34.釣り
「ふわあ……」
ゆらゆらと揺れる水面を見つめながら、リックは大きな
眠たげな視線の先には、
川には、たくさんの船が浮いていた。リックが居るのはその中で一番大きく、何十人も乗れるものだ。中には、即席の
リックの周囲にも、何人もの釣り人が暇そうにしていた。どうやら、
「ひまだよー」
船べりに腰掛けて、足をぱたぱたと揺らしていたティエルが、今日何度目かの文句を言った。リックも同感なのだが、船が撤収するまでは帰ることもできない。
(まあ、たまにはこういうのもいいかな)
最近は高報酬だがちょっと危険な依頼をこなしたり、ダンジョンに籠っていたりしたから、こんな平和な仕事は久しぶりだ。毎日これをやっていたら嫌になりそうだが、どちらにしろ期間限定の仕事だ。
(……でも暇つぶしぐらい持ってくればよかった)
船の先の方に目をやると、何本かの竿が放置されていた。その近くでは、集団が座り込んでいカードゲームに興じていた。本を読んでいる人もいる。
「釣れた?」
不意に声をかけられて、リックは振り向いた。そこに居たのは、釣竿を持って移動してきたらしいユンだった。いつも通りの、薄くて動きやすい服を着ている。
「まだ全然。向こうでは釣れてたみたいだから、あっちの方がいいのかも」
ユンの背後、船の後ろの方を指さす。彼女も釣れなくて移動してきたのだろうと思ってアドバイスしたのだが、相手の方はもう竿を固定し始めていた。
「釣りって難しいね?」
彼女はかわいらしく小首を傾げながら言った。果たしてリックの返答はちゃんと聞いていたんだろうか。マイペースだなあ、とリックは思った。
竿の固定を終えると、ユンは木箱に飛び乗るように座った。床まで届いていない足をふらふらさせて、
「一匹ぐらい釣れないかな?」
期待に満ちた顔で、ユンは水面を見つめている。リックもその視線を追ってみたが、静かに流れる川の中には、相変わらず何も見えない。
「一匹で金貨一枚だしね。一匹でも釣れれば十分なんだけど」
そう、皆が狙っている魚は、それほどの高級魚なのだ。これだけ釣り人が集まっているのは、それが理由だった。
もっとも、ついこの前まではそんな値段は付いていなかった。地元の人が食べることはあったが、珍しい魚なので釣れればラッキー程度。市場に出回ることも無いから、金銭的価値はほぼ無いようなものだった。
それが、王都の有名なシェフだかが味を絶賛したとかで、急にこんなことになったのだ。今では冷却の魔法をかけて王都まで運んでも、十分利益が出るらしい。一時的なブームのようなもので、いつまでこの状態が続くのかは分からないが……。
リックの方に顔を向けたユンは、口を少し開けて
「そうなの?」
「そう、っていうのは……」
「そんなに高く売れるの?」
「へ?」
彼女の意外な反応に、リックは面食らった。
「ユンさんも、釣って売ろうとしてるんじゃ?」
「違うよ? 美味しいって聞いたから、食べてみようと思って」
「え、そうなんだ」
「うん」
ユンは立ち上がると、周囲に浮かぶ船に順番に視線を送った。
「みんな食べに来たわけじゃないんだねー」
「そこまでこだわりのある人もあんまりいないと思うけど……」
とは言え、リックだってチャンスがあれば食べたいとは思う。よっぽどたくさん釣れたとか、身を傷つけてしまったとかがあれば調理してみようか。まあそれ以前に、まだ釣れてすらいないのだが。
ユンは木箱に腰を下ろして、再び水面を凝視していた。会話という小さな暇つぶしは終わってしまったようだ。また空虚な時間が始まる。
リックの乗った船では誰も会話しておらず、聞こえてくるのは水の音だけだった。カードゲームをしている集団も、無言で熱中している。
そのカードは、遠くから眺めただけで、見覚えのある物だということがわかった。0から9までの数字が大きく描かれている。あれ一つで様々なゲームができるから、やっているゲームまでは判別できない。
以前あのカードで遊んだのは、王都でのことだ。参加者全員が0から9までの十枚のカードを持ち、そのうち一枚を裏に向けて出す。全員同時に表に返し、最も大きい数字を出した人が勝ち。これを十回繰り返す。
非常に単純で、運が全てに思えるゲームなのだが、あの時はシニスにひたすら負け続けた。彼女曰く「君は出すカードが高いか低いかすぐ分かる」そうだ。あと、相手の残りカードによって戦略が色々あるらしいが、聞いてもよく分からなかった。
(元気かなあ、シニス)
しばらく王都には行っていない。手紙でも出そうとは思っていたが、まだできていない。代筆してもらう必要があるし、そもそも内容を考えるのが苦手なのだ。
(あ、でも調べた結果教えてもらわないとね)
彼女にはある人物に関する調査をお願いしている。まあ、何か分かったらあっちから手紙をくれる、はずだ。いやそもそも、僕がエルシェードで使ってる宿知ってるんだっけ?
