第22話 変わらない日常の朝




 喫茶店には喫茶店の良さというものがあって、それはいつまでも変わらないことだと僕は思う。


 久しぶりに故郷に帰ってきて、ふと思い出して行ってみたら、その喫茶店はまだ街角にぽつんとある。中ではあの頃に比べてちょっと老けたマスターがいて、つんと澄ました顔でコーヒーを入れている。喫茶店の中では時間が止まっているようで、穏やかな、なんとも言えない気持ちになって息を吐く。椅子に座って、珈琲を一杯。ほら、それだけでいつも通りだ。


 煩わしいことはすべて忘れて、あの頃の自分に戻ることができる。


 いつの間にか駆け足になっていたことに気づいて、背中を押す理由もない不安感や、何かに取り残されるような焦燥感から解き放たれて、のびのびとくつろげる。


 そんな不思議な場所が、喫茶店なのである。

 たとえそれが、異世界にあったとしても、ね。



 Φ



 店内はしんと静まっている。窓の外ではようやく陽が腰を上げ、ゆっくりと夜が明けていく。


 すでに街の人々は動き出していて、それぞれの開店準備をする人や、屋台を設営する人、仕入れの交渉の声なんかが遠くに聞こえる。窓の外では、革鎧に矢筒を抱えたエルフの青年と、白いローブの獣人の女性が迷宮に向かって歩いて行く。すれ違いに、3人ほどの髭面のおじさんが、汚れた鎧や顔で、けれど笑い合いながら街に戻っていく。


 朝早いと行っても、迷宮に行く人やそこから帰る人にとってはあまり関係ないようで、この店の窓からはそういう人たちの姿がいつも見えるのだった。


 この街の日常風景を見ながら、僕は椅子に座ってコップを磨いていた。ある程度の朝の仕込みはもう終わっていて、あとは開店時間を待つばかりといったところだ。


 磨き終えたコップを丁寧に食器棚に飾っていると、カランカラン――と、ドアベルが来客を知らせた。


 まだ夜が明けたばかりで、こんな時間に来るのは一人だけだった。来店客は、海に沈む夕陽のような紅い髪のポニーテールを揺らしながら、ゆったりとこちらに歩いてくる。すらりとした体を学院の制服に包んでいて、胸の膨らみは慎ましい。切れ長の瞳はまだいくらか柔らかさをもっていて、寝起きなのがわかった。それでも勝気な雰囲気は伝わってくるし、整った顔立ちはいっそ拝みたくなるくらいである。今日も溌剌とした美少女っぷりだった。


「おはよ。いつもの事だけど朝早いわね、あんたも」


 ほにゃっとした顔でリナリアがカウンター席に座った。お湯を沸かしながら、僕もおはようと挨拶を返す。


「寝るのが早いからね。自然と朝に起きるんだよ。料理の仕込みもあるし」

「料理の仕込み?」


 ふぁっと小さくあくびをしながら、リナリアが言った。手で隠してはいるが、普段では絶対に見ることのできないだらしない姿だ。朝のこの時間にだけ見られる、リナリアの貴重な姿だった。


「いろいろあるんだよ。注文が入ってからいちいち材料の皮むきをやるのも大変だし、加工しないと食べられないものもあるし」

「そうなの?」

「そうなんだよ」


 なんて会話をしながら、僕は丸パンをスライスしている。やや厚めに切ったそれに、異世界ヤギのバターを塗り、レタスときゅうりを合成したような野菜と、スライスしたチーズを挟む。ピリッと香辛料の聞いたソースを塗りつけて、メインは厚切りのハム。


 このハムがまたいいのだ。ベーコンのような旨味がぎっしりと詰まっているのに、後味はさらっとしている。噛んだ瞬間にじゅわりと肉汁が溢れだし、口の中いっぱいに濃厚な肉の旨味が広がる。これだけだと少しこってりなのだが、クセがなく甘みの強いチーズが肉汁に溶けて、まろやかな味わいに変わるのだ。そこに野菜のシャキシャキとした食感に、わずかな苦味。その全てをソースがまとめ上げ、食べ終わった瞬間には、すぐに次の一口を頬張りたくなる。


 このサンドウィッチなら、朝からだろうといくつでも食べられる自信がある、僕のお気に入りだった。


 具材を全て挟み込んで、出来上がったサンドウィッチを半分に切る。食べやすくなったそれをお皿に盛りつけ、梨に似た果物を添えてリナリアの前に置いた。


「はい、いつものスペシャルサンド」

「……ん」


 うつらうつらとしながら、リナリアはサンドウィッチを手に取り、ぱくりと食いついた。眠そうな顔で、もぐもぐしながら、すぐにまた一口、さらに一口と、サンドウィッチを頬張っていく。


 見た目はいかにも小食ですと言わんばかりなのだが、リナリアはよく食べる子なのだ。


 良い食べっぷりに思わず笑みなんか浮かべつつ、湧いたお湯でコーヒーを入れる。砂糖と温めた牛乳も入れて、カフェオレと言ったところだろうか。リナリアにも是非、朝のコーヒーという至福の時間を味わってもらいたいのだけれど、彼女は特にコーヒーが苦手なのだ。だから、朝はいつもこのカフェオレだった。


 ちょうど半分ほどを食べ終えたリナリアが、僕の差し出したカフェオレに手を伸ばし、そのまま口に運ぶ。


「ん、おいし」

「それは良かった」


 ぼんやりとした眠気を抱えたまま食事を楽しむリナリアを見ながら、僕は残った仕込みの続きに取り掛かった。


 最近になって、朝からこの喫茶店に来る人が増えてきた。それは例えば、夜勤を終えたギルド職員や施療院の人とか、単に仕事が休みの人とかなのだが、そういう人たちの朝食にこのサンドウィッチを出してみたところ、これがなかなか評判になった。


 パンに具材を挟んで食べるというサンドウィッチの概念はあったらしいのだが、それは僕の世界のものよりもずっと大雑把なもので、仕事が忙しい時にさっと腹を満たせるものに過ぎなかった。味は二の次の食べ物だったのだ。それをこうしてひと手間ふた手間かけて作ったものは、意外性もあるし、食べやすいし、なんかお洒落だし、という感じで、女性客によく頼まれるようになったのである。


 そして僕はついに今日、正式なメニューとして始めることにしたのだ。


「そう、これがモーニングセットさ……ふふふ」

「なに笑ってんの? こわいんだけど」


 食べ終えてカフェオレを味わっていたリナリアに、じと目で見られるがそんなことは気にしない。


 忘れてはいけないのだが、僕の目下の目標は、コーヒーの魅力をこの世界で広めることなのだ。正しいコーヒーの知識と、味を知らないがためだけに、この世界でのコーヒーは「健康に良いらしい泥水」扱いなのだった。


 以前から、モーニングセットで朝からコーヒー戦略は考えていた。けれど、ただでさえこの世界で馴染みのないコーヒーを売る喫茶店という変な店ポジションにいたため、そもそも朝からお客なんて来なかったのだ。


 しかし、僕の地道な活動により、朝からこの店に来てくれる人も、ぽつぽつとだが増えていた。


 たとえそれがサンドウィッチやパスタやケーキと言った、この世界では物珍しい食事目当てだとしても、である。あとは勝手にセットにしてコーヒーを飲ませればいいだけさ。何の問題もない。セット最高だ。くれぐれも押し売りとか、抱き合わせ商法ではない。モーニングセットなのだ。僕のサービスである。


「完璧な作戦すぎて自分が怖いな……ふふふ」

「大丈夫? 睡眠が足りてないんじゃないの? 店番、代わりましょうか?」


 そんな、平日の早朝のことである。いつも通りの朝の光景だった。



 Φ



「さ、どうぞ、モーニングセットです」

「あの、えと、すいません、この黒い液体はいったい……」

「コーヒーです」

「え?」

「コーヒーです」

「は、はぁ……?」


 僕が力強く頷くと、女性はきょとんとコーヒーを見つめた。


 じーっと観察してから、ゆっくりと顔を上げ、僕を見る。


「この黒い液体は……」

「コーヒーです」

「はぁ……コーヒーというのですか」


 そしてまた、女性はコーヒーの水面を見つめている。


 朝日もずいぶんと顔を出し、時間としては9時を過ぎた頃だろうか。リナリアもとっくの昔に学院に行き、店内には常連さんの姿がちらほらとあった。


 窓際では、エルフの女性が片手に本を読みながら、思い出したようにコーヒーを飲んで顔をしかめている。


 奥の席では、ドワーフのおっさんがルーペで小さな岩石を鑑定している。


 テーブル席には、大人の色気あふれる獣人さんと、遊び人風なイケメンが座っていて、時折くすくすと笑い声が聞こえる。


 平日の午前の店内では、いつもよりも穏やかな時間が流れていた。


 そしてカウンター席に座って、コーヒーを見つめている女性。彼女は、どうやらコーヒーを初めて知ったらしく、興味深そうにコーヒーを見つめていた。


「これは、飲めるのでしょうか……?」


 きょとんとした顔で聞かれて、僕は思わず苦笑した。


「もちろん、飲めますよ。少し苦いかもしれませんから、その時は砂糖とミルクを混ぜてください」

「なるほど」


 こくこくと頷いた女性は、両手でおずおずとカップを持ち上げると、口に運んだ。伏せられた長い睫毛が震え、そして、こくりと白い喉が動く。


 そのまま、数秒。そっとカップを下ろしてから、女性が目をあけて僕を見た。


 大きな瞳だった。


 夏の太陽を照り返す青い海のような澄んだ色の瞳を濡らしながら、彼女は僕の目をじっと見つめる。


「これは……」


 少しの、沈黙。


「飲み物では、ないと思います」


 泣きそうな顔で言われて、僕は肩を落とした。


 コーヒーの魅力は、中々に伝わらないらしい。


 僕が肩を落としたのを気にかけてくれたようで、女性は慌てたようにぱたぱたと手を動かした。


「いえ、あの、でも、えっと、すごくっ、特徴的な味で、その、好きな人にはたまらないと思いますっ」

「そっか、好きじゃない人にはたまったもんじゃないんだね……」

「うっ、それは……否定できません……!」


 正直な返答に、僕は思わず吹き出してしまった。


 女性がすごく申し訳なさそうに眉をさげながら言うものだから、余計にだ。すごく真っ直ぐな人のようだった。


「な、なぜ笑うのです……うー」

「いえ、すいません。自分に正直な人だなっと思って」


 笑いを噛み殺しながら言うと、女性は頬を染めて顔を下げた。


「ご、ごめんなさい。昔からこうなんです。思ったことがつい口から出ちゃって……」

「いえいえ、問題ないですよ。ちょっと失礼しますね」


 女性のコーヒーカップを取り、中身を半分ほど別のカップに移す。そこに牛乳と砂糖、それから秘密の粉を混ぜあわせてカフェオレにして、再び女性の前においた。


 僕の動きを興味深そうに眺めていた彼女は、自分の前に置かれたそれをじっと見つめて、こう言った。


「これは、飲めるのでしょうか……?」


 もうあの苦さはいやだと、へにゃりと下がった眉が物語っていた。


「飲んでみてください。今度は、美味しいとおもいますよ」

「……では」


 先ほどと同じように、両手でカップを持って一口。


 どうですか? とは聞く必要がなかった。女性は目を開き、それから眉を上げ、にこっと幸せそうな笑みを浮かべた。


「こっちはおいしいです!」

「それは良かった」

「はい! すごくおいしいですねこれ!」


 こくこくと美味しそうに飲む女性を見て、僕も笑顔になる。自分の作ったもので喜んでもらえるというのは、とても幸せなことだった。それがたとえ一杯のコーヒーであっても、だ。彼女が笑顔になっているこの時間は、間違いなくこの店が提供したものだった。いつでも、誰にでも、そういう時間を提供することこそ、喫茶店の役割なのだ。


 ただ、やはりコーヒーは人気がないようだった。結局これ、カフェオレだもの。最初からカフェオレを出した方が、手間がなくていいのだろうけど……。


 美味しそうにカフェオレを飲む女性から目をそらし、外の通りに面した大きな窓に目をやる。


 種族に、年齢、性別も様々な人々が、賑やかに歩き、すれ違っていく。その一人ひとりを眺めながら、僕はぼそりとつぶやいた。


「コーヒーで世界征服の夢は、遠いな……」


 窓際の席で本を読んでいたエルフの女性が、ため息をついた。





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