32.お宝

「早速ですが、入場許可証はお持ちですか?」

「ああ」

 二本の足で立つ白いウサギに、ザックたちは手に嵌めた指輪を見せる。兎はそれを目視で確認したあと、地面をステッキで叩いた。

「結構です。それではお入りください」

 通路の突き当りの扉が開き、その先にある街並みが見えた。ザックが奥へと進むと、ローレンツとオリビアも後に続く。

 後ろを振り返ると、閉じつつある扉の向こうに白兎がたたずんでいた。兎の顔をじっと観察してみたが、当然表情など読み取れるはずもない。

(あいつ、俺たちのこと覚えてないのか?)

 ここに来るのは二回目だが、あの兎の対応は前回と全く変わらなかった。まるで今日初めて会ったかのようだ。覚えていても、いちいち対応を変えたりしないだけかもしれないが。

「久しぶりですね、ここに来るの」

「そうだな」

 立ち止まるオリビアの横顔に、ザックはちらりと目をやった。彼女は口元に笑みを浮かべ、感慨深げに街並みを眺めている。ここに来るのをずいぶんと楽しみにしていたようだ。

(相変わらず、こんな場所が地下にあるとは信じられねーな)

 視線を真上に向けると、空の代わりにドーム状の岩盤が目に入る。この地下都市を包む、広大な空間だ。元々自然にあった地形なのか、それとも、これを掘るほどの技術を持つ時代があったのか。

「それの解析に、思ったよりも時間がかかってしまったな」

 ローレンツが、ザックの背負い袋を指さす。一部が大きく膨らんでいて、中に入っている球体の形を浮かび上がらせている。ちょうど、人間の頭ほどの大きさだ。

「信頼できるやつを探す必要があったからな。仕方ない」

 球体を解析して欲しいという依頼をこの都市の住民から受けたのは、もうだいぶ前になる。情報が漏れないようにという条件付きだったから、人探しにまず時間がかかってしまった。結局は、王都まで行く羽目になった。

(今日こそお宝を持って帰らないとな)

 ここに来たのはもう三度目になるが、まだ魔道具の一つも見つけていない。依頼の前金として魔石を貰ったのだが、結局は経費に全て消えてしまった。

「建物の配置が変わっているようだ」

 地図を確認していたローレンツが、前方に目を向けて眉をひそめた。そこには都市を縦断する大通りが伸びていて、両側には家が建ち並んでいる。

 前回来た時にもこの通りはあったが、明らかに道の幅が広がっている。どうやら、家の並びを丸々一列取り壊したようだ。

「イルの家には行けそうか?」

 球体解析の依頼主の名前を口に出す。彼の家には、確か都市の入り口から左に向かって行けばよかったはずだが……。

「塞がっちゃってますね」

「ふむ」

 オリビアの言う通り、左に延びる道はすぐに行き止まりになっていた。突き当りには、真新しい家が建っている。前来たときはあんな家はなくて、ずっと先まで道が繋がっていたはずだ。

「どうする、ザック。別の道を探すか?」

「とりあえず、家を突っ切れないか見てみようぜ。『衛兵』に襲われても厄介だ」

 以前に戦った、浮遊する白い球体のことを思い出す。ザックの背負い袋に入っているのも、もう動かなくなった『衛兵』だ。

 あの時は、細い裏道を通っている最中に襲われた。なるべく大きな道を選んで通った方がいいだろう。

 家は全く劣化しておらず、つい最近に建てられたことがすぐに分かった。三人が中に入ると、新品の家具が雑然と並べられているのが目に入る。壁とテーブルにベッドが挟まれていたり、ベッドの上に椅子があったり、適当に放り込んだかのようだ。

 ザックの見込み通り、裏口から家の向こう側に抜けることができた。その先には、大きな通りが伸びている。地図を確認すると、前に通った道で間違いないようだ。

 通りを少し進むと、すぐに行き止まりにぶち当たってしまった。そこにはまた家が建っていて、冒険者たちは思わず顔を見合わせる。

「どうしてこんな無駄なことをしてるんでしょう」

「まったくだな」

 オリビアの言葉に、ザックが相槌を打つ。新築らしきその家は、先ほどの家と同じく全く使われている形跡がない。いったい何のために、家を建てたり壊したりしているのだろうか。

