017:保健室にて
少し暖かくて、甘い香りがした。
これは女性が使うシャンプーの香りだ。あまり派手に香りを振り撒かず、控えめにした香りは近づく程に強く感じるタイプのもの。
つまりこれだけ香ると言うことは、そのシャンプーで洗った髪と顔が僕の顔の近くにあるということになるんだけど――
「な、なんで僕を見下ろしてるのかな……?」
まぁ普通ならそう言いたくなるのも当然だ。
起きてすぐに見たのが、僕を罵倒して「クズ」呼ばわりするトラウマに近いあの少女の顔だったのだから。
月波綾乃が、ムスッとした表情で僕を見下ろしてきた。
怒っている。表情からして絶対に怒っている。別に、なにか怒らせるようなことをした覚えは無いのだが、なぜだか綾乃は怒っていて、気持ちの悪い羽虫を見るかのような目で僕を見下ろしてきた。
「……クズ」
開口一番がこれだ。わかっていたが。
「へ……?」
わかっていたのだが、聞き間違いかもしれない。それに賭けてもう一度聞き返して見た。
「このクズが。って言ってんのよクズ。まさか自覚がないとはね」
無駄に終わった。眉一つ動かさない綾乃は、さらに罵倒を続けた。
「なにあたしを動かしてくれてるのよ」
状況がいまいち呑み込めない。
綾乃から視線を外して周りを見る。鼻孔から入った匂いが医薬品のもので、今の聖は横になっていて、暖かいのは布団があったからだ。つまりここは保健室なのだ。
ゆっくりと起き上がり、額に手を当てて覚えている限り思い出す。確か大兄ぃとの組手の最中で意識を失った。
その意識の失い方がまた特殊なもので、大兄ぃに80パーセントの力で立ち向かったところまったく歯が立たないどころか、大兄ぃの表情も変わらなかった。
どこか馬鹿にされている様な気がして、今度は全力で拳を振るおうとしたら壁に叩きつけられた。ここからだ。ここから意識が朦朧とし始めた。
壁に凭れ掛って尻もちをつくと、大兄ぃがなにかを言っていた。
なんのことかはわからなかったが、大兄ぃの言葉らしき音が耳に入った途端、急に頭が発熱した。真っ白な布地にゆっくりと絵具が浸透していくように。目の前が赤く染まっていく。気持ちが悪くなったが、そんな感覚まで溶けていった。
そして溶けた意識が次になにを思ったのか。記憶に手を入れてさらに奥深くを探ってみる。
意識が水飴のような粘りを保ちながらゆっくりと流れ出て行く。足元に意識という水溜りの残滓が溜まったみたいだった。だがそんな考えもやがて水溜りへ落ちて行く。
そして意識のなかに残ったのはわずかな思考。だがはっきりと覚えている。強烈なほど、刻みつけられたように――
「このクズ。どこまであたしを動かしたら気が済むの? 教室からここまで何十メートルあると思ってんのよ。この体力の無駄遣いをどうしてくれるわけ――ねぇ、ちょっと。聞いてるの?」
罵倒を続けていた綾乃が、僕の顔色が急変したことに気付く。
なにかを考えている表情から顔色が真っ青になり、瞳が虚ろになっていく。尋常ではない表情で俯き、手を口元に持って行く。
「う――っぷ」
両手で口を強く押さえる。今まで虚ろだった表情に生気が戻ったが、それは苦痛によるショックからの影響であるものだ。苦痛、つまり吐き気。思い出した光景があまりにも衝撃的なものだったのだろう。
俯いてから急に体を痙攣させて呻くものだから、綾乃も驚いていた。
「ちょ――吐くの?」
危機迫る様な表情と強く押さえた口元という仕草から察するに、綾乃も吐き気を催したと察したのだろう。幸いここは保健室だ。保健室には吐瀉物を入れられるようなものもある。
保健室の隅には洗面台があった。そこには洗面器がいくつも用意されていることを思い出す。
「20秒持たせなさい!」
下手に動けない聖が綾乃を見て、瞳で頷いた。綾乃は急いで洗面台に走ると、その上の棚に常備されているビニール袋とトイレットペーパーを力付くで取り出した。その衝撃でいくつか小者が落ちて音を立てたが後で拾えば良い。
洗面器にまずビニール袋を広げて敷いた後、トイレットペーパーを何重にも敷いて固定、僕の前に差し出してくれた。
ギリギリ間に合った。手渡された洗面器に顔を押しつけるようにして口を開いた。
「ったく――間に合ってよかった」
不幸なことに最後の台詞だけは
朝食をすべて吐きだしてしまった僕は咽返りながら息を整えると、手足が汚れていないか確認して、これ以上匂いが広がらないようにビニール袋の口を縛る。幸い、洗面器には匂いが移っていなかった。
さてこれをどうしようかと思っていると、綾乃が片手を差し出してきた。