「ひまー!」
考えに
ティエルはもう我慢ができないといった様子だった。普段はここまでにはならないのだが、周りが水ばかりで見るべき所もないから、余計に飽きたのかもしれない。
視線が真横に向くと、ちょうどこちらを見ていたユンと目があった。なんとなく居心地が悪くなって、ぎこちなく笑う。ユンは首を傾げたあと、何かを探すかのように、リックの周囲に視線を巡らせていた。
「なにか居たの?」
「いや、べつに……」
リックはもごもごと答える。やがてユンの視線は、船べりのある一点に固定された。そこには、飛び回るのにも飽きて、うつ伏せになっているティエルがいる。
(まさか、見えてるんじゃないよね……)
リックは一瞬そう疑ってしまったが、それはあり得ない。ティエルの姿は何らかの手段で他の人から隠されているわけではなく、リックの視界にしか存在しないのだ。見えるわけがない。
だが、彼女の視線はティエルの方にぴったりと向いていた。見つめられていることに気づいたティエルは不思議そうに首を傾げている。シニスも同じようなことをやっていたから、リックの挙動や視線から位置を予想しているだけかもしれないが……。
「ちょ、ちょっと気晴らししてくる」
これ以上怪しまれないようにと、リックは慌てて席を立った。特にあてもなく、甲板を歩く。
以前は他人のいる場所ではティエルを無視していたものだったが、最近はそうでもなくなってきている。徹底するようにした方がいいのかもしれないが、やっぱり全く無視するのは気が引ける。
(どうしようかなあ)
上手くごまかす方法は無いものか。目視が困難なほどの、小さな虫を飼ってみるというのはどうだろう。変なやつだと思われそうだが。
もう釣り自体を諦めてしまったのか、船内に引きこもっている乗客も結構いるようだった。広い共用スペースで飲み物を手に談笑しているのが、窓から見えた。
船の反対側まで来ると、一人の男が暴れまわる竿と格闘していた。どうやら、魚がかかったようだ。
「手伝いましょうか?」
「いや、いい」
リックの申し出を、男は落ち着いた様子で断った。顔には焦りが全く感じられない。竿を操作しつつ、タイミングを計っているようだ。
しばらく後ろから見ていると、男は突如、竿を思い切り引いた。水面から引き揚げられた糸の先には、銀色にきらきら輝く塊がくっついている。目的の魚だ。
「お?」
男が驚いた声をあげた。かかった魚の後を追うように、別の魚が船の中に飛び込んできたのだ。釣り上げられたわけではなく、水面からすっ飛んできた。
形は最初にいた方ほとんど同じなのだが、色が真っ赤だった。それも銀交じりの赤などではなく、全身が一色に染まっている。
リックはその毒々しい色に違和感を覚えたが、まあこういう魚もいるんだろうか。自分の知識では判断がつかない。
だが、異変はその直後に起こった。びちびちと跳ねていた赤い魚は、突如大きく跳躍して、リックの顔に一直線に向かってきた。
「うわっ!」
再び地面で跳ねるその様子は、まるで次の攻撃のタイミングを計っているかのようだった。リックは顔を引きつらせながら、
「逃げてください!」
叫びながら剣を振り下ろす。が、敵は真横に跳んで、その斬撃を難なく避けた。
ちらりと後ろを見ると、さっきの男が大慌てで逃げ出していくところだった。手には、しっかり釣竿と銀色の魚を持っている。
リックは赤い魚を正面に見据え、得物を正眼に構えた。再び攻撃してくる瞬間を狙って、剣を縦に振る。空中で避けられるはずもなく、魚は綺麗に叩き潰された。
「ふう」
小さく息をつく。冷静に対処すれば、それほど危険な敵ではない。もちろん、冒険者である自分にとってはの話だ。
「リック、向こうにも!」
ティエルが指さす先には、遠く離れた場所で赤い魚が飛び込んでいた。近くにいた釣り人は、運悪く先ほどの戦いを見ていなかったのか、逃げることもなく興味深そうに眺めている。
「その赤い魚は魔物です! 離れて!」
警告を発しながら、リックは走る。慌てて立ち上がった釣り人の側を、跳躍した魚が通り過ぎていく。ぎりぎりの回避にひやりとした。
不意に、目の前を真っ赤な塊が横切って、リックは急停止した。別の個体が飛んできたのだ。それを合図にしたかのように、赤い魚が次々と飛び込んでくる。
「うわわわ」
さすがに同時に何匹も相手にはしていられない。リックは慌てて手近な扉を開けると、室内に入る。魚は扉にぶつかってきたが、破るほどの勢いは無いようだった。
入った場所は、さっき見た広い共用スペースだった。テーブルの周りに座った人たちが、不安げな表情でリックの方を見ている。
「どうしました? この音はなんです?」
「魔物です。魔物が出ました」
「なんと……」
リックの言葉に、農民風の男性が絶句した。この川に魔物が出るなんて情報はなかったはずだ。あったら、冒険者でもない人たちがこんなに集まるわけはない。
魔物の襲来に気づいたのか、船はゆっくりと動き出し始めた。川を下る方向に向いて、徐々に加速していく。
扉についた小窓から外を覗くと、たくさんの魚がびちびちと跳ねるばかりで、人の姿は見えなかった。他の入り口から船内に入ったのだろう。
さらに遠くに目をやると、他の船も異変に気付いて動き出し始めていた。幸い、襲われているのはこの船だけのようだ。
船が移動したからか、これで全部なのか、魔物はそれ以上入ってこなくなった。とは言え、扉の外ではさっき侵入してきたやつらが大量に残っている。
(こいつら、どうするんだろ……)
室内に居れば襲われないのかもしれないが、こちらからも手が出せない。この船は大きすぎて、陸に上がるには港を使う必要があるのだが、魔物を乗せたまま行くわけにもいかない。
と、船内の廊下に繋がっているらしい別の扉から、身なりの良い初老の男性が姿を現した。確か、この船の船長だ。彼が目の前までやって来るのを見て、リックは猛烈に嫌な予感がした。
「冒険者様、どうかあの魔物を退治してもらえないでしょうか? このままでは陸に上がることができません。もちろんお礼はいたしますので、どうか……」
思わず乾いた笑みをこぼす。船には冒険者がほとんどいなかった。やっぱり自分が対処することになるか。
「分かりました。その依頼、お受けします」
「ありがとうございます!」
仕方なくそう答えるリックに、船長は深く頭を下げた。このまま放っておいてもどうにもならないのだから、協力するしかない。
「リック、大丈夫?」
ティエルが不安げに尋ねてくる。まあなんとかなるよ、とリックは心の中で返事する。
「他に魔物退治に参加する方はいないんですか?」
「ええ、一人いらっしゃいまして……」
船長が答えている最中に、彼がやってきた扉から別の男性が入ってきた。大柄な男性で、背中には大きな剣を背負っていた。いかにも冒険者と言った風体だ。
「おう、なんか面倒なことになったな。お前も依頼受けたのか?」
「うん」
どうやら冒険者は、自分たち二人だけのようだ。そういえばユンは無事だろうかと、今更ながら心配になる。
「魔物を倒すのに、なんかいい策ある?」
「ふむ。あいつとは戦ったか?」
「一匹倒した」
「なら、単体だとそこまで強くないのは分かってるな。それから、集団行動も苦手らしい」
男が小窓から外を指さす。確かに、魔物は無秩序に暴れまわっているように見える。執拗に扉にぶつかり続ける個体もいれば、人を探しているのか、跳ねまわっている個体もいる。ぱっと見たところ、知能は低いようだ。
「囲まれないように気をつけて、端から順に叩こう。二人で警戒しながら進めば、まあ大丈夫だろう」
「わかった」
二人は頷きあうと、外に繋がる扉に目を向けた。男が剣を構えるのを見て、リックは扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。
するとその隙間から、赤い魚が飛び込んでくる。それが着地する瞬間に、男は狙いすました一撃を加える。回避する暇も与えず、魔物はべしゃりと潰れて床に張り付いた。
「よし、行くぞ」
魔物退治は、物陰に隠れつつ慎重に進めていった。やはり魔物は知能が低いようで、近いやつから闇雲に飛びかかってくる。そのお陰で、ほとんど一匹ずつ、さくさくと倒していくことができた。連携して襲われたら、もっと大変だっただろう。
やがて、近くに動くものは無くなった。船の外周をぐるっと回っていくと、魔物を見る頻度は徐々に少なくなっていく。どうやら、リックの居た辺りが最も魔物の襲来が多かったようだ。
「あっ」
もうすぐ反対側に着こうというところで、向こうの方から煙が上がっているのが見えた。火事か、とリックはぞっとする。まさか、炎を吐く別の魔物でもいたのだろうか。川に
人もおらず、ほとんど赤い魚も見なくなった甲板を、二人は急いで進む。超強い魔物がいたりしませんように、とリックは祈る。
ようやく煙の発生源を見つけて、リックは脱力した。
そこには、木箱にまたがるように座るユンと、ユンの目の前に置かれた謎の黒い石板と、石板の上には銀色の魚があった。煙は、魚から出ていた。ついでに、美味しそうな匂いも漂ってきている。
「どうしたの? あ、それ熱いから気をつけてね」
剣を構えた二人の姿を見て、ユンは首を傾げた。彼女が指さした黒い石板は、おそらく調理用の魔道具なのだろう。
「魔物が出たんだよ」
「そうなんだ?」
いかにも興味無さそうに言うと、ユンは魚に視線を落とした。というか、魔物の襲撃に気づかなかったんだろうか。他の人はみんな船内に避難しているというのに。
焼き具合に満足したのか、ユンはさっきから手に持っていたらしいナイフとフォークで身を切り分け始めた。一切れを口に入れ、もぐもぐと口を動かした
「意外とふつー?」
「……そう……。僕たちは、残りの魔物を探しに行くから」
「行ってらっしゃーい」
顔は魚の方に向けながら手をひらひらさせるユンに見送られて、リックたちは疲れた表情でその場を去った。
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