第4話 もう駄目だよ、この幼女
「ユウちゃん! 男の人ってどうやったらヨクジョウするのっ!?」
ある日の午後のことだった。
僕はいつも通りに黒のエプロンをしてカウンターに立ち、コーヒーをぽこぽことサイフォンさせながらコップを磨いていた。
渋くて味のある喫茶店に必要なのは、渋くて味のある客である。
しかし、僕の目の前にいるのは幼女だった。
薄桃色の髪を肩の上まで伸ばし、片側だけを深い藍色のリボンで結んでいる。くりくりとした大きな目は澄んだ光を宿していて、きっと世界を、好奇心という視点からきらきらと見つめているのだろう。
僕にもこんな時代があったのかなとか思いつつ、どこでおかしくなっちゃったのかなと頭を抱えた。僕がではなく、この子がである。
ヨクジョウ。浴場? いや、欲情なんだろう。確実に。
「……ハル。とりあえずそういうことを大声で叫ぶのはマズイ。なにがマズイって、僕の世間体がマズイ。この店の評判もマズイ。困るのはハルじゃなくて僕だから、とりあえずその口を閉じろ幼女」
「そんなことはどうでもいいの! いま重要なのは、おとーさんをヨクジョウさせることなのっ!」
なんかもう、だめだよコイツ。
犯罪の匂いしかしないよ。5歳を過ぎたばかりの子供が言う台詞じゃねえよ。誰か助けてくれよ。
ハルの発言に、店内からひそひそと声が聞こえる。ああ、ちくしょう。こんな時だけ一見さんが多いんだもんなあ。やってらんねえ。
「もう、おとーさんったら、ハルがこんなに愛しているのに、ぜんぜん相手にしてくれないんだよ? そりゃ、頭をなでてくれるのは嬉しいけど……嬉しい、けど……うれしい……ほわぁ」
ハルの瞳が虚空を捉え、とろーんとふやける。口元はだらしなくゆるみ、「えへ、えへへぇ」とかいう笑い声も漏れている。
なんだよこれ。なにがあったんだよ。神様はこいつを作ったときだけ自暴自棄にでもなってたの? 嫌なことでもあったの? いじめとか受けてたの? 虚空を見ながらトリップって、これもう末期だよ。
しかし、もう慣れたっちゃ慣れたので、僕は無視してコップを磨き続けた。こうやって磨くためだけに、無駄にコップを買い揃えたのだ。喫茶店のマスターはコップを磨いているという想像は、きっと僕だけではあるまい。
しばらくすると、ハルが唐突に意識を取り戻した。息を荒げながら、「もうやだおとーさんったらぁ! だいたんなんだからぁ!」とか言ってるが、僕にはつっこめなかった。どちらかと言えばボケ派な僕には、あまりに高度な世界だった。
「そ、そうだった! 今日はこんなことするために来たんじゃなかった! もう、魅力的すぎるおとーさんがいけないのよ! でも好き!」
知らねえよ。
「それで、男の人ってどうやったらヨクジョウするの?」
「……なんで僕に?」
とりあえず聞いてみる。
「だってユウちゃんって、キッサテンのマスターなんでしょ?」
「そうだけど、それと何の関係が?」
「キッサテンのマスターならなんでも知ってるってユイちゃんが言ってた!」
てめえが元凶かなんちゃって幼女……っ!
ユイとは、幼女ではない幼女、幼女に擬態した悪魔、魔性の幼女とか、そんな感じの奴である。だが、あいつのことを話すには紙面が足りないので、今は置いておく。
上がった血圧を抑えるように深呼吸をして、僕は笑顔を作りつつ言った。
「残念だけど、僕にもわからないことがあるんだよ。とくに、成人男性が幼女に欲情する方法なんてのは特に分からない。その道の人だと呼吸をするよりも容易くそれを成し遂げるらしいけど、僕はほら、正常な人種だから」
「えー? でもユイちゃんは、『あの人は小さい女の子を見ると興奮する人間だから、きっと教えてくれるわ』って言ってたよ?」
―――ピシッ。
思わずコップに罅をいれてしまったが、仕方のないことだろう。ふざけんなよ幼女。てめえ、子供だからってなんでもかんでも許されると思ってんじゃねェだろうな。女性だろうが子供だろうが、殴るときは殴るぞ、僕は。
黒い笑いが漏れてしまいそうになるのを、必死に抑える。ほら、ハルもどことなく怯えてるし、堪えろ、僕。
ふーっと息を吐きながら、使えなくなってしまったコップを置く。少し力が強すぎたのか、置くと同時にコップは粉々のガラスへと変化してしまった。掃除が大変だ。「ひっ」とハルが声を上げたが、なんでそんな声を出すのかはわからない。
「ハル」
「ひゃ、ひゃい!」
「ユイに言っといてくれ。『僕は女性らしい体型の方が好みであって、女かどうかも怪しいお前のようなつるぺったんには興味ない』って」
「え、その」
「復唱!」
「はいぃ! ユウちゃんは女性らしい体型の方が好みであって女かどうかも怪しいユイちゃんのようなつるぺったんには興味ないです!」
「ったく、あの幼女……いつかケリ付けてやらねェとな……」
「ひ、ひぅ……! いつものユウちゃんじゃなぁい……!」
φ
その後、ハルはなぜか、おとーさんが迎えにくるまで怯えた小動物のような目で僕を見ていた。
やはり、「あの、えと……おとーさんをヨクジョウさせるにはどうしたら……」と再び言われたときに、
「いいから黙ってようね。このコップみたいになりたくないでしょ?」
とか笑顔で言っちゃったのは不味かったかもしれない。
子供には優しくがモットーだというのに、大人げなかった。
でもまあ、これも日常である。
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