第2話 ダメなお姉さんの話
「あーもう! この店は最高に癒される!」
ある日の午後のことだった。
僕はいつも通りに黒のエプロンをしてカウンターに立ち、コーヒーをぽこぽことサイフォンさせながらコップを磨いていた。
渋くて味のある喫茶店に必要なのは、なによりも雰囲気である。カウンターに立つマスターが17歳の子供の時点であれだが、まあそれはさておき。
いま、この空間は、なかなか良い雰囲気だった。
店内にはコーヒーの芳醇な香り。奥のテーブル席では、老年の男性がパイプ煙草をふかしている。コーヒーの一杯を共に、黙々と読書をしているエルフのお姉さん。小さな声で会話を楽しむカップル。
今、この店の中には、まるで世界から切り離されたような独自の時間が流れている。独自の時間はひとつの空間を生み、ここはさながら別世界。
だからこそ、カウンター席で唐突に奇声を発した客がいたが、店内は至って平穏だった。
普通大好きの僕の意向からすれば不本意だが、この店には変わり者の来店が多い。しかも、そんな輩に限って頼んでもないのに常連と化す。迷惑極まりないというのが本心だったが、客にはかわりないので仕方ない。
そんな変わり者が蔓延るこの店では、奇声のひとつやふたつは日常のひとつだった。常連は眉ひとつ動かさない。大抵は、何も知らずにやってきた一見さんがびくりと肩を震わすのだが、幸いにも店内にいるのは常連ばかりだった。
「いきなりなんですか?」
こういう人間の相手をするのは、店のマスターである僕の仕事だった。マスター。響きは格好良いが、最近はちょっと辞めたくなる時もある。
店内の空気をかき乱さないように声を抑えた僕の問いかけに、奇声を発した客はカウンターに身を乗り出した。
「聞いてくれる? 聞いてくれるわよね。ユウちゃん良い子だもんね!」
「あー、はいはい」
囁き声もような返答を期待はしていなかったが、彼女の声は店内に大きく響いた。
カップルがこちらを見て、くすくすと笑う。ああ、またやってるよとでも思われているのかもしれない。
ちなみに、ユウというのは僕のことだ。黒沢夕。こっち風に言えばユウ=クロサワ。この女性はリアさん。本名は知らない。金色の髪を長く伸ばした美人のお姉さんという感じなのだが、どこか子供っぽさのある人だ。
というか、この人は基本的に人間としてアレなので、僕としてはダメな大人の典型だと思っている。こう、働きたくないでござる! みたいな。今日のリアさんはラフな恰好で、襟元が大きく開かれていた。膨らんだ胸元が危うい。こう、カウンターでむにゅっと潰れる感じが危うい。
「それで、なにがどうなって奇声を発したんですか?」
コップを磨きながら、視線はさり気なく胸元へやりつつ、僕は訊いた。
「奇声っていうか、あれなの。魂の叫び。ほら、私って
オレンジジュースを飲みながら、リアさんが言う。が、そんな話は初耳だった。というか、働いてたのかこの人。絶対ニートだと思ってたのに。
「いえ、聞いてませんけど」
「あれ? ユウちゃんに話してなかったっけ?」
「いつもどうでもいい世間話して帰るだけじゃないですか」
「えっと……ああ、うん。そうかも」
眉間に指を当てて考えてから、リアさんはてへへと笑った。やる人間によってはイラっとさせられる動作だが、この人がやると全く違和感がない。子供っぽい動作が似合うのは、果たしてこの人が無垢だからなのか、それとも中身が子供っぽいだけだからなのか。判断は難しい。
「じゃあ、改めまして。職業は
ぱこんっ。
「いたっ! ちょ、ええっ!? なんで殴るの!?」
「すいません。無性にイラついたので」
「今の、可愛くなかった?」
「自分の歳、考えましょうよ」
「……あはは」
乾いた笑い声をあげながら視線を反らしたリアさんは、こほんと無理やり区切りをつけて、話を続ける。
「で、まあ、私は
まあ、僕からすればこの人が
「それで、昨日は迷宮に行ってたの。ただでさえ行くだけでも疲れるのに、護衛に雇った
くねくねと気持ち悪い動きで、リアさんが自分の「魅力」をアピールする。僕としては目を反らす以外の対処にしようがなかった。目のやり場に困る。見るに耐えないという意味で。
くねくねダンスに満足したらしいリアさんが、ふと冷静になる。周囲から集まる奇異の視線に気付き、こほんとわざとらしく取り繕って話を続ける。
「それだけならまだしも、そのパーティって女の子もいたのね。たぶん、意中の人でもいたんでしょうけど、私をすっごい睨んできてさ。もう、空気は重いわ魔物はいるわで、すっごい疲れたの……」
リアさんはぐてーっと突っ伏した。金色の糸のような髪が、さらりとカウンターに広がる。そしてそれっきりぴくりとも動かなくなってしまった。
よく分からない世界のことではあるが、そこにいるのはやはり人間である。死と隣り合わせの空間であっても、そういう問題も起こったりするのかもしれない。
「それはお疲れさまでした」
幸いにもそういう類のギスギスした空気の重さは味わったことがないので分からないが、リアさんほどの能天気な人間が疲れたというのだから、そりゃすごい重さだったのだろう。
後ろに備えた、氷石というファンタジーアイテム製の冷蔵庫からケーキを取り出し、切り分け、リアさんの前に置いた。
「どうぞ。試作品ですけど」
うつ伏せたまま顔だけを上げ、リアさんが不思議そうな顔をする。
「なになに? この不気味な黒さを持ちながらそこはかとなく美味しそうな空気を放っている物体はなにかしら?」
「コーストを使ったケーキです。甘さと苦味を兼ね備えた大人の味ですよ」
言うと、リアさんは途端に活力を取り戻し、目を輝かせながらフォークを握った。コーストというのはチョコレートみたいなやつのことだ。つまり異世界産のチョコレートケーキである。
「さっすがユウちゃん! お姉さんを励ますためにこんな秘策を用意しているなんて! 好き! 結婚して!」
「嫌です」
「すぱっと切り捨てるところも素敵! でもお姉さん落ち込んじゃいそう!」
よくわからないテンションを維持したまま、リアさんはケーキの先端にフォークを入れる。それをもったいぶったようにゆっくりと口に運んで、ほわぁんとした顔になった。
試作品を出すたびに思うのだけれど、この人は本当に美味しそうに食べる。作る方としては、こんなに幸せそうな顔になってくれるのであれば、作りがいもあるというものだ。そんなこともあって、試作品はまず、この人に毒見をさせるのが常だった。
「美味しい! 甘い! ちょっと苦い! 大人の味!」
「それはよかった」
「このケーキにはユウちゃんからの愛が詰まっているのね! だからきっとこんなに甘いのよ!」
「じゃ、750ハイルです」
「……お金、とるんだ」
「商売ですから」
こんな毎日である。
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