「ほら。それ捨てておくから――あんたはこれで口濯ぎなさい。匂いの元を断たないと消えないのよ。それくらい知らないってわけでもないでしょ?」
相変わらず言葉に棘があるのだが、この行動には驚いていた。
まさか綾乃が僕の吐瀉物の始末を自分から名乗り出るとは思っていなかった。
いくらビニール袋が汚れていないからとは言え、普通好意の欠片も無く罵倒だけする嫌われている存在なら、そんな役は嫌がるはずだ。綾乃ならば絶対嫌がると思っていた。
なのに彼女はビニール袋をしっかりと握る。そしてコップに注いだ水まで差し出してくれた。気が利いて逆に困る。
「え? あれ?」と戸惑っていると、綾乃はさらにビニール袋を取り出して二重にしてゴミ箱に入れた。その後はちゃんと洗面台で手を洗っていたし、保健室担当をされている先生が使っている机に今あった要件を書いて手紙にしていた。
一通りのことが済むと、また僕の元に戻って来た。
「濯いだのね。じゃ、コップと洗面器を渡しなさい。――ったく、なんで私がこんなことをしなくちゃならないのかしらね。このクズ」
「ご、ゴメン……」
確かに綾乃の言う事も一理ある。そんな関係でもないのに、ここまで世話をかけてしまった。まだ出会ってから2週間も経っていなくて、そこまでキャッキャウフフな会話もなく、むしろトラウマを植え付けられたというのに。
いや、もしかしたら綾乃は、その件を申し訳なく思っているのではないだろうか。と、期待して顔を上げると、
「このクズ。今度やったら蹴り殺すから」
洗面器を洗面台に叩きつけるようにして入れて綾乃はお決まりの暴言を吐いた。
またか。と少し落ち込むが、今さっきしてもらった恩を忘れるわけにはいかない。「あはは」と苦笑いを浮かべた。
浮かべられた苦笑いを見下ろしながら「なんなのコイツ」と呟き、綾乃は元いた場所に戻る。
今まで綾乃は僕が横になっていたベッドの脇に椅子を出して座っていた。
――ということは綾乃は僕が起きるまで待っていたというのか。時計を見る。1時限目はすでに終わっていた。2時限目に突入している。そんな時間になるまで綾乃はここに居続けたというのだろうか。
わからない。月波綾乃という少女がさらに不可解になってきた。
「……大河先生と戦ったんでしょ?」
綾乃が口を開く。椅子に座ってからすぐだった。あ、その位置だとスカートの下が見えちゃうけど、いいのかな?
「え? あ、ああ」
「どうせ負けたんでしょ? 大河先生、魔術でも使ったんじゃないかしらね」
「いや、大兄ぃ――――大胡先生は僕の兄弟子だから未だに勝てないだけ………って、魔術だって? 魔術ってあれだろ?」
「そう。一昨日あんたが見た世界で、死にかけるまで攻撃された奴よ」
灰色パーカーの男――実は僕と同じ高校生なのだが、その時攻撃法として使われたのは魔術だった。炎を操り、魔術が使えない僕を苦しめた。
再びトラウマが思い出されそうになったが、グッとその場で押し留めた。
「魔術って、この世界っていうか、現実っていうか――あの空間でしか使えないんじゃないのかい?」
「そこについての説明はされていないのね。……使えるわよ。ただし制限がつくけどね」
綾乃がシャツのポケットから出したのは1枚のカード。白いカードには銀色の装飾が施されている。
昨日、大兄ぃが見せてくれたカードに似ている。だが、それより装飾が豪華で煌びやかだ。なんとか文字が読めた。『レイ・バースト』とあった。
「シルバーブリッツでこのカードを使うことが一番の真価を発揮するんだけど、この現実でも使えることは確かよ。制限っていうのは発動と効果に追加されるわ。この現実の世界で発動するにはこのカードで発動するってこと。腕輪は必要ないし破らなくてもいい――こんな感じにね」
僕の前に差し出された綾乃の右手の上には『レイ・バースト』がある。と、次の瞬間にカードが閃光を発し、カードの上に光の珠を作り出した。
光の珠があまりにも美しく、綺麗だったためにトラウマを思い出さなくて済んだが、驚いて言葉が出なかった。
「これほどじゃないけど、カードの効果――――威力がかなり制限されてしまうわね。本来の10分の1ってところかしら。ちなみに今あたしが出しているこの珠の出力は10000分の1以下ってところかしらね。触っても、暖かいって感じるくらいね」
「でもなんのためにこの現実世界で魔術が使えるようになったんだろう」
「考えればわかる事よ」
僕の疑問に鼻を鳴らした。
その顔はあまり誇らしげではなく、むしろ言いたくない様な表情で絞るようにして言った。
「魔術が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます