないように頼んだからだ」
「なんで?」
首を傾げて尋ねる。顔も見たくなかったとかなら(まあ、ショックではあるものの)分かるが、シニスの方からわざわざ会いに来たのだからそれは無い。
シニスは深くため息をついて言った。
「いいか、驚くんじゃないぞ。リック、君は国に追われている」
「はあ!?」
口と目を限界まで開けて、リックは大声を出した。シニスが眉をひそめて言った。
「だから驚くなと念押ししただろう」
「いやいやそう言われても……」
国に追われているなんて言われて、驚かないわけがない。それじゃあ本当に犯罪者だ。真っ当に生きてきたつもりなのだが……。
「え、待って。僕を追ってた女の子って、国の関係者だったの?」
あの凶悪な少女が? とてもそうは見えなかったのだが。
すると、シニスは緩く首を振って言った。
「そこまでは分からない。別件の可能性もある」
「それはそれで嫌だね……」
リックは引きつった笑みを浮かべた。国に追われているだけでも大問題だが、その上謎の組織までいるのだろうか。やたらと情報収集能力が高くて、的確に追ってくるやつらが。
シニスはこれまでの話をかいつまんで話し始めた。事の始まりは、魔術学院に国の使いがやってきたことらしい。過去に学院に来た、リックという冒険者を探している、と。
「どういう理由で探してたの?」
「何でも、貴族を殺して金を奪ったらしいね」
シニスは口元を歪めながら言った。リックはぽかんとしてしまった。
「殺しただなんて……」
「君がそんなことをやってないのは分かってる。単に捕まえるための口実で、裏の理由があるのだろう」
リックの言葉を遮って、シニスが言った。口調が刺々しい。ずいぶん怒っているようだった。
「私が君と知り合いなのも知られていてね。色々聞かれたよ」
「ど、どこまで答えたの?」
「嘘をついて後でバレても困るから、問題のない範囲では答えたよ。君がいつ王都に来たか、とかね。もちろんエルシェードにいることは黙っていたが、実際のところどこにいるのかなんて正確には分からないからね。まあ嘘では無い」
「なるほど……あ、そう言えば」
リックはふと思い出して言った。
「学院の衛兵の人が通してくれなかったけど、シニスの指示?」
「そうだ。今学院には国の兵士が常駐してる。いつ君が来ても捕まえられるように」
「そこまでやってるのか……」
「ああ。王都から出入りする手紙も検閲されているだろうと思って、連絡を取るのはやめておいたんだ」
「うえー……」
リックはうめき声をあげた。いつからやっているのかは知らないが、たぶん何日も前からだろう。それだけ、本気で自分のことを捕まえたいということだ。
「だから、リック」
シニスは苦痛を堪えるような顔で言った。
「会いに来てくれたのは嬉しいが、君はすぐに国を出るべきだ。エルシェードももう危険だろう」
「……確かに、そうなんだろうけど」
口ごもるリック。シニスは眉を寄せた。
「どうした? 何か事情が……まさか」
はっとした表情で、リックの肩の辺りに目をやる。
「ティエルちゃんは出てきていないのか? 剣の方は……持ってるな」
「うん、実は……」
と、地底湖での出来事を語る。魔力が切れかけたところで無理に魔法を使わせてしまって、それ以来姿が見えないということを。
「魔石をあげても反応が無いんだ」
「それは……」
シニスがぎゅっと唇を噛んだ。そんなに状況は悪いんだろうかと、リックは不安で船が苦しくなる。
「何とかできない?」
「……」
答えは無い。リックは腹の奥が冷たくなるのを感じた。やっぱり魔法なんか使わせるんじゃなかった。いやそもそも、ちゃんと仲間たちにティエルのことを話していれば……。
「……治すことは、できると思う」
「ほんと!?」
呟きのようなシニスの台詞に、リックはぱっと顔を輝かせた。シニスは言葉を続けた。
「ああ。元々ティエルは、何百年も遺跡で放置されていたのだろう。魔力を極端に消費したからと言って、そう簡単に壊れたりはしないはずだ」
「じゃあ早速……」
「だが、治すのにどれだけ時間がかかるかは分からない。必要な材料も集める必要があるだろう。その間君はどうする? 王都にいればすぐに捕まりかねないぞ」
「うっ」
そう言えばそうだった。いや、それならば。
「じゃあ、ティエルを預けて僕だけしばらく国外に逃げるっていうのは?」
「その手はある。ただ……これは憶測なんだが」
そう前置きした後で、シニスは言った。
「ティエルちゃんは、君に会う前の記憶がほとんど無いと言っていただろう?」
「うん」
「私はその原因が、所有者の移動にあるんじゃないかと思ってる」
「所有者って、僕?」
リックは自分を指さした。
「そうだ。極めて高性能な魔道具の中には、所有者が決められるものも多い。所有者以外には使えなかったり、所有者が代わると性能や設定がリセットされたりする」
「でも、そんなの決めたりしてないよ」
「ああ。よくあるのは、直近の一定期間の中で、最も長く持っている者が自動的に所有者になるというケースだ」
「……つまり」
シニスの言いたいことが、リックにも段々分かってきた。つまり、シニスに長期間預けていると……。
「所有者が私に移った瞬間、記憶が消去されるかもしれない。そんなことは誰も望んでいない。だから私は……」
一瞬言いよどんだあと、こう続けた。
「別の国に行って、私以外の誰かにティエルちゃんの修理を任せるべきだと思う」
「うーん……」
リックは考え込んだ。確かに、シニス以外にも治せる人はたくさんいるのだろう。だが、
「いや、それは駄目だ。一刻も早くティエルを治してあげたいんだよ。他の国まで行ってたら、また何日も放置することになるでしょ?」
「数日の遅れなら、大して悪影響は出ないだろう」
「かもしれない。でもそれが原因で万が一手遅れになったりしたら、僕は一生後悔するよ」
「なら、記憶が消えるかもしれないのを承知で私に預けるか?」
シニスがリックの目をじっと見つめた。リックは言葉に詰まる。
「私がこれ以上アドバイスすることはできない。君が選んでくれ」
「……」
記憶が消える可能性を受け入れるか、それとも少しでもリスクが高まるのを避けるか。
(そんなの選べるわけ無い)
リックは小さく首を振った。今までの思い出が消えるのも、永遠の別れになるのも、どちらも許容できない。そして、選択肢はもう一つあった。
「分かった。ティエルが治るまで、僕は王都にいるよ」
妙に落ち着いた気分で、リックは言った。その答えをある程度予測していたのか、シニスは苦々しい表情で言った。
「それは……」
「今までだって散々追われてきたけど、捕まらなかったんだしさ」
「今度の相手は国だ。危険すぎる」
「何とかするよ。シニスには迷惑かけないようにするし……」
「そういう問題じゃない!」
シニスは壁に手を打ち付けながら言った。その剣幕に、リックは目を丸くした。本人も自分で自分に驚いたようで、ぽかんと口を開けている。
「……とにかく、極めて危険だ。許容するわけには……」
「僕に選べって言ったじゃないか。もう決めたんだよ」
「……。分かった」
シニスは諦めたように深く息を吐いた。
「この家は使っていい。下手に宿を取るより安全だろう」
「いや、それじゃ迷惑を……」
「ティエルちゃんを助けたいのは私も同じだ。協力させてくれ」
「うーん、そっか。ありがとう」
リックは仕方なく頷いた。そういう風に言われると、拒絶するわけにもいかない。
「それに、実はこの家の名義は私ではないんだ。知り合いから借りていてね。いい目くらましになるだろう」
「なるほど」
なら、家から出なければ、見つかる可能性はそこまで高くないか。ひどく不便だが、それくらいは仕方ない。
シニスがふと思い出したように言った。
「そうだ。例の追跡者については何か進展はあったか?」
「あー、それがね……」
そう言えばそっちの問題もあった。頭が痛くなるのを感じながら、酒場で赤髪の少女に襲われた話をする。
「エルシェードまで追ってきたのか……なかなかの情報網だね」
「だよねえ。王都に来たのもバレてるかも」
はあ、とリックはため息をつく。シニスが哀れむように言った。
「厄介ごと続きだね」
「まあね……どうしてこんなことに……」
ごく平凡な冒険者として、真面目に暮らしてきたのに。いや、一つだけ、平凡ではないところがあるか。
「なあ、リック……」
「ティエルを手放せって言うのは無しだよ。いくら積まれたって売る気はないし」
言いにくそうにしているシニスに、きっぱりと宣言する。すると、相手は驚いたように目を瞬かせた。
「君にしては察しがいいじゃないか」
「まあ、シニス相手ならちょっとはね」
曖昧に笑う。ずいぶん長い付き合いだ。シニスは口元に笑みを浮かべつつ言った。
「よし。そうと決まればまずは……あっ!」
などと大声をあげるものだから、リックはきょとんとしてしまった。
「どうかした?」
「ま、待て。ちょっと待って。あれをあっちに移動すれば……いや無理か……?」
口元に手をやり、シニスはぶつぶつと呟いている。彼女らしからぬ慌てようだ。何かまずいことが出てきたのかと、リックは不安になった。
「何? 問題あるなら僕も一緒に考えるけど……」
「い、いや、その……」
しどろもどろになるシニス。リックは奇妙なものでも見るかのように眉をひそめた。こんなシニスは滅多に見たことない、どころか、初めてかもしれない。
彼女は一度深呼吸したあと、ゆっくりと話し出した。
「この家が物でいっぱいなのは、君も見ての通りだ」
「うん」
「正直、これ以上詰めようが無いほど詰め込まれている」
「うん」
「つまり……」
「つまり?」
どうも結論を述べたくなさそうなシニスに、先を促す。やがて彼女は、観念したかのようにこう言った。
「つまり、この部屋しか寝る場所がない」
「え、じゃあ僕たち一緒に寝るの?」
思わず口走ると、シニスの顔がみるみるうちに赤く染まった。それを見たリックは、うろたえたように身を引く。
「だ、だめだよねそんなの。じゃあやっぱり僕はどこかに宿を取って……」
「そうだ! 私が宿なり学院なりで寝るればいいだけじゃあないか!」
「え? うーん……」
さすがにそれは申し訳ない。が、だからってぜひ一緒に寝ようとも言えない。リックは困ってしまった。
シニスがぶんぶんと拳を振りながら言った。
「そ、その話は後だ! 少しでも早くティエルちゃんを見ないと!」
「う、うん」
リックは繰り返し頷く。話をする時間も惜しいほど差し迫っているとは、さすがに思わないのだが。数日の遅れは誤差だとかいうのはどうなったんだろう。
ばたばたと部屋から出ていくシニスを見ながら、リックは思った。
(大丈夫かな……)
色々と。そもそも自分がシニスの部屋で寝泊まりするというだけで、だいぶまずいような気がする。一緒に寝るなどというさらに破壊力の高い案を前にして、感覚が麻痺してしまっていたようだ。
(いや、変なこと考えてる場合じゃないぞ)
(頼むよシニス)
ティエルに関しては、彼女を信じるしかない。机の上に抜き身の剣を置きながら、リックは深く息を吐いた。
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