 家を抜けてさらに進むと、ある所を境に家の状態が著しく悪くなっていた。この辺りの地形は、前と変わっていない。目的の家を見つけて、ザックは歩みを進める。

「ザックさん」

 扉が開いて、一人の男が顔を出した。ほっとしたような笑みを浮かべる彼に、ザックは軽く手を上げる。

「久しぶりだな、イル。遅くなって悪い」

「いえいえ。戻ってきていただいただけでも有難いですよ。ローレンツさんとオリビアさんも、どうぞ中へ。お茶でもお出ししますよ」

「ありがとうございます」

 オリビアが小さく頭を下げる。イルに案内されて、三人は家の中に入った。


 テーブルに置かれたティーカップを、ザックは手に取った。口元に近づけると、中の紅茶から強い香りが漂ってくる。草のような、果実のような、不思議な香りだ。

 一口飲んでみた素直な感想は、薄いな、というものだった。イルの好みなのか、この紅茶がそういう味なのか、それとも紅茶とはそういうものなのか。

「これ、すごく美味しいですね。どこの紅茶なんでしょうか?」

 少し興奮した様子で、オリビアが尋ねた。ザックが渡した解析結果の資料を読んでいたイルは、ちらりと目線を上げる。

「さあ……白兎から支給されたものなので、ちょっと分かりませんね」

「そうですか」

 残念そうに言ったあと、オリビアはティーカップの中をじっと見つめていた。カップを傾けたりしながら、熱心に眺めている。ザックも真似をして液体に目をやってみたが、何の情報も得られなかった。

 この都市の住民は全て、あの白兎からの支給品で暮らしている。白兎がどこから食料を調達しているかは分からないが、貰えるものは毎回バラバラらしい。パンも無しに肉ばかり延々続いたりするので、上手く保存しながらやりくりしているそうだ。

(商売でも始められそうだな)

 前回来た時に保存している食料を見せてもらったのだが、オリビア曰く質が良いものや、珍しいものばかりということだった。適当なパンでも安定供給する代わりに食料を譲ってもらえれば、差額で一儲けできるかもしれない。

(ま、素人が手を出しても怪我するだけか)

 本気でやるつもりなら、商人でも連れてくるのがいいだろうか。幸い、この都市に入るための通行証は三つある。一時的に貸して、食糧交換のルール決めだけしてもらうことも可能だろう。

 そんなことを考えているうちに、イルは資料を粗方読み終わったようだった。紙の束をテーブルに置いて、彼は小さく息を吐いた。

「外殻の強度以外は、ほとんど何も分からなかったということですね」

「そもそも分解できなかったんだよな」

 先ほど荷物から出して、床に置いていた球体を指さす。つるつるした石のような素材でできていて、一部だけガラス質の円形の部位があった。見方によっては、瞳を模しているようにも見える。

 こいつを調べて、この都市に関する何らかの情報を引き出して欲しいというのが、イルから受けた依頼だった。分解してもいいと言われていたが、どんなに力を加えても傷一つ付かなかったのだ。

「役に立てなくて悪い」

「いえ、普通の方法では壊せないということが分かっただけでも収穫です。約束通り、下の階層を探索する方法をお教えしますね」

 球体解析の依頼を受けたのは、代わりにこの情報を貰うためだ。この都市の下の階層には、魔道具が山ほど眠っているはずなのだ。ただし下に行けば、『衛兵』、つまりどうやっても分解できないほどの強度を持った、この球体と戦う羽目になる。

「まず前提として、『衛兵』の動きはそれほど速くはありません。ですから、走って逃げるのが基本戦略になります」

「えらい雑だな」

 イルの説明を聞いて、ザックは唇を歪めて渋い顔をした。簡単に逃げられればいいが、こいつは射出型の攻撃魔法を備えている。後ろから撃たれてはたまらない。

「もう一つ、『衛兵』は同士撃ちをしないように設計されています。具体的には、仲間のいる周辺には攻撃してきません」

「……なるほど、つまり盾にしろってか」

「その通りです」

 説明を先回りしたザックに、イルは満足したように頷いた。オリビアが、不思議そうな顔で首を傾げる。

「どういう意味ですか?」

「そこにある動かない『衛兵』を持っていけば、少なくとも所持している人物は攻撃されない。だから、その人物が仲間を庇いつつ逃げればいいということだ」

 床に転がる球体を指さしながら、ローレンツが解説する。なるほど、とオリビアはこくこくと頷いた。

 ローレンツは少しの間球体を見つめたあと、イルに尋ねた。

「攻撃されない範囲の詳細は?」

「詳しくは分かりません。背負い袋に入れておいただけで一切撃たれなくなったので、私が丸々入る程度は大丈夫だと思いますが……」

「他のやつらをどの程度守れるかは分かんねーってことか。まあ、陰に隠れてれば大丈夫だろうな」

 ザックは腕を組みながら言った。となると、球体を持った人物には素早い位置取りが求められる。自分が適任だろう。

「これは借りて行っていいのか?」

「ええ、大丈夫です」

「無事に持って帰ってくる保証はできねーぞ」

「その時は仕方ありません、諦めます」

「分かった」

 それから、とイルはザックに紙の束を手渡した。

「私が今までにこの都市について調べたことが、ここに書いています。何か役に立つかもしれません」

「助かる」

 資料を受け取ると、仲間たちに視線を送って立ち上がった。全員荷物を持って、席を立つ準備を始める。

「下で都市に関する情報を手に入れたら、教えてください。買い取らせてもらいますので」

「ああ。あんまり期待しないでくれよ」

 そう言って、ザックは肩をすくめた。なんせ、自分たちはまだ全く何も手に入れられていないのだから。


 イルの家を出た三人は、都市の中央にある大きな建物へと向かった。まだ確認していないが、中に下の階層に行く階段があるはずだ。

「下に降りたら、なるべく固まって歩こう。『衛兵』が出てきたら、二人はその場で止まってくれ。俺がすぐに前に出る。ローレンツは逃げる方向を決めて指示を頼む」

「二体来た場合はどうする?」

「そうだな……」

 ザックは少し考えたあと、言葉を続ける。

「全員で移動して、俺が両方の射線を塞げるように位置取りしよう。それまでは片方だけカバーするように動くから、もう片方の攻撃は頑張って避けてくれ。攻撃の予兆は分かるよな?」

「ガラス部分が光った後に攻撃だったな。一体だけなら注視していれば回避可能か」

「頑張ります」

 そう言って、オリビアはこくりと頷いた。

 しばらくの間、三人は無言で歩き続ける。目的の建物が見えてきたところで、オリビアがおずおずと尋ねてきた。

「あの、三体以上来たら?」

「二体の時と基本は同じだ。複数方向からの攻撃を避けなきゃいけなくなるが……ま、来ないことを祈ってくれ」

「分かりました」

 横目でオリビアの方を見ると、彼女は若干青ざめた顔で、ぎゅっと唇を引き結んでいた。最終的には臨機応変に動くしかないのだが、本当に危ない時に彼女がどういう行動を取るのか、まだそこまで知っているほど付き合いが長いわけではない。

(パニックにならなきゃいいが)

 そんなことを思いながら、ザックは建物の扉を開けた。中に入ると、そこは大きな一つの広間のようになっていた。玄関もなければ、通路も何もない。教会から中の装飾を全部取りさらえばこんな感じか、とザックは思った。

 広間の中央には、下に降りる階段があった。階段の前の床には、文字か記号のように見える模様が、いくつか描かれていた。ザックたちが普段使っている文字とも、魔術に使う古代文字とも似ていない。

「これが『立ち入り禁止』ってやつか?」

「そのようだ」

 さっき貰った資料を確認しながら、ローレンツが答える。イルもこの言語がちゃんと読めるわけではないが、いくつかの単語の意味は予想をつけているらしい。

「この先に入ったら、『衛兵』に襲われるってことですよね」

「だな。すぐ後ろをついて来いよ」

 紐で背中に縛り付けた球体を手で確認してから、ザックは階段に足をかけた。イルからは袋に入れたままで大丈夫だと言われたのだが、念のため見えるようにしておこうということになった。元々持っていた背負い袋は、オリビアに預けている。

 階段を下りた先は、白い石で囲まれた通路になっていた。天井には所々に小さな光球が張り付いていて、辺りを照らしている。

 下の階層は曲がりくねった一本の広めの道と、そこに付いたたくさんの横道で構成されていた。横道の先には、細い通路が続いているように見える。

 イルから聞いた情報によると、広い道をずっと行った先に、長い文章が書かれた意味ありげなプレートがあったらしい。まずはそこまで行ってみるつもりだ。

 少し歩いてみたが、『衛兵』が現れる気配はまだない。直線を進みながら、ザックは自分の右肩にちらりと目をやった。

(いや、そこまでくっつけとは言ってないんだが)

 そこに乗っているオリビアの手を見て、心の中でぼやく。曲がり角や横道があるたびに、彼女はきょろきょろと不安げに辺りを見回している。普段ここまで魔物に怯えているわけでは無いのだが、前回会った『衛兵』がそんなに怖かったのだろうか。

「おっと」

 次の角を曲がると、宙に浮いた『衛兵』が目の前にいた。肩に置かれた手が、びくりと震えたのが分かった。後ろの二人が自分の陰から出ないよう、ザックはすり足で立ち位置を調整する。

 『衛兵』のガラス部が、自分の方にじっと向けられている。あれが光ったら、直後に攻撃が飛んでくる。ザックは避けたい思いを堪えながら、ガラス部をじっと見つめ続けた。自分が先頭にいる限り、撃ってはこないはずだ。

「ザック、奴を正面に見たまま、距離を変えずに通路の向こう側に回り込んでくれ。オリビアと私はザックの背中から離れないように移動する。合図をしたら全員同時に走り出そう」

「了解」

「はい」

 ローレンツの指示に、残りの二人は頷いた。ザックがゆっくりと移動すると、『衛兵』もガラス部の向きを追従させてきた。まだガラスが光る様子は無い。

「よし、走れ!」

 合図とともに、三人は駆け出す。ザックは走りながら、ちらちらと後ろを確認する。曲がり角はもう少し先だ、そこに着くまでは射線を通さないように気をつけなければいけない。

(逃げきれそうだな)

 『衛兵』はふわふわと後を付いて来ているが、その速さはせいぜい人が歩く程度でしかない。曲がり角に着くころには、もうかなりの距離が開いていた。諦めたかのように、『衛兵』が別の方向へと飛んでいく。

「一定距離までしか追ってこないようだな」

 角を曲がろうとしていたローレンツが、後ろを見て足を止めた。ザックは去って行く『衛兵』をじっと見つめながら答える。

「そうらしい。距離はだいたい覚えとこうぜ」

 この程度まで離れたら、安全だということだ。ずっと逃げ続けるわけにはいかないので、この情報は重要だ。

 その後も何度か『衛兵』に出会ったが、上手く戦闘を回避することができた。二匹以上と出会うことが無かったのは運がよかったか、それとも被らないように巡回しているのかもしれない。

 しばらく進むと、曲がり角の壁に大きな金属製のプレートが掛けられていた。そこには、階段の上にあったような文字が書かれている。あっちは数個の文字だったが、こっちは数十個集まった文章になっている。イルが言っていたのはこれの事だろう。

「さて、なんて書いてあんのかね」

「初めの方に『立ち入り禁止』の並びがあるな」

「ふむ」

 立ち入り禁止なのは、この階層全部のはずだ。再度警告しているだけなのか、それともここから先は何かが変わるのか。

「駄目だ。それ以外は分からない」

「ま、仕方ないな。進むしかないか」

 三人は再び集合すると、通路を進み始めた。

 広い通路は、ここまでと全く同じように曲がりくねりながら伸びていた。曲がり角や天井の明りの間隔でも変わっているんじゃないかと思って見ていたが、そういったことも無いようだ。

「ん?」

 だが最初の横道が近づいてきて、先頭を歩くザックが異変に気付いた。

「どうした?」

「あの先、部屋になってるぞ」

「なに?」

 一番後ろのローレンツが、身を乗り出すようにして横道の先を見る。確かに、それは道というより入り口になっていて、その先には空間が開けているようだ。

 正面まで行くと、そこには予想よりも遥かに広い空間が広がっていた。天井は高く、ザックの身長の倍はあるだろう。その空間を満たしているものを見て、オリビアがぽつりと呟くように言った。

「図書館?」

 部屋の中には、天井まである大きな本棚が所狭しと並べられていた。どの棚も本でいっぱいになっている。

 本棚に近づくと、ザックはその中の一冊を手に取った。中を開くと、この都市で何度も見た文字が書かれている。

「こういうのって、金になんのか?」

「本は物によっては価値が高いぞ」

 手元の資料と見比べながら、ローレンツは本の背表紙を一冊ずつ確認していた。ザックはそれを覗き込む。

「なに探してんだ?」

「この都市に関する本だ」

「ああ」

 イルが作った言語資料には、この都市の名前と思しき単語も含まれていた。この言語は書かれることはあっても喋る者は存在しないので、どう発音するのかまでは分からない。

「それだけざっと調べて次へ行くか……いや待て、あれは何だ?」

 ザックが部屋の奥を指さすと、残りの二人も顔を上げた。

 そこには、ザックが持つ『衛兵』より少し小さい黒い球体が、目線の高さで空中に静止していた。ガラス部のようなものは無く、一面黒く染まっている。

「『衛兵』か?」

「見たことねータイプだな」

 ザックは剣を構えて、仲間を庇うように前に出た。こいつにも『衛兵』の盾が通用するかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。残りの二人は、早速呪文詠唱を始めていた。

(攻撃方法はなんだ?)

 前のタイプと同じく何かを撃ち出してくるのか、それとも単純な体当たりだったりするのか。見極めてから対処するか、さっさと逃げ出すのか、早く決めなければならない。

 黒い球体は、白いやつよりも遥かに機敏な動きで、ザックたちの方に近づいてきた。あと数歩近づけば剣が届く程度の距離で、ぴたりと止まる。

(撃ってくる気か?)

 いや、それなら近づく必要はないはずだ。つまり、何か別の攻撃方法が……。

「離れろ!」

 叫ぶと同時に、ザックは敵に背中を向けて逃げ出した。それを聞いたローレンツも、即座に詠唱を止めて走り出す。

 直後、バチッ、という大きな音とともに、黒い球体から無数の雷のようなものが放射された。球体の全面から伸びたそれらは、近くの空間を一瞬にして埋め尽くす。ザックのすぐ近くまで迫ったが、減衰して消滅した。

「あっ」

 反応が遅れたオリビアだけが、雷の範囲に取り残されていた。小さく声を上げたあと、その場に崩れ落ちる。

「くそっ」

 ザックは踏み出した足で地面を強く蹴ると、再び球体の方へと向き直った。一瞬だけ、オリビアの方に目をやる。彼女は立ち上がろうともがいていたが、体が痺れて上手く動かないようだった。

 いつの間にか、球体は地面に接するほど低く飛んでいた。何をする気だ、と考える間もなく、床のあらゆる場所に深紅の魔法陣が次々と浮かび上がってくる。その一つ一つは、ちょうど人間一人が上に立てるほどの大きさだった。

「ザック、それを踏むな!」

 ローレンツの声を聞いて、ザックは足元に目をやる。自分が目の前の魔法陣に半分足を踏み入れていることに気づいて、小さく後ろに飛んだ。

 着地すると同時に、全ての魔法陣から一斉に炎の柱が吹きあがった。慌ててオリビアの方を見たが、運よく陣の範囲からは外れていたようだ。だが、いつまで幸運が続くかは分からない。

「通路で対処するぞ」

 ローレンツとともに部屋から出ながら、ザックは球体の動きを慎重に観察した。幸いなことに、球体はオリビアにとどめを刺す気はないようだった。素直にこちらに着いてきている。

「こっちを見やがれ!」

 詠唱を始めたローレンツを通路の奥に残して、ザックは部屋から出てきた球体に向かって走った。雷を無駄撃ちさせて時間を稼ぐつもりで、効果範囲を計算して急停止する。

 しかし、相手はそれには乗ってこなかった。再び地面に落ちると同時に、無数の魔法陣が現れる。足元とすぐ目の前に、重なるほどの密度で陣が並ぶ。真上に立たないように、慎重に斜め後ろに移動した。

 横目でローレンツの方を見ると、詠唱を中断して回避を余儀なくされているようだった。これでは魔法を発動させることはできない。

(くそ、どうすりゃいい?)

 あの雷がある限り、接近して攻撃を加えるのは難しい。一方で、魔法の詠唱は炎で止められてしまう。弓でも持ってくるんだった、と後悔していると、ローレンツの声が辺りに響いた。

「炎よ!」

 前方に伸ばした彼の手の平から、炎の塊が撃ち出される。詠唱は全く無かったから、魔法ではなく緊急用の魔道具だろう。前回使ったのは年単位の昔の話で、ザックは存在自体を忘れていた。

 炎の塊は球体に命中したが、残念ながらダメージを与えた様子はなかった。補助として持っている程度の魔道具では、威力が足りないようだ。ザックは歯ぎしりして球体を睨み付ける。

 剣も魔法も魔道具もだめならどうすればいいのか。だが妙案が浮かぶ前に、今度は床にも壁にも深紅の魔法陣が現れた。ザックは顔を引きつらせながら、炎の柱が来ない空間を瞬時に計算する。数歩後ろに下がったところで、なんとかやりすごした。

「壁が近いと不利だな。部屋に戻るか?」

 自問半分、ローレンツに聞かせるつもり半分で、ザックは呟くように言った。そのためには、球体を部屋の入り口から動かす必要がある。だが彼から返ってきたのは、別の答えだった。

「プレートの手前まで逃げれば、追ってこないんじゃないか」

「……そうかもな」

 ザックは苦虫を噛み潰したような顔で言った。同じことを考えてはいたが、戻ればオリビアを見捨てることになる。今はこちらへの攻撃を優先しているが、自分たちが逃げれば彼女にとどめを刺しに行くかもしれない。

 行動を起こせないでいるうちに、またしても魔法陣が現れる。それに加えて、氷弾が球体を囲むようにいくつも浮かび上がった。二人が位置取りをしている間に、氷が周囲に撃ち出される。

「くっ!」

 剣で受けるか一瞬迷った後、体をわずかに捻って弾を避けた。炎柱が吹き上がり、氷弾はすぐそばを掠めていく。ちらりと後ろを振り返ると、通路の壁が広範囲で凍結していた。避けて正解だったようだ。

 ローレンツは炎の魔道具を連続で使って、なんとか凌いでいた。炎と氷がぶつかりあって、対消滅する。

(なにか弱点は無いのか?)

 ザックは焦る心を抑えながら、これまでの球体の行動を思い返した。攻撃がパターン化しているわけでもないし、同時に二つ以上の攻撃を行うこともできる。弱点らしい弱点は見当たらない。

(せめて雷が無けりゃ攻撃できるんだが)

 防戦一方ではどうにもならない。いつかは攻撃を喰らってしまうだろう。破壊はできないにしても、弾き飛ばすぐらいできれば隙を作れるのだが……。

(……待てよ)

 敵が雷を撃ってきたのは最初だけだ。ザックが近づこうとした時も、使ってきたのは雷ではなく炎だ。あの時は、ローレンツの詠唱を妨害するためだと思っていた。だがそうではなく、単に雷だけは一度撃つとしばらく使えないのではないだろうか。

「雷の射程ぎりぎりまで近づいてくれ!」

 ザックの指示に、ローレンツは何も言わずに従った。同時にザックも走り出すと、深紅の魔法陣が球体を囲むように現れる。二人と球体の間には、ほとんど地面が埋まるほどに敷き詰められていた。ローレンツは陣の直前で足を止める。

(当たりか?)

 もし今雷を使えるなら、炎の魔法陣で近づかせないようにする意味はないはずだ。ザックは陣を踏むのも気にせずに、敵に肉薄した。慌てたかのように球体が浮かび上がると、魔法陣が消滅する。

「喰らいやがれ!」

 剣を真横に大きく薙いで、球体に一撃を加える。吹き飛ばされた球体は、部屋の奥の本棚に突っ込んでいった。連続して棚がなぎ倒され、大量の本がなだれ落ちる。

「剣を頼む!」

 武器を放り出して、ザックは部屋の中へと走った。オリビアが身を起こそうとして、苦しげに顔を歪めているのが見える。彼女の体を担ぎ上げると、通路へと取って返した。球体はまだ本の山から出てこない。

 通路に出ると、重そうに剣を持ったローレンツが待っていた。二人で頷きあうと、道を戻って金属製のプレートがあった場所を通り過ぎる。立ち止まって、後ろを振り返った。

 しばらく通路の奥に意識を集中していたが、黒い球体が追ってくる気配は無かった。ザックは大きく息を吐く。

 オリビアを道の端に寝かせてやると、自分も横に座り込んだ。ローレンツも隣に並ぶ。

「危なかったな」

「そーだな」

 ザックが敵を引き付けている間にローレンツが攻撃魔法を詠唱する、というのが二人の戦闘パターンだ。大抵はこれでなんとかなるのだが、それで対処できなかった場合どうするのかも、もう少し考えておいた方がいいかもしれない。

「すみません、私のせいで……」

 まだ起き上がれないらしいオリビアが、弱々しく言った。なんとか喋れる程度には回復したようだ。彼女に向かって、ザックは肩をすくめる。

「気にするなよ。そもそも俺が避けられたのも偶々たまたまだからな」

 そういう意味では、あの一撃で終わっていた可能性もある。日頃の行いが良かったのかね、と、あえて軽く考えることにした。

「今日はここまでか」

「だな。あいつの対処法を考えないと、どうにもならねー」

 投げやり気味にザックが言う。雷を連発できないことは分かったが、どうやって最初の一発を撃たせるのかという問題がある。そもそも、さっきの攻撃だけで倒せたとも思えない。

「しかしまた収入無しか。三回目だっつーのに」

 誰に言うでもなく、ザックはぼやいた。ここには一攫千金狙いで来ているとは言え、三連続で何もないとさすがにうんざりする。

「私、本を持ってきました」

「なに?」

 ぽつりと呟くようなオリビアの台詞に、ザックは素早く反応した。手には何も持っていないが、よくよく見ると、背負い袋の中に角ばった物体が入っている

「出してみていいか?」

「はい」

 背負い袋の口を開いて、長い黒髪に引っかからないように本を取り出す。横向きに寝転んでいたオリビアが、少し身じろぎした。

 本の表紙には、ツタ状の植物が縁取りするように描かれていた。中を開いて、ページをぱらぱらとめくる。もちろん文字は読めないが、挿絵が大量にあるおかげでどんな本かは何となく分かった。

「……料理の本だな」

「そのようだ」

 そこに描かれていたのは、スープやサラダ、魚の丸焼きなど、様々な料理の絵だった。横にリスト状に書かれている文字の羅列は、恐らくレシピだろう。分量らしき数字は読み取れたのだが、肝心の材料が分からない。

「お宝も手に入れたし、これで満足するか」

「価値があるとは限らないぞ」

「気分の問題だ」

 ザックはぱたりと本を閉じると、壁に背を預けて目を閉じた。